〈人形と暮らす青年〉
(※性描写が多く含まれています。苦手な方はご注意ください)
〈人形と暮らす青年〉
「ところで、僕は生きていてもいいのだろうか。リタ」
裸の青年は、先ほどまで何かブツブツと呟いていたかと思うと、突然神妙に言った。リタと呼ばれた裸の女性は、何も答えない。青年はリタに覆いかぶさり、二人は互いに動かず、顔が近い。リタの栗色の瞳は全てを見透かすようだ。暗いままの部屋には多くの音が飛び交っている。ノートパソコンに接続されたスピーカーから、女性の喘ぎ声が。浴室の換気扇はカタカタ回り、テレビには昼のニュース番組。青年はエアコンの温度を下げた。閉めきったブラインドカーテンの隙間から漏れる夏の光を受け、空気中のホコリがちらちらと輝いている。
壁際の白いベッドで、青年はシーツを汚さないよう敷いた茶色く広いタオルの上で、自分の陰部に透明のローションを垂らし、その異質な冷たさを手で馴染ませていく。完全ではないが、硬くなりつつある陰茎を、リタの下の口に挿れ、再び腰を動かし始めた。安物のベッドのパイプが軋む。
「上手くいかないなあ」
全身の汗の量に対し、肝心な部分が気持ちよくならない。スピーカーの女性は喘ぎ続けている。PCの画面は黒いが、ベッドの二人の動きをぼんやりと反射し、完全な黒ではない。ケーブルは床で血管のようにもつれている。セミの鳴き声だけが均衡を保ち、それは一種の静寂だ。
「……おかしいよね、僕たちは愛し合っているはずなのに」
青年は壁に背をもたれ、リタの体も起こし、自分の膝に座らせた。背中から腕を回し、リタの凹を指で弄り、形を詳しく調べる。こうしているほうが、普通にしているよりも、なんとなく落ち着いた。はじめは冷たかったリタの体は、青年の体温と調和している。しかし彼女は汗をかかない。テレビでは××政権の不祥事を報じ続けている。
「ねえリタ、奴らを裁いてみてよ。奴らなんとなく気に食わない。偉そうな奴ら、みんな気に食わない」
リタは答えない。
「僕は別に政治なんか興味ないけど。それからあれ、なんて言ったっけ。最近少しだけ勢いのある野党。あそこの浮かれた支持者たちは、今頃××を叩けて歓喜してるんじゃないかな。自分たちは何も偉くないのに……。様子が目に浮かぶよ、ネットで散々見てきたから。仮にあの野党が政権を握り、××と同じ失態をしたとして、奴らはちゃんと批判できるのかな」
リタは答えない。
「……くだらないね」
青年は足の指でリモコンを踏む。外国の映画が流れる。幸福で何の罪もなさそうな男女が、ベッドで戯れている。
「あいつら殺されるよ、絶対殺される。お決まりなんだ。僕はこういうのに詳しいんだ」
しかし何事もなく場面は切り替わった。青年のうつろな瞳には仄かに妬みの色が浮かんでいる。リタは涼しげな微笑を絶やさず、慈愛に満ちた瞳で画面の方を見つめる。青年は胸やけを感じながら、中指にリタの中の感触を集中させる。
「どんな風に感じるんだろう、教えてくれないか……?」
中指を半分ほど抜き、薬指を添え、今度は二本同時に挿れる。
「リタ。僕は君のカラダが欲しい。……僕のカラダは、あまり感じなくなってしまった」
リタの滑らかな髪をもう片方の手で撫で、鼻を押し付ける。
「……太陽の匂いだ」
胸に温度が広がっていく。リタの凹が感じているであろう快楽をイメージしていると、それに共鳴するように、彼の凸は力を取り戻してきた。リタの体を自分の方に回転させ、彼女の両脚が腰を挟むようにし、再び挿入する。――今、僕はリタだ…………
「……僕が、そこらのアダルトビデオなんかではいけなくなったのを知ってるよね」
彼は、リタの凹の快楽を、自分の凸に再現させていく。イメージの中で。
