第6話 演劇少女“五十鈴ちゃん”(3)
講演の翌日、彼は大学のカフェで五十鈴ちゃんと向かい合っていた。店内は、学生や大学の職員たちで賑わっていた。静かな場所よりもこうした人が大勢いるところの方が意外と話の内容を聞かれないものである。
服装・髪型のせいか今日の五十鈴ちゃんは、昨日よりもだいぶ年上に見えた。それでも彼女の実年齢を思えば随分若く見えるだろう。
だが、昨日の彼女は平壌にいた頃と全く変わらなかった。一瞬、時が遡ったように感じたのだ。その事を彼女に言うと、
「女優は年齢を取らないんですよ」
と笑顔で答えた。日本の有名俳優だか女優が言った名言らしいが、彼女に相応しい言葉だと彼は思った。
「飲み物はコーヒーでいいかな」
セルフサービスなので、彼がカウンターに飲み物を取りに行ってくれた。
その間、彼女はぼんやりと周囲を見た。大学関係者以外も利用可能の店なのか、スーツ姿のサラリーマン風の中年男性や主婦らしき女性もいた。
間もなく戻ってきた彼が持つトレーにはコーヒーカップ二つとケーキが載せられていた。
「女子学生たちがここのケーキが美味しいと言っていたんで…」
と五十鈴ちゃんの前にケーキ皿とコーヒーを置いた。
頂きますと言って五十鈴ちゃんはケーキを口にした。シンプルなチーズケーキだった。
「美味しい」
「だろ」
彼は笑顔で答えた。
「今の日本は美味しい物がたくさんありますね」
五十鈴ちゃんはしみじみとした口調で言うと
「まったく」
と彼は苦笑混じりに応じた。
二人は雑談をしながら、少しづつ本題に入っていった。
「…“独唱会”の後、37号室に移りました」
「37号室って、あの…」
「はい、外では悦楽組とか呼ばれているところです。でも世間で言われているようなハレムのようなものとは少し違います。確かに娼婦のようなことをするグループもありますけど、他に指導者同志やその親族、上層階級や外国のVIP向けにショーみたいなことをするグループもあるのです。私はここで歌をうたったりお芝居をしていたのです」
この答えに彼はほっとした。娼婦のようなことをさせられたのでは堪らなかった。だが、安心するにはまだ早かった。
「ここには長くいませんでした。まもなく、工作員教育を受けるようになりました」
集合住宅を去ってから工作員になって各国で活動するまでの経緯を五十鈴ちゃんは淡々と語った。
彼は応える言葉が出てこなかった。
コーヒーを一口飲み、彼女は話を続けた。
「工作員として最初に行ったのは西欧でした。その後、韓国、米国、南米、中東やアフリカ、ソ連や中国、東欧にも行きました」
―ソ連や中国のような友邦国にも工作員を送っているのか。
彼は訝しく感じた。
「私は命じられる通りに行動しました。その結果がどうなるのかは考えもしませんでした」
五十鈴ちゃんは具体的に何をしたのかについては語らなかった。
「…日本に来るようになったのは、工作活動を始めてかなり経ってからです。母国に戻っても逃げ出すことはないだろうと判断したのでしょう」
彼が何も言わないので五十鈴ちゃんは話を進めた。
「日本に来た当初は相変わらず言われるままに行動していました。しかし、今回は違ったのです」
彼女の声が震え始めた。
今回の任務は拉致問題担当大臣の自宅の家政婦になって大臣を陥れる工作の補助活動をすることだった。
海外での人質事件の解決に実績を持つ大臣は、拉致事件でもその手腕を遺憾なく発揮していた。それゆえ北当局にとっては嫌な交渉相手だった。出来ることなら除去したいと考えたのだろう。
だが、万事きちんとしている大臣には“スキャンダルのネタ”が見付からなかった。周辺の人物たち~配偶者、秘書官等にも問題が見当たらなかった。それでも彼女の上司たちはまさに無理矢理問題をでっち上げて、大臣をその役職から引きずり降ろすことに成功した。
マスコミが面白おかしく報じたこの事件は、後味の悪いものだった。
「大臣も秘書官も立派な人でした……」
秘書官の親族も特定失踪者の一人だった。彼女の親族の娘は高校生の時、買い物に出掛けたきり帰って来なかった。警察の必死の捜査にも拘わらず、その子の足取りはつかめなかった。数年後、この娘を平壌で見たとある脱北者が証言したのである。これを知った秘書官は、親族を救うために奔走し、その結果、担当大臣の秘書官になったそうだ。彼女は、ずっとその娘のことを忘れず、そして他の被害者も救うために働いてきたのだった。
「北にいる人たちのことを忘れず、助けようとしている人を私は……。」
ようやく話し終えた五十鈴ちゃんは涙を流した。これは決して演技ではないと彼は確信した。
「ずいぶん苦しんできたんだね。でも、もう大丈夫だよ。後のことは我々が何とかしよう。五十鈴ちゃんは、これからは自分のことを考えるようにすればいい」
北の政権は一介の女性の人生を破壊してしまった。彼は怒りが沸き起こった。と同時に彼女を北の軛から解き放たなくては、と思った。今後の人生を自分自身のために生きられるように。
それが帰国した自分の使命の一つだと彼は考ていた。
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