〈NonFICTION〉

 昼の休憩が終わり、僕たちは建物の三階のロッカーに集合した。

「滝沢くん」

 スネ夫に似た社員の男が、のび太みたいなアルバイトの名前を呼ぶ。

「わかってるよね。五百冊に達しなかったら……」

 ……また始まる、と僕は思った。

 ジャイアンに似た別の社員が、丸太みたいな脚でのび太の尻を蹴る振りをする。

「タイキック」

「ちょっとぉ、やめてくださいよぉ」

 僕と同い年で学生ののび太は、顔を耳まで紅潮させ、ヘラヘラと笑う。

 他のアルバイトの女達がクスクス笑う。

 毎日繰り返される、同じ映像。僕は自分の頭を少し疑いたくなる。

 この顔ぶれはいつも一緒に食堂に向かうが、そこでどんな会話をしているのだろう。もしかすると、食事中も同じ会話を繰り返しているかもしれない。想像すると寒気がした。


 大学の名称が書かれた黄色い腕章をつけ、僕たちはエレベーターに向かった。エレベーターは僕たちを家畜のように詰め込み、面倒くさそうに図書館の地下二階に降りた。

 カビを殺す作業は、極めて機械的に行われた。

 養生シートに覆われ、ビニールハウスのようになった書棚の隙間で淡々と本を拭きながら、僕はタイキックについて考えていた。あれは何かのギャグだろうか……。何がおかしいのか僕にはわからなかったが、全員が笑うということは、低俗なお笑い番組か何かで流行っているネタなのだろう、と考えた。そしてそのようなものでしか喜ぶことのできないスネ夫は、おそらく、仕事に取り憑かれている。仕事に取り憑かれた人間は、日常的な思考が大雑把になっていく。これは僕の持論だった。極端な考え方だとは自覚しながら、しかしスネ夫を見ていると、あながち間違いではないように思えた。

「……雪谷さん」

 気づくと、カビを吸う無骨な装置の向こうに、白髪混じりの疲れたスネ夫の顔があった。装置の騒音で気づかなかった。一応のび太と同い年なのに、なぜか僕には〝さん〟付けだったが、別にどうでもよかった。

「今日中に、ここ、終わるよね?」

「はい」

 僕は使い捨ての布にアルコールをスプレーしながら、機械的に答えた。それだけ聞くと安心したのか、スネ夫は姿を消した。やはり彼は取り憑かれている。


 小学校のクラスにも、スネ夫に似たやつがいた。名前は思い出せないが、小学校のスネ夫は、常に何かに怯えていたように、今となっては思う。スネ夫の側には、やはりいつもジャイアンがいた。小学校のジャイアンは、意外にも成績が良かった。家に遊びに行った記憶があるが、彼の母親は、彼を愛しているように見えた。そして、そのジャイアンは母の愛情に受け答えるように、律儀に塾に通っていた。しかし、親からの愛情を受けながらも、彼は教室ではなぜか粗暴で、クラスの中心に居座ろうと、どこか必死に見えた。


 次の朝、雪が降った。降り始めの雪の粒たちは、大学の敷地にある池の黒い水面に触れると、一瞬にして溶けて消えていった。


 本に発生するカビを殺しながら、僕は高校時代に部活でカビを育てたのを思い出していた。理科室の黒い机で、透明な円形のシャーレの中に寒天培地を作り、その上に、すりおろした大根を設置し、蓋をした。大根の抗菌作用を調べる実験だった。言ってしまえばそれは、はじめから殺されることを目的に培養されたカビだった。

 それから、理科室で死んだカエルを思い出す。死んでしまったのは、僕を含む部員たちによる過失だった。飼っていた二匹の巨大なカエルのうち、白い方の一匹が、夜の間に、水槽の蓋の隙間から飛び出してしまった。翌朝、床を這っているのを教師が発見し、水槽に戻したが、机の高さから床に落ちたカエルは、頭部に痛々しい傷を作り、もう一匹に比べ、明らかに大人しかった。命がゆるやかに死に向かっていくのを、僕たちは見ていることしかできなかった。白いカエルの赤い目からは、僕たちは何の感情も読み取ることができなかった。やがて、カエルは死んだ。水面に無惨に浮かんだ体を、僕たちは大根のプランターの土に埋めた。そして、そこに新しくできた大根で、再びカビを殺していった。


