灰色の街
十月和生 toga_kazuo
〈幽霊〉
本を閉じる。部屋の冷蔵庫が唸っている。
僕は何をしていたんだろう。思い出そうとしても、頭に不快な微熱が生じるだけだった。手の上に置かれた奇妙な物体をぼんやり眺め、それを開く。文字を追う目が
前方の人影と10メートルほどの距離を保ち、ずっと歩くペースを合わせている。季節感のつかめない空気だった。時々、外灯で人影は道の表面に長く伸びた。三叉路の突き当たりで、人影を見失った。影は右に進んだ。そんな気がする。僕は右に曲がった。何をしてるんだろう。コンビニは左なのに。
目の前にぼやけた看板の光が現れる。ここに入ったのだろうか。縦に細長い建物。様子を見ていると、入り口のドアが開き、若い男の上半身が出てきた。若いと言っても、僕より年上に見える。
「どうぞ」
男の目は僕の目を硬く釘付け、離さなかった。僕は男の背中に誘導されていく。照明たちが低い天井から垂れている。淡いピンクや緑の混ざった灯り。何かを焚いているのか、妖しげな匂いが漂う。カウンター席の男たちは皆、同じ後ろ姿で本を手にしている。
「……あの、ここは」
「知っているはずですよ」
男は前を向き歩きながら言った。つれて来られたのは、一番奥のテーブル席。背もたれにカーキ色のジャケットがかかり、すでに誰かが座っていた。後ろでゆるくまとめられた茶色い髪に、大量のピアス。女の後ろ姿は、知ってる人物である気がした。振り向くと、男はいつの間にかカウンターの向こう側にいた。彼は背筋を張り、どこか一点を凝視している。僕はぎこちなく、女の向かい側に座る。彼女は壁から目を離し、僕の顔を見ると、ああ、と言った。彼女の見ていた壁には、奇抜な絵がかけられていた。
「お待ちしてました」
彼女の声を聞くと、僕はほっとした。やっぱり知ってる人だ。でも名前を思い出せない。女の頬や目元は、ついさっきまで泣いてたみたいに赤かった。半分ほど減ったグラスが、木製のテーブルに汗を垂らしている。ひとつのグラスが、いくつもの影をテーブルにばら撒いている。
「ねえ、さっき誰かここに来なかったかな? 俺が来るほんの少し前に」
「いえ」女はなぜか微笑む。「ここに来る人は、みんな同じことを言います。どうしてでしょう……?」
「……不思議だね」
「そんなことより、何か飲みませんか。すみません、先に始めてしまっていて……」
「構わないよ」僕は辺りを見回す。「ねえ、メニューを見たいんだけど」
「……メニュー?」女の眉が微かに動く。「必要ないじゃないですか。そんなもの」
よくわからなかったけど、言われてみれば確かにそんな気がした。
「じゃあ、君と同じやつで」
女が男に合図をした。それから男がグラスを運びに来た時、彼は女の耳元で何か囁いた。女が事務的に頷くと、ピアスの光が揺らめいた。僕はグラスに口を付けながら、彼女の耳に見とれていた。
「早まらないで」彼女は言った。
「いや、まだ何も」
「いいえ、あなたはいずれその気を起こします。決まったことなのです」
「ふうん」僕は何気なく答える。「君が言うことは、なんだか全て正しく聞こえるよ。うん、俺は君に欲情するかもしれない」
彼女が箱から煙草を一本取り出す。瞬間、映像が頭をよぎった。彼女がピンクの細いライターで火をつける映像。僕は一瞬目を閉じた。彼女は、またピンクの細いライターを取り出し、唇に挟んだ煙草の先端を熱した。漂う煙の行方を、僕は目で追った。煙は空中で光の渦を描き続け、だんだん、その先頭を見失っていく。そういえば僕はなぜここに来たんだろう。思い出そうとすると、頭に微熱が生じ、何もわからなくなる。
「少し、私の話をしましょうか」
僕は頷いた。
「私には、姉がいました。双子の姉です。彼女はあらゆる意味で美しかった、とても。妹の私は、学校に行くことができず、ずっと家に引きこもっていました。両親は姉を可愛がりました。私には何も言いませんでしたが、両親が何かにつけて吐く溜息は、全て私に向けられているような、そんな気がしました……。ある時から、姉は男性を部屋に連れ込むようになりました。それも、平日の昼間に。親のいない間に。奇妙だ、と思いました。彼女は、見かけによらず男性を作るタイプではなかったし、学校をサボるような人でもなかった。きっと、問題のある男に違いない。私は、姉の部屋に小型のカメラを仕掛け、観察しました。……ですが、様子がおかしいのです。その男性からは、なんというか、自分の意思のようなものを何も感じられない。ぼんやりと……、まるで、姉の操り人形でした。ですが、姉が彼をベッドに誘惑すると、男性はなぜか頑なに拒むのです。姉の背後に何かがいて、それに怯えているかのように。……彼のそんな態度が不満だったのか、姉は次第に、精神を病むようになっていきました」
「……ねえ、話の途中に悪いんだけど、あの人たちはさっきから何を?」僕はカウンター席の男たちを見た。
