〈lullaby in the city〉

 手のように伸びた巨大なビルたちは、母のように人々を包み込むわけでもなく、ただそこに建ち、雨を防ぐ歩行者たちを傍観していた。私は今日、一人の女性との約束があり、停まったタクシーの色たちや、人々の乱雑な行方を眺めながら一時間ほど立ち続けた。鳩たちが何かをついばんでいたが、地面に餌らしき物は、私には見えなかった。待ち合わせ場所である駅東口のオブジェに彼女は現れず、代わりに、一本の連絡だけが届いた。私は今日、この都市で目的を失った。

 誰が望むのか知らないが、常に開発され、訪れるたびに別の姿を見せる風景を歩きながら、前にここへ来た日のことを考えていた。私は寂れた郊外に居住し、都市には滅多に来ない。来るときには、初めてのバイト代で購入したカメラをよく携えた。家に帰り、フォルダを整理する段階で、自分の写真には人の姿が一切写らないことに、私は気がつくのだった。写真をもとに考えれば、最後に来たのは、おそらく一年以上前の、夏のこととなる。あの日は酷く晴れ、一人で美術館を訪ねた。館内の凍てつく空気が、心地よかった。が、その日と今日との堺に、ぼんやりとした秋の光景が、脳裏に差し挟まれてくる。去年のことではあるが、数ヶ月前にも、私は一度ここを訪れていた。あの日はカメラを持っていなかった。広い車道の向かいに浮かぶ、拡張された駅の巨大な建物は、あの秋には、まだ工事中だったように思う。しかし私は、自分自身の記憶を確信できない。よく、旅先では、写真に撮るよりも自分の目に焼き付けるほうが記憶に残ると、そう主張する人間がいる。が、私の場合、むしろその反対だった。私は、私以外の物の目を通してしか、自分の人生をうまく記憶できなかった。しかし、不思議には思わない。私はいつの頃からか、自分の人生に対する傍観者として存在していた。自我のまだ芽生えていない、子供を見守るように。そのことを最近になりようやく自覚し、私は、傍観者という立場から、観察者へと、変遷を始めている。自分が、なぜそのようにしか存在できないのかということを、推察する立場へと。

 私は、私がこれから書くであろう文章について、漠然と意識し続けている。文章を考えるようになってから、私はカメラを持たなくなったのだと思う。それは誰に宛てた文章でもなく、書くことはただ単に、山積みに放置してきた自分の問題を見つめる必要性に駆られた結果としての、あるいは副産物としての行為であり、内容は未だ茫漠とし、当てはまる言葉が見つからない。

 私は今、迷子になっている自覚があった。視界に霧がかかっているが、これが錯覚であると気がついている。時折、下水の匂いがした。スニーカーは水を防がず、不快にふやけた靴下を意識し、その冷たさが徐々に体温と馴染んでいくのが、余計に気持ち悪かった。自分が傘の群れに流されているという感覚はなかった。傘たちは皆、別々の方向に向かって突き進み、一定の流れを生まなかった。私は自分が今どこにいるのか見当がつかず、しかし帰宅するという選択肢はなかった。私は昔から、なぜか電車が苦手だった。私は、私の隣か、あるいは後ろにいるはずだった彼女の存在を意識していた。彼女に向かい、私は予め用意していたセリフを、喋り続けている。こう言えば、彼女はきっと戸惑うだろう。それが冗談であることを私が明かすと、彼女が笑う。そのシーンを、歩きながら頭の中で再現し続けている。そして私は、セリフを用意しておかなければ相手とうまく喋ることのできない自分を意識し、さらには、実際に彼女を前にしたとき、それらをうまく口にできないだろう自分を想像した。傘が重く、それを握る手が冷え切っていた。気がつくと、目の前には映画館があった。今日、彼女と来る予定だった建物。喉が張り付くように感じるのを堪え、立ち竦む。私はただ、なんとなく見覚えのあるビルたちを目安に歩いていたつもりだった。ビルたちが、私をここに導いたのだと思った。どういうつもりだ。私は心の中で呟いていた。誰にも拾われない声は、私に跳ね返ってくる。私の足は、館内に入っていた。傘が重かった。

 仄暗いロビーに入った途端、暖かさに救われ、ポップコーンのきつい香りに、一瞬吐き気を催した。私は予定どおりのチケットを一枚購入した。私は結局ポップコーンを買ったが、開場前、ロビーで待っている間に食べ終えてしまっていた。時間の使い方というものが、わからなくなっている。開場まで、あと四十五分あった。周囲の喧騒に耐えられなくなり、家族連れやカップル、若い集団や年配の夫婦がたわいない会話をしているのを尻目に、一旦、建物から出た。