 この単調な仕事をしていると、なぜか様々なことを思い出す。それでも、僕は淡々とカビを殺していく。ゴム手袋の不快な汗を我慢しながら。ここにある貴重で膨大な数の本は、人類の歴史そのものだった。失うわけにはいかない。だから殺すしかない。……それに、僕には自分の生活がかかっている。


 昼休みになると、いつものように僕以外は食堂に向かった。僕はひとりで外のベンチで過ごした。僕がこの仕事を選んだ理由は、人と接する必要がなさそうだから、という単純なものだった。雪に凍えながら、僕はコンビニの鳥五目おにぎりを食べる。今食べているこれにも、かつて命があった。そう考えると、変な感じがした。


「滝沢くん」

 三階のロッカーの前で、スネ夫がのび太に言った。

「タイキック」

 ジャイアンがのび太の尻を蹴り、女たちが笑う。ヘラヘラ笑うのび太を見ると、僕は得体の知れない苛立ちを覚えた。なぜだろう。クスクスと笑う女たちは、本当にこの光景を面白いと思っているのだろうか……。僕はだんだん、目の前が全て何かの芝居であるように感じ始めていた。人間が集まると、誰がわざわざ用意するのか、そこには必ず似たあらすじの台本が現れ、人間たちは、自分の役に収まっていく。

 学校の教室でも、周囲の女子たちは何かと笑っていた。どこか無関心に。しかし、役割を怠ることによって起こるかもしれない何か、その可能性を恐れているようでもあった。スネ夫も何かに怯えていた。もしかすると、あのジャイアンでさえも、何かを恐れていたかもしれない。そんな風に思う。


 雪で麻痺した交通網で、帰りが遅くなった。家に着いた途端、僕は疲れてベッドに倒れた。




 ぼんやりと天井を眺めながら、そこに一点の黒いシミを見つけた。


 僕は成人式の日のことを思い出していた。別に思い出そうとしたわけではなかったが、それは昼間の記憶の延長のように、あるいは何かの思念の塊のように、不条理に湧き上がってきた。


 正確には覚えていないが、あれは四年ほど前のこの時期だったと思う。あの日もたしか、雪が降った。

 記憶の映像は、画面にハエのようなものが飛び交い、不明瞭だった。比較的新しい記憶のはずなのに。

 広い会場で、宣誓を唱える場面。何の宣誓だっただろう。成人式だから、おそらく、人間としての規律のようなもの、それに則るという、意思表示。あの時は特に何も考えずに読んでいたが、今になって思う。そんな規律を勝手に定める権利が、一体誰にあるというのだろう……。

 夜、別の広い会場で、同窓会のようなものがあった。

 同窓生たちの顔が、思い出せない。ハエが邪魔をする。……というよりも、徐々に、映像に映る人間たちそのものが、ハエの大群から成るように、輪郭が損なわれていく。

 黙祷を捧げる場面。同窓会を主催した人物が、自主的に、死んだ生徒への黙祷の時間を作った。たしか、自殺した、Mという生徒。当然、会場にはMの姿はない。Mの親もいない。当然、誰も涙を流さない。


 そこで映像は終わった。天井の黒いシミは、いつできたのだろう。僕は起き上がり、煙草に火を点けた。壁紙の、最近ポスターを剥いだ部分だけが、くっきりと白い。僕は煙を吐き出す。壁紙はいずれ、清掃業者に貼り替えられる。消耗品、という言葉が浮かぶ。だが、図書館の本はそうはいかない。明日も仕事だった。


