第19話 天才女優“金輝星”(11)
結局、俺は「花ぐるま」の社長になった。
俺が日本に戻って数週間後、哲子さんが旦那さんの山田さんを連れて来た。父の側近だった山田さんの子息である。
三人で父の思い出や哲子さんと山田さんが結婚に至った話などをしているうち、俺の今後についての話題になった。この時、山田さんが、
「いっそ、“花ぐるま”の社長になって下さいよ。もともと、君のお母さんの店なんだし、俺が社長をするのは君が帰ってくるまでっていう条件だったんだから」
と言い出した。
もちろん、俺は断った。そんな重要な仕事俺に出来るわけが無い。
「大丈夫だよ。俺にだって出来たのだから。もうそろそろ、外回りに出たいんだ。会社に閉じ籠りきりの仕事はもう飽き飽きだ」
山田さんはしきりに俺に社長になることを勧めた。営業マンだった彼は、取引先や各店舗をまわったり、新しいメニューを考えたりする仕事が好きなのだ。
「私にはお飾りの社長しか出来ませんよ」
俺がこう応えると
「それで十分。うちのスタッフたちは超優秀だから君は文字通り社長の椅子に座っているだけでいいんだよ」
こうして俺は山田さんから社長の座を禅譲されたのだった。
山田さんは取締役営業統括部長となり、毎日、楽しそうにあちこちを飛びまわっている。そんな夫君を哲子さんは嬉しそうに見ている。
ちなみに哲子さんはハヤシ食材㈱の会長である。
俺は社長になったが、山田さんがいったように実務は周囲がやってくれた。本当にお飾りの社長だが、少しは経営のことを知ろうと週に2~3回簿記会計の学校に通ったりもした。
俺が北朝鮮で暮らしていたことは、哲生さん夫婦と哲子さん夫婦、父の側近の朴おじさんと山田さんのお父さんしか知らない。外部には、大学卒業後、世界放浪の旅に出た後、途上国で暫く働いていたということになっている。こうした経歴に疑問を持たれることもなく、俺が昨今の日本の事情に疎いことを怪しむ人は特にいなかった。
また、日本に帰った事情が事情だけに今に至るまで結婚はしていない。日常生活では、家政婦さんが家事一切をしてくれるので別に不便はなかった。哲生さんや哲子さんという親族もいるので、正月にはそれぞれの家族が集まるので、孤独を感じることはなかった。
こうして歳月が流れ、俺も少しづつ日本社会に馴れ、社長業も板についてきた。相変わらず実務は周囲にまかせっきりだが、有能な従業員たちのお陰で「花ぐるま」の業績は安定している。平穏な生活にすっかり馴染んだ俺にとって北での生活は遥か昔の出来事になってしまった。
さらに月日は流れ、世は新世紀を迎えた。
世紀末の騒動が一段落し、人々の間に21世紀という言葉が馴染んだ頃、日本社会を引っ繰り返す出来事があった。
北朝鮮が日本人を拉致したことを認め、その被害者たちが帰国したのである。北が“人さらい”をしているらしいという話はかなり前からあった。ただ、関心を持つ人はほとんどいなかった。俺自身も半信半疑だったので、まさか本当にやっていたとは思わなかった。
このニュースを聴いた時、俺の脳裏には金輝星の面影が浮かび上がった。
そうした折、TVを見ていたところ、画面に金輝星が出てきたのである。俺は彼女の顔を注視した。演劇界の重鎮・蒜田監督と妻の女優蒜田はるこ女史がうちの子も拉致されたに違いないと言って娘の写真を持って情報番組に登場したのである。
制服姿で長い髪を垂らした女子高生は間違いなく金輝星だった。家族全員を惨殺された演劇少女 輝田星香<きだせいか>を夫妻は養女にしたそうだ。
俺は父が以前言っていた言葉を思い出した。「北陸で臨海学校に来ていた舞台監督と女優の娘が行方不明になった」、またウォーリー=ラウの妻・マリコ夫人の言葉も脳裏を掠めた。「日本人としか思えないのよね」。そして、37号室勤務の時、日本の訪問団の前で歌い終えた時、涙を流していた彼女の姿…。
家族から引き離され、見ず知らずの土地に一人放り込まれた金輝星こと輝田星香はどれほど心細く、辛かっただろう。時々、ほんの一瞬みせたあの切なげな表情こそ、彼女の真の姿だったのだ。
北朝鮮の人々にとって皮肉なことに、彼らが愛し、絶賛したのは、当局が忌み嫌い、憎悪の対象とした日本人娘だったのだ。
これが喜劇でなくて何であろう。
俺は蒜田監督夫妻に金輝星のことを伝えようか迷ったが、結局、知らせなかった。俺が知らせたところで意味がないように思えたからだ。俺の知っているのは十年以上前のことで、今、彼女がどうなっているのは知らない。それでは何の役にも立たないだろう。と同時に、これ以上、哲生先生や哲子さん、その他関係者たちに迷惑が掛かるようなことは控えようと思ったからだ。
それから更に数年経ったある日、新聞の片隅に「身元不明の水死体、特定失踪者・輝田星香さんと判明」という記事が載った。金輝星が死んだ?! 何の根拠も無いが有り得ないと思った。彼女は今もこの世界のどこかで生きている、俺にはそう思えるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます