第三章 枯野の鮮血

第28話 日々徒然。

 第三章


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 音が消えた。

 広がるのは真っ赤な色だけ。

 そこかしこに倒れた家族、親戚の姿がある。そのどれも赤く染まっていないものはない。

 父親だったのものの身体が宙へ浮く。だらりと四肢をぶら下げた肉体が重力を無視して浮かび上がった。

 ボクには分かっていた。あれはもうただの死体だ。そう理解してしまえば単純なもので、あの肉塊の行く末にボクはなんの感慨かんがいも浮かばなかった。

 がぽっ、と父だったのもの頭部が消えた。不思議と断面から血は零れない。それが余計に肉塊から人間らしさを奪っている。

 まるで不格好なマネキンみたいだ。

 ボクはそう思った。

 がぽっ、と父だったものの上半身が消えた。そこからは速い。ものの数秒で肉塊そのものがこの世から消えた。

 浮かんでいた洋服が地に落ちる。

 あれはどうして消えたのか。

 答えは簡単だ。

 喰われたのだ、化け物に。

 

 その化け物は美しい青年の姿をしていた。

 長身痩躯で、真っ白なシャツを血に汚し、けれど不思議と下品さはない。

 男は満たされゆく空腹に恍惚とした表情を浮かべている。

 白銀の髪が月光を照り返し金色に輝くその姿は、まるで絵画の一場面のようでやけに美しかった。


 それはほんの数分の出来事だったのだろう。

 ボクがふと気が付くと、そこにいたはずの二十人は跡形もなく消え失せていた。

 地に落ちているのは主人を亡くした服一式だけ。

 誰もいない空間にただ一人、男が立っている。

 口元を服の袖で拭っていた男はふいにボクの存在に気づいたようで、硬い靴音を鳴らして近づいてきた。

「ああ、一人多かったか」

 そんなことを独り言みたいに呟いて、ボクに目線を合わせるように男は屈む。ボクの顔を覗き込む男の瞳は、若々しい顔に似合わず老衰していた。

 それでもとてもきれいな色をしていて、宝石みたいだ、と思ったことを覚えている。

「じゃあ、消さなくっちゃな」

 自分の額へと伸ばされる手に、ボクはなんの感情も浮かばない。男の唇が紡ぐ音の響きだけをただ黙って聞いていた。


「――――神ならざる御業にて疑り申す」



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 依琥乃いこのの葬式からひと月余りが経過した、五月。


 世間はゴールデンウィークへと突入した。ごった返す帰省勢から逃げるように、自分ぼくかいの二人はアパートの二階にある自分ぼくの部屋に集まっていた。もちろん正当な理由がある。依琥乃の情報整理だ。


 ワンルームの狭い部屋の中で二人顔を突き合わせノートに書かれた依琥乃の交友関係表を整理していると、それは突然やって来た。


 インターフォンが鳴り間髪入れずにドアが乱暴に叩かれる。危ない人が来たのかと思ったけど、誡がのんびりとお茶をすすっていたので自分ぼくはそれほど警戒もせずに鍵を開けた。


奏繁そうはん! かくまってくれ!」


 そう叫んで飛び込むように中へ転がり込んで来たのは、坂野さかの有巻ありまき兄さんだった。


 有巻兄さんは自分ぼくや依琥乃の親戚で、自分ぼくよりも四つ年上だ。そのため昔は親戚の集まりがあるたびに兄貴風を吹かせて子供連中を遊びに連れ出したりしていたけど、もはやその頃の面影はない。中学の後半から荒れ始め、高校を中退してからはガラの悪い奴らと裏路地で遊ぶようになった。


 親からもほとんど放任されて久しいけど、自分ぼくの所にはいまだ親しげに顔を見せに来ることがある。だいたい酒に酔って来るので自分ぼくとしては迷惑なのだが、古い知人なので無下にできずにいた。


 しかし今日はどこか様子が違う。肩で息をしながら玄関に腰を下ろす有巻兄さんは、別段酔っているわけでもなさそうだ。


 彼は自分ぼくよりも幾分か背が高く、そのくせ身体は不自然に細い。目は落ちくぼみ、頬が痩せこけ、唇が荒れているのがここからでもわかる。それに、どこか怯えた風に目をきょどらせていて顔も青かった。


