第15話 彼女の一面
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まき散らされたのは誰の血だ?
零れ落ちたのは内臓か?
そんな
とうに醜く汚れた我が人生よ。なにを躊躇うものがある。求めるものは、ほんの些細なもののはず。だが手に入らぬソレはもしや、この世に存在せぬとほざくか。
諦めはとうに過ぎた。奈落の底は、すでに我が頭上にある。
なれば呟くは、どこかで見知ったその言葉。
君死にたまふことなかれ。
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「……連続殺人事件の発生に際して、県内の全ての組が表向き青少年への麻薬販売を一時的に禁止していることは知っているでしょう。……あなたはその決まりをあからさまに犯している」
「なッ、なんでッ、そんんなァ、こと!」
「……師匠がそういう方々とパイプがありますから。私も時々お世話になっています。……上も警察に無駄な詮索されたくなくて必死なのです。上納金の期限が迫っているかは分かりませんが、もう少し大人しくしていてくださいませんか」
一瞬意識が薄れ、すぐにそんな会話で引き戻された。
誡さんは拳銃を腰に巻いたウエストバックに仕舞ってから、まだ座り込んだままの
「……更科君。申し訳ないのですが、立って走ってくれませんか」
「え?」
「……逃げます」
「へぇ? っわ!」
立ち上がった途端に手を引っ張られる。走り出した彼女に追いすがるように
「ど、どうしたの?」
「……清潔そうな刺激臭が近づいています。おそらく警察の巡回です。先ほどの男がヘマをしていたのかもしれません」
清潔そうな刺激臭とはなんぞや、と聞きたいけど、無理だ。彼女の走りはおよそ全力疾走に近い。男の
そのままバス停三つ分くらいの距離を走って、ビルの陰でようやく誡さんは立ち止まった。危険域から出たのだろうか。
「……歩けますか」
すでに呼吸を整えたらしい誡さんにそう訊かれる。うん、と返事をして真っすぐ立った。そこで気づく。
「誡さん、あの。手を、離してもらっていいかな?」
誡さんはなぜか繋がれた手を数秒見つめ、ゆっくりと結んだ指をほどいた。
「…………ごめんなさい。忘れていました」
表情こそ変わらないが、なんだか申し訳なさそうにしている。どうしたのだろう?
何か声をかけようかと逡巡したけど、誡さんは何事もなかったように歩き出した。タイミングを逃した
どんどん市内から離れていく。どこに向かっているんだろう。
十数分、人の気配を避けながら進み、誡さんは小さなビルの前でようやく
「……ここの地下は
そう言ってウエストバックから一枚のカードキーを取り出して、最奥の扉にかざした。鍵が解除される音が鳴る。扉を開くと地下への階段が現れた。
「……洗濯機とシャワーも完備されていますから、その返り血を流しましょう」
階段の下は思ったよりも広い空間だった。中央にはプロレスのリングがあり、その周辺にはサンドバックやランニングマシーン、果てには見覚えはあるが名前の分からないトレーニング用具がいくつも無造作に並んでいた。壁際にはいくつかロッカーが置かれている。
地下ということも相まって怪しい空間のようにも見えるが、照明が明るい分、健康的にも見える。
しかしその考えは少し間違いかもしれない。白い壁の汚れが明るめの電灯に照らされて際立っている。普通の汚れじゃない。おそらくは、血の跡だ。
奥の方にはまだ複数の通路がある。それぞれ掛けられている案内にはこうあった。
『トイレ』『シャワー室』『射撃場』
射撃場!?
あるの? こんな町中に?
