第10話 想い合った奇跡の悲劇


         12


 ――――それでもわたしは、貴方から離れたくないのです。

 だって、こんなにも愛しているんです。

 愛しています。愛しています。愛しています。愛しています。死んでもわたしを愛し続けてくれる貴方を、わたしは愛し続けます。

 だから、たとえお互いを認識できなくなっても、わたしがわたしであることができなくなったとしても、魂だけは絶対に離れたくなかった。このまま永遠に一緒にいたかった。

 どうして死ななければならなかったのでしょう。同じ病気でも長く生きた人はたくさんいたのに。どうしてよりによって、貴方を愛したわたしを連れて行くのですか。

 もっと触れたかった。もっと語りたかった。もっと長い時を、一緒に歩んでいきたかったのに。

 だからせめて、今は一緒にいさせてください。

 ここで離ればなれになってしまったら、きっと二度と貴方に逢えない。

 そんなのは嫌です。貴方と出会えない世界に意味なんてあるはずがない。


 だから、どうか。


 もう何も感じない、考えないただの霊魂の寄り添いだったとしても。


 わたしは貴方と共にいたい────


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 五感に変調が生じた。うめき声が消えている。一瞬あの老人が消えたのかと考えたが、そうではない。玉座に君臨するミイラから、ふわりと白っぽいものが出てきた。あれが老人の霊魂なのだろう。


 呪いが消され身体に留まれなくなったことで、喋ることも思考することもできない、ただの霊に還ったのだ。私を襲ったあの亡霊たちも、老人の呪いによって屋敷に集められ縛られていたのだろうか。


 老人の霊体は、だんだんとその姿をおぼろに消していく。成仏というものだろうか。レゾンが改造した銃がもたらすそれとは違う、静かな終わりだ。


 これで帰れると私は銃を下ろそうとしたが、更科君が手を離さない。それどころか動こうともしない。私の左手は斜め上に固定されたままだ。


「……更科君」

「まだだよ」


 青年が私を制する。


「まだ、あの女性ひとがいる」


 真っすぐ更科君が見つめる先。玉座のその奥。そこに浮かんでいた女性の霊は、老人の魂を包むように抱きかかえている。そのせいだろうか。消えかけていた魂が少し色を取り戻していた。


 ……繋ぎとめようというのだろうか。

 彼女もまた、まともな理性などとっくに持たないはずなのに。


「誡、あの女性はたぶん、あの人を愛していたんだろうね。彼が呪いを生んでしまったのは、おそらく老後の、自分が死ぬ直前だ。それよりも前から――きっと自分が死んだ瞬間から――彼女はずっとあの男性から離れず傍にいたんだよ。自らの意思で」


「…………」


 けれどこれじゃあお互いがもう傷つくことしかないじゃないか。身体を離れた老人にはもう以前のように思考する力はない。自分を留める存在が、自分の愛した女性とは気づけない。


「女性にもきっと、もう知性は残ってないと思うよ。たぶん生前の想いが彼女を動かしてるだけだ」


 私の視線に気づいた更科君がそう付け加える。


「よほど術者の素養の高い女性ひとだったんだろう。自我もしばらく保てただろうし。でも死んでしまえば、それはただ過去の願望を繰り返す機構にすぎない」


 だからこそ起きた悲劇だったのだろうか。彼女が夫にりつかずに成仏していればあるいは、老人は呪いに堕ちるほど彼女を求めることはなかったかもしれない。彼女に力がなければ自分の夫のことは忘れてすぐに成仏していたかもしれない。


 しかしそれは終わった可能性の話だ。議論しても詮方せんかたない。

 今すべきは――――。


 「更科君。手を」


 拳銃に添えられた彼の手に軽く触れる。意図をくみ取ってくれた更科君は無言で手を離した。


 まだ友人のぬくもりが残る左手に自分の右手を添えて、構えなおす。今度は監視ではなく確かに発砲するために。師匠に叩き込まれた正しい姿勢で、身体の正面に彼女たちを捉える。