 いつも通りと言えばいつも通り。けれど以前見た時よりも全体的に、少しふっくりしている気がする。体調不良というわけではなさそうだ。むしろ前よりも健康的に見える。


 服装も以前のチンピラ柄シャツから普通の白シャツに変わっているし……。


 そんな様子なので追い返す気も湧かず、自分ぼくは扉に鍵をかけて有巻兄さんに質問を投げかけた。


「匿うって、今度はなにしたのさ」


「なんもしてねぇよ! 俺は、ただ……」


「ただ?」


「……追われてんだ。頼む。匿ってくれ」


 肩を落とす兄さんに自分ぼくはそれ以上聞けなくなる。いったい何があったっていうんだ。


 お互いになんだか気まずい。とりあえず中へ入るよう勧めようかと考えていると、沈黙を破る声がした。


「……その物言いは一方的に過ぎませんか」


 現れたのはお茶を飲んでいたはずの誡だった。


 彼女がいるのをすっかり忘れてた。ゆっくりと足音も立てずに近づいてくる誡を、ようやく顔を上げた有巻兄さんが威嚇するようににらみつける。


「なんでお前がここにいんだよ」


「……私がどこにいようと、あなたには関係ないはずですが」


 涼やかに、けれど目だけ細めて誡が兄さんに相対する。


 この二人、実は相性が悪い。


 有巻兄さんからすれば愛想のない誡は可愛くないし、誡は誡で自身に向けられる敵意には敵意で返す。それに加え、どうやら兄さんの内弁慶な態度が気に入らないらしい。

 

 誡がこんなんだから喧嘩にまで発展することはないが、顔を突き合わせるたびに場の空気が悪くなる。今までは依琥乃いこのが居てくれたけど今は違う。


 どうやっていさめようかなぁ。

 頭を悩ませていると、やはり二人は言い合いを始めてしまった。


「コイツはどうでもいいから、とりあえず中に入れてくれよ、奏繁」


「……理由も言わず一方的に自身の言い分を押し付ける……。……さすが三下のチンピラ相応の立派な論理的思考回路をお持ちなようですね。……お変わりないようで安心しました」


「う、うるっせぇなっ! こっちの事情も知らねぇ奴がごちゃごちゃ言ってんじゃねぇ!」


「……ですから、その事情とやらを手早く開示してくださればいいのです。さぞやご大層な理由があるのでしょう。……それとも中身のない言い分を繰り返すのは理由がないゆえでしょうか。申し訳ありません。まず始めに愚考すべきことでしたね」


「なっ――――!」


「まあまあ、二人とも落ち着いて、ね?」


 立ち上がりかけた兄さんの肩を抑えて、慌てて間に入る。


 誡は感情に乏しいながらなぜか昔から『怒り』だけは明確に自覚することができるようで、自身に敵意を抱く相手には突っかかっていく時がある。そういう時の誡はやけに弁舌べんぜつだ。曰く、「……浮かんだ言葉を一度飲み込まずに吐き出しているだけです」とのこと。


 つまり普段は言っていいことと悪いことを考えてから話しているのだろう。嫌いな相手にはその思慮すら放棄してしまうのだ。


 双方からの睨みつけるような視線に萎縮いしゅくする身体へむちを打ち、自分ぼくは言葉を続けた。


「誡の言うことも正しいよ。有巻兄さん、いったい何があったの? せめて説明してもらわないと力にはなれないだろ?」


 説得するように兄さんの目を見つめる。すると兄さんは気まずげに視線を逸らし、また項垂うなだれてしまった。けれど、今度はぽつぽつと喋り始める。


「追われてんだ、警察に。お、オレはなにもやってねぇ! けど、タイミング悪くて……。通りかかっただけなのに、犯人扱いされて」


「えっと、つまり、どういうこと?」


 要領を得ない説明に思わず首を傾げる。代わりに自分ぼくの後ろで話を聞いていた誡が、兄さんに問い返した。


「……何かの事件を目撃したところを発見され、つい逃げたところ犯人扱いされた、ということですか」


「まぁ、そんな感じだ」


「……また間の悪い」


「うるっせい!」


 自分ぼくもついため息をつく。この人ほんとつくづく運が悪いんだよなぁ。

 誡が眉間を抑えて頭痛を散らしている。


「……とりあえず、もう少し詳しくお話を――」


 そう言って誡が兄さんへ手を伸ばそうとした瞬間、唐突に着信音が鳴りだした。


 ポケットからスマホを取り出したのは、やはりというかなんというか誡だ。


「……射牒いちょうさんからです」


 その言葉に有巻兄さんがビクッと反応し、ようやく血色の戻ってきていた顔がまた青ざめる。


 その様子を見た誡は通話をスピーカーに切り替え、しーっと、唇に人差し指を当てる。それを受け兄さんは緊張した様子だが、自分ぼく不謹慎ふきんしんにも誡の仕草にときめいてしまった。いや、だって可愛くない?