「犯されている女性のほうに感情移入をしないと、僕の場合どうしてか上手くいかないんだ。感情という言い方は、おかしいかもしれないけど……。だけど、そのときの僕を犯しているのは、男のカラダなんだ。わかるかい……? 僕は女性のカラダで感じたいけど、だからといって、男に興奮するわけじゃない」
腰が上下し、ベッドが激しく軋む。スピーカーは喘ぎ続けている。同じ音声データが、リピートされている。声は、大きい。
「だから、僕に犯される君のカラダが、羨ましい……。僕は、自分になら犯されてもいいと、思い始めてる……」
彼は少しずつ声を上げていく。
「あ、あ、……」
声はスピーカーの声と混ざり、換気扇の音と混ざり、映画の音、セミの鳴き声、全てが一体となり、今、彼の肉体はリタであり、リタの肉体は彼であり、スピーカーの女性の声はどちらのものでもなく、同時に互いのものだった。空間を演出するように、光るホコリたちが空中を舞い踊る。今この部屋を包む空気は、神聖だ。しかし、それは音もなく途切れる。全ては青年のイメージによって危うく繋がっていたから。実体と実感を伴わないイメージは、脆い。思い描き続ける作業は困難を極め、わずかでも集中を怠れば、またたくまに暗闇に飲まれていく。彼の感覚の一切は、自身の男としての肉体に再び収納されていった。萎れていく陰茎を意識しながら、彼は息を切らす。事態に気づかず未だに踊り狂うホコリたちを見、――なぜだ。と思った。
「……趣向を、変えてみようか」
彼はふらつきながら立ち上がり、床に散乱する段ボール箱のうちの一つから、ある物を取り出した。それはありえないほど反った男性器の形をしている。ベルトのような帯がつき、人間の腰に装着できるようになっている。早速リタに履かせ、男性器を持った女の体を、彼は恍惚と観察する。
「……リタ、いいよ、とてもいい……。理想に、一歩近づいた……」
彼はベッドに転がるローションのボトルを拾った。ほとんど空っぽだった。その時、玄関のチャイムが鳴った。
「いいタイミングだ」
彼は素肌の上に直接ズボンとTシャツを着、部屋のドアを閉め、床のペットボトルたちを蹴り散らし、玄関を開けた。しかしそこに立っていたのは、彼が期待した宅配業者ではなかった。彼は自分の顔が笑っていたことに気づき、正そうとするが、元の表情がわからず、硬直する。三十センチメートルほど開けたドアの向こうで、清楚な私服を着た、歳上の男が立っている。作り物の笑みを浮かべて。
「……隣に住む者ですが」
「……はあ」
「言いにくいのですが、あなたのお部屋からの、その、……音が、ですね」
ドアの隙間から覗く青年の顔は、こちらを向きながら、しかし目の焦点がどこにも合わない。男の背後を見ているようだ。頬は奇妙にやつれ、年齢が計り知れない。それになぜか笑っている。男は一瞬、言葉に詰まる。
「……以前、大家さんに相談させていただいたのですが、彼女からは何か」
「……いいえ」
男は無意識に溜息を漏らす。何に対しての溜息なのか、自分でもわからなかった。土間に目を下ろすと、靴が一足しかない。男の物。部屋の奥から、女の声が響き続けている。ペットボトルやゴミ袋の散乱した玄関を見、同じ構造の部屋でも、住む人間によってここまで違うものなのかと思う。男は一気に疲れ、また溜息を吐く。
「とにかく、そういうことなので」
「……千葉さん」
「は?」
思わず青年の目を見たが、その光のない眼差しは、やはりどこも見ていない。
「千葉さん、でしたよね。女性の方と、一緒に住んでいらっしゃる。ユミエさん、でしたっけ。わざわざ、表札に仲良くお名前を並べて」
「……それが何か」
「ガンダルヴァ婚ですか?」
「……は?」
「いえ、あなたにちょっとだけ、興味が湧いてしまいました。あなたにというより、人間に、ですが。あなたは、彼女とガンダルヴァ婚を?」