呆然としているとリングの向こうで何かが動いた。大きい人影が
「ああああああああああああ誡ちゃんじゃなあああああい!」
「ぐふぇっ」
巨体に突如抱きしめられ誡さんが呻きを漏らす。一瞬男性かと思ったが違った。誡さんに頬ずりしているのは、筋肉隆々としたごつめのご婦人だった。
身長はたぶん二メートルを超えてるんじゃなかろうか。声も低めで、唯一女性らしい大きい胸も筋肉と見紛う
「んもうっ、久しぶりね誡ちゃん。相変わらず可愛らしい! こんな時間にどうしたの? トレーニングにしてはちょっと早めすぎない? 今日は射牒さん見てないわよ」
「…………ご無沙汰しています、
「私は仕事よう。また馬鹿共が喧嘩してね。血みどろに怪我したってんで呼ばれたの。今は一人で後片付けしてたトコ」
「……そうでしたか。お疲れ様です」
テンションが高い女性だ。誡さんを離した後もしきりに頭を撫でたり頬をつついたりしている。慣れているのか誡さんはお構いなしだ。
呆気に取られている
「……こちらは保本さんです。医者をしていて、ここの主治医のようなものです」
「あらあら、気づかなくてごめんね。保本です。本業は闇医者よ。そこらの奴等より腕は立つから
保本さんが
「……それは返り血です。彼は更科君。依琥乃の親戚です」
「依琥乃ちゃんって、確か誡の親友ちゃんよね。なに、コノ子誡ちゃんの彼氏ちゃん?」
「いいえ。……保本さん、落ち着いてください。血を見て興奮しないでください」
キャーっと嬉しそうにする保本さんと、冷静にそれを
それにしても。……恋人、に、見えるのかな。いや、釣り合わないだろうけど。でも年頃の男女が共にいればそういう目で見てくる人もいるわけで――。
「……更科君」
「うへぇあい!」
「…………向こうにシャワールームがあります。着替えは用意しておきますので、先に入ってください」
「うんっ。わかった!」
慌てて返事をして部屋の奥へと向かう。
背中になんだか視線を感じた気がしたけど、
脱衣所には洗濯機と乾燥機が設置されていた。どうやら自由に使っていいらしい。冷や汗で服が濡れていることに気づいた
大きな学校の部活動生が使うような簡易シャワーで返り血と汗を流し外へ出る。籠に用意されていたのは、大きめのシャツと半ズボンだった。ここで汗を流す人たちのために常備されているものなのだろう。サイズが明らかに大人用だった。
ドライヤーが見当たらないので濡れた髪のまま脱衣所から出る。
リング横のベンチでは、保本さんと誡さんがなにやら話をしている。
「何を話してたんですか?」
「んふっ。なんだと思う?」
「えぇっ。えーっと……」
想像つかない。
「アナタのことよ」
「
保本さんに手招きされる。
「アナタがシャワーに入った後もぼんやり突っ立ってるから『どうしたの?』って聞いたのよ。そしたらアノ子『……彼を怖がらせたかもしれません』なんて言うのよ」
似ていない誡さんのモノマネをしつつ、保本さんはベンチをダンダンと叩く。感情表現が激しい人だ。でも衝撃で地震みたいに身体が揺れて気持ち悪くなるから、できれば止めて欲しいです。
「さっきの返り血、アレどうしたの? まさかアナタが喧嘩したってわけじゃないんでしょう?」
保本さんはベンチを叩くのを止めて
「…………あれは、誡さんが」
「ふふ。やぁっぱり」
最後まで言っていないのに保本さんが笑い出した。その顔は、まるきり微笑ましく小動物を見るそれだ。
「誡ってね、誰かを守るためには簡単に攻勢に出ちゃう
「――――ナイフで、斬りつけられそうになりました」
「それね。アノ子、自分に降りかかる危険は器用に避けるんだけど、他人のはね。避けるっていうより、払いのけるのよね。しかも全力で。たぶん生まれつきのものよね。変えられないのよ。三つ子の魂百までって言うし? 身内にはすこぶる甘いのよ、誡は」
つまりあなたも身内認定されてるってことよ、と保本さんがウインクする。
けどそれはきっと違う。
心の表面ではそうやって平静を保とうとするけど、なぜか保本さんの言葉は身体の芯へ染み込んでいって止まらなかった。
「誡さんのこと詳しいんですね。彼女、表情が変わらないから。
恥じ入るようにそう告白する。しかし俯く
「んもぅ。やっぱり男って馬鹿ね。アノ子の考えてることなんて、ワタシにも分かんないわよ。アノ子の想いはアノ子にしかわからない。
アナタみたいな昼間の人間にも、ワタシみたいな夜の人間にも、そこを行き来する
ワタシにわかるのは、それだけ。うふふっ。大切なのは理解しようとする心意気よ!」
そう言って保本さんは力こぶを作って見せる。すっごい筋肉。白衣の上からでもわかる。心意気より筋肉に見惚れてしまうほどだった。
