第18話 天才女優“金輝星”(10)
その日のうちに退院した俺は、哲生医師が用意してくれたマンションに移った。俺はこれからここで生活するのだ。
夜、哲生医師と哲子さんがマンションに来てくれた。全てが上手く行ったそうだ。視察団一行は日本での埋葬を認め、明後日に帰国するそうである。その間、東京で例の如く、飲ませ食わせ、楽しませ、買物までさせてやるそうだ。彼らは御機嫌で帰国することだろう。
俺は改めて二人に、感謝の言葉を言って頭を下げた。北に行ってから今日に至るまでどれほどの金が俺のために費やされたことだろうか。
「…お金のことは気にしないでね。これは、みんな哲男くんのお金なんだから」
俺は哲子さんの言葉の意味が分からなかった。これを察したかのように哲生医師が説明をしてくれた。
母が亡くなり、俺が北に行った後、父は母がやっていた店「花ぐるま」を買い取り自身の会社の傘下に入れて新たに開店させたそうである。最強の経営陣とスタッフで運営された「花ぐるま」は成功し、年間の利益は大変なものだそうだ。
俺は「花ぐるま」の大株主兼取締役の一人となって相応の収入を得る形になり、それを俺のために使っていたそうだ。
「平壌でも君は自分の金で暮らしていたんだよ」
父は何から何まで気を使ってくれたんだ…。ありがたいことだ。
「…それにしても、もう少し早く、せめて父が生きている間に帰国させたかったわ。今わの際に間に合わなかったのが今も心残りで」
哲子さんは悔しげに言った。
「父は本当にあなたを北に行かせたことを後悔していたわ。それは私たちも同じ…」
―私たちも同じって?
疑問に思ったのが顔に出たのだろうか、哲子さんが、それに答えるように話を続けた。
「実は、私たちはあなたが子供の頃から知っているのよ」
以前、哲生先生がまだ大学生の時、デパートで父と母と俺が一緒に買物をしている姿を見たそうである。
哲生さんと哲子さんは、父に愛人がいることを薄々感づいていたそうだ。
父と本妻さんはもともと折り合いが悪かったそうである。これほど気が合わないのに、どうして一緒になったのか不思議に思ったそうだ。
父に対する不満を解消するように、本妻さんは総盟の活動に専念した。そのため、家事は全て家政婦さんに任せきりだったそうだ。加えて彼女は相当見栄っ張りらしかった。
二人の子供を民族学校に入れられなかった彼女は代わりにセレブの子供たちが行く私立の学校に二人を通わせた。そして、そこの生徒たちがやっているような習い事をやらせ、家庭教師もつけた。お陰で二人は学校時代はずっと優等生だった。
父にも哲生さん兄妹にも普通の家庭生活は無縁のものだった。
それゆえ、父に別に家庭があったとしても既に成人になっていた哲生さん、哲子さんは腹も立たず、愛人とその息子を憎むこともなかった。
それよりも二人は異母弟の存在に興味をもったそうだ。
父の側近の一人である、俺もよく知っている山田さんを問い質して俺たち母子の居所を知り、時々、様子を見に来ていたらしい。
「よく、父とキャッチボールをしていただろう? 父は子供とキャッチボールをしたがっていたのでとても楽しそうな顔をしていたよ」
哲生さんが口を挟む。
「高校の入学式の時だったかしら。学校の門の前で親子三人で写真を撮ってもらっていたでしょう。父はその時の写真を手帳に挟んでいたわ」
二人は楽しそうに俺の子供時代の話をしてくれた。それを聞きながら俺は胸が熱くなった。
「…だから、母が君を北に行かせると行った時は驚くというより怒りが湧いてきたよ」
哲生さんは再び口を開いた。
「いくら愛人の子で目障りだと言っても何もあんな場所にやる必要はないだろう」
在日社会では既に北がとんでもないところであることは広く知られていた。そんな場所に可愛い異母弟を送ることは出来ない。
父と哲生さん、哲子さんは本妻さんを説得したが無駄だった。そして、俺が向うに行ってからは、日々、俺のことを案じ、絶対に日本に連れ戻そうと思っていたそうだ。
自分は何と良い家族を持ったのだろうか! 俺は二人にいくら感謝しても足りなかった。そして、俺は天涯孤独の身の上ではないのだと思ったのだった
俺の子供時代の話が一段落すると哲生さんが、次の用件を切り出した。
「さて、君はこれから何をしたい?」
そうだ、俺は日本でこれから生きていくのだ。
大学を出てすぐに北に渡った俺は日本社会で働いた経験は皆無だった。北でしてきた仕事などこの日本では何の役にも立たないだろう。さあ、どうすべきか…。
「まあ、ゆっくりと考えればいい。まだ、日本に帰って間もないことだし。経済的なことは心配しなくても大丈夫だよ」
「そうよ、焦る必要はないわ。哲男くんの人生なんだから、あなたが納得出来ることをすればいいのよ」
戸惑っている俺に二人は優しく言ってくれた。
だが、いつまでも二人に頼ってばかりもいられないだろう。出来るだけ早く自立してこれ以上、二人に負担を掛けないようにしなくては。
俺は新たな人生を歩む決意をしたのだった。
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