第25話 新国民“オシムニョン”(4)
「五十鈴ちゃん、早く起きて。朝御飯が出来てるよ、一緒に食べよ」
ママさんの声だ。平壌に戻ったのかしら…。
なに馬鹿なことを言っているのだろう!
自身を叱咤しながら星香は起き上がった。
ソウルに来てから随分経つというのに、今でも時々、ママさんの起こす声を聞くと平壌のあの集合住宅に居るように錯覚してしまう。もう何十年も前のことなのに。
繁子は再会してからもずっと星香のことを五十鈴ちゃんと呼び続けている。彼女もママさんと呼ぶ。そのせいかも知れない。
床を出て顔を洗って居間に行くと朝食が用意されていた。昔から朝食はママさんの担当だった。星香もドナちゃんも朝に弱かったためだ。
テーブルの上にはトーストと紅茶、そしてオムレツがあった。韓国や日本では当たり前のメニューだが、北ではあまりお目にかかれないものだった。日本にいた時、実家でも蒜田監督の家でも朝食はパンだった。パン好きの星香にとって毎朝、こうした食事が出来ることはありがたく、感謝している。
二人は朝食を食べながら、テーブル脇のテレビを見る。ソウルに暮らすようになってから朝の情報番組と夜のニュースは欠かさずに見ることにしている。韓国内はもちろん海外についても情報を得るには、やはりテレビが一番手っ取り早い。
突然、星香にとって忘れられない歌が流れてきた。
「これ五十鈴ちゃんの歌じゃない」
繁子が言うと星香は頷く。
『…この曲はTVドラマ「少年田禹治」の主題歌です。子供の頃、よく歌いました。こことは違い北には娯楽がほとんどありません。そんな中でTVドラマは数少ない楽しみでした。中でも金輝星が主人公をやっていた「少年田禹治」は面白く、子供も大人も皆見ていました』
脱北者が出演して北の生活を語る番組だった。
『このドラマは思想的なものが全く無かったので、みんな気楽に見ていました。単純な内容でしたが、特撮やアクションシーンが多く、毎回ワクワクしながら見ました。ドラマを見ている間は日常生活の嫌なことを全て忘れて楽しむことが出来ましたね』
『そうそう、皆、主人公が好きで、学校では“田禹治ごっこ”が流行ってね、バカな男子が田禹治の真似して校舎の二階から飛び降りようとするなんてこともあったわね』
『あった、あった』
『でも金輝星は、すぐに姿を消してしまいましたね』
『ええ。皆、とても心配しました。本人あるいは親族が重大な過失を犯して収容所送りになったんじゃないかって』
『実は彼女は華僑だったので中国に帰ったという話もあったよね』
脱北者たちは「少年田禹治」と女優・金輝星の話で盛り上がっていた。
「五十鈴ちゃんが主役やってたドラマだね。」
「うん、みんな私の番組を喜んで見てくれたんだね」
「そうだよ。私たちも見ていたし、北の人たちは皆、五十鈴ちゃんのドラマが大好きだったんだよ」
星香は嬉しかった。自分の出ていた作品が
こんなにも愛されていたとは考えてもみなかった。
北にいた頃は自分のことばかり考えていて、
見ている人々のことは想像することさえなかった。じかに反応を知る機会が無かったこともあるだろう。だが、自分自身そうしたことに興味が無かったことも事実だ。今やっと、こうして、自分のドラマに対する評価を実際に知ることが出来た。自分は人々の心を癒していたのだ。星香はようやく自分の人生を少しだけ肯定した。ほんの僅かだが、人々の役に立つこともあったのだから。
このドラマは、また星香自身にとっても様々な思いのあるものだった。
制作の為に憧れの香港スター・ウォーリー=ラウと共に過ごす時間を持てたこともそうだが、彼の妻であるマリコ夫人の言葉が今も耳の奥に残っているのだ。
『あなた、日本人でしょ』
彼女にそう言われた時、
「そうです、私は日本人の輝田星香です。高校生の時、さらわれてここに来ました。助けて下さい」
と何故言えなかったのだろう。
37号室の公演の時もそうだった。あの時、客席に蒜田監督の後輩のクトケンこと九東健吾もいた。クトケンさんは星香に気が付いたのだ。舞台に近寄ってきた彼に
「クトケンさん、星香です。私を家に連れて行ってください。監督とはるこさんのもとに帰りたい!」
と何故、訴えられなかったのだろう。
日本に来た時、何故、すぐに監督のもとへ行かなかったのだろう。ママさんは、ソウルに送り込まれると、すぐに警察に行って保護を求めたというのに。監督もはるこさんも自分がどのようになっていても受け入れてくれただろうに…。
自分は幸福になってはいけない身の上なのだ。自分のために父も母も姉の月ちゃんも殺されてしまったではないか。皆、自分の身代わりになって死んでしまったのだ…。
自分が拉致されたのも、工作員にされたのも天罰のように思われた。犯罪に手を染めた自分はいつの日か逮捕され、死ぬまでその償いをすることになるだろう。それが自分の運命なのだと。
だから、生まれ故郷にも帰れず、愛する人々とも二度と共に過ごせないのだと。
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