「何を言ってるのか」
「教養が、足りてないようですね。……インドに、古くから伝わる、婚姻制ですよ。愛欲によって惹かれ合った男女が、そう、愛欲によって、……セックスを、究極の目的とする結婚です。僕はね、それこそ人間の本来あるべき愛の形だと思うんです。人間だって、所詮は生物なのだから。セックスがしたくてしたくてたまらないのだから。あなただって、その一部だ。つまり、あなたはユミエさんと、セックスしたくて結婚したのかと、僕は訊ねてるんです」
大気の熱に、背中が不快に脅かされている。男はこの面倒ごとをさっさと切り上げるつもりだった。極力穏便に。しかし青年の部屋からは、敵意の入り混じったカビ臭い冷気が漏れてくる。狂った隣人の言葉を前に頭が熱くなり、黙ってはいられなかった。
「あのね、いいですか。私はね、ユミエを純粋に愛してます。彼女の中身をです。極めて健全な愛情です。あなたと一緒にしないでいただきたい」
「肉が喋ってる」
「は?」
「……いえ。すみません、このドアね、僕が支えてるんです。わかりますか。この姿勢ね、結構きついんです」
「……じゃあ閉じればいい。話にならない。たくさんだ」
「待って、くださいよ。自分からけしかけておいてなんですが、僕だって別にあなたと議論するつもりなどなかった。第一、あなたが綺麗事を言うだろうことはわかってましたし。僕はそのような妄言が……この世で一番嫌いですし。……ただ、僕にもあなたに言いたいことがある」
男は立ち止まり、青年に怒りと侮蔑の視線を送っていた。
「……夜、僕の部屋にもね、漏れてくるんですよ。……ユミエさんの、あれが。……いいですか、夜ですよ、夜。僕が寝ようと思う時に……。僕はね、早く寝てしまいたいんですよ。会社員が日曜の夜に憂鬱になるように、僕は毎晩が憂鬱なんですよ。夜になると、同じカラダのままやってくる同じ明日をイメージして、……それは、死にたくなるほど苦しい……。なのに、あなた方の幸福な営みが、僕の安眠を妨害するんですよ……」
「……そんなはずない。ふざけないでいただきたい」
「ご自分で、気がついてないだけでは?……夢中になりすぎて。今、部屋から声がするでしょう?……盗聴だとしたら、……どうします?」
「…………」
「冗談ですけどね。ユミエさんの声ならわかるでしょう? 愛してるのだから」
「……ユミエの名前を、それ以上口にするな」
青年は鼻で笑った。
「……ねえ、人間って奴は、お互いの自由を侵略しあって、自分の自由の領土を拡大する。そういう生き物なんでしょう? だから、もういいじゃないですか。僕に構わないでくださいよ。僕ももう何も言わない。…………帰れ」
青年はドアを閉め、鍵とチェーンをかけると、台所のシンクに吐いた。わずかばかりしか出ない胃液が、積もった食器に降り注ぐ。隣の玄関のドアが、わざとらしく乱暴な音を立てる。彼は水を手で飲み、部屋に戻る際、思い出したように冷蔵庫からマヨネーズを取り出した。
「リタ……」
青年は立ち眩み、言葉を紡げない。リタは同じ姿勢のままベッドで待っていた。青年はベッドに倒れ、男根を生やしたリタの豊満な胸に、顔を埋めた。
「リタ、また冷たくなってる。……気持ち良い」
しばらくして、彼はクローゼットを開けた。中はリタの服で溢れていた。彼は学生服を選び、自分で身につけた。反対向きのボタンをかけるのに手間どり、紺色のスカートは彼には短い。下着は履かない。スカートの裏の生地が棒の先端に触れるたび、彼は暗澹とした。
「これしかないけど、いいかな」
手に取ったマヨネーズを見せる。リタは答えない。ベッドの茶色いタオルに腰掛けたリタの膝に、青年はそっと座る。
「アレは大丈夫だと思うよ。最近、何も食べてないから」
