第22話 その人が求めたもの


         22


 待ち合わせ場所には先についた。二十時の十分前。まだ仕種さんの姿は見えない。


 この場所を指定してきたのは仕種さんのほうだった。


 なぜこの場所なのかと部外者は思うかもしれないが、上城かみしろ中学校出身者ならばその理由にすぐ思い至る。この学校、夜間の警備警戒が一切ないのである。


 不用心だと言われるだろうが、案外とそうではない。一般的な学校よりも荒れている中学ではあるが、そもそも在学生は昼間に騒ぐ。わざわざ夜の学校に忍び込んで悪さはしない。


 夜にわざわざ学校に来るくらいならば、市街地に出て少し外れた先輩方と友好を深めるのがこの学校のいわゆる不良たちの考えだ。立地もほぼ田んぼ囲まれているので面白味がない。


 そのため、学校側は一切の警備システムを導入しておらず、生徒は忘れ物を取りに来放題なのである。今後もこの状態が続くかは分からないが、現在のところ夜の密会には悪くない場所なのだ。


 どうして密会にしなくてはならないのか。それが私の心拍を落ち着かせない問題の一つではあるが。


 月明りだけに照らされた校庭は人の居ない分、広く見える。私は校庭の隅っこの、走り幅跳び用の砂場の前に座って仕種さんを待った。


 更科君からの返信は来ていない。用事が終わっていないのかもしれなかった。この分だと一人で仕種さんと話をすることになりそうだ。


 右手にはめた腕時計が二十時五分前を告げた。周辺に人影はない。手持無沙汰に雑草を剪定せんていしていると、突如背筋に冷たいものが走った。


 反射的に立ち上がり振り返る。周辺に明かりのないためよく見えないが、向こうから何かが迫ってきているのだ。真っ黒い突風が私に向かって吹いてくる。異常だ。これほど現実と乖離かいりした風景を見たのはいつぶりだろうか。あの時は射牒さんの助けがなければ死んでいた。


 冷や汗が噴き出す。四肢が震え、喉がひりつく。稀癌が命の危険を告げている。


 校門から入って、校舎と体育館の間を真っすぐ進む何かが近づくにつれ、空気の圧が上がっていく。一歩一歩と歩を進め、校舎の陰を出て月光に照らされたその輪郭が浮かび上がった。


 細身の女性。女性にしては身長が高めだ。シャツにカーディガンを羽織ったパンツルックのその女性は、背中に細長い異物を背負っている。


「こんばんは、誡ちゃん。良い月夜だね」


 柔和な笑みを浮かべ私から少し離れた場所に立ち止まったその人物は、まごうことなく湯苅部ゆかりべ仕種しぐさその人だった。


「……仕種、さん」


 問うように言葉が漏れる。稀癌のもたらす膨大な感覚情報によって、身体を動かすはずの感覚神経までもがパンクしそうになっている。


 これが私の稀癌の弱点でもある。存在する危険が大きくなればなるほど、私に伝わる感覚情報は多くなる。一定以上の情報が加わりすぎると脳と身体が過反応を起こすため、動作に不備が生じるのだ。


 危険であればあるほど逃げなければ、動かなくてはならないのに、動きが鈍くなる。致命的な矛盾だ。


 できるだけ稀癌の感覚から意識をはずし、なんとか目だけを動かして女性を見る。そして気が付いた。


 稀癌が告げる危険は仕種さんから出ているわけではない。仕種さんは今まで通り欠片も危険を発していない。私が感じる脅威は全て、彼女の背負う竹刀を入れる袋のようなものから出ている。


 稀癌を通した視界では袋の形が特定できないほどの靄に包まれていた。これは先日路地裏で出会った少年よりも酷い。


 あの少年くらいの脅威ならばいくらでも方法はあった。しかし、これは駄目だ。例えるならば四方に遠隔操作型の爆弾を敷き詰められたあの時に似ている。違う、これでは喩えではなく具体例だ。とにかく下手を打てばそれが終わりへと繋がるのには違いない。


「あはは、そんなに身体強張らせなくても大丈夫よ。それで? 話ってなにかしら。やっぱり電話口で話すのは躊躇われるようなことなのかな?」


「……個人情報に関わりますから」


 相変わらず仕種さんはにこにことしている。やはり一切の危険性は感じられない。背負った異常と本人との温度差に、私は安心すればいいのか身構えればいいのか、分からなくなってきた。


 本当ならば安心していいはずだ。彼女に脅威は存在しないのだから。稀癌がそう告げるのだから。


 口が乾いて次の言葉が見つからない。私の稀癌は会話の行く末から危険を察知できるほど高性能ではない。依琥乃は『稀癌が成長すれば』できるようになると言っていたけれど、今できないのならばしょうがない。


