第四章 悲哀の遊戯

第39話 変わっていく人々

 第四章

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 ――――この世の残酷さとは、いったい誰が定めたのだろう。

 神様だろうか? それとも、かつてあの青年の腹へと収まったという龍神様だろうか。

 私は知っている。

 この世の残酷さとは、人が定めたのだと。

 どんな物事を残酷だと感じるかは、人によって違う。そこに明確で分かりやすい基準などない。

 先月私に親切にしてくれた人が、今素知らぬ顔をしてを見ている。

 いつも皆に笑顔を振りまいている人が、この状況を生み出す最初の言葉を放った。

 ――――そして皆に嫌われていた彼は、この運命を粛々しゅくしゅくと受け入れた。

 それがとても残酷なことであると、皆は分かっていないのだろうか。分かっていて、良しとするのだろうか。

 この人たちにとって、これは本当にいいことなのだろうか。

 直接手を下すわけではない。誰が彼を殺すでもない。自分の手が汚れなければ、それでいいのだろうか。

 人々の一番後ろの、誰からも見えない位置で、私はただ涙を零す。ひきつりそうになる喉を必死に堪え、ただその決意を見届ける。

 それが、彼が最後に願ったことだから。

 この光景がどれだけ残酷なことでも、彼の最後の願いであったから。

 間違っている。

 けれど私には、どうにもできない。

 私は、貴方の気持ちをぶち壊してを通せるほど強い人間ではなかった。

 だからきっと、私が人生の最後に願うのは、一つ。


 今度こそ貴方を、この手で――――


         1


「はいはい、大丈夫大丈夫。痛くしないから出てきなさーい」


 姉さんが野良猫にでもするように、チチチと人差し指でかいを呼ぶ。けれど衝立ついたての向こうからこちらを覗く彼女は一向に出て来る気配がない。


 ここにあるのは、真っ白い壁と視力検査のボード。そして各種機材だけ。


 殺風景というか、威圧感があるというか、いかにも眼科然とした部屋の中、自分ぼくの姉である更科さらしな玖玲葉くれはは、眼帯を付けた少女をどうにかおびき出そうとしていた。


 明るく染めた髪に白衣を羽織った玖玲葉くれは姉さんが、脇に控えていた自分ぼくを仰ぎ見る。


「ちょっと奏繁そうはんも手伝って。このままじゃあの子、引きこもって出てこないんだけど。怪我しても泣かないくせになに怖がってんのあの猫は」


 確かに自分ぼくも誡が泣いた姿は見たことがない。依琥乃が死んだと知らせた時ですら、落ち着いた声で「……そうですか」と呟いただけたった。


「誡は治療が苦手なんだよ。姉さん、誡に嘘ついてもバレるよ。大人しく診察だけしてくれ。手に持った用途不明な機材はいったん置いて」


「えー。せっかく休日にわざわざ病院開けてあげたのに。新入荷の機材の試し運用ぐらいよくない? 大丈夫、先っちょだけだから!」


「だからそれが駄目なんだって!」


 誡の稀癌は身に迫る危険を感知する。危険にはいろんな種類があるけど、やっぱり代表的なものは“痛み”だろう。たとえそれが自分の傷を癒す行為であろうと、痛みが伴う以上、誡はそれを感知する。


 痛くしないよーという医者の常套句じょうとうくは通じないのである。


 自分ぼくは姉の奔放ほんぽうさにため息をついた。


 うるし少年との件の後、熱を出した誡の完治を待ち、こうして眼科に連れてきたのだ。


 土曜日に開いている病院はこの辺だとなかなかない。そこで玖玲葉姉さんが経営する眼科をお願いして開けてもらったのだが……。失敗したかな。射牒さんの伝手つてで別の所を探すべきだったかもしれない。


 しばらく渋っていた姉さんも根負けしたらしく、謎の機材を仕舞った。するとようやく誡が衝立から出て来る。いつものパーカー姿に、今は痛ましい眼帯をつけている。


 レーゾンの魔法によって他の傷はほぼ完治したらしいが、さすがに一番傷の深かった右目だけは治りきっていなかった。レーゾンにも医者に行けと指示されている。


 椅子に座った誡の対面に姉さんが座り、ようやく診察が始まる。さっきとは打って変わって真剣な眼差しになった姉さんが誡の眼帯を取り様子を見る。


 しばらくして診察が終わったのか、姉さんが誡に眼帯を返した。


「驚くべきことに、ほぼ治ってた。これたぶんこのまま自然治癒で見た目は元通りになるかな。視力が戻るかの確率はどっこいどっこい。どうしても不便なら大きい病院に行きなさい。なんなら紹介状書くし」


「……結構です」


 いつもより気持ち返事が早かった。本当に病院嫌いなんだな、誡……。

 姉さんは誡の反応を特に気にすることなく、診察表のようなものにペンを走らせていた。


「ふーん。まあいいけど。あっそうだぁ、誡こっち来て」


「……なんでしょう」


「いいからいいから。あ、奏繁はそこにいなさいよ。帰ったら拳骨げんこつだから」


 ビシィ! と自分ぼくに指示した姉さんは、誡を連れて隣の部屋へと消えて行った。なにやら紙袋を持っていたけど、なんだろう?


