第9話 天才女優“金輝星”(1)

 俺が〝金輝星<キムヒソン>〟という女優に会ったのは、北に来てから二、三年経った頃であろうか。当時、俺はこの国の芸術界をリードすると云われている中央芸術団に所属していた。

 彼女は、文字通り突然、現われた。

 ある日の朝会の時、団長が一人の少女を連れてきた。

「諸君、新入団員の金輝星同志だ」

 こう紹介されると彼女は

「よろしくお願いします」

と言いながら頭を下げた。特に目立った特徴もない娘だった。高い位置で纏めて垂らす髪型がこの国の女性たちとは異なっていた。

――この娘も日本帰りだろう……。

 日本から来た人間はやはり違うのである。

 周知の通り、かつて日本が朝鮮を統治していた時、内地と呼ばれていた日本本土に多くの朝鮮人がやって来た。遊学、職探し、或いは戦時動員等々、その経緯や動機、目的は様々だった。

 日本の敗戦により朝鮮は独立し、日本にいた朝鮮人たちは故郷に戻っていった。だが、中にはそのまま日本に残った人々もいた。数年後、朝鮮戦争が起こると戦渦を避けて日本にやって来る人々が現われた。こうして、日本には数十万人の朝鮮人が暮らすようになった。

 戦争が一段落して数年経った頃、“帰国運動”が起こり十万人近くの朝鮮出身者及びその家族が北朝鮮へ渡っていった。初期には数万人単位で行った帰国者も、かの国の実情が

伝わると共にその数は激減した。それでも、その後約20年間続いていた。

 こうした事情でこの国には日本で生まれ育った人間が結構いるのである。

「さて、今回の演目だが、林同志…」

 団長に呼び掛けられて俺は我に返った。

「はい、今回は偉大な将軍の満州での抗日の闘いを描いたものです…」

 俺は昨夜書き上げた新作のストーリーを発表した。すると

「輝星同志にも出てもらおうと思うのだが、林〈リム〉同志どうかね」

 団長は思い付いたようにこう提案した。

「では、将軍を出迎える村娘の一人ということで如何でしょうか?」

 俺は慌てることなく答えた。

「うん、よかろう。輝星同志、そういうことだ」

 団長が輝星に向かっていうと

「わかりました」

という返事が聞こえた。

 その後、それぞれの配役が発表され、台本が配られ、その日は解散となった。練習は翌日からであった。

 団員は稽古場から出て行った。輝星もそれに続いた。

 団員たちが出払ったの確認した後、俺は団長に訊ねた。

「彼女は何者です?」

「さあ、私も知らない。昨夜、いきなり連れて来られたんだ。親愛なる指導者同志が地方視察中に見つけ出されたということだ」

“親愛なる指導者同志”が出て来ると、それ以上は何も言えない。この国は、彼を中心に成り立っているのだから。


 翌日から稽古が始まった。俳優たちは、ノルマをこなすように台詞を読み、裏方も決められたことを淡々とこなす、いつもの光景だった。

 この国の演劇、いや音楽、文学、その他全ての活動は、偉大なる将軍と親愛なる指導者同志を讃えるために存在する。それゆえ、毎回、同じネタをまさに手を変え品を変えて上演する、やる方も見る方もうんざりしていた。だが、それを表に出すことはしない。そのようなことをしたら自身はもちろんのこと、親兄弟、友人知人たちまでも収容所送りになってしまうからだ。

 さて、台本の読み合わせは、新入りの金輝星の番になった。彼女は立ち上がり、

「将軍、お待ちしていました」

と言った。瞬間、その場の風景が変わった。満州の貧しい村の広場に一人の娘が立っている。彼女は伝説の将軍を待っていた。彼こそが自分たちをこの境遇から救い出してくれる。その方が今、目の前にいらっしゃるのだ…。輝星はたった一言でこれだけのことを描き出したのである。

 その場にいた人々は、輝星を注視していた。将軍役のこの国の最高クラスの俳優はこの後の台詞が出てこなかった。しばしの沈黙の後、手をたたく音がした。拍手は稽古場にあふれるほどになった。団員たちは観客の一人になってしまったのであった。これをきっかけに稽古場はかつてないほど熱気を帯びてきた。

 ここにいる連中は自分を含め、皆、日本からの帰国者であり、日本にいた頃から演劇関係の活動していた。そのため、当然、芝居を愛している。彼女の名演を目にして、この地に来てから忘れてしまったかつての演劇にかける情熱を思い出したようである。

「団長、彼女の台詞を増やしましょう」

 俺は横で共に練習を見ていた団長に向かって思わず言ってしまった。

「そうだな」

 彼は即座にOKを出した。

 結局、彼女は将軍を迎えた時、喜びのあまりうたを歌い、花束を渡すという役になり、公演当日は舞台の中央に一人立つことになった。

 公演初日がやってきた。幕が開き、芝居は始まった。団員たちは、いつになく気合が入っていた。それは客席にも伝わったようである。物語が中ほどにさしかかった頃、輝星が舞台に現われた。継ぎ接ぎだらけの朝鮮服に髪を一本の三つ編みにして背中にたらす典型的な昔の貧しい朝鮮の娘姿をした輝星は、将軍を迎えて喜びの歌をまず歌い、「将軍、お待ちしていました」と言いながら将軍に山で手ずから摘んで作った粗末な花束を渡した。客席からは、感嘆の声が上った。純粋な村娘に見とれてしまったのである。

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