 人と相対するときは、手持ちの武器でやりくりするしかないのだから。


「……今日の昼前、なにをしていましたか」


 無難ぶなんにそう訊いてみる。


「んん? え、昼間? お世話になってた先生が引退なさるそうだったから挨拶に行ってたよ。……ああ。もしかして、先生に聞いたのかな、私の事」


 大して驚きもせず、あらかじめ予測していたように仕種さんがそう問い返す。どう返せばいいのか一瞬判断に迷い、結局答えずに聞き返した。


「…………私があそこに通っていたことをご存知だったんですか」


「まあね。直接会ったことはないけど、診察表の整理とか手伝ったことあるから。写真で顔と名前は知ってた。苗字変わってたから最初確信持てなかったけど、顔とか全然変わってないんだもん」


 茶化すような言葉。聞き捨てならない。


 私が考えていたよりも仕種さんは病院の内部に精通していた。もはや立派な関係者と呼んでいいのではなかろうか。どうして彼女が警察の捜査線から外れたのか、疑問を抱かざるをえない。


「……よく覚えていましたね」


「言ったでしょ? 私、人の顔は忘れない性質たちなの」


 月の光の弱い夜。にこりと笑う仕種さんの表情からはその内心を読み取ることはできない。


 光源の少なさに比例して地面に映る影も薄くなるはずだが、仕種さんのそれは真っ暗に奈落へ通じているように見える。もちろんそれは幻影だ。稀癌が見せている付加情報の一種に過ぎない。唯一の救いは、影は仕種さん本人には触れもしないということだろうか。


 足元ばかりに目が行き、ポケットからなにかを取り出した仕種さんに反応が遅れた。


「そうだ。誡ちゃんチョコ食べる?」


 そう言って投げ渡されたのは一粒のチョコレートだった。透明なビニールの両側を捻じって包んだだけの、よく見る何の変哲もないお徳用チョコである。


 見た感じ特に危険は存在しない。なので受け取ったそれを普通にいただきますと言って口に入れた。


 私にすれば自然な行為だったのだが仕種さんにとってはそうではなかったらしく、口元に手をやり少しのけ反っていた。


「――――驚いた。絶対食べないだろうと思ったのに。……警戒心なさすぎなんじゃない? どうして被害者が無抵抗だったのか、とか考えないのかしら。それとも私の早とちりかな? それにしては距離、詰めないよね」


 仕種さんが小首をかしげる。表情はにこやかだがいつもの笑顔と少し毛色が違う気がした。


 途端、視界が揺らぐ。そうして初めて仕種さんから私への警告が発せられた。人影の周囲を点滅するそれは、警戒の色。


 手足の先から冷えていくのがわかる。心音が耳に聞こえだした。それはまだゆっくりと、規則的に響く。


 けれど、心音の速さは予感の到来と共に早まっていく。どんどん強くなる鼓動に頭は痛みを発しだしていた。


 風もないのに木々が揺れる。落ちてきた葉っぱ達は地面に着く前に蝶へ変わり、私の目前で烏となって羽ばたいた。鼻をくすぐる焼け焦げの臭い。視界いっぱいに広がった烏の羽の向こうに仕種さんが見える。


 かぁ、と烏がいて、私は我に還った。烏なんてどこにもいない。蝶は舞わないし、木々も沈黙を保ったままだ。今のは正真正銘の幻覚だ。時々現れる、現実から切り離された、自身への警告替わりの幻想。


 稀癌が告げる明確な命の危険。


 いつのまにか仕種さんは肩から袋を下ろして、入り口を縛ったひもをほどいている。


 開く口から溢れた紺色の液体が、待ち焦がれていたというようにゆるゆると彼女の細い腕を上っていく。


「ねぇ。聞きたいのは昼間のことじゃないわよね。本当に確かめたいのは、一つだけ。

 人がみんな寝静まった丑三つ時に、あたしがいったい、どこでなにをしていたのか、なんでしょう?」


 そう言って現れたのは、日本刀の柄だった。鞘に入ってはいるものの、私にはその異様さがはっきりと分かる。


 わかってしまう。

 あれは、よくないものだと、稀癌が告げる。


「その反応、やっぱり知ってたんだ。ニュースだと凶器については情報規制入ってたと思うんだけど。まあいいわ。それで? ご感想は?」


 袋から日本刀の柄だけちらちらと見せながら、仕種さんが笑う。なにを言えばいいのか。彼女がどんな言葉を欲しているのか、私には分からない。そんなものが分かるほど、私は感性が豊かではない。


