〈最後の言葉〉
男は花粉症のようなものをこじらせ、会社を休んでいた。
顔の穴という穴から液体を撒き散らし、自宅のベッドに仰向けになっている。これじゃ病院にも行けやしない。
「いつまで休んでるんだ」
アイコンが猫の部長から、LINEが届いていた。
男は必死に謝罪の言葉を並べる。
「お前の机のこれ、捨てちまうぞ」
写真が送られてくる。ク○ミちゃんのぬいぐるみだった。「殺s」。男がそこまで打ったところで、ベッドの横に女が現れた。
「うわ」
男は「殺s」を部長に送信してしまう。女は、スマートフォンのカメラで男を撮影している。
「私は天使です。残念ですが、あなたは数分後に死にます」
「なんらっれ?」
男は酷く鼻声だった。
「そこで、あなたの最後の言葉をお尋ねしに参りました」
わけがわからない。幻だ、たぶん。普段女の子と話さないから、……俺の欲望が見せる幻だ。部長からの電話が怒ったように鳴っているが、それどころじゃない。
男は、絶望的に女性からモテなかった。他人に気を使いすぎるから。しかも、気の使い方が最悪だった。中学時代、バレンタインデーに好きな女の子から奇跡的に義理チョコを貰うと、彼は手作りクッキーをお返しし、女子全員から気味悪がられた。それ以来、毎年バレンタインデーが近づくと、「俺はいらないから」と公言し、かえって自意識が過剰な人間として認識される羽目になった。何度か、ストーカーと勘違いされることもあった。いつしか彼は、自分がモテないのを半分ほど社会のせいにし、なぜか八つ当たりするようになった。現実逃避に、世界平和についてまで考えるようになっていた。末期だった。
「あなたの最後の言葉を、神と、全世界の人々にお届けします」
天使を名乗る女の指が、空中で男の口をなぞる。もう片方の手で撮影しながら。
「ちょっと待ってくれよ」
鼻声が治まっていた。一体全体どうなってるんだ……。
「えっと、神……?」
「はい。神の命令です。私にもよくわかりませんが、神は気紛れなのです。それでは、最後の一言をどうぞ」
「……はは」笑うしかなかった。「死ぬのか、俺」
そうか、と思った。不思議と、何も感じない自分がいる。体が本当に死につつあることにも、気付き始めている。女が言う。
「あと2分です」
どうしようかな。もっと前もって言ってくれればよかったのに……。そうすればこんな汚いパジャマじゃなくて、もっとマシな服装で映ったのに。最後の言葉……。何か願望を言うべきだろうか。でも俺は死ぬから、メッセージのようなものがいいのだろうか。神は、それを聞いて何かしてくれるのだろうか……。
「あと1分」
自分はこの世界に、何か言い残すことがあっただろうか。なぜか部長の顔が浮かぶ。部長がセクハラで訴えられますように。違う、もっと何か……。
「30秒」
……世界平和だ、と男は思った。究極的には、全てを包括するには、やっぱりそれしかない。
今も、世界各地に紛争が起きている。人がこれ以上、無駄に死なない世界。
フリーターをしていた頃、自分の生活に精一杯で、募金ができなったことを思い出す。空腹に苦しむ人のいない世界。
不当な賃金で、好きでもない労働を長時間しなくてもいい世界。……オフィスでいつも叱られている、同期の女の子の姿が浮かぶ。あの子はきっと今頃、オフィスで苦労してる。俺が休んでいるせいで……。要領が悪くて、仕事を断れなくて……。彼女が毎日休み時間にこっそり泣いているのを、俺は知っている。
せめて、あの子が笑って暮らせる世界を。あの子が素敵な人たちに囲まれて、明るく過ごせる世界を……。
「5秒」
俺は言った。
「世界が、どうか平和に、なりますように」
ああ、これで死ぬんだな……。男は思った。体が軽くなるのを感じながら。
……一度くらい、彼女をデートにでも、誘ってみればよかったな…………
男の死に顔には、涙が伝っていた。それが悲しみによるものなのか、それとも花粉症によるものなのか、誰にもわからない。
天使を名乗る女は、男の動画をそれらしく編集し、YouTubeにあげた。それは一瞬のうちに再生回数100万回を越え、ネットニュースにも取り上げられ、SNSなどを通じ、全世界で反響を呼んだ。
男の葬式は大がかりに開かれ、会社の人間たちも参列し、部長は「名誉の死だ」とむせび泣いた。男の棺は、ク○ミちゃんのぬいぐるみで埋まった。
「死の直前まで平和を願った男」として感動的にテレビなどで取り上げられ、遺族のもとに報道陣が連日押し寄せた。男には、いつからか両親がいなかった。代わりに祖母が対応し、「孫のことを、誇りに思います」と答えた。首より上は映されず、表情はわからなかった。
「ベッドで平和を考える人」と題された彫像が街に設置されるまでになり、世論を受けた大国のトップたちはこれ見よがしに「積極的平和」をスローガンに掲げ、世界の紛争に介入し阻止するため、軍備を大幅に増強した。
男の命日は祝日となったが、人々はやがて、祝日の意味を忘れていくことになる。
男の葬式の日、会社の人間たちが大騒ぎをする中、同期の女性は、姿を見せなかった。彼女はその日、自分の家で、ク○ミちゃんのストラップを握り、肩を振るわせ静かに泣いた。
「ご苦労。今回も傑作だったよ」
神を名乗る男が、天使を名乗る女に金を与えた。女は、全てを記録し、男に差し出していた。この男は、よくわからない。女はそう思っていた。
「次の依頼なんだが」
「あの」
女は男に何かを見せる。
「ん?」
「この仕事を、辞めさせていただきます」
退職届だった。
女は、死んだ男の言葉だけではなく、彼の心の声も、全て聞いていた。最後の哀れな未練までも。人間というのも、よくわからない。だけど、と思う。
この仕事には、飽きていた頃だった。
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