第52話 不確かな邂逅



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 先日取り壊しの決まったばかりのビルがあった。入り口には黄色いテープが幾重にも張られ、人の出入りを拒む。前を通り過ぎていく者達は誰も気づいていないが、そのテープは一部分が切り裂かれ、侵入者があったことを人知れず告げていた。


 冷気の強い冬の夜だった。外には人通りもあるのに、そのビルの二階だけは水の底のように静まり返っている。


 外を見下ろすガラスは全て割れ、破片が窓際に敷きつめられている。部屋に並んでいたはずのデスクや書類は、中心からの突風に吹き飛ばされたかのように部屋の四隅に転がっていた。


 蛍光灯も割れているから部屋に明かりはついていない。時折表を走る車のライトが室内の端から端へと駆けていくだけだ。


 その中央に、光を遮る影があった。


 広い空間にポツンと置かれたチェアーに、大柄な男が足を組んで座っている。黒く分厚いコートを羽織り、乱れ広がる長髪を強引に一つ結びにしていた。


 その顔立ちはおよそ日本人ではない。硬く引き結ばれた口元と高い鷲鼻が漂う気難しさを冗長させている。まるで一つの影のような男は、落ち窪んだ眼窩がんかだけを不気味に光らせていた。


 そんな死の気配に満たされたフロアへと、不躾にも軽やかな足取りでやってくる人間が一人。


 現れたのは小学校下級生くらいの幼い少女だ。艶やかな黒髪をなびかせ、鼻歌まじりにフロアへ通じる扉を開ける。


「こんばんは、はじめましてミスター。少しお話いいかしら」


 謎の男を恐れるでもなく、童女はやけに大人びた表情でにこやかに声を上げた。あまりに空気を読まない明るい声音が部屋に響く。傍から見ている者がいたならば慌てて少女をいさめたであろう。


 しかしこの場には、少女と不気味な男の、二人しかいない。


「なにようだ?」


 返ってきたのは予想外に流暢な日本語だった。男が視線だけあげて少女に問う。かすれ気味ではあるが、見た目からは想像できない若々しい声だ。男のまとう雰囲気からすれば誰か別人の声を借りているのかとすら勘ぐってしまう。だが発されたのは確かに男の喉からであり、少女はそれを最初から承知していたかのように、悠々と男へ歩み寄った。


「あなたにいいお話を持ってきたの。地味だけど、将来有望な稀癌を一つ、知っているわ」


Gentilジャンティー。なるほど娘、お主は異常におかされてはおらぬが、人とはどうしようもなく異なっておるようだ」


 少女の言葉にぴくりと反応した男が、顔を上げて少女を捉える。その口元には荘厳な笑みが張り付いている。


『頭がおかしい』と遠回しに言われたにも関わらず、少女は気分を害するでもなく己の言葉を続けた。


「成長すれば、きっとあなたの求める条件を満たすわ。どうかしら、


 不敵な笑みに男は少しだけ態度を改める。少女が見た目通りの手弱女たおやめではないと理解したようだ。幾分か眼光を和らげた。


「吾をどこで知ったかも、なにが目的かも知らぬが、そうだな情報はありがたい。その幼げな容姿に免じて素直に礼を言おう」


「あら、思ったより紳士なのね、あなた」


「理性的な生き物ならば、子どもを無暗むやみに襲うことはするまいよ。アイツにも止められておるしな」


「それはよかった。ところでその、あなたの相棒はどこかしら」


「――――ほう?」


 それでまた空気が凍った。男の視線に敵意と警戒が混じる。まとう闇が深まり、大気が震えているかのようだ。


「お主、何者だ?」


「さあ? 見た目通りのかよわい少女か、それとも毒まき散らす天使の手先か……。貴方にはどう見えるかしら」


 少女がお道化どけて言ってみせる。そこに真実のないことは明白だ。しかし男は生真面目にかぶりを振り、少女の小さな体躯を指差した。


「見えぬよ。吾に見えるのは魂願と稀癌のみ。お主の姿など興味がない。ただ貴様、その魂……よもやアイツと同じ――――」


 言葉は最後まで意味を成さなかった。男の視線は少女から離れ、その背後に流れていったからだ。つられて少女も振り返る。そこには細身な人間の姿があった。


 真っ白な髪をフードに隠し、買い物袋をぶら下げた人の良さそうな少年。歳は十五、六歳ほどだろうか、微笑みの浮かぶ明るい瞳をしている。


「あれ? 師匠にお客さんとは珍しいですね」


 声変り前の子どもの声が楽しげに言って、気負うことなく男へ近づいていく。少女の隣まで来た少年は彼女を見下ろし、少し首を傾げた。


「おかしいな。知らないはずなのに、その魂、覚えがあります。そうか、そういうことですか。――――どうも、はじめまして謙譲けんじょうの罪人、全知・不全能の人」


 にっこりと、愛想よく笑う少年に少女もまた笑みをつくる。


 そうして古い友に語りかけるように、少女は懐かしさを漂わせて華麗にお辞儀をしてみせた。


「ええ、お久しぶり。お変わりないようで残念だわ、――神の暴食をいさめし節制の罪人、不老・不死の貴方あなた


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 一番古い記憶を思い出す。

 倒れる自分の身体と、視界に映る長髪の女性。女性の顔は真っ赤に染まり、眼からは透明な液体が絶えず流れ出している。それが自分の母親で、全身を走る鈍い痛みの創造主でもあると、今の成長した私には分かる。