 浮かんだ「どうして貴女が」という言葉だけは胸の底まで飲み込み、考えていたままを話す。


「…………貴女が、次の被害者なのではないだろうかと……。……を見るまでは、貴女が誰かに狙われている可能性の方が高いと、考えていました」


 仕種さんはなにも答えない。私の言葉を聞いているのかいないのか。もしくは、私の言葉を信用していないのか。にじみ出ている警戒心は彼女なりの拒絶にも見えて、私はどうしてか仕種さんを正面から見ることができない。


「…………貴女の目的は、なんなのですか」


 柔らかなかすみに喉を締め付けられるような感覚を堪えて、そう訊く。

 仕種さんは答える代わりに日本刀の包みを取って足元へ落とした。


 刀の全体が露わになる。長さは柄まで合わせて八十から九十センチほどだろう。日本刀としては平均的な長さだ。若干柄が通常よりも長いようだが、他に特筆すべき点は見受けられない。よほど古いものなのだろう。鞘は少し薄汚れ、傷ついている。


 口内に染みてくる鉄の味に、つい眉間に力が籠る。生唾を無理矢理に嚥下えんげし私は続けた。


「……私の経験上、殺しというのは常にリスクが伴います。それを四度続けたからには何か理由があるはずです」


「…………うーん」


 刀が浮く。仕種さんがバトンのように刀を振り回し始めたからだ。しばらく手で弄んで、ようやく仕種さんは口を開いた。


「あたしね、親友が欲しいのよ」

「………………え」


 マヌケに口でも空いていたのだろう。私の表情を見た仕種さんは、その顔に笑みを浮かべた。


「ふふっ。意味が分からないでしょ? それでいいのよ。それが正しいわ。普通は理解なんてされないの。でもね、あたし自分の一部にベールをかけ続けるのは虚しくなっちゃったんだ」


 一人でなにかに納得したように仕種さんが頷く。彼女がなにを言っているのか私にはよく分からず、ただ茫然ぼうぜんと立ち尽くすことしかできない。なにか反応を返すことができればよかったのだけれど、生憎と脳の処理が追いついていなかった。


「あたしに家族がいないって先生に聞いた?」


「…………強盗に、抵抗したと」


「ふぅん。表向きはそうなってるのね。でも違うよ? 私の家族を殺したのは、その家族自身なんだもん。

 犯人は当時八歳だったその家の長女。あの日は結局三人が死んじゃった。それで私は天涯孤独の身になったの。私の事を一番理解してくれるはずのお父さんも、優しく受け入れてくれるはずのお母さんも、皆死んだ」


 足元に咲いていた小さな花の花弁を仕種さんが千切る。開いた手のひらには、ばらばらになった花びらが乗っている。彼女は息を吹きかけてあらかた飛ばした後、服についた虫にするような仕草で残りを払った。


 意味もなく手折られた花はもはや花ではなく、残された茎は中途半端に伸びた雑草達と見分けがつかない。


「一番に受け入れてくれるはずの存在があたしにはもういない。だからあたしはあたしの本当をずっと隠してきたの。けどね、なんだか虚しくなっちゃった。

 だからあたしは親友が欲しかった。あたしのこの衝動を知ったうえで友達やってくれるような、そんな唯一無二の至高の存在が。だってあたしには無条件に愛をくれる身内なんて、誰一人残っていないんだもの。だから殺したの。あたしは、あたしのことを『友達』だと言ってくれた子達を殺したのよ。だって親友になって欲しかったから。

 病院の元通院者にわざと近づいたのは、そういう一度壊れた子のほうが、なんだろ、感性が近いかもって思ったんだけど。四人ともだめだった」


 仕種さんの言葉を聞きながら、私には単語の意味は分かっても、その言わんとするところがどうしても理解できなかった。彼女はいったい何を言っているのだろう。共感できないのは私の感情が薄いせいだろうか。


 私は心の鈍感さから、感情を判断の材料にすることが難しい。自分の感じるままに行動すればそれは世間の常識から大きく外れたものとなってしまうのだ。

 だから私の中の倫理や道徳は知識の集積でしかない。普段はその集積物を使って未知の概念を評価している。今も比較を試みているが、理解は難しい。


 それともすでに、彼女は世間一般の語る常識という枠組みから遠く離れてしまっていたのだろうか。


 何も言わずただ立っているだけの私に、仕種さんは失望したふうでもなく、ただ少し疲労を表情の内に滲ませていた。


「親友が欲しくて努力して、警察の目とか世間の言葉とかに耐えながら頑張ってきたけど、やっぱり疲れてきちゃったよ。だから、君が終わらせ方を決めていいよ。というわけで――――こう聴こう」