手のひらに大量のマヨネーズを垂らす。少し腰を浮かせ、後ろからスカートの下へと手を伸ばし、自分の穴を、少しずつ、ほぐしていく。
「どうやら性欲は罪らしい。リタはどう思う?」
テレビの中で、銃弾が飛び交い、男たちが叫んでいる。戦争ものだったようだ。
「実はね、君の前に、他に女がいたんだ」
リタはそれをもう何度か聞いている。しかし何も思わない。
「君にだから、打ち明けるよ。酷い女だった。名前は、S。中学の時、僕はレイプされたんだ。彼女に。……だけどあの時、僕は男で、彼女は女だった。ここまで言えば、わかるよね……?」
マヨネーズに濡れた指が、少しずつ後ろの穴に侵入してくる。第二関節まで届き、指で前側を押すと、凸の付け根あたりが痺れた。
「抵抗していたはずなのに、僕の男としてのカラダは、興奮してしまっていた。それどころか、芽生えてしまった愛欲は、僕の意識の外側で日に日に膨張し、彼女のカラダを、求め続けた」
よく見ると、男たちが戦っている相手は、人間ではなかった。それらは宇宙人のような姿をしている。
「痴情のもつれ、とでも言うのかな。Sとはいろいろあって、……いつの間にか、悪役は僕だった。周囲は、僕を女の敵として蔑んだ。実際、僕にも何か落ち度があったと思う。だけど、……あんまりじゃないか? 当分あとになってからわかったことだけど、彼女が求めていたのは……」
激しく浴びた銃弾によって、一人の宇宙人の四肢が弾け、緑色の血飛沫が飛ぶ。人間の男たちが、狂ったように歓声を発する。
「力だったんだ」
セミたちの声が一斉に止んだ。青年の指は、完全に自分の穴に入り込んだ。凸はこれまでにない快楽に包まれ、先端から白い液がとろりと溢れ、スカートの生地に沁みた。いよいよ、彼はリタの男根を、自分の後ろの穴に、ゆっくりと挿れていった。息が漏れる。――……近い。
「近いよリタ。とても近い。僕が望む、……最大の快楽に」
声が震える。――この瞬間を、逃したくない。
座った姿勢のまま、ゆっくりと腰を上下する。前立腺がびくびくと痺れ、白い液が流れ続ける。青年は声を押し殺す。――これなのか……? リタ、これが君がいつも感じてるものなのか?
青年は体を反転し、リタの胴にしがみつく。腰をさらに激しくする。唇を、きつく噛みしめる。絶頂に、達した。セミたちが一斉に強く鳴き出す。リタの腹部が、白い液を受け止める。
青年はリタに口づけする。リタの唇につく血を見ながら、彼は茫然としている。――かなり近かった。が、やっぱり違う。そう思うが、リタの前で表さないよう努める。水に濡らしたたタオルで、リタの体を拭う。自分の液体を、穢らわしそうに見ながら。映画では、何かが爆発し、人間の男たちが悲愴を浮かべている。重要な人物が死んだのかもしれない。
「……仲間が死んで、どこか誇らしそうじゃないかい? 自分が死んだわけじゃないのに……。でも生きてるよ。僕にはわかる。生きて再び登場するんだ。観客が湧くからね……。人の死を、観客を喜ばせるためのマテリアルに貶めるというのは、そもそもどうなんだろう……。それに容易く流される観客というのも」
青年はマヨネーズを一口舐めた。味がしない。冷蔵庫は空だ。後で何かデリバリーを頼もうと考えた。青年は脱ぎ、リタと共に入浴した。浴室には、これまでに使い洗った性玩具たちが吊り下げられていた。青年は、自殺したMを思い浮かべている。
*
Mは、Sを愛していた。彼はSとセックスした僕を恨んだだろう。実際、僕と彼女が破局したとき、あいつはひとしきり僕を責め、Sの肩を持った。バカみたいに。
Mは僕と同じ高校に上がった。Sとは離れた。Mはそれでも彼女を愚直に想い続けていた。直接言葉にはしなかったが、言動の端々から明確に察せられた。そこには純真とも呼べる恋慕があった。女性を神聖視しすぎる、童貞のそれだった。