「いらなかった。欲しくなんてなかった。なんで私が苦しまなくちゃいけないの? どうして私ばかりこんな目に遭わなくちゃいけないのよ。全部あの男のせい……。私は、私は――。、欲しくなんかなかったのに!!」

 当時の私には言葉の意味が理解できなかった。まして目前の女の胸の内に渦巻く感情なんて理解の及ぶわけがない。ただそこに込められた熱だけが胸の中心にやけに痛くて、でもそれを癒す言葉も知らなかった。

 幼いあの日々、私の視界はいつも赤黒く、つんざくような音が耳を襲い続けていた。叩かれたところが熱を持って全身が焼け爛れそうなはずなのに、寒さと鉄臭さに鳥肌が立つ。動いてしまえばそれ以上の苦しみが襲ってきそうで、私は何も喋らず、指の先すら動かさず、ただ時の過ぎ去るのを待っていた。そのが、余計に母の激昂げっこうを誘うなど羽虫のかけらも気づかずに。

 私が殴られるのは夜だけだ。朝から母は仕事に行き、夕方に帰ってきて食事の用意をする。夕食がすんでしばらくすると、またその時間がやってくる。その長さはまちまちだ。すぐ終わることもあれば、日付の変わるまで泣き声がやまない時もある。その違いだけが、私に日々の移ろいを与えていた。

 そんな生活は突然終わりを迎える。ある日、私は久方ぶりに外へ連れ出された。バスに乗って少し遠くへ行く。見慣れぬ光景に私は感動も示さない。母に手を引かれて大きな病院に連れていかれた。そこが大学病院に付属する精神科だと知ったのは少し成長してからだ。先生は母を待合室に待たせ、私と二人きりでいろいろ質問をしてきた。その空間は不自然なほど真っ白で、あの瞬きのたびに現れては消える赤黒い色が見当たらなかった。

 そして、その帰りのことだった。あの出来事が起きたのは――――


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「んじゃあ、またな射牒さん」


 千鳥足の男達が肩を組み、夜でも賑やかな通りを帰って行く。冷たい空気が酒で火照った身体に心地が良い。


「また来てね、射牒さん。なんなら一人で来てもいいんだから」


 そう言って派手なメイクの女が私にしなだれかかって来る。キャバクラの出口に立つキャッチの小僧に視線を向けるが、苦笑が返って来るだけで役に立たない。仕方なく私は自分で女を引きはがした。


「私は女だぞ」


「もちろんよぉ。でも射牒さんのほうがそこらの男よりカッコいいし。ゲスなことも言わないし。みんな射牒さんが来ると喜ぶもの。いいでしょ? またいろいろ知りたいこと教えてあげるから」


「そこは感謝している。だからこうして客も連れてきている。まあ、気が向いたらまた来るさ」


「つれないんだから」


 ぷくーっと膨らんだ女の頬を指でつついて背を向けた。諦めて女が店に戻っていく気配がする。歩き出した私に、フードをかぶった小柄な人影が小走りに追いついた。


「……へんな、ところでした」


「そうか、それは良かったよ」


 誡が私の横に並ぶ。コイツはなぜか当たり前みたいに店までついてきた。店主もなぜ門前払いしなかったのか。誡はテーブルについた私の横で、ジュースやお菓子を貰って可愛がられていた。


 酔って酒を飲ませようとした組員はさすがに殴って止めたが。店の外なら惨事になるそんな行為も、店の中では酒のさかなに喜ばれる。やはり私には公務員よりこういう非常識な世界が似合いなのかもしれない。


「……けいさつなのに……いいんですか」


 ため息をつきながらコートに首を縮めていると、誡にすそを引っ張られた。見上げるその目からは言葉の意味が読み取れない。


「どのことを言っているんだ? 女の警官がキャバクラに出入りすることか? それともそこにヤクザを連れていくことか。もしくはそいつらの分の金を出したことか?」


「…………ぜんぶ」


「全部か」


 子どもにはイヤイヤ期とナゼナニ期があるというか、誡は後者に差し掛かっているのか。まあ、そんなわけはなく。純粋な子どもの素朴な疑問に過ぎないのだろう。この無表情な子どもにもいちおうの倫理観があるというのは驚きだったが。


「警官をみな私と同じだと思ってやるな。普通はしないさ、こんなこと。私は情報のためならなんでもやる。それが邪法だろうが違法だろうがな」


 裏の情報は組員に聞いた方が早い。根深い問題まではなかなか聞き出せないが、やつらは案外キャバやホステスには秘密だと言って大切なことを喋っていたりする。酒と女は男の口を軽くする。両方がそろえば尚更なおさらだ。情報の最短ルート。それを確保したいなら、夜の繁華街は避けて通れない。


