第17話 天才女優“金輝星”(9)
遂に俺は37号室勤務からの移動を申し出た。金輝星が去ってから一年くらい経った頃のことだ。この国で自分から仕事場を変えたいというのは難しいことらしいが、俺の場合は簡単に受け入れられた。新しい職場は古巣の中央芸術団だった。
久し振りに芸術団に出勤すると、早々に新しいプロジェクトを任じられた。女性ポップスグループの立ち上げである。妙香山音楽団と名付けられたそのグループを金輝星のように歌えるようにすることである。
北の各地方から選抜された女性たちは確かに歌唱力は抜群だったが、それ以上のものは感じられなかった。しかし、何とか格好だけでもつくようにしてデビューさせた。それなりの人気を得たが、金輝星ほど人々の心を捉えることは出来なかった。
芸術団に戻ってすぐに父と会った。37号室勤務の時は時間の融通がきかず、思うように面会が出来なかった。
久し振りにあった父がまず伝えたのは本妻さんの死だった。
総盟の活動に熱心だった彼女は、過重労働の末に世を去ってしまったそうだ。だが、本人は本望だっただろうというのが父の思いだった。本妻さんの葬儀は総盟主催で行われ、立派なものだった。そして、遺骨は平壌の愛国功労者墓地に葬られた。全て本人が生前に望んでいたことだったそうだ。
ここまで話し終えた父は、
「やっとお前を日本に連れ戻す日が来た。もう少し待っていてくれ」
と言った。父の最期の言葉だった。
数ヵ月後、俺のもとには父の代わりに“朴おじさん”が訪ねてきた。幼い頃から知っている父の最側近である。彼が父の死を伝えてくれた。そして、力強く言葉を続けた。
「日本に帰る準備が整いました」
その日、俺は平壌の空港から北京行きの飛行機に乗った。朝鮮遊戯文化視察団の団長として日本に行くのである。
父が亡くなった後、俺は新しく平壌にオープンするホテルのゲームセンターの支配人になった。父が生前に始めた事業の一つだった。ゲームセンターの施設や経営ノウハウを知るために俺は関係者と日本に視察に行くことになったのである。
北京に着いた我が視察団一行は日本の旅客機に乗り換えた。4時間もしないうちに成田空港に着き、日本側の関係者たちの出迎えを受けた。
「団長、お加減が悪そうに見えますが…」
日本側のメンバー一人が声を掛けた。
「久し振りの長旅に疲れて」
俺は応えた。
「私の知っている病院に行って精密検査でも受けられては」
日本側関係者の提案に従って俺は空港からタクシーに乗って病院に行き、他のメンバーは東京のホテルへと向かった。
川端病院というところに連れて行かれた俺は、そこの特別室で一夜を過ごした。
翌朝、病室に白衣を身につけたこの病院の医師らしき中年男性と上品な中年女性がやってきた。
「よく眠れたかい?」
医師は訊ねた。
「はい」
俺が答えると医師は
「計画は大成功したよ」
と嬉しそうに言った。
“計画”とは俺を日本に帰すことだった。
まず、俺を北朝鮮から出国させる必要があった。父は俺を日本に来させる口実として訪日団を作った。名目はなんでも良かった。例の如く、関係部署に金をばら撒き、それらしきものを作らせた。交通手段も北のものは出来るだけ使わないようにと北京経由にして日本の旅客機に乗るようにしたのだった。
「自己紹介がまだだったね」
医師はこう言いながら言葉を続けた。
「私は川端哲生。林長吉の長男でこの病院の院長、これは妹の山田哲子。私は婿入りして苗字が変わったんだ」
「…朝鮮の人って姓にものすごく執着するって聞きましたけど」
哲子さんは、ともかく長男である哲生先生が婿入りとは。
「日本国籍になるための手段だよ。父は私たちに日本の国民としてこの地で生きていくことを望んでいたんだ。だから子供たちは民族学校にも入れず、所謂、在日関係の組織とは敢えて関わらせないようにしたんだ」
俺は何て応じていいか分からなかった。
「父の林長吉という名も本名ではないんだ。少年時代、日本に働きに来た父は雇い主の日本人が朝鮮の名前は呼び難いからといって日本風の名前をつけたそうだ。役者みたいにいい男だから役者風の名前がいいなとかいってこの名前になったらしい。父はこの名前が大そう気に入って戦後もずっとこの名前を使い続けた」
相変わらす、俺はどう答えていいか分からず黙っていた。
「さて、最後の仕事をしなくてはな。北朝鮮人・林哲男〈リムチョルラム〉氏の死亡診断書の作成だ。視察団がもうじき取りに来る。これで林哲男という北朝鮮人はこの世からいなくなるんだ」
こう言いながら哲生医師は出て行った。部屋に残された哲子さんが話を継いだ。
「一応、遺骨も用意したのよ。視察団には、日本で生まれ育ち、日本に家族の墓があるのでそこに埋葬したいと言う予定だけど、もし駄目だといった場合に備えてね」
計画は完璧といえるだろう。ここまでするのにどれほど金が掛かっただろうか。哲子さんたちにとっては、愛人の子である俺は目障りな存在に過ぎないのに、ここまでしてくれたとは。俺は心から感謝の言葉を言った。
「何言ってるのよ。私たちはあなたの大切な青春時代を奪ってしまったのよ。日本人である仲村哲男くんは、北朝鮮なんかに行く必要なんて全くないのに…。あの国であなたが苦労しているのではと思うと…」
哲子さんの声が詰まったので、俺は明るい口調で言った。
「父さん…じゃなかった、社長のおかげで俺は苦労などしませんでした」
本当のことだ。父の経済力で俺は普通の日本からの帰国者とは比べものにならないくらいの待遇を受けていたのだから。
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