僕はといえば、当時の記憶がはっきりしていない。あの頃は、一年中が夏だったのではないだろうか。僕は僕で、Sのことで頭がいっぱいだった。紫外線にやられたように、汗をかきながら。僕は毎日、彼女のカラダだけを考え続けていた。授業の中身も、親の言葉も、一切頭に入ってこないくらいに。美しい女子生徒のカラダが目に入るたび、Sを投影し、愛欲を求める自分を意識した。そこには、自己嫌悪に近い、仄暗い感情が常にまとわりついた。
Mが死ぬ少し前、学校の帰りに、コンビニでSを見かけた。Mもその場にいた。駐車場にいかつい二人乗りのバイクが停まり、男が煙草を吸っていた。他校の制服を着崩し髪を染めたSは、地面にしゃがみ、男と話しこんでいた。Sは一瞬こちらを見たが、すぐに無視した。Mは、何かに打たれたように固まっていた。あの時、僕はこう思った。Mは、自ら「純粋さ」を幻視し、自らが生んだ幻によって裏切られた。愚かな奴だ、と。そして、実体を持つカラダこそは、その愛欲は、主人たる自分を決して裏切らないだろう、と。
Mは自宅前の公園で首を吊った。噂だから詳しくはわからない。死んだ本当の理由も知る由がない。あるいは理由などないのかもしれない。
「バカだ」
バスタブで向かい合ったリタは優しい顔をし、換気扇は物が詰まったようにカタカタ回り続けている。そのうち壊れるのではないかと心配になる。
「セックスしてから死ねばよかったのに。あいつのカラダはそれが許されていたのに。もったいないじゃないか。純粋な愛情……? 定義を教えてよリタ。……奴だって、セックスしたかったに決まってる」
リタは答えてはくれない。僕は水面をぼんやり見つめる。
「あいつが死んで、僕は生きてる……」
*
青年はPCの画面に向かっている。リタは横で下着とTシャツを着て座っていた。髪は青年がドライヤーをかけ、櫛ですいていた。音声は止まり、代わりにグレゴリオ聖歌がかかっていた。青年を落ち着かせる、無伴奏による男声のシンプルな旋律。テレビで夕方のニュース番組が始まる。宅配ピザのサイトを開き、メニューを探した。
「リタ。どれがいいかな」
彼は何日か振りに空腹を感じている。シーフードピザに、骨つきチキンとコーラをセットに、サイト上で注文した。まだ明るい日差しは、ブラインドカーテンの隙間から線となり部屋に伸びている。線は刻々と、宿命的に角度を変えていく。ネット通販のサイトを開こうとし、カーソルを窓の上部に持っていく。お気に入りのページがリストされている。彼の指は、通販サイトの横のリンクをクリックし、SNSのページが窓に広がる。Sが、本名で登録しているアカウント。
「……間違えた」
青年は誤魔化すように呟いた。――僕は、本当に間違えたのだろうか。
数ヶ月振りに開くSのページで、彼女は離婚していたが、彼は何も感じない。――離婚したということは、またホステスをしているのだろう。高校を卒業し、こちらに越してから何年かして、青年は彼女と出くわしたことがあった。その日、少し話をしただけで、彼女とはそれっきりだった。彼女はクラブのホステスをしていることを話し、彼は特に話すことはなかった。「セックスしよう」とだけ言ったが、Sは虫けらを見る目で彼を見た。Mの名前は出なかった。
彼女の友達リストには、同級生たちの名前がいくつかある。何人か、苗字が変わっている。開かなくても、内容はだいたい予想できた。
「リタ。これが欺瞞とみみっちいプライドに満ちた世界だ」
以前開いた時、Sはベンチャー企業か何かの代表取締役と婚約していた。――そういえば、彼女の母親も再離婚を繰り返していた……。僕の父は当時、市議会議員だった。