 笑顔のやさしさと裏腹に、仕種さんから感じる脅威が上昇していく。いや、違う。刀から発せられていたものが、仕種さんのそれと絡み合うように同化しつつあるのだ。


 その圧は私の肺を焼き、はらわたを千切らんとする。


 やがて爆発するような黒に飲まれた仕種さんは、おもむろに刀を抜いた。

 友人わたしにフォークを差し出すような、自然な動きだった。


「汝は我が障害なりや? 逃げ出し警察にすがるも良い。我に立ち向かうも良いだろう。もしくはあたしの愚かなる行為を戒めんとするか、それとも…………。さあ、どうする?」


 唐突に仕種さんの口調が変わった。それはまるで別の誰かに乗り移られたかのように。薄い月光に晒された刀身が冷たく光る。その耀きは、彼女が浮かべている笑顔と同質のものだった。


「もう一度問おう。――汝は敵なりや?」


 刀を抜いた影響なのか、やはり仕種さんの言葉遣いがおかしい。古風ではあるが古文的と呼ぶにはあまりに古典文法が大方無視されている。彼女の変化があまりに急だったからか、私には正面に立つ女性が仕種さん以外の何物にも見えない。


 鋭い切っ先を向けられながら、私の頭に浮かんだのはなぜか更科君だった。今ここに彼がいなくてよかった。浮かんだ思いはそれだけで、私は仕種さんへ特別変わった感情を抱けずにいる。発せられる危険も感じる脅威も確かに私の身体に届く。けれど、やはり私には今まで見てきたこの女性の優しさを振りほどくことはできなかった。


 だからだろうか。私は特に難しいことを考えないまま答えた。


「…………私はあなたの敵にはなりません」


 はたして彼女がどう動くのか、無意識に左手をウエストバックへと伸ばしながら観察していると、なぜか仕種さんはあっけなく刀を下ろした。


「そっか。じゃあ、今日はもう帰るよ」


 そのまま刀を鞘に戻し、捨てた袋を拾い上げて包みだす。


 話はもう終わったと言わんばかりの素早さだった。呆気にとられ、またも私は反応できない。気が付けば場を満たしていた危険性は全て霧散していた。仕種さんに移っていた脅威も日本刀へと戻っている。


「具体的にあたしをどうしたいか決めたらまた連絡して。それがどんな決意でも惰性でも、文句はないから。

 でもできれば――――誡ちゃんには、あたしの親友になってもらいたかったけどね」


 それだけ言い残して仕種さんは本当に帰って行った。後姿を見送りながら私は展開に納得がいっていなかった。どうして自分があの窮地を乗り切ることができたのかわけが分からない。私は仕種さんの望んだ答えを返すことができたのだろうか。


 肉体が緊張していたせいか身体から力が抜ける。私は静かに段差へ腰を下ろした。


 感覚情報の波にさらされていたせいで頭が酷く痛む。脳の処理速度が伝わる情報量に対して間に合わなかったからだ。


 座り込みながら時計を見る。時刻は二十時六分。仕種さんと話していたのは十分程度だったらしい。


「…………」


 私は頭を両の膝で包めるほどにうつむき、己の弱さを実感していた。


 私一人の力では事件を解決することも、彼女を助けることもできないのだろう。


『それがどんな決意でも惰性でも、文句はないから』


 そう仕種さんは言った。決意と惰性。そのどちらでも、彼女は私の出す答えを受け入れてくれると言ったのだ。どうにか仕種さんの望む答えをあげたい。けれど私にはその実力も感情も、備わっていない。


 漏れたため息は、疲労のためだけだっただろうか。力の入らなくなった足を私はただ見下ろしていた。


 今後なにをどうすればいいのか、とんと見当がつかなかった。


「――――誡さーん」


 どれほどの時間が経過しただろうか。しばらく無言で地面だけを見ていたが、遠くから背中にそんな音が届く。それが人間の発した意味ある声だということに私は一瞬気がつかなかった。人の走り寄る音が聞こえ、私の正面でそれは途切れる。


「誡さん遅れてごめん。――もしかして、もう全部終わっちゃった?」


 頭を上げると、そこには見知った顔があった。走って来たのだろう。少年は息を切らせ、髪を乱し、それでも困ったような笑みを浮かべていた。表情のお手本のような見事な苦笑だ。


 危険など感じない。それどころかどこか暖かなその表情に、私はつい手を伸ばした。


「? えっと……」


 更科君は困惑しつつも、力なく伸ばされた私の手を取り、引っ張った。彼の手の熱が緊張で冷たくなっていた私の掌に伝わってくる。引き起こされて立ち上がった私の足は、しっかりと地面を踏みしめていた。


「誡さん? なにかあった?」

「…………ええ」


 肯定して更科君の手を放す。彼の熱が残った手をもう片方の手で握り絞めて、私は少し高い位置にある少年の顔を見つめた。


「…………どうか、私に足りないものを貸してくれませんか」


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