「…………それほどまでに想い合っているのなら、きっとまた逢えますよ。生まれ変わっても、たとえお互いを忘れてしまっても、あなた達ならきっと巡り逢えます。

 ……その程度には、世界は優しいですから」


 ――こんな私が依琥乃や更科君と出会えたように。


 それに依琥乃がそんな二人を見つけたら、絶対にお節介を焼いただろう。


 引き金に添えた指へ力を籠める。一瞬、霊達が私を見たような気がしたけれど、弾丸によって四散した後では確かめようもない。


 住む者の居なくなった屋敷に、よそ者の靴音だけが響いた。


          13


 ――――自分の意識が完全に消える瞬間に、ほんの些細ささいな幸せを夢見ました。


 また貴方と、夜に輝く月を見ながら話をしている。

 おもしろい話なんかできないのに、わたしは一生懸命に貴方へ語りかけて。貴方は黙って、微笑みを浮かべながら聞いてくれる。

 そんな幸せな一瞬が、どうか、

 

 いつかもう一度、訪れますように――――


          13


 私の自転車はレゾンのビルの入り口に置いてきてしまっている。更科君もレゾンに一言礼を言ってから帰るとのことだったので、私たちはそろって赤井廃ビルへ向かうことにした。


 こんな時間の──都市開発で多少賑わいが出たとはいえ──地方都市の田舎道に都合よくタクシーが走っているわけもなく、移動手段は徒歩である。


「誡、これ」


 名ばかりの繁華街を抜けると周辺から完全に人気がなくなる。それを待っていたかのように更科君が差し出したのは、霊体の爆散と共にはじき飛ばされた拳銃だった。

 拾ってくれていたようだ。


「すごいね、これ。なんか脈打ってるけどレゾンの仕業? もう一個のほうも同じなの?」

 

 質問に頷きながら拳銃を受け取る。特にこだわりもないから師匠から貰ってそのまま使用していたけれど、この銃の正しい名称はなんというのだろう。いままで気にしたことがなかった。


 長年使ってきたからこの二丁が一番手に馴染む。捨てる気で投げたけれど、今考えれば失くすには惜しい。


「……大丈夫ですよ。明日になったら元通りになるそうですから」


「へえ。正直に言うとちょっと気持ち悪いから、元に戻るならよかったよ」


 そういって、更科君は銃を持っていた方の手をぷらぷらと揺らす。まるで汚物に触れた後のようだ。失礼ではないだろうか。


 それからはしばらく沈黙が続いた。私はもともと多弁ではない。更科君も一人で盛り上がって喋り倒すような奇怪な性格はしていない。多少の個性が見受けられるようになっても、そのあたりは出会った頃と変わらない。変わらないでいて欲しいと感じた。自分にしては珍しく、身勝手に、そう思った。


 感情の希薄な私でも、さきほどの出来事はなにか考えさせられるものがあったのかもしれない。


 屋敷のことを考えていたのは彼も同じだったようだ。私が月を眺めながら彼を盗み見ていると、その口が小さく動いた。


「……どうかしましたか」


 聞き取れず問うてみる。更科君は困ったように眉を寄せて薄く笑った。


「いや。あの二人出会えるといいな、ってね。そんなことを考えていたよ」


 真っ黒な髪を揺らして前を向く。その視線はどこを見ているのだろうか。

 誰を夢見ているのだろうか。


「――――更科君」


 無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。何? と更科君は律儀に私を振り返る。

 言いたいことがまとまっているわけではなかった。彼に何かを伝えなければと感じたのは確かだが、それがなんなのか、自分にもよく分かっていない。


 だから、ただ質問するだけにとどめた。


「……あの老人は、自ら望んで呪いを生んだのでしょうか」


 そもそも私は呪いというものを正しく把握していない。その生まれる過程も、原因も。そういった講釈は聞き流していたからだ。


 私は危険を感知して守りに徹すればいい。後は依琥乃や更科君がやってくれるだろうという怠惰心が自分に巣食っていたのは事実だ。


「うーん。呪いっていうのは不の感情の集合体みたいなものだから。恨みや怒りが極まれば、そこに呪いは生まれるよ。でも普通はその呪いが力を持つことはない。魔術的要因が混じらなければ、呪いはただの感情だ。

 あの老人は術の研究もしていたようだから、本人に魔術が使えなくても、意図せず呪いを実体化させてしまうことはあると思う。魔術や魔法は関わったという事実だけで影響があるものだから。

