第11話 天才女優“金輝星”(3)

 久し振りに日本から父が訪ねてきた。この地で合弁事業をしている父は普通の帰国者の親族よりも頻繁に訪れることが出来る。通常は3ヶ月に一度くらいの割合で訪ねてくるが、今回は仕事の都合で間隔があいてしまったそうだ。俺の方も芸術団の仕事が立て込んでいたので差し支えなかったが。

 父は来るたびに「すまない」と謝罪の言葉を口にする。父は俺が北に来ることに大反対だった。だが、当時の俺はこの選択以外に無いように思っていたのだ

 俺は“嫡出子”ではない。母は父の“愛人”だった。母のやっていた飲み屋の常連客だった父と親しくなり俺が生まれたのである。世間にざらにある話である。

 父に家庭があることを承知で子供を産んだ母は自力で育てようと決心した。父は、そんな母の気持ちを尊重しつつも、父親らしいことをしたいといって誕生日やクリスマスのプレゼント、幼稚園や小中学校で必要な諸費用、高校の学費まで出してくれた。また参観日や運動会等にも時間が許す限り来てくれた。

 高校まで公立に通った俺は、大学には進学せず働くつもりだった。だが、父は若いうちに多くを学ぶべきだといって大学進学を勧めた。もちろん費用は自身が出すと言った。母も俺もこれ以上、父に負担を掛けたくないと思い、学費は奨学金を借りると言った。すると父は「では、その奨学金を自分が出そう、卒業後に返済するという形にしよう」と言ったので、その案を受け入れ俺は学費の比較的安い大学に進学した。

 父のお蔭でいわゆるキャンパスライフを送ることが出来た。

 大学は、これまで通っていた中学や高校とは異なったスタイルになっている。数ある科目の中から必要なものを選んで自身で時間割を作り、サークル活動も高校の部活と比べ、本格的な内容である。

 こうして選んだ授業は思ったよりも興味深く、演劇サークルの活動も楽しかった。就職先も堅実なところに入ることが出来た。

 卒業後の進路も決まり一段落したところで安心したのか母は世を去ってしまった。母子家庭ということでいろいろ心労があったのだろう。

 母の葬儀その他が一通り済んだ時、父の本妻さんが訪ねてきた。父と同じく朝鮮出身の彼女は母とは異なり美人で知性的、威厳まで感じさせる女性だった。

 型通りの挨拶をした後、彼女は

「あなたには親族もいないことだし、共和国にいって貰えないかしら。さんざん主人の世話になったのだから、ここで恩返ししてもいいんじゃない」

 俺は本妻さんが何を言っているのかよく分からなかった。ただ、ここでの生活を整理して外国へ行き、父の仕事の支援をしろということなのだろう、くらいに考えていた。

 母亡き後、確かに俺には親族はいないし、父には世話になりっぱなしだったし、恩返しもしたい……。様々に思いを巡らしている間にも本妻さんは共和国行きを繰り返して勧めるので

「分かりました、おっしゃる通りにいたします」

と答えてしまった。彼女の威厳に負けたのである。

 俺の“共和国行き”準備はトントン拍子に進んだ。この時になって共和国が北朝鮮を指すことを知ったのだが、当時の大半の日本人同様、俺にも北朝鮮に関する知識はほとんどなかった。

 父がやってきたのは本妻さんが来てから数週間後だった。

 父は俺の北朝鮮行きにひどく愕き、何とか取り消すようにすると言った。その翌日には本妻さんの代理とかいう若干強面の男が来て、お前の共和国行きは決定済みだから、もうどうにも出来ないと言い渡された。

 数日後、俺の家で父と本妻さんが鉢合わせになり、俺の共和国行きで激しい口論となった。

 俺はふと、生前母がよく口にしていたことを思い出した。

“私たちは本妻さんとそのお子さんたちから父親の一部分を掠め取ったのよ。そのことは自覚しないとね”。

 本妻さんに従わなければならない、こう思った俺は

「私は共和国に行きます。そう決めました」

と二人の間に入ってきっぱりと告げた。本妻さんは喜色満面となり、父親はがっくりとうなだれた。

 その後、卒業式を終えた俺は本妻さん側が言うままに総盟すなわち在日本朝鮮人総聯盟が主催する帰国準備教室に通った。そこでは朝鮮語を中心に北の制度や朝鮮の歴史や文化を教えていた。

 世間は新年度が始まり、町には新しいスーツに身をつつんだ新社会人たちが大勢行き交っていた。俺も本来ならば、その一人になるはずだった…。彼らの姿を眺めながらそんなことを時々思ったりもした。

 数ヶ月の帰国準備教育が終わり、俺はいよいよ“共和国”へと旅立つことになった。当初気掛かりだった言葉も何とか日常生活なら送れるレベルになった。

 元山行きの北朝鮮の船に乗るために新潟へ行く俺に父は付き添ってくれた。

 新潟港に着き、乗船時間が近付くと俺は、辛そうな表情を浮かべる父に

「向うは社会主義国なので自分みたいに親族の無い者は国で面倒を見てくれるらしいです。だから何の心配もないですよ」

と帰国準備教室で習った台詞を出来るだけ明るい声で言った。すると父は

「お前の暮らすところはこの日本だ。絶対に連れ戻してやるからな」

と決意に満ちた口調で言って俺の手を握った。

 出港の合図がなり、俺は船に乗った。甲板から父を含む多くの見送り人たちに向かって俺は手をふった。

 船はゆっくりと日本の地を離れていった。


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