第26話 新国民“オシムニョン”(5)
星香は安全院職員に逮捕されて以来、繁子と共にずっとソウルで暮らしている。皮肉なことに工作員教育のお陰で二人ともソウルでは戸惑うことなく生活出来た。
安全院の保護下にある二人は、今のところ、定職は無く、時々、安全院本部に行き、事情聴取を受けるだけである。そのため、ここでの生活が慣れると時間を持て余すようになった。そこで、ある日、繁子は安全院職員に駄目もとで、星香と二人でソウルの街を歩いてみたいと言って見た。意外にも簡単にOKの返事が来た。
さっそく数日後の天気の良い日、二人はソウルの繁華街に向かった。
21世紀に入り、ソウルは新宿や青山あたりと比べても遜色の無いおしゃれな町になったと日本のファッション誌が伝えていた。繁子には実感が無いが、実際、東京に暫くいた星香には頷けた。
センスのよいカフェが目に入ったので二人は入ってみた。平日の午前中のためか空いていた。店内の雰囲気もよく、二人はカウンターでコーヒーを求め、窓際の席に座った。豆から挽いたコーヒーは味が良かった。
「こんな風にソウルのカフェでコーヒーを飲む日が来るなんて想像すらしたこと無かったね」
繁子が口を開いた。日本語である。
「そうね…」
星香が感慨深そうに日本語で答えた。
「平壌、ソウル…。まさか、こんなところに暮らすなんて日本にいた頃は想像すらしたことがなかったわ」
「うん」
しばらく、二人は何も言わず外を見ていたが、
「ふと思ったんだけど」
繁子が口を開いた。
「はい?」
「東大生さん夫婦と大工さん夫婦は帰国し、私と五十鈴ちゃんは韓国に来た。ドナちゃん以外は、皆、あの国から出ているのよね」
そういえばそうだ、と星香は頷いた。
ドナちゃんの本名が太刀川希枝(たちかわきえ)であることを星香は日本に来てから知った。
公務員の父と専業主婦の母、兄と弟のごく普通の家庭の娘のドナちゃん…。
何度目かに日本に来た際、星香は北陸のある海辺の町に滞在したことがある。
日本中、どこにでもあるコンビニがその町にもあったが、店舗の様相が他店とは異なっていた。看板にはそのコンビニのマークがあったが、その下に大きく「太刀川正希商店」と書かれていた。
さらに店の出入口にはコンビニの名称よりも「太刀川正希商店」という店の本来の名称の方が大きく書かれていた。そして扉にはドナちゃんこと太刀川希枝の大きな写真が貼ってあった。ピアノか何かの発表会の時のものであろうか、白いドレスを着て髪には白いリボンが留められていた。その笑顔は可愛らしく天使のようだった。
星香がしばらく、写真を見つめていると
「姉を、希枝ちゃんを御存知ですか?」
と声を掛けられた。
振り向くとコンビニの制服を着た壮年の男性が立っていた。
「いえ…」
星香は口ごもるように返事をした。
「そうですか…」
残念そうな表情を浮かべながら応じた男性はドナちゃんの弟である太刀川正希(たちかわまさき)だった。
店に客も来ないため、正希は姉が行方不明になってから今日に至るまでのことを話してくれた。
「両親と兄は現在、東京にいます。姉がいなくなってから数年後、父親の転勤により東京に行くことになりました。しかし、万一、姉が帰って来たら困るだろうと思い、私だけここに残りました。兄は優秀なので東京の大学に進学することを望んでいました。私は特に頭が良いわけでも勉強が好きなわけでもないので、ここに残って全寮制の高校に入りました。そして、卒業後は家族や友人や知人の協力を得て、この地に自分の名前を屋号にした店を出しました。希枝ちゃんが帰って来ても迷わないようにと」
看板や入口に自身の名前を大きく表記することにはコンビニ本社も反対しなかった。事態が事態だったので、むしろ、お姉さんが一日も早く帰ってくることを私たちも祈っていますと励ましの言葉を掛けられたそうである。
このように、ドナちゃんの家族は今もその帰りを待っているのである。恐らく、それはママさんの家族も蒜田監督夫妻も同様だろう。
「…私はね」
繁子は言葉を続けた。
「東大生さんたちと一緒にドナちゃんも帰国する予定だったのではないかと思うの。何らかの事情があって替わりに保健師見習いだった女性が帰国したのではないかと」
たぶん、そうだったのであろう、繁子の言葉に星香は同意した。
「あの時一緒だった人々は、いずれ国外に出す目的で連れて来たんじゃないかと思うのよね」
「そうね、だから帰国第一号に東大生さんたちが選ばれたのよ。そして、私たちもここにいる」
「だから、ドナちゃんも帰国第一号は駄目だったけど外に出ているような気がしてならないのよ」
「もしかすると…」
二人はここで黙ってしまった。
視線を再び窓の外に移すと、老若男女様々な人々が行き交っていた。皆、とても溌剌としているように見えた。若い人には未来があり、中高年には相応の歳月を過ごしてきた重みが感じられる。ここでは、みな自分の人生を生きているのだろう。
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