 本人も自分の呪いに気づいていなかったようだから、望んでいたわけじゃないんじゃないかな。

 それに自ら望んで自分を呪う人間はいないよ。愛している人を傷つけてしまうなら、なおさらだ。だって、呪いはあんなにも、いろんなものを傷つける」


「……それは、稀癌も同じではないですか。あなたの無個性は、あなたの稀癌の副作用のようなものです。あなたはその副作用に苦しめられている。……あの老人の言う通り稀癌と呪いはなにも違わないのでは」


「違うよ」


 珍しく更科君が即答する。先を歩く背中が私を待っている。すぐそばまで歩いて行って、私は更科君を見上げた。真っ黒な、新月の湖みたいな瞳があった。


「稀癌は前世の自分ぼくらが持ち続けた願いが今の自分ぼくらに影響を与えた結果だ。だからきっとこれは、前世からたくされたものなんだよ」


「託された……」


「うん。無視してもいい。振り回されても、利用してもいい。どうかこの願いが、次の自分の糧になりますようにって。きっとそういういわいだ。

 稀癌はくさびじゃないよ。自分ぼくの魔法で稀癌は消えない。異常な物じゃないんだ。存在が許されたものなんだよ。だから、稀癌を持つ人は、やっぱり稀人まれひとでいいんだ。……なんて、そう考えた方が、なんだかロマンチックでしょ?」


 照れ隠しのように更科君が笑う。最後の言い分には意義を感じなかったが、確かに異常でないならば、その存在にも意味はあるのかもしれない。


「副作用は……。そうだな。力には代償が必要だから。僕らはそれを支払っているに過ぎないんじゃないかな」


「……私はともかく、更科君の稀癌は特に役立っていない気がしますが」


「あははは確かにね……」


 肩を落とした更科君は幽鬼のようにうなだれてしまった。いや、足は動いている。幽霊ではない。生きている。


 更科君が深夜に屋外をうろついていた理由。それはおそらく依琥乃いこのの死の原因を突き止めることだ。


 一週間前に突然死んだ親友。警察は自殺だと断定し捜査を打ち切ったが、この件には恐らく何かの意図が隠されている。依琥乃は意味もなく死ぬような人間じゃない。


 更科君もそう考えたのだろう。見れば彼の履いている靴はずいぶんと湿った泥で汚れていた。いったいどこを歩き回っていたのだろうか。


 更科君はやがて姿勢を正し、月の輝く空を仰いだ。


「前世の自分ぼくは、いったい何を願ったんだろうね」


「……それは前世の更科君に訊くしかありませんね。一度幽体離脱でもして会いに行ってみますか、更科君が」


「それじゃ来世の自分ぼくが生まれるだけだよ」


 冗談に微笑みで返された。穏やかな空気だ。危険がない世界はこんなにも柔らかく、静かだ。


「…………私を置いて逝くということですね」


 暗いことを考えていた反動か、意図せず口も軽くなる。


「置いていったりしないよ。死んだら戻ってこれないからね。だから自分ぼくは死なない。それに死なないように誡が守ってくれるだろ?」


「……それはまぁ。もちろんですが」


 病気でもない健康体の友人に先立たれても目覚めが悪い。守れるものなら何でも守ろう。それがこの稀癌を持って生まれた私の役割であるはずだから。


 そして守るべき相手は今、目の前にいる。更科奏繁。彼は私と世間とを繋ぐ大切な友人だから。――失うわけにはいかないのは確かだ。


「…………お腹、空きませんか。特に糖分を補充したくなりませんか」


 なんだか沈黙がくすぐったくて、そんなことを口にする。更科君がちょっと目を見開いた。


「そうだね。確かに時間が時間だし、ちょっと小腹が空いたかも。うーん、スイーツならコンビニにでも寄ってく?」


「……いえ、貴方が作ってください」


「えっ!? 今から?」


「……はい、今から、更科君の部屋で、です」


 私の言い分に更科君は悩むようにうなる。


「……コンビニじゃ駄目?」


「駄目です」


 即答で返す。一度腹に決めてしまったので、自らの決定をくつがえすのはなかなかに面倒くさい。いつもならここで妥協するが、たまにはもう少しこだわってみてもいいだろう。


 更科君はなおもうなっている。この時間に開いているスーパーマーケットは周辺にない。家の冷蔵庫と相談でもしているのだろうか。


 もう少しでレゾンの居るビルに着くというタイミングで、