第24話 新国民“オシムニョン”(3)

 鉄扉が再び開き、星香は外に出された。船を降りると黒塗りの乗用車に乗せられた。車窓から外を見たが、人影も家も全くなく遠くに山並みが見えるばかりだった。車は間もなく林の中に入っていった。そして、2階建ての家屋の前で降ろされた。後日知ったのだが、ここが招待所という場所だった。

 彼女を連れていた男二人はそのまま車に乗って去っていった。そして、別の高齢の男女二人が星香を屋内に案内した。

「今日からここで暮らすことになります」

 男性の方は日本語が分かるようだ。建物の中には食堂や浴室の他、何部屋かありその中の一室が星香に割当てられた。

 翌日から、この建物内で朝鮮語を始めとして、朝鮮史や社会主義について等々、北朝鮮についての事柄をそれぞれの担当教官から個人教授を受けた。家族を失い、未来も奪われた彼女は、空っぽの心で機械的に話を聞き、内容を覚えていった。

 ただ、演劇だけは彼女から離れなかった。時々、思想教育の一環として北の劇映画を見せられることがあった。星香は夕食後や休日など“授業”の無い時、映画の登場人物の台詞や振り付けを再現していた。日本にいた時のようにTVや雑誌等、暇つぶしになる娯楽が全く無く、外に出ても木々以外には何も無いこの場所で空白の時間を過ごす方法は他に思いつかなかった。

 この様子をたまたま招待所で家政婦をしている女性が目撃し、その上手さに感心したのである。このことは、招待所に出入りする教官たちにも伝わり、彼らの前でもやらされる羽目になってしまった。

「上手いものだ。ここに来てから日が浅いというのに言葉は完璧で登場人物の描写も優れている」

 教官たちは一様に感嘆した。そして「次はこれをやってくれ」とリクエストを出すようになり、しまいには「春香伝」や「洪吉童」等、朝鮮の古典作品を映画化したものを彼女に見せてやらせるようになった。彼らにしても思想教育や体制賛美映画よりも活劇や恋愛物の方が見ていて楽しいのであった。もちろん星香も同様だった。

 この招待所で過ごしたのは一年くらいだっただろう。関係者たちとはそれなりに親しくなっていた。そのため、星香がここを去る時には互いに寂しく感じたのだった


 何の前触れもなく突然連れて行かれたのは、八田繁子や荷田勲たちが暮らす建物だった。

 自分と同じような境遇の人々との生活は僅かだが星香の気持ちを安らげた。

 ここでも彼女の演技力は発揮された。泣き虫だったドナちゃんこと太刀川希枝を慰めるため、彼女は自分が好きな日本の俳優やコメディアンのまねをしたのである。このことについて、監視役の職員たちは何も言わなかった。別に北を批判したり、現状の不満を表わさなかったためのようだ。それどころか、その内容を知ると一緒に笑ったり面白がったりした。

 この時、その頃日本で人気のあったコメディアンのジンちゃんこと荻枝仁のものもやった。後日、日本に来た時分かったのだが、あの時、彼女と一緒に船内にいたのはジンちゃんだった。海中に投げ込まれた彼は、何とか日本に辿り着いたが、芸能界を去ってしまった。釣りをしていた時に波に攫われたショックで精神を病んだためとされているが、実際は、始終、北の人間に監視されていたためだった。彼が拉致被害者であることは、未だに日本では知られていないことだった。

 星香の演技力は、親愛なる指導者同志に伝わり、この国最高の芸術団体である中央芸術団に入ることになった。彼女のいた部署は全員日本からの帰国者で、時たま日本語で会話することもあった。

 彼女にとって有り難かったのは、ここでは演劇に専念できたことだ。そして、林哲男という助監督が何かと支援してくれた。彼といる時、彼女は蒜田監督と過ごしているような気がした。助監督は蒜田よりずっと若く、容貌も性格も全く違っているのに。

 助監督のお陰で憧れだった香港スター・ウォーリー=ラウにも会えた。彼女の半生で最も幸運な出来事だった。

 だが、その後は坂を下るように自分が堕ちて行くのを感じた。

 37号室への移動はまだ良かった。ここでは、観客が限られているとはいえ、シェークスピアや欧米の作品を演じ、韓国の歌だけを歌っていればよかったのだから。この時は林助監督もいてくれた。

 その後は、また招待所に行き、今度は工作員教育を受けさせられた。

 彼女は工作員という役を、現実世界を舞台に演じるのだと思うようにした。そうしないと恐ろしくて堪らないのだ。彼女は、北朝鮮から外に出て各地で“工作活動”に従事したが、それらについては心の奥に埋めた。

 久し振りに母国の地を踏んだ時、彼女は養父母のもとには行かなかった。監視の目があったせいもあるが、かつての純真な女子高生ではなくなった自分は監督夫妻のもとに行く資格がないように思ったからだった。

 彼女が“女優”を辞めようと決心したのは、外川拉致担当大臣の家の家政婦になった時だ。そして、日本に正規に帰国していた東大生さんこと荷田勲講師に相談をしたのだったが、荷田講師と細江会長の努力の甲斐なく、彼女は“舞台”から降りることが出来なかった。

 韓国の空港で入国審査の際、安全院職員に捕まった時、彼女はほっとした。これでやっと“舞台”から降りることが出来るのだから。

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