 再び傘を広げ、記憶を頼りに喫煙所を見つけると、私は目を見張った。街中に孤立した喫煙室で、その空間がさらに、二つに区切られていた。〈加熱式タバコ専用〉と、透明のドアにあった。私はそちらではないほうのドアを開けた。私はガラス越しにぼんやりとビルの形を観察しながら、一本をフィルターの直前まで吸った。熱が指に伝わる。吸い殻入れに入れると、水面で気持ちよく火の消える音がした。何かが消える瞬間。そして私の中に入った、私の命を縮めるであろう物質。それらに私の息は微かに震え、何かに歓喜している。二本目を取り出す。他の者たちは、何を急いでいるのか、妙に入れ替わりが早かった。私は、ガラスに仕切られたもう片方の部屋の臆病者たちに、優越の眼差しを送った。視線は誰とも合わず、ガラスに自分の奇妙に歪んだ顔の筋肉が映ると、目を下に落とした。空間は一挙に居心地の悪い場所となった。一つの場所に、長く留まることを私に許そうとしないこの都市を、私は軽蔑した。カバンから出したペットボトルの水を口に含み、私は映画館へ戻った。

 映画には、家族が登場した。主人公は、その中の茶髪の少年だった。両親の離婚があり、家族の一員それぞれに葛藤があり、人物たちの関係や心情は、茶髪の少年を中心に複雑な文様を描き、映画として、想像していたよりも悪くないと、私は行く末を見守っていた。だが次第に、違和感を抱き始めている自分がいた。彼らの抱える複雑さに対し、彼らの言動や、物語の進捗は、理路整然としすぎている。これが物語であり、観客が居る以上、その整然さは、むしろ自然で必要なもののはずだった。が、その整然さは、物語から私を引き剥がした。映画に落ち度があるわけではない。落ち度があるとすれば、それは私という存在の内にであった。私はおそらく、。「ぼく、ママと結婚する」。回想のシーンで、幼年期の少年が言う。私の体は窮屈な座席に固定され、暗闇に浮かぶスクリーンの主張は激しく、他に目をやることを許されなかった。私の視線はしばらく虚空を泳いだ。遠のいていく意識の中、スクリーンに、黒髪の少年の姿が浮かんだ。

 高校生と思われる少年は、六畳ほどの暗い部屋で、布団の上に蹲っている。世界の中で、自分の居場所がそこにしかないかのように。うつろな瞳は、自分の周囲全てを敵視し、警戒している。家の中で、大きな物音と、男の大声と、女の短い悲鳴が、断続的に響く。部屋からは見えない、キッチンの方からだとわかる。音は少年の体を圧迫し、視界を狭めた。暗闇。少年は横の壁を素手で強く殴り、半狂乱に、何かを叫んでいた。キッチンの音がやみ、大げさな足音が近づいてくる。少年は、自分の手に滲み出す赤と青を、ぼんやりと眺めていた。素足が少年の布団の端を踏み、見上げると、男の顔があった。「なんだ」。ドスの効いた低い声。少年は答えない。「言いたいことあるなら、口で言えや」。……この男は、何を言っているのだろう。と少年は思っていた。言いたいことなど、あるわけがなかった。少年の中には、理路整然としたわかりやすい葛藤などあり得ず、ふつふつとした黒い感情だけが、延々とうねっていた。それは言葉にできないものだった。しかもそれは、別にその男だけに向けたものではなく、周囲の世界全てに対するものであるのに、男が過剰に反応したのを、少年は嘲笑していた。男の顔と少年の顔は、生き写しだった。少年は無関心に布団を眺め、男の顔を見ないようにしていた。男が部屋を去り、家が静かになると、別の部屋から、別の人間たちの小さな声がした。声は、少年に対する嘲りの音を帯びていた。少年は、自分の手の痣と、壁の穴を、うつろなままの目で交互に見つめていた。女の体は、キッチンで力なくうなだれ、何も言わなかった。

 気がつくと、私は座席でかがみこんでいた。包まれたい。私は思った。何か大きく、温かなものに、この空間から、私を遮断してくれるものに。

 私は水を飲み、息を整え、スクリーンに向き直り、しばらく眺めた。茶髪の少年はこれから何らかの苦難を乗り越え、物語は明るい大団円を迎えるだろう。そこまでの筋書きが読めたところで、私はふらつく足取りで、席を立った。