 数分間、静かな部屋の中で出されていたお茶を飲んでいると、ようやく扉が開いた。先に姉さんが出てくる。その顔にはニマニマと満面の笑みが広がっていた。なんだか気持ち悪い。


 仁王立ちで胸を張る姉さんを訝しげに見ていると、次いで誡が出てきた。


「――――なっ」


 誡の服装は先ほどからは一新されていた。


 モスグリーンやセージグリーンといった落ち着いた色合いでまとめられたスチームパンク系のされど落ち着いた日常に馴染むようデザインされたロングスカート姿。女性物の服装に造形のない自分ぼくにはあれがワンピースの一部なのか上着を羽織っているのかの区別もつかないが上半身部分にはきらびやかな刺繍が施されていた。服装に合わせて靴もスニーカーからモンク・ストラップへと履き替えられヒールの高さが歩きづらそうという感想より先になぜ姉が誡の靴のサイズを把握しているのだと言う疑問が湧くがそんなことはどうでもよく全体に統一感がありこれからオシャレして街に繰り出そうとでもいうようなつまり誡にとてもよく似合っている。


 脳内に大量の言葉が氾濫はんらんするが最も大事なのは一つ、スカートだということだ。動きやすさを重視し制服以外でスカートを決して履かなかった誡が、スカートを履いている。


「姉さん、それはいったい……」


「これね、友達がもういらないって貰い手探してた服なのよ。誡に似合いそうだなって引き取ったの。案の定だったでしょ?」


 それはもちろんだけど。誡は慣れない服を着せられているためか無言になっている。


 いつも通りの無表情であるため、彼女が今なにを思っているのかはわからない。しかし決してご機嫌というわけではなさそうだ。スカートの裾を掴んではユラユラ揺らし放すのを繰り返している。


 おそらく『動きづらい……』とでも思っているのだろう。


「似合ってるよ。たまにはそういう恰好もいいんじゃないかな?」


 このままでは彼女が二度とスカートを履いてくれなさそうな危機感が募り、自分ぼくは早口にそう言っていた。正直に言えば写真に残したいほどなのだ。せめてあと数回は見たい。むしろ他のスカート姿も見たい!


「…………そうですか。……なぜか身の危険を感じたのですが、これは……?」

「な、なんでだろうね!?」


 誡の視線が自分ぼくの下半身へと移る。

 あ、やめて見ないで。そこ見ないで。男の本能なんです。何で見てんの。稀癌が反応してる? 光ってるの? そこ光ってんの!?


「はっ――――!」


 危ない。姉さんといるからつられておふざけ方向に思考回路がシフトしていた。冷静になれ自分ぼく


 誡は再び洋服のひらひらをまくったり飾りボタンを眺めたりしだした。


 そんな自分ぼくらのやり取りを見ていた姉さんは、注いできたらしいコーヒーをあおりながらツツツと自分ぼくのほうに寄って来る。


「ねえ奏繁。誡って体中に古傷とか痣とかあったじゃん?」

「じゃん? って言われても」


 見たことないし。でも確かに以前、姉さんがそんなことを言っていた記録はある。


「さっき着替えさせる時に見たんだけど、ほとんど残ってなかったの。なにしたの?」


「あー……。えっと、よく効く塗り薬があったらしいよ?」


 それはレゾンのくれた軟膏なんこうのおかげだろう。治りが早くなるからと渡されたのだ。しかし一般人の姉さんに「吸血鬼印の軟膏なんこうのおかげさ!」などと説明するわけにはいかない。なので目を逸らして適当に返事をした。


 姉さんは魔法も稀癌も知らない、普通の人だ。できればずっとそうあって欲しい。家族にはあまりそういったことを知って欲しくない。


 術や稀癌は人によっては特別な力に見えるかもしれないが、特別というのは言い換えれば“特殊”であり“異端”であるということだ。


 この世にいる全ての人間が受け入れてくれるものではない。毛嫌いする人もいるだろう。むろん、姉さんはそんな人じゃないけど、知ってしまえばそういった事情に巻き込まれてしまうこともある。だから知らない方がいい。


「ふーん。まあいいけど」


 それでもなにやら察している風である姉さんは、いつものように話題を終わらせてくれた。姉さんは勘が鋭い。こっちが嫌がっている部分には踏み込まずにいてくれる。

 それが自分ぼくにはありがたかった。


「……玖玲葉くれはさん、もう着替えてもいいですか」


「えー、駄目。この後さ、その恰好で行って欲しい場所があってね」


「姉さん、そんな話は聞いてないけど」


「だって言ってないもん」


 ですよねー。ニヤっと口角を上げる姉さんに自分ぼくはため息を返した。ほんと、相手の事情を考えない自分勝手な人だ。己に備わった思慮深さをどうしてこういう時に発揮できないのか。……わざとか?


