第20話 アネモネ
18
夕焼けが街へ降りる。瓦の屋根も、商店の屋上も、アパートの陰も、水の抜かれた田んぼすらも、全てが夕日に焼かれてオレンジに染まっていく。
茜色に呑まれた風景を見下ろす位置に、田舎にしてはひと際高いビルがあった。
「かくして確固たる自分だけの自分を持てなかった少年は、決して譲りたくない特別を手に入れたのでした。めでたしめでたし。
…………なんて、変わり始めはこれからなのよね。恋を知ったくらいで、今更あなたたちが簡単に救われると思ったら大間違いよ」
屋上の縁に座り足をプラプラと揺らす少女は猫を思わせる吊り目気味な瞳を輝かせ、日の沈みゆく街を眺めている。腰まである長い黒髪が絹のように風になびき、夕日に照らされまるで金糸のようだ。
年の頃は十二、三歳だろう。しかし表情はまだ未成熟な体つきに不釣り合いなほど大人びていて、そのアンバランスさが、余計に少女の危うい美しさを際立たせていた。
ふと、自分の名前を呼ぶ声を聴いたような気がして少女は振り返った。
そこに居たのは、輝くような銀髪が特徴的な男だ。薄い色のサングラスを透かして男は醤油瓶を凝視している。その目つきは顔に似合わず老成していて、少女とは反対に
「あらレゾン、呼んだかしら」
少女の問いかけに男はお酢の瓶を掲げながら応える。
「呼んださ。もちろん。突然やってきて突然意味の分からないことを一人で喋り始める。相も変わらずおかしな女だ君は」
やれやれ、というふうに男は嘆息する。餃子を目前に理想の割合の酢醤油を作ろうとしている「自称千年生きた吸血鬼」に向けて、少女は微笑んだ。
「ふふ。それはお互いさまよ、レゾン。……ただ想定通りに物語が進んでいるから、少し嬉しくなっただけ。まだまだ計画完遂には程遠いけれど、ようやくここから始まるわ」
「ほう。今度は何を始めるというのだ、
にやりと、牙を見せて吸血鬼が笑う。そこには不思議と下品さはなく、しかしそれでいて人を底冷えさせる魔があった。
そんな古くからの友人の表情へ爽やかな笑みを返しながら、伊神依琥乃は全てを見透かすように目を細めて立ち上がった。屋上の縁に立ったまま振り返り、スカートをなびかせる。自信と妖艶さを伴いながら、殺風景な区間に花を添えるように、明るい声を響かせた。
「もちろん、悲しいことよ。そしてとても楽しいこと。せっかくの今生だもの。私は私の願いを叶えるために自分の命を使うの。実益と欲望は共に満たされてこそでしょう? そのためには何を利用しようと構わないわ」
「ふはっ。『何を利用しようと』など、らしくないことを言う。そもそも君の目指すべき誕生は遥か昔から定まっているだろうに。寄り道ばかりするから、君はいつまでたっても――」
「いいじゃない。人生なんて一度きりよ。それが普通なの。だから、やりたいことをやるだけ。いつも手伝って貰っている身でこう言うのは申し訳ないけど、そんなもの、二の次よ」
にこりと愛嬌たっぷりに笑って、少女は縁から跳ぶように降り、そのままビルの内部に続く階段へと向かった。
「帰るのか?」
「ええ。今日は様子を見に来ただけだし、やることが多いから。じゃあまたね、レゾン。餃子の食べ過ぎでうっかり死なないように」
そう言い残して少女は重い扉をくぐった。留め具がガチャリと鳴り、階段を下りる音が遠ざかっていく。少女が来る前と同じようにしんと静まり返った屋上で、冷えきってしまった餃子に嘆息をつきながらレーゾン・デートルは沈みかけの夕日を睨む。
「まったく。俺には思いつきもしないジョークだよ。やはり趣味の悪い女だ」
自称千年生きた吸血鬼。つまり、最低千年死んだことがないその男は、眉をひそめて微笑みを零した。
19
緑に囲まれた二階建ての真っ白い建物。幼い頃に見たよりも、どこか小さくなってしまったように感じるその建物こそが、私がお世話になった個人経営の精神科である。
院長は他県の大学病院からも誘いが来るほど腕のいい人だったが、結局老年になるまでこの小さな病院を営んでいた。
先生は「
依琥乃が以前言っていたが、我が県は霊峰
聡い人なのだ、先生は。そうでなくては精神科医など続けられないのかもしれないが。
