第4話 演劇少女“五十鈴ちゃん”(1)
その日の東方学院大学の講堂は、いつになく満席だった。同校では、定期的に一般市民を対象とした講演を行っているが、内容が地味な上、宣伝にもあまり力を入れていないせいか、人が集まらなかった。定員の1/3の参加者があれば上出来だった。
だが、今回は違っていた。講師が“有名人”だったためだ。だが、その知名度も学問の業績によるものではない。彼が帰国した北朝鮮拉致被害者であるためだ。彼は帰国後、母校に復学し、大学院まで進学して学問に専念した。その甲斐あって彼は一人前の研究者となり、評価されるようになった。それはあくまで学問の世界でのことであり、一般には拉致被害者の一人としてのみ知られている。
今回の講演内容は、彼の研究成果を一般向けに分かりやすく解説したもので、拉致問題とも北朝鮮とも関係が無い。にもかかわらず、これだけの人が集まるのは、彼の知名度が衰えていない証拠であろう。
講演後はサイン会が行なわれたが、これも珍しいことである。参加者の大半がサインを求めたようで長蛇の列をなした。列は順調に減っていき、最後の一人となった。
「山田五十鈴はお好きですか?」
という女性の声と共に著書が差し出された。その指には見覚えのあるビーズの指輪が嵌められていた。この指輪の持ち主は一人しかいないはずだ。彼は顔を上げた。
「五十鈴ちゃん?!」
彼が“五十鈴ちゃん”と出会ったのは、北朝鮮にいた時で平壌の某所だった。そこがどこであるか、今も分からない。木々に囲まれた集合住宅のような建物の中で、当初は日本人の大工さん夫妻、ママさん、ドナちゃんと朝鮮人の家政婦のおばさんと部長と呼ばれる中年男と暮らしていた。共に生活している間、互いのプライバシーについて話すことは禁じられていた。そのため、彼ら(といっても日本人だけだが)の本名を知ったのは、帰国してからだった。しかし、毎日顔を合わしているのだから、おのずとプロフィールや嗜好が分かってくる。いつしか、日本にいたときの職業や行動が互いの呼び名となった。当時、東方学院大学に在学中だった彼は冗談半分に「東大生」と呼ばれ、彼の妻は「店員」、大工さんの奥さんは「おかみさん」、ママさんは水商売をしていたため、最年少のドナちゃんはいつも“ドナ、ドナ”と歌っていたのでこう呼ばれるようになった。彼と妻、大工さん夫妻は、夫婦同室で、一人きりのドナちゃんは同じく独身のママさんと同じ部屋に住んでいいた。
彼らは毎日、この国に適応させる教育を受けていた。既に抵抗しても無駄であることを悟った彼らは内心はともかく、表面上は従順な態度をとっていた。
五十鈴ちゃんが現われたのは、彼と妻がここに来てからしばらくしてからだった。
ある朝、突然、人民服姿の中年女性が二十歳前後の娘を連れて来た。これからここで暮らすことになったとだけ告げられたが、彼女も自分たち同様、日本の何処かから拉致されてきた人間であることは明らかだった。
五十鈴ちゃんは、ママさんたちの部屋に住むことになった。彼女は、ドナちゃんと同室になったことをとても喜んだ。今まで同年齢の人と接する機会が全くなかったためだ。
彼女が来たことは、ここの雰囲気を変えた。明るく陽気な彼女は退屈な日常を楽しくしてくれたのである。ギャグや冗談を言ったり、時には日本の人気コメディアンの物真似をしたりした。ここに住む日本人が皆、知っている人気者だったので、一同大爆笑した。大工さんの通訳で内容を知った家政婦さんも部長も大笑いした。
彼女のお陰でいつも寂しそうにしていたドナちゃんも少しづつ笑顔を取り戻した。
彼女が来て間もない頃、こう言ったことがあった。
「東大生さん、私、女優になるのが夢なんです」
「女優っていっても、俺が知っているのは山田五十鈴くらいかな」
彼が応えると
「山田五十鈴って大女優じゃないですか!」
と彼女は大げさに言う。
「じゃあ、君は第二の山田五十鈴になればいい」
ここにいて将来の夢など語るだけ無駄に思えた。しかし、彼女は
「そうね、私は大女優になるわ」
と宣言するように言った。この時から彼女は“五十鈴ちゃん”と呼ばれるようになった。
明るく円満な性格の五十鈴ちゃんは家政婦さんや部長を含めたここにいる全ての人に愛された。こんな状況の中でも健気に生きる彼女だが、これも演技なのではと感じることがあった。時々、ほんの一瞬、ひどく悲しげな表情を覗かせるのである。
さて、五十鈴ちゃんが来て一年くらい経った頃だろうか。
その日は祭日とかで“適応教育”は休みだった。天気が良かったこともあり、代わりに庭で昼食会をすることになった。家政婦さんが料理を庭に運んでくれた。皆で地面に座って遠足のようだった。酒こそなかったが、楽しく食べ、喋ったり、歌ったりした。
そんななか、五十鈴ちゃんが一人芝居を披露してくれた。この国を批判したりする内容でなかったため、部長も何も言わなかった。というより上手いものだと誉めていた。
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