「滝沢くん」

 また始まった。僕は考えるのをやめた。僕は一連の映像を、アメリカのコメディ・ドラマでも見るように観察した。

「タイキック」

 女たちの笑い声は、つまらない内容を面白く感じさせるアレにまさに相応しかった。


 僕は、溜まった疲労のせいか、作業中、いつも以上に思考が淀んでいた。

 昨晩のように、頭の中に映像が流れ始める。しかしそれは、自分の記憶ではなかった。どこか熱帯のジャングルのような場所で、サルのような生き物が争っている……。体には圧迫感があった。莫大な書物に囲まれ、この地下書庫に沈殿する大量の記憶が、乱雑に流れ込んできているのだと思った。無意識に手を動かしながらも、僕は呆然とその映像を眺めた。

 二匹のオスのサルが、一匹のメスを奪い合い、決闘している。当然、弱いほうが負ける。負けたほうのサルは、ぐったりと土の上に倒れ、体の感覚が薄れていくのを感じている。空には、高く伸びる木々の隙間から、何か飛翔体のようなものが、長い線を引いているのが見える。サルはそれが何かわからない。しかしその線を、美しいと感じている。やがて、サルは死に絶えた。決闘で受けたサルの傷口からは、機械のようなパーツがはみ出ていた。


 場面が切り替わる。

 

 目の前に、小学校のジャイアンがいる。僕はなぜかスネ夫役で、もう一人、別の子供がいた。僕たちは三人で、高い場所から飛び降りる度胸試しをしている。塀の上は水平で、しかし下のアスファルトの地面は、横に向かい傾いている。やがて、ジャイアンがもう一人に命令をする。一番高さのある奥を指し、あそこから飛び降りろと言う。スネ夫役の僕は、ジャイアンをやめさせようとするが、ジャイアンは聞かない。

 もう一人はそこに立ち、かなり下のアスファルトを見ながら、足を竦ませている。ジャイアンは、僕に彼の背中を押すよう耳打ちする。

「押さなければ、秘密を言いふらす」

 僕は押した。前に傾いていく彼の体の重さが、僕の腕に生々しく伝わる。重さを意識しているうちに、彼の体は、すでに落下を終えていた。彼は地面に蹲り、しばらくの間、状況を理解できずにいた。よく見ると、彼の膝は、大きく傷口を開いていた。ジャイアンは顔を白くし、違う、違うと呟き、もう一人に向かい、「こいつが押した」と叫んだ。もう一人は、僕を見上げた。しかし彼は、紅潮した顔で、咄嗟にヘラヘラとした笑みを浮かべた。僕は寒気がし、視線を逸らした。その先には、彼の膝の傷口があり、そこには、何かの機械のパーツが、微かに覗いていた。




 アラームの音がする。僕は自分のいる場所がわからなかった。天井を見つめ、自分の部屋だと気付いた。天井は白く、黒いシミはどこにも見当たらなかった。

 それから、アラームの音を思い出し、自分の寝坊に気付いた。仕事で、アラームの二十分前には起きる癖が身についていた。


 その日、僕はコンビニに寄るのを諦め、職場の大学に直行した。昼の休憩には、仕方なく他のメンバーと食堂に同行した。

 メニューに迷い、四百円のラーメンの食券を買い、列の後ろに並んだ。ラーメンは、完成までに時間がかかった。

 休講期間のため、学生の姿は疎らだった。どこかに固まってるはずのメンバーを席に探したが、なぜか見当たらなかった。よく見ると、白髪のスネ夫が手前の席で、一人で牛丼を食べていた。それから、少し離れた窓際の席に、スマートフォンをいじる女の背中を見つけた。

 ……これはなんだろう、と思った。

 少し進むと、のび太が一人で弁当を食べている。

 僕は暫く彷徨った。背中に変な汗が滲み、視界がぼやけた。来てはならない場所に来たような、舞台の楽屋にでも迷い込んだような、そんな気分だった。

 食堂の調理師と目が合い、僕はなぜかお辞儀する。ラーメンを乗せたトレーを手に無意味にうろつく僕を、訝しげに見ている。視線から逃げるように、お茶を取りにいく振りをした。

 どうしよう、と僕は思った。

 僕は、……どこの席に座ればいいんだろう。







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