 姉さんは自分ぼくらを手招きして椅子に座らせた。


「眠らせ病院って知ってる? 結構むかしからある都市伝説みたいなもんなんだけど。菊池きくいけ病院ってとこ、どうかな?」


「……いえ、知りません」


「その病院なら一度行ったことあるけど。噂のほうはどうだったかな。なんか聞いたことある気がするけど」


 どこかで聞いたことがある話だ。でも、どこで聞いたのかは思い出せない。


 姉さんは自分ぼくらの薄い反応を気にすることなく続けた。


「午後六時になると、病院内にいた人間が数分間眠ってしまうって話でね、病院で働いてる職員はみんなあまり気にしてなかったらしいんだけど、ここ最近、それが酷いらしくて」


「酷いって、どんな風に?」


「以前は数分間で目覚めてたんだけど、ここ数か月は朝まで起きなくなっちゃったんだって」


「……その話がこの服装とどう関係するのですか」


 誡が手を上げて質問する。姉さんは笑顔でそれに答えた。


「このこと相談してきた子が、その服くれた友達でね。どうせなら着てるとこ見せたいじゃん。

 アンタら昔からコソコソやってたし、こういう話を解決するの得意でしょ? このあと十六時半に詳しい奴らを向かわせますってもう連絡しちゃってるから、詳細はそこで聞いて。よろしく」


 自分ぼくに小さなメモを渡すと、話はそれで終わりと言わんばかりにコーヒーを飲みほした。いやいや、そんな急に言われても。


「待ってよ姉さん。自分ぼくはその時間別の用事があるんだ」


「そうなの? 誡は?」


「……私はなにも」


「じゃあ、とりあえず誡一人でいいから、話だけでも聴きに行ってよ」


 適当に言う姉さんに誡は真面目に返してしまう。


「……私は構いませんが」


「誡っ。まだ身体が本調子じゃないんだ。一人で動いたら危ないよ」


「危なくないって。寝ちゃうだけだもん。むしろぐっすり眠って肩こりとれるらしいし」


「……だそうです。危なくなったら逃げますから」


 思わず立ち上がった自分ぼくを、誡が下から見上げてくる。こういう時、誡は案外頑固だ。


 条件的に不可能なことならあっさり諦めるけど、できそうなことはとりあえずやってみる、という現代っ子にあるまじきチャレンジ精神の持ち主なのだ、彼女は。

 特に他人に頼まれたことはきちんと最後まで責任を持ってやりきる。恩義ある相手ならなおさらだ。彼女自身のことは適当にこなすくせに。


 全く目を逸らさない誡に根負けした自分ぼくは、女性二人に押し負けるように腰を下ろした。


「用事が済んだら合流するから」


 ため息とともにそう言うと、姉さんは誡とハイタッチをした。訳も分からず姉さんにされるがままとなっている誡の様子に、自分ぼくは苦笑を浮かべることしかできなかった。



 ・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「そろそろ出てきたら? 二人とも帰ったし」


 白衣を脱ぎながらそう私が声をかけると、誡が着替えたのとは反対側の部屋から有巻ありまきは顔を出した。


 有巻は親戚で幼馴染だ。と言っても、親交があるのは奏繁で、私はそこまで仲がいいというわけではないが。


 先日、奏繁からかくまってあげてと押し付けられてそのままだった。家に上げるのは嫌だったので、病院を間借りさせていたのだ。


「あなたホントに誡のこと苦手なんだ。どうして?」


 私としては可愛い弟に近づく虫として放置できないという側面もある。だがそれ以上に誡の人となりは嫌いではなかった。


 扉からひょっこりと現れた有巻に質問すると、彼は苦い顔をする。


「オレ、あの何考えてんのか分かんねえ目で見られるのが苦手なんすよ、人形みたいで。……まあ最近は、昔よりかは人って感じするかな」


「へえ」


 案外きちんと人を見ているのだ。確かに誡は出会った頃に比べると感情豊かになったと思う。表情は変わらないが、よく観察すると細かく変化しているし。


 我慢していた煙草に火をつけながら、私は有巻を手招きした。


「そんなあなたに提案があるのだけど」


「なんすか?」


「仕事しない? 東北の方なんだけど、人手が足りないらしくて。もちろん真っ当な仕事ね。事件も落ち着いて、いいかげん、ここも出てってもらわなきゃいけないし。どうする?」


「やります!」


 有巻が即答する。その眼には以前にはなかった輝きがあった。昔は死んだ魚みたいな目をしていたものだが。

 誡が少しずつ変化しているように、この男も変わっていくのだ。


 よかった。これなら先方に良い返事ができそうだ。


 吐き出した煙が診察室でだんだんと薄くなり、消えていった。



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