『クローズ』と札をされた正面玄関を通り過ぎ、裏口から中へ入る。慣れ親しんだ廊下をゆっくりと進む。以前は面談室とプレートが下がっていた部屋の前で、私は一度立ち止まった。可愛らしいウサギが書かれていたあのプレートはどうやら撤去されてしまったらしい。改めてこの場所が無くなるという事実が頭に浮かぶ。
抱えていた花束を左手に持ち替え、三度ノックした。
「ああ、いるとも」
柔らかで厳かな老齢の男性の声が応える。失礼しますと断って、私は扉をスライドさせた。
真っ白な部屋に小さな机と二つの椅子。緑色のカーテンのかかった掃き出し窓からは、温かな日の光が入り込んでいた。以前は壁にたくさんの絵やイラストが貼ってあったが、今はもう全て剥がされている。
少し寂しくなった部屋でテレビを眺めていたのは、白髪を頭に
「よく来たね。久しぶりだ誡君。わざわざ僕のために、ありがとう。その花束は?」
「……お土産、のようなものです。ご迷惑でないなら……」
「迷惑だなんて思わないよ。ありがとう。――ああ、綺麗な赤色だ」
「……
さすがにこの季節に彼岸花は調達できないので、花屋で一番赤色の鮮やかな花を包んでもらってきた。花弁がぎざぎざとしていて、花火に似ていると言えなくもないのではなかろうか。
「うん。いい花だね。せっかくだ。そこの花瓶に生けよう」
「……それは私が」
立ち上がろうとした先生を制して、渡した花束をもう一度預かった。慣れ親しんだ部屋の中、洗面所へ向かう。
空いている花瓶を手に取ろうとして、その横の花瓶に真新しい花が生けられているのに気が付いた。
真っ白な丸い花びらが大輪を形作り、黒く粒の大きな花粉だけが白を際立たせるように中心に浮かんでいる。遠くからでも目立つ花だ。葉にはまだ水滴が残っている。
なんだか気になって、先生に訊いた。
「……先生、これは」
「ああ、それはさっきまでいた子が持って来てくれたんだ。誡君と同じように、ここに通っていた子でね。どこかで僕が定年退職すると聞いたらしく挨拶に来てくれたんだよ。ほとんどすれ違いだったね」
「…………そうですか」
なぜ気になったのか自分でも説明できなかった。稀癌はなにも反応していない。これはただの花だ。胸に詰まった、内臓の表面を這うような違和感をひとまず横に置き、私は自分の持ってきた花を丁寧に花瓶に挿した。
角のない机を隔てて先生の対面に座る。こうしていると幼かったあの頃に戻ったような既視感があった。
「……先生もお変わりないようで安心しました」
「いやぁ。僕も年をとりましたよ。特に腰のあたりがいかん。そういう誡君は少し変わったようだね。――うん。雰囲気が柔らかくなった。良い出会いに恵まれているようだ」
ぴんと伸びた背筋を苦笑しながら撫でる。そうして先生はいつもどおり机の上に両の手の平を置いて、私を眩しそうに見た。
私は頷いた。考えてみれば、私が他人と喋ることを
この先生に出会えてよかったと、心の底から感じることができる。
だからこの人が引退してしまうのが私には信じ難いことで、どうも肺の辺りに圧迫感を抱いてしかたない。
「僕もたくさんの患者さんたちに出会った。ここ数日、いろんな人が顔を見せに来てくれたよ。みんな成長していて、うれしかった。僕が老いぼれたことを痛感させられましたよ。
そう。長い時が過ぎた。僕も引き際です。よかったことは、どうやら僕は、たくさんの人にたくさんのことを残せたらしいということです」
少しだけ眉根をひそめて口元を引き結ぶように笑う先生に、私は気の利いた言葉は言えない。だから浮かんできたことだけを伝えた。今日はそれを言いに来たのだから。
「……先生は、誰かの記憶に残り続ける方です。恩人として」
「――――ああ。うれしいね」
今度は、朗らかな笑みが浮かんでいた。
私もこうなりたいと頭のどこかで感じていた。
誰かの記憶に残る。それも、良い思い出として。
そんな人間になれたなら、たとえ感情が希薄でも、心ない存在でも。私は人間らしく生きたのだと胸を張れる気がした。
意味ある沈黙が部屋を流れる。すでに傾き始めた夕日が窓から室内をあまねく照らし出していた。
