第13話 天才女優“金輝星”(5)
「ところで、お前のとこの金輝星という女優は大したものだな」
父は彼女の舞台を見たようだった。
日本からの訪問団(在日、日本人問わず)のスケジュールには、必ず市内観光と公演観覧が入っている。観光は、凱旋門、国立図書館や練光亭、大同門等、新旧の名所を観覧し遊覧船で周遊する。公演はたいてい音楽会である。
父のように仕事でたびたび来ている人間は、このようなことはあまりしない。今回は時間があったので上演中の公演を見たそうだ。
「はい、今、朝鮮で一番の女優といっても過言ではないですね」
「芝居の内容はどうってことは無いがあの娘はいいよ、本当に」
父は輝星をしきりに褒めていた。彼女の舞台を手掛けている俺は自分が褒められているようで嬉しかった。
ひとしきり彼女の話で盛り上がり、その後、取り止めの無いことを話しているうちに面会終了時間となってしまった。
俺たちが部屋を出ると
「ハヤシ社長!」
と日本語で呼びかけられた。振り向くと痩せてくたびれたような格好をした男が立っていた。
「新井です。お久し振りです」
男は頭を下げた。
「…新井さん、こちらにいらしてたのですか」
知り合いだったようで父も頭を下げた。
この様子がいかにも日本的で何かおかしかった。
「ご家族の皆さんはお元気ですか?」
父が型通りに挨拶すると
「女房が身体を壊しまして……」
と新井さんは口ごもる。
父は懐から財布を出すと日本の一万円札を何枚か取り出して彼の手に握らせた。
「薬代の足しにでもして下さい」
父が言うと新井さんは何度もお辞儀をし、「いつか絶対お返しします」と言って去っていった。
「あの人を知っているのですか?」
俺は父に訊ねると、
「在日の企業家たちの集まりで知り合ったんだが、このところ顔を見なかったのでどうしたんだろうと気になっていたんだ。まさかここに来ているとは思わなかった」
新井さんも俺と同じく事情があって“帰国”したのだろう。生活に行き詰まったけれど日本にもこの地にも頼れる者が無いため父を訪ねたのだろう。
後日、日本に帰ってから知ったのだが、このようなことはざらにあるそうだ。中には、民族学校の修学旅行で行った生徒たちのところにまで行って無心した人もいたそうだ。日本と違い国が貧しいので全ての国民に十分な社会的な支援が行き届かないのだろう。生徒たちもそこらへんはよくわきまえていて、小遣いの一部をあげるそうだ。
この国では、よほどの上層階層以外、よい生活をしているのは俺たちのように国外にいる親族からの援助を得ている人間である。平壌にいる連中は日本の親族からで、北方に暮らす人々は中国にいる親族からだ。当時の中国は貧しかったが、農作物はそれなりにあった。自分たちで作った野菜や雑穀等をトラックやリヤカーに積んで北にいる親族に持っていってやるくらいのことは出来たそうだ。
新井さんの後姿を見送った後、俺たちは食堂に行き、案内員を引き取った。すっかり御機嫌になっている二人は、ここでまた御土産を受け取り、“お小遣い”まで貰って浮かれていた。俺はそんな彼らと共にホテルを離れた。
そういえば、金輝星のところには親族が来ることも親族からの仕送りも無かった。今、思えば当然のことだが、当時は彼女も“訳有りの帰国者”なのだろうという程度にしか思っていなかった。
翌日、いつものように仕事場に行くと事務室は騒ぎになっていた。
芸術団では年一回、地方巡回公演を行うのだが、そのメンバーの中に金輝星が入っていないことに抗議する電話やファックスが殺到していたのである。
俺は団長のところに行き、彼女をメンバーに加えてはどうかと提案した。
当初、劇団側も彼女を巡回公演に連れて行くつもりだったが、“上”からの許可が下りなかったそうだ。地方巡回に行けるのは相応の経歴を持つ者という慣例になっているが、金輝星は劇団公認の実力を持つ俳優である。巡回に参加しても問題はないと思うのだが、上には上の方針があるのだろう。こういう時、この国の体制は融通が利かないと思ってしまう。日本なら簡単にいくのに…と。
俺は団長の部屋を出て、次回作準備のために資料室に行った。今日も金輝星はそこにいた。次作品がまだ決まっていないため、彼女は演劇全般に関する書籍を読んでいた。熱中している彼女は、俺が近付いても気がつかなかった。背後からそっと覗いて見ると日本語の書籍だった。この国には演劇(いやその他の分野でも)に関する良書があまりない。そのため、外国の関連書に頼ることになる。ここには演劇関係だけだが、日本語や英語等の本があるが、一般の学校や図書館にはこの国で発行された本以外はないそうだ。このことも日本に帰ってから知った。
北にいたといっても俺は演劇関係の世界しか知らない。一般社会のこと、特に強制収容所や闇市等については日本に戻ってから、関連書籍や脱北者の証言、日韓のNGO団体の人々の口を通じて知ったのである。
それは俺に限らず、金輝星もこの芸術団にいる日本帰りの人々も同じではなかろうか。
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