 ちなみにキャッチの男とも仲良くなっていると、後ろをこそこそついてくる奴の存在を教えてくれたり、そいつの足止めをしてくれたりもするからおすすめである。長年夜の繁華街に立ち続けていると、そういう犯罪者気質の人間の匂いがわかるようになるらしい。


「ミミズかモグラのように、日に当たった場所では生きていけない者もいる。そう色眼鏡で見てやるな。同じ人間だ。それに私の経験談から言わせてもらえばな、本当に注意すべきは、あいつらよりそこいらにいるチンピラだよ。あのガキ共には背負う看板がない。恥も外聞も守るべき矜持きょうじすらない。そういう奴等は歯止めが利かないから面倒なんだぞ?」


 フードの上から頭を叩いてやると、誡は静かに頷いた。納得がいったかどうか顔色からは判然としない。そんなことはどうでもよかった。これだけ素直なら未来は明るいだろう。どんな道を進むにしても。


「さて、誡。家まで送ろう。昨日より遅くなってしまったな」


 まさか二日連続で子供の送迎をすることになるとは思わなかったが、誡がまた素直に頷くので、私は進路をあの屋敷へと転換した。



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 途中で眠ってしまった誡を背負って屋敷のへい伝いに門扉を目指す。


 デカい屋敷だ。元は地主かなにかの持ち家だったのだろうか。誰が住んでいるのか調べようと思えば容易いが、そこまですることもないだろう。誡が何者なのか。そこは割とどうでもいい。問題なのは――。


 ゆるやかな坂を上ると大きな門扉の影が見えて来る。昨日と同じ静かで荘厳な景色。しかし一つだけ、昨日とは違うものがあった。


「あら、誡は眠ってしまったのね」

「…………」


 門の前には一人の少女が立っていた。誡よりもさらに小さい、長い黒髪を夜風に揺らし、子供らしくない微笑みを浮かべて立っている。その横には、なぜか荷運び用の台車があった。


 少女の周囲に漂う、幼い容姿に似つかわしくない異常な雰囲気。私の勘が告げている。こいつは、ただの人間ではない。


 私は少女からニメートルほどを置いて立ち止まった。正面からその綺麗な顔を見下ろす。


「お前が誡に指示を出しているか」


「ええその通りよ。会うのは初めてね、イレギュラー」


 間髪入れずに返ってきた言葉に、私は片足を引いて身構えた。自分の心音が一気に耳へ響く。まだ落ち着いた鼓動を刻むその音をさらに鎮めるように、声を低くした。


「何者だ貴様」


 我ながら、女児に対するかけ声ではなかった。身体からにじみ出る警戒の色を隠しもせずに睨みつけると、少女はわざとらしく肩をすくめてため息を吐く。


「あら、可愛らしいお子様を貴様呼ばわりなんて、ひどいわ」


「悪いが、私を『イレギュラー』と呼ぶ存在には十分警戒するようにしているんだよ」


 イレギュラーとは、この世の秩序の具現だとあの吸血鬼は言った。世界の隙間を利用した一種のバグとしての魔法や魔術。そして、人間の強い願いが現実を歪める稀癌。イレギュラーはそれらの影響を直接受けない。


 そんなイレギュラーは一定の割合でこの世に生まれて来るという。稀癌罹患者よりも珍しいと言うが、それがたまたま私だったのだ。


 あらゆる奇跡を否定し、神の威権すら受け付けない。故にイレギュラー。だがこの呼び名を知っている者にはろくな生き物がいない。まして私がイレギュラーだと知っているのは、あの吸血鬼ぐらいのはずなのに。


 幼子の姿をしたこいつは何者だ? そして、こいつに駒にされてる誡はいったい。


「誡を使って何を企んでいる」


 慎重に質問すると、少女は首を横に振ってその微笑に悲しみを混ぜ込ませる。


「企みなんてないわ。その子はあなたの役に立つ。あなたもこの子の役に立つ。だから出会いのきっかけを作っただけ。少しだけ出会いを早めただけ。それ以上でもそれ以下でもないの。だって私、あなたに関することは何も分からないもの」


「まるで、他の事なら知っているとでも言いたげだな」


 なおも咬みつくように言うと、少女が誡と台車を順繰りに指差す。意図を理解した私は背負っていた誡を台車に乗せた。誡の寝顔は年相応の子どものそれだ。感情が希薄なのではないかとすら感じるあの無表情の影は、そこにはなかった。


 少女はそんな誡の頭をやさしく撫でて、私へ嘆願するような視線を向ける。


「そんなに警戒しなくていいわ。私なんて死んだらみんなに忘れ去られる程度の存在だもの。まあ、イレギュラーであるあなたに忘却は効かないのでしょうけれど。意味の無い感傷だわ。……そうね、私から言えることは一つだけよ。誡のことをよろしくお願いします――ってね」


 だから私のことなんて、あなたが気にするほどでもないのよ。子どもはそうウインクして、誡を乗せた台車と共に屋敷の中へ消えて行った。


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