――ごめんね。

 スクリーンを背にドアを開けるとき、後ろから、声が聞こえた。声は場内の音響から完全に孤立し、私の背後に誰かが立ち、私に向けて直接放たれたようだった。私はドアを閉めた。


 雨はザラザラと降り続いていた。陽は徐々に沈み始めている。


 私は昭和の香りを残した通りに迷い込んでいた。リュックサックを背負った、季節外れの薄着の外国人観光客たちが、カメラを手にしている。なぜか自分までもが異国を訪ねたようだった。一軒の狭い焼き鳥屋で、東洋系の店主の英語は流暢だった。日本語は片言だったが、この場では、私の使う言語の方に、何か誤りがあるような気がした。緑茶ハイに口をつけると、異国風の、何か奇妙な味が広がった。一瞬、私の意識は身体から遊離しかけた。

「あの、これ」

 私が言うと、店主の口が動いた。

――オ酒ミタイナモノダヨ。

 声は遅れて聞こえ、明らかに店主のものではなかった。狭い店内はすぐに賑やかになり、私は店を出た。再び広い道に出、ビルを見渡した。歩くのに疲れ、どこかに安心して座りたかった。いくら探しても、都市の中にそのような場所は見当たらない。広い車道の反対には、ビルの入り口の段差に座り込む、くたびれた老人の姿があった。彼の姿は、誰の目にも止まらず、人々は素通りしていった。老人もまた、周囲に人間などいないかのように、酒の缶を片手に座り続けていた。この都市で、私が一つの場所に長く留まれないその原因は、都市ではなく、私の存在の仕方のほうにあるのではないかと、薄々感じ始めていた。

――きみも、こっちに来ればいい。

 私は、店を予約していたのを唐突に思い出した。別に行かなくてもよかったが、行く場所が決められているということに、微かな安心があった。

 キャンセル料を支払うのが億劫で、一人で二人分のコースを食べると聞かせると、店員は私を不審な目つきで見たが、どうでもよかった。メニューのアルコールを眺めていると

――今日、彼女が来なくて、良かったね。

 またあの声がした。周囲の喧騒とは、やはり別の場所から聞こえてくる。頭の中に鳴り響くように。

「……ああ」

 私はジン・トニックを注文した。

――きみの存在が、彼女の人生の貴重な一日を、無駄にするところだった。

「……」

――きみは、彼女に求めすぎている。自覚が、あるだろう……?

 隣の集団の一人が、二人分のコースを一人で食べている私を、不審そうに眺めていた。私はグラスを一気に飲み干した。喫煙席なのに灰皿が置かれていないのに気がつくと、私は苛立たしげに店員を呼んだ。混雑した店で、店員はなかなかやって来ない。

――彼女に、母親を重ねている。違うかい?

「違う」

 私は小声で呟く。アルコールで意識が霞んでいく。消えると思った声は、むしろ、大きくなっていく。私の母は、私の理想とする母親ではなかった。私に理想を押し付け、しかし、味方になって欲しい時に限って、何も言ってはくれなかった。だが、母が悪いわけではなかった。彼女は、若すぎた。それだけだった。

――、じゃないかな。

「黙れよ」

 灰皿が届き、しばらく、声が止んだ。隣の席では、どこのゲレンデの雪質がどうであったとか、どこぞの俳優が誰と結婚したであるとか、私の今の生活とは、おおよそかけ離れた話ばかりをしている。時々、猿のおもちゃのように手を叩いては、喉から無理にひねり出すような笑いを響かせた。私は、指に挟んだ煙草を意識していた。以前読んだ小説で、狂気的な主人公が隣の席のカバンに煙草を投げ入れるシーンがあった。

――きみは酔ってる。

 声は、私の行為を促そうとした。私は、隣の席を横目に、様子を窺った。この位置からでは、どこにどのように投げても、私がやったとバレるに決まっている。上手くいったとしても、その席に喫煙者はおらず、真っ先に疑われるのは私だとわかっていた。小説のようにいくわけがない。そして、このようなことを冷静に考えていること自体、馬鹿げている、と思った。その主人公は、自分の狂気を自覚していない分、ある意味では救われていた。二杯目の酒を頼む時、店員が私に訊ねた。