ふと、点いたままのテレビ画面に視線が移った。
映っていたのはニュース番組のキャスターだ。相変わらず、連続殺人事件の情報提供を呼び掛けている。スタジオで俯き涙を流しているのは被害者の母親らしき人物だ。しきりに、お願いします、お願いしますと大袈裟に頭を下げ続けている。
終わった命に、なぜそこまで執着するのだろうか。
理解できない私が正面に向き直ると、先生もテレビの画面を見ていた。その顔は我が事のように悲壮を形作っている。表情豊かな好々爺だ。この人は誰からも好かれて生きてきたのだろう。
そう考えたことになぜか後ろめたさのようなものが芽生えるのを感じていると、先生が視線を先ほどの花瓶へ移した。つられて私もあの大きな花を見やる。やはりあの花からは存在感というか、圧迫感すら伝わってくる。自己主張の強い品種だ。
「偶然なんだろうけどね、今回の被害者は、みんな僕の患者だった子たちなんだよ」
おもむろに呟かれた言葉が私の意識の全てを捕らえる。聞き返そうとする前に先生が続けた。
「もともと僕の所に来る子たちは、みんな不安定な所がある子だからね。長くこの仕事をやっていると、たまに、ニュースで自分の患者の最期を知ることがある。自殺だったり、事件を起こしていたり。そういう時はね、救いきれなかったんだと感じてしまうよ」
そんなことを零す先生に対して、私の中にとっさに浮かんだのは一つの持論だった。
「…………違います。先生は、彼らの手助けをしただけです。……それで救われたかどうかは彼らの問題であって、気に病むことではありません」
私としては、どうにか先生の感傷を否定しようとしただけだったのだが。先生が浮かべたのはやはり笑みだった。
「それは、とても優しくて悲しい考えだね。そういう君自身の考えは、大切にしていきなさい」
逆に諭されてしまった。やはり私には誰かを慰めるような高等技術は使えないらしい。
「けれど今回の事件は別だ。殺されたのはみんな、立ち直った子たちでね。家庭に問題を抱えてはいるが、ただの被害者なんだよ。みんなそう」
「……それはつまり、事件の被害者全員にここの通院歴があるということですか」
「うん、そうだよ」
「…………」
おかしい。射牒さんは被害者に共通点はないと言っていたはずだ。
「……そのことを、警察の方はご存知なのですか」
「はは、知っているとも。ここにも随分と調査が入った。しかし僕はもちろん、働いてくれていた人たちも無関係だと証明されたよ。それに、通院中だった子たちもね」
「……そうですか」
では無関係だと確約されているから、射牒さんはここのことを話さなかったのだろうか。そうかもしれない。あの人は無駄な情報や不確かな情報を嫌う。そのくせ自分の直感を信じるから、時々
……なぜかは分からない。なぜか分からないが、私の視線は再度あの花に向けられていた。
そうして気づく。色が違うから気づかなかったが、あの花の名は恐らくアネモネだ。花屋に立ち寄った時にも赤いアネモネを見かけた。その時考えたはずだ。この花の名前を、つい最近どこかで聴いたはずだと。
「……先生、あの花を持ってこられたのは、どんな方ですか」
我ながら小さな声だったが、先生の耳には届いたらしい。少し逡巡してから、先生は口を開いた。
「そうだね……。
それでも恩義を感じてくれたのか、時々顔を見せに来て、最近はなにがあった、こんなことがあったって、無邪気に話してくれるんだ。いい子だよ、彼女は」
染み入るように言葉を紡ぐ。先生の言葉に嘘は感じられない。
「……ご両親が亡くなられたというのは」
「うん、まあ、強盗に抵抗しようとしたらしい。犯人は未だに捕まっていないそうだ。そのせいか、彼女は国家権力を軽視する傾向がある。あれだけはいけないね」
そういえば彼女も警察を無能だと言っていた気がする。そうか、だからか。
「……先生、その女性の名前は」
「――――いやあ、個人情報をあまり出してはいけないんだけどね。……誡君なら大丈夫だと信じているが。
うん、彼女の名前は
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