第3話 37号の女⑶

 静かな住宅街にキャリーバックの車輪の音が響き渡る。引きずるのはショートカットに古めかしいグレイのスーツをまとった中年女性だった。

 数件並んだマンションの一つに入った彼女はエレベータに乗ると②のボタンを押した。2階で降りると216号室と書かれた部屋に向かう。部屋の前に来ると、インターホンも押さずノックもせずにドアを開けて室内に入っていった。

 奥の部屋の前でようやく

「失礼します」

と言いながら扉を開けた。

 正面には大机があり、そこで書き物をしていた中年男が顔を上げた。これといって特徴のない顔立ちだが眼つきに鋭さがあった。

「今回もご苦労だった。立て続けで申し訳ないが、次の任務はこれだ」

 朝鮮語で応えた男は、女性に書類と航空券、中国のパスポートを渡した。

「ハワイに飛んでもらいたい。空港で担当の者が出迎えている」

「分かりました。」

女性も朝鮮語で応え、部屋を出て行った。

 それを確認した後、別の若い男が部屋に入ってきた。

「部長同志、彼女は何者ですか?」

 彼も朝鮮語だった。

「37号室の人間だ。」

「37号室というと……」

「ああ、日本や南朝鮮でいう悦楽組さ。」

 〝悦楽組〟と呼ばれるこの組織は、親愛なる指導者同志の側に仕える女性たちで構成され、文字通り楽しみを提供する役割を担っている。

「だが、日本や南の連中が言うように単なる肉体的な快楽のための組織ではない。演劇や音楽、文芸等、精神的な愉しみのための活動もしているのさ。指導者同志はどちらかというとこれらを楽しみにしてらっしゃる。彼女は、ここの女優だった」

「女優?」

「ああ。金輝星〈キムヒソン〉という名前を聞いたことがあるか?」

「あの名優の」

「そう、彼女が金輝星だ」

 かれこれ、もう十数年前のことである。平壌で「朝鮮の夜明け」という劇が上演されたのだが、そのなかで歌の得意な少女として登場したのが金輝星だった。たった一シーンに登場し、朝鮮民謡の一節を口ずさんだだけなのに、その姿と歌声は人々の心をしっかりと捉えたのだった。その後、彼女を主役とした演劇、映画が何作か創られたが、活動期間は1年にも満たなかった。

 忽然と人々の前から姿を消した彼女について、様々な憶測が飛んだ。重大な過ちを犯したのではないか、親族が不正を行なったか友人が脱北を企てて、それらに連座した等々……。真相は分からなかった。

「彼女は指導者同志に抜擢され37号室入りし、その後、その演技力やその他の能力が認められて、この部署に来たわけさ。」

「……なるほど。」

 伝説の名女優ならば、女子高生からキャリアウーマン、外国人まで演じられるのであろう……。

「もともと地方の農場だかの演劇サークル員だったのを視察中だった指導者同志が見い出し、自ら中央に連れてきたとかいう話だ。金輝星という名前も指導者同志が付けたとか言われている……。」

 部長同志は、ここで言葉を切った。

「彼女、金輝星が本当は何者なのか実は俺もよく知らないのだ。上から伝えられたのは金輝星という名の女優ということだけで、本名はもとより生年月日や出身地、両親の名前、出身校すら知らされていない……。」


「今度の名前は〝江木蓮〟 中国人か……」

 キャリーバックを引き摺る中年女性は、駅前のファストフード店で、部長から渡された書類をめくりながら呟いた。

 これまで、彼女は様々な名前を名乗った。女子高生・朴水香、派遣社員・新井かおり、女優の金輝星……。

 そして、さまざまなところにも行った。平壌、ソウル、沖縄、ブラジル、北海道、上海、モスクワ、ヨーロッパ諸国…。確か中東へも行ったな。

 語学、パソコン、会計、薬学、看護学、家政学、各種料理等から、水商売のノウハウまで、様々な技能技術も身につけた。護身術に銃の扱いも出来る。気が付いたら、何でも出来るスーパーウーマンになっていた。

 だが、これは彼女が望んだことではなかった。すべて〝上〟の意思によるものだった。女子高生となり、日本の高校内に韓国文化サークルを作って民族学校と友好関係を築いたのも、派遣社員となって機械メーカーに入り込み各種データーを持ち出したのも、沖縄でクラブを経営しながら米軍の動向を探ったのも〝上〟からの指示によるものだった。ブラジルでもヨーロッパでもソ連や中国でも〝上〟の命じるままに動いた。これらの行動が正しいのか間違っているのかなどは考えなかった。彼女の思考の中には〝判断〟というものが無かった。

 彼女は既に自分自身を失くしてしまった。それゆえ、今の彼女には自分が何者なのか、などということは興味がなかった。

 ファストフード店を出た木蓮は、電車に乗ろうと駅舎に入った。何気なく壁を眺めると「特定失踪者の方々」と書かれたポスターが目に入った。これまで何度とも無く目にしていたがいつも見過ごしていた。だが、今回は立ち止まって注視した。何とそこには、胸の奥底に埋めた名前があったのである。耳に馴染んだ、この世で一番愛しい名前が、小さな顔写真とともに。

彼女は呆然と立ちつくした。

 親族が全て亡くなった今、彼女のことを憶えている人間などいるのだろうか。いや、彼女が戻ってくることを願っている人がいるからこそ、こうして彼女の名前が出ているのだ。それは、恐らくこの世にたった二人きりだけど。

――ああ……。でも、この子はもうこの世には存在しない。

 演劇部のエースで女優を目指していた女子高生を、彼女は、自らの手で葬ってしまったのだ。

 母国にはもう彼女の居場所はない。

 ポスターの前で、木蓮は人目も憚らず、ただ、ただ涙を流すばかりだった。



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