 全員が頷いたのを確認してから、通話ボタンが押された。


「……もしもし」


『ああ誡、やっと出たか。急で悪いが今どこにいる?』


 電話口からすぐさま怜悧れいりな女性の声が聞こえて来る。それはまぎれもない祇遥ぎよう射牒いちょうさんの声だったが、いつもより早口でどことなく荒っぽい。


 そのせいか、ここに彼女はいないのに有巻兄さんが小さく悲鳴を上げて自分ぼくの袖を引いた。いったいこの二人になにがあったというのだ。


「……更科君の家です」


 誡が忌憚きたんなく答える。すると、射牒さんはどこか面食らったかのように口ごもらせた。


『な、あ。いや、まさかお邪魔だったか? わ、悪いな』


「……いえ別に」


『そ、そうか。それはそれで心配になるが……。まあそんなことはどうでもいい。むしろ都合がいいな』


 が、すぐ元の調子に戻る。そして射牒さんは苛立いらだちを再燃させたかのような口調で一言告げた。


「そこに坂野有巻は、いるか?」


 怒りが露わになっていた。


 兄さんが泣き出しそうな顔で首を横に振り続けている。少し哀れになってきた。

 そんな兄さんをちらと見た誡は、ため息を吐いてから返答した。


「……いえ、見ていません。……坂野有巻がどうかしたのですか」


『知らないのか。テレビのニュースを見てみろ。――――情報開示が始まった』


 自分ぼくら三人は顔を見合わせ、次いでリビングへ急いだ。先頭にいた誡がリモコンを取り、チャンネルをニュース番組に合わせる。するとちょうど女性キャスターが原稿を受け取ったところだった。


『続いてのニュースです。二日前の深夜一時頃、傷害事件が発生していたことが分かりました。被害者は意識不明の重体。警察は現場に居合わせたと思しき無職の二十代男性を重要参考人として捜索しています』


 読み上げられた内容に皆、言葉も出ない。沈黙を推し量ってか電話の向こうで射牒さんが声を潜めて決定打を口にした。


『県警は現在、坂野有巻を第一容疑者として捜索している。罪状は傷害罪殺人未遂その他諸々。

 むろん、私は有巻にこんな芸当ができる根性があるとは思っていない。しかし捜査中の人間はみな犯人を有巻だと断定してしまっている。だからもし有巻に会ったら私の代わりに殴っておいてくれ。――この阿呆あほう、とな』


         2


「……阿呆」

「この阿呆」

「わかってんよ!」


 通話を切ってそんなやりとりを終えた後、私達は小さなテーブルを囲んで緊急会議のていとなった。


 渋っていた坂野さんも、テレビで自分の関わっている事件が報じられれば黙っていることも難しいのか、不承不承ふしょうぶしょうに経緯を語り始めた。


「オレ、今やってることから足洗おうと思っててさ、射牒さんに相談してたんだ。そんで二日前、後始末のために路地裏走り回ってたら、偶然に見ちまって……」


「な、なにを?」


 更科さらしな君が喉を鳴らす。坂野さんはまだ湯気の立っているお茶を一息に飲み干してから、続けた。


「なんか叫び声が聞こえた気がして、路地の奥のほうに行ってみたらさ、酔ったおっさんが誰かにウザ絡みしてて。なんだ、ただの言い争いかって無視しようとしたら、おっさんが急に倒れたんだ。急いで近づいてみたら血まみれで。顔を上げたら、居た。

 暗かったから顔までは見えなかったけど、俺よりは背の低い、たぶん男。手に何か刃物を持ってた気がする。ソイツ、オレに気づいたらすぐ逃げちゃって。一瞬追いかけようかしたんだけど、倒れてる奴が気になったからすぐ引き返したんだ。