「本を、読んでいるのでは?」
「俺も、最初はそう思ったよ。だけど、……ずっと表紙を見てるだけじゃないか」
「だからどうしたと言うんです……?」
「……そうだね、うん。……何もおかしくない」
「でしょう?……あれから、私たちは次第に変わっていきました」女は話を再開する。「姉からは生気が抜けていき、反対に、私は活発になっていった。姉の生気が、私の中に入りこんでくるみたいに。私は思いました。私たちが生まれた時から、姉は私から、吸い取り続けていたのではないか、と。私の人生と引き換えに、姉は自分の人生を潤していたのでは、と。私は、姉への復讐を決意しました。そのために、あの男性を利用しようと……。ですが、彼は突然、家に来なくなった。そう、姉は彼と別れてしまった。それから、彼女は以前の私のように、部屋に引きこもり堕落していきました。私は途方に暮れました。一度企てた復讐を、自分の中に築き上げてきた憎悪を、……その刃を、振り下ろすべき相手を、途端に失ってしまった……」
煙が渦を巻き続けている。なのに、彼女の煙草は減っていない。
「今でも、私の中でそれは燻り続けている……。それは炎となって私を焼き続け、私はその炎の中を、方向も分からず彷徨い続けている……」
……違和感があった。女の話には、ところどころ重大な何かが欠落している。だけど、それ以前に……。
「次は、あなたが話す番ですよ」
僕は頭を掻き、しばらく、壁の絵を眺めた。絵の中では、男が動いているように見える。男の動作から生まれる、いくつもの残像が浮かび上がっている。だけど、どこが始点でどこが終点なのか、わからない。絵の中で永遠に運動を繰り返し、男は苦しそうだった。
「昔……こんな交通事故のニュースがあったのを覚えてるかな?」僕の口は勝手に開き始める。
「男が、車の運転中に持病の発作を起こして、小学生の列に突っ込んだニュース。痛ましい事故だったから、一時期、全国的に取り上げられた。見ないほうがいい、わかってたはずなのに、俺はインターネットを開いてしまった。いろいろと書かれてたけど、その中の一つの言葉が、今も頭に刻まれてる。〈殺処分〉。……ああ、と思った。どこかひと事みたいに。それから、俺は流れに身を任せるみたいに、クラスの女子と関係を持ったことがあった。だけど、よく〈喜び〉だとか〈悲しみ〉だとかいう言葉で表現されるような感情が、あの時、自分の中に少しも生じなかったことに、俺は、かなり後になってから気がついて……。どうしてだろう……」女は、真剣に耳を傾けている。答えなければ、と思う。「……〈殺処分〉。事故の男の病は、俺と同じものだったんだ……。あの匿名の言葉は、世界の総意のようだった。あの時に多分、俺の人生は一度、終わりを迎えたんだと思う。……それから」
言葉が途切れる。続けようとすると、頭の中で何かが焼き切れそうになる。それまでせき止められていた血液が、一斉に流れ出るように。
「ねえ、今何時だろう」どこにも時計が見当たらない。僕は時間を確認できるものを持っていなかった。
「あなたはここから出られませんよ」
「え?」
「あなたが、それを最後まで自分の言葉で語れるようになるまで、出ることはできません」女はカウンター席の後ろ姿を目で示す。「あの方達は、もう何年もの間、ここに留まっています」
「でも、帰らないと」
「ここは、あなたみたいになってしまった人たちの集うゲストハウスです。今日は、泊まっていけばいい。部屋なら、上の階に、いくらでもありますから」
「……そうかもしれない」
言われてみれば、帰ったところで何も僕を待っていなかった。僕は足を引きずるように、奥の階段に向かう。すると、横から男の声がした。
「その青色の靴は、脱いで上がってください」
「どうして」
「青は、多くの人が、自然発生的に好んでしまう色ですから。だからその色は、ここでは不吉の象徴なんです」
僕が靴を脱ぐと、男はそれを汚らわしそうにゴミ袋に入れた。
*
本を途中で閉じた。いつも暗い感じのする知人が勧めてくれたけど、内容が僕に合わない。電車が断続的に部屋を揺らす。僕がコートに袖を通していると、彼女が言った。
「どこ行くの?」
「煙草」
外を歩きながら、後ろに気配を感じていた。僕は一瞬立ち止まって振り返る。その人影は、距離を縮めてくる。10メートルほど歩き、もう一度振り向くと、人影は僕がさっき立ち止まったのと同じ位置で、後方を確認していた。気味が悪いと思いながらも、急いで用事を済ませようと、僕は早足になる。これから、彼女と映画のDVDを見る約束があった。ついでに、彼女の好きな菓子も買って帰ろう。三叉路の角に突き当たると、僕はコンビニのある左に曲がった。
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