「……ケーキのほうはいかがなさいますか?」

 私は意味がわからなかった。少しして、誕生日の彼女のために、サプライズで用意していたのを思い出した。どうでもよく思い、今すぐ運んでくるように言った。花火が挿され、火花を散らしている馬鹿らしいケーキが運ばれてくると、隣の席の集団が黙ってこちらを見ているのが気配でわかった。私は、火が消えるのをうつろに見つめながら、囁いた。

「……なあ、俺に誰かを祝う資格があるのかな」

 声は、しかし答えなかった。

「……なんていうか、思うんだよ。俺の人生は、これまでずっと、命に対する拒否感みたいなものの上に、成り立ってたんじゃないかって。……今でも」

 私は、二杯目の酒に口をつけた。

「……なあ、何か言ってくれないかな」

 ……あの六畳の部屋で、私は苦しかった。あの狭い家で、私の行為は、全て家族に筒抜けだった。私は、年齢に関わらず、性的なものに対し、おそろしく無関心だった。が、あの家庭でのあらゆることと、私が人を上手く愛せないこととの間に、どのような繋がりがあるのか、未だに答えを見出せずにいる。私は、わけのわからない今の状況にあっても、自分がこれから書くかもしれない文章を、意識してしまっている。

――……きみは、同情が欲しい。

「……そうかもしれない」

――きみのそれは、罪悪感なんかじゃなく、ただの自己憐憫だと、きみは自覚している。

「……」

――そしてそれは、、と思ってる。たまたま彼女と親交があったから……。別の相手が現れれば、きみはきっと同じものを、その人に求める。

「……わからないよ、それは」


 人混みの中を、駅に向かい通過していく。私が進んでいるというより、傘の群れが、勝手に周囲を過ぎていくだけのように感じていた。体の感覚が薄かった。暗い空の下で、私以外の誰にも見られていないビルの電子看板たちは、何かの許しを乞うように、光を私の目に投げ続けている。

「……やめてしまえばいいじゃないか」

 私は都市の光に訴える。

――そういうわけには、いかないんだ。だって、光っていないと……。きみになら、わかるはずだ。……きみは同情してるつもりなのだろうけど、ただ光が苦手だから、そう言ってるだけじゃないのかい……?

 私はうまく答えられなかった。


 電車は、運良く空いていた。

 家に帰ったら、文章に向かおうと考えている自分がいる。今の私の生活は全て、私が書こうとしているそれのためだけにある。そのようにあると考えることで、私は私が感じる飢えのようなものなどを全て受け入れ、自分を維持できていたのだった。

――泣いてしまえばいいのに。

 私は顔を上げた。電車は都市から離れていく。それでも、声は続いている。何なんだろう、と思う。向かいの窓に映る、自分の顔を見る。少し疲れている、ということだけがわかり、また下を向き、目を閉じた。カーブで電車が強く揺られるたび、実家に帰るときの陰鬱な気分が蘇った。それから、自分は母の誕生日を祝ったことがなかったことを思い、母は私の誕生日には必ずケーキを買ってきたことを思った。

 駅から家への道は、都市とは違い、狭く暗かった。雨は止んでいた。


――俺は酔っている。


 私は傘を振り回しながら、周囲に民家しかない道の真ん中を歩いてみる。しかし、車はなかなか通らなかった。暫くすると、速度のやたら遅い自転車が、ライトを無意味に点滅させ前から近づいて来た。運転する人間は、スマートフォンを片手に眺めていた。


――俺は酔っている。


 私は、自転車の行く手に立ち止まった。自転車は、私に気づくとブレーキを踏み、地面に片足を着いた。人間は、地面を踏んで進みだし、すれ違いざまに、「チッ」と私の耳元で音を立てた。


――俺は酔っている。


 私は傘を振り回した。全身をひねるように、傘はまだ自転車のいる後ろ側に向けて、激しくカーブを描いた。傘は人間の横側に直撃し、呼吸が漏れるような音が聞こえ、自転車はよろめいた。私の居る方向を振り向きかけたその頭部に、私はもう一度、傘を叩きつけた。金属製の鋭い先端が、頭の横の柔らかい箇所に当たった。不運なことに、人間はヘルメットを被っていなかった。うめき声が暗い路地に響き、私から逃げるように去っていく自転車を、私はぼんやり見つめていた。

 歩きながら、手に痺れを感じていた。背後から、巨大なビルが、私を見下ろしている。振り向くと、しかしそこには、黒い空と、それよりもさらに黒い電線が、密かに浮かんでいるだけだった。

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