 そしたらちょうど人が来て『なにやってる!』って怒鳴られたから、つい条件反射で逃げちまって」


「……今に至る、と」


 私はぬるくなってきたお茶をすすりながら言葉を継いだ。すると今度は更科君が疑問をていす。


「なんでそこで逃げちゃうんだ、っていう話はさておき、どうしてそれで有巻兄さんだって特定されるわけ? その路地、暗かったんでしょ?」


 口調は特に責めているように聴こえない。

 坂野さんは奥歯を噛みしめ口に広がる苦みを押し殺すような、複雑な表情になった。


「それは、たぶん財布そこに落としてきたから……」


 フォローできない。逃げた時点で疑われるのは必須であるのに、身元まで分かってしまっている。警察からすれば犯人以外の何物でもないだろう。


 それでも、いちおう提言してみる。


「……警察に行って、事情を説明してみてはいかがですか」


「オレ、何度か補導されてるし、たぶん信用されないから。――射牒さんキレてるし」


「…………」


 後半に本音が集約されている気がする。怒った射牒さんに近づきたくない、というのが坂野さんが今なお逃げ続けている一番の動機なのだろう。


 納得してしまう程度には私も身に覚えがあることである。だがしかし、それでは事件は進展しない。いつまでも追われ続け時間が経つごとに弁解が難しくなる。


 警察も第一容疑者を捕らえる前から他の候補に人手を割いたりはしないだろう。


 お茶が空になったので私が急須を取ろうと腰を上げると、考え込んでいた更科君がおもむろに口を開いた。


「こりゃもう、真犯人を連れて来るしかないかな」


 その言葉に坂野さんが大袈裟おおげさに反応する。


「助けてくれるのか!?」


「家に上げちゃった時点で諦めてるよ。一応身内の不始末だし。でもここに居られるのは困る。安全な場所を紹介するから、そっちに移動して。自分ぼくがその間に出来る限り情報を集めてみるから。

 ああ、ごめんね誡。そっちの調査はひとまずこの件が終わるまでは中止でいいかな」


「…………」


 またこのお人よしは。

 私はため息をついて座り直した。仕方がないので顔を坂野さんへ向ける。


「……それで、犯人を特定できそうなことは覚えていますか」


 しかし身を乗り出したのは更科君だった。少しの驚きと、おそらくは喜び、だろうか。とにかく嬉しそうに青年は笑う。


「! 誡、手を貸してくれるの?」


「……たった今暇になってしまったので。簡単なことならお手伝いします」


 答えると更科君はますます笑みを深めた。私の背筋を謎の痺れが駆け抜け、なんとなく彼から顔を背ける。


 背けた先には坂野さんが居る。どんな嫌味を言われるのかと構えたが、坂野さんはうつむいたまま苦しげに言葉を零した。


「…………すまん」


「…………乗りかかった船が出航済みでしたから。……それで、なにか思い当たることはありますか」


 顔を上げない坂野さんに私はそう続けた。


 坂野さんが記憶を探るように呻きだしたので、私はその間にお茶を入れなおした。三つ分の湯気がくゆる中、愉快げなCMの音声だけが騒がしい。


 やがて、ようやく坂野さんがお茶に手をつけ唇を湿らせた。


「どうも顔も服装も思い出せねぇんだが、一つ思い出した。あの現場、ボロボロだったんだ」


「どういうこと?」


 更科君が首を傾げる。私も追加して確認を取る。


「……乱闘があったということでしょうか」


「いやそんなんじゃなくて、なんつーか、辺り一面刃物で切りまくられたみたいな真新しい傷がついてたんだ。木箱も、パイプも、コンクリもだぜ? 

 工業用品でも短時間じゃあそこまでは出来ねぇ。だからおかしいと思ったんだが……、なんか役にたつか?」


 尻すぼみしながら言い終わる。つまり犯人はチェーンソーでも振り回していたのだろうか。だがそんなものを犯人が持っていたのなら、さすがの坂野さんでも覚えているだろう。


 事件になにか関係があるのだろか。

 再び沈黙が流れる。重苦しい空気だ。


 なにも情報が出てこないのならば、せめて今後の方針だけでも固めるべきではないかと私が考え始めた頃、更科君が突然立ち上がり、クローゼットの中を荒らし始めた。


 中には紙の束がいくつか入っているのがここからでもわかる。少しして、何かを発見したらしい更科君が席に戻った。


「あった。これ、六年くらい前のだけど」


 そう言って机に広げられた紙には薄っすらと見覚えがあった。


 湯苅部ゆかりべ仕種しぐさの起こした連続殺人事件の調査中に更科君がまとめていた、県内の噂リストだ。


 けれど、どうしてこのような古いものを今更いまさら持ってきたのだろう。


 浮かんだ疑問には更科君がすぐ答えてくれた。

 彼は今件の当事者である坂野さんではなく、私を見つめて、こう言った。


「六年前、君が正体不明の少年に襲われたときにも、同じ現象が起きていたんじゃなかったかな」


 それは意識の底に埋没まいぼつしかけていた記憶だった。


 今から六年前の四月。私が中学二年生になったばかりの頃に遭遇した少年。その狂人めいた面影を、私は思い出していた。


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