「でもあなたは誡さんをよく理解しているように見えますけど」
「馬鹿ね。これはただの人生経験と、女の勘よ!」
片目を閉じてバチンッっとウインク。鍛え上げられた筋肉に似合わない、可愛らしいウインクだった。
「アナタみたいな普通の子が誡ちゃんの傍に居るのは大変なことだろうけど。幼馴染の仲介なしでも、一人の己として誡と共に居たいと願うなら頑張りなさい。
今度は勢いよくバンバンと背中を叩かれる。一方的に気合が注入されていく気がする。なんだか
……ところでだいぶ背中が痛むのですが。
数分後、保本さんが「誡たんによろしくね!」と言って帰るころには、
「……保本さんは」
「帰ったよ。誡さんによろしくだって」
「……そうですか」
シャワー室から出てきた誡さんとそんな短いやり取りをする。彼女は
誡さんはやはり髪が濡れたままだった。濡髪の美少女といえば健全な男子中学生としては嬉しいけれど目に毒だ。隣に座った彼女に訊く。
「ドライヤー、置いてないの? 髪の毛傷んじゃうよ」
せっかく綺麗な黒髪なのに。
「……ありません。この間壊れてそのまま。……ここに来る人間はドライヤーを必要としないような人ばかりですから」
「じゃあ、せめてちゃんと拭かないと」
隅の棚に置かれていた真っ白なバスタオルを彼女の頭に被せた。前髪の間から誡さんが
「…………わかりました」
ぼそぼそと呟いて、誡さんが髪の毛を拭き始める。
ここ数時間、大人の男性達と相対する彼女をずっと見ていたせいか、イメージの中でその背中をもう少し大きく感じていた。
けれど違う。やっぱり陽苓誡は
なんだか話したいことがいっぱいある気がする。でも言葉は胸の内にだけ溢れてなかなか捕まえられない。だから髪を拭く誡さんに
「
「…………え」
「だからこの事件が解決するまで一緒にいてもいいかな?」
手を止めた誡さんが、顔をこっちに向ける。タオルに隠れてその表情は見えない。それでもきっと、彼女はいつも通りの無表情でいるんだろうなと思った。
「…………………………足手まといです」
長い沈黙の後、誡さんがそう言った。言いつつ顔を背ける。
幼い頃から
でも
答えるまでの長い沈黙は、誡さんなりにきっと色々考えたからだ。なんとなくの勢いで拒絶されたわけじゃない。
大丈夫。
でも足手まといになるのはたぶん事実だ。そこをどう言いくるめばいいだろう。
言葉が浮かばずに沈黙していると、隣で誡さんがバスタオルをとった。髪を拭き終わったのかと彼女の方に顔を向けると、
突然で何が起こったのか分からない。タオルの白と湿気った感触に包まれ、甘い香りが鼻孔を満たす。どう考えなくてもこれ誡さんが使ってたバスタオルを被せられている。
「あ、あの、誡さん?」
「――――気絶したように見えました。一瞬」
「……え?」
「……あの時あなたを襲ったのは、恐怖ではありませんでしたか」
普段と同じ口調。同じ調子。タオルを取ればきっと、変わらない無表情がそこにある。
でも誡さんは、何かを感じて
それはたぶん、「不安」と呼ばれるべきものじゃないだろうか。
危険を感じ取る稀癌。多すぎるその感覚情報に抗うように希薄になったという、感情。
……無いわけじゃないんだ。彼女は心無い化け物でも役割をこなすだけのロボットでもない。彼女は、己のなかに溢れる感情を表現できないだけのようにも見える。
だって本当に感情がないなら、彼女はこんなにも言葉を選んで
だったら答えなくちゃならない。誡さんの不安を少しでも軽くできたなら。
「うん。たぶんそう。
「……では」
「うん。
普段はいつの間にか入れ替わっているから、どちらの
「……そうですか」
タオルに添えられていた誡さんの手がそっと離れる。
白い幕を外して彼女を見れば、やはり無表情が浮かんでいた。その瞳は
だから、続けた。
「でもね、この身体にいる
ゆらりと、少女の小さな体が揺れる。
「去年の初め、
誡さんの茶色がかった瞳が
「あっちの
沈黙があった。変わらない表情の下で、誡さんはいったい何を考えているんだろう。
知りたいと思った。だから
「…………許す、許さないは私にできることではありません。……生まれ持っての性質ならば、仕方がないことでしょう」
たっぷり、即席麺ができてしまうんじゃないかという長い静寂を破って、誡さんが呟く。
「……今後とも、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる彼女に
「もちろん」
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