「僕は彼女の、……彼女たちの、権力ゲームに付き合わされてただけだったのさ。中学の頃はきっと、誰と寝ただとか、何人と寝ただとか、つまらないことを誇示し合ってたんだよ。奴らはそれから何も変わっちゃいない」
青年はページを閉じる。
「僕たちの方が、よっぽど幸せだよ」
ニュースでは、彼と同い年の教職員が、女子生徒に猥褻した容疑で検挙されていた。青年は怒りを通り越し、呆れる。
「愚かだなあ」
しかし彼の目には、微かに同情の色が浮かんでいる。
「教師が女性だったら、生徒が男子だったら、事件に発展しただろうか……。また、外野が騒ぎ出すよ。当事者でもなんでもない良識派気取りたちが……。ねえリタ、そしたら奴らを裁いてみてよ」
リタは答えない。慈愛の眼差しがあるだけだ。容疑者が同い年であることが、青年には妙にいたたまれなかった。
「義務教育で僕たちは健全な愛欲を教わるべきだったんだ。健全な愛欲のイメージが、奴らの中に確固として存在すればの話だけど。……つまらないね」
テレビを消すと、音が一つ消えた。音が消えると、夜の近づきを感じ、聖歌のボリュームを上げた。ネット通販のサイトを開く。いつものようにペットボトル飲料やカップ麺を箱単位でカゴに入れ、プロテインとサプリメントを何種類か見比べる。秋に向け、リタの服を新調しようと思った。レディースの衣類を眺めているうちに、制服が合わなかったことを思い、自分用にも買おうと考える。彼に合う大きいサイズがなかなか見つからないと、彼はますます自分の肉体への違和感を強めていった。
青年は、薄々と気がつき始めている。自分の
彼は次に、新たな性玩具を探し始める。
「ローションは切れないようにストックしておこう。マヨネーズじゃなければ、もっと上手くいっていたかもしれない」
いつも使うローションを三本カゴに入れ、それから別の種類も試してみようと思いつく。画面をスライドしていく。少しでも気になったものを、なりふり構わず一本ずつカゴに入れていく。少しずつ、彼の胸は踊り始める。暗い聖歌を停止し、ロックミュージックをかけた。音を最大限にする。部屋が会場になったようだ。彼はリズムに乗って頭を揺らし出す。今日リタに履かせた物の、振動式を見つける。――こっちの方が、近づけるかもしれない。
その時、彼を邪魔するように玄関のチャイムが鳴った。警戒し、ドアの穴を覗くと、ピザの配達だった。自分で頼んだのを忘れていたことに、彼は思わず笑った。笑った自分に気づき、面白くなってさらに笑った。笑うと、純粋に気持ち良かった。
ピザを口に入れると、濃すぎる味に青年は一度吐き出してしまう。口の中に微かに残った味を確かめながら、美味しい、と思った。今度は少しずつ齧っていく。青年は、いつの間にか、涙を流している自分に気づく。先ほどの商品のレヴューを見、耐久性が低いことを知るが、カゴに入れる。念のため、同じタイプの別の商品も検討してみる。ピザをリタの口に運ぶが、彼女は食べない。青年は少し寂しくなるが、それでも、彼女の存在が愛おしくてたまらない。彼のリタに対する愛情は、全てエゴイズムでしかなかった。青年はそれを自覚している。彼女は人形なのだから、どうしようもないことだった。それでも、愛してしまっているのだから、仕方なかった。彼はリタの手を握る。
彼の脳裏に、隣に住む男の顔が浮かぶ。彼は泣きながら言った。
「僕は生きてる。誰にも邪魔させない」
次に、死んだMが浮かぶ。
「僕は生きてる。この世界はまだ、僕たちを見捨ててない……」
突然、胸に激しい痛みを感じ、涙がさらに溢れた。それは喜びとも悲しみとも判別し難い。彼はリタに抱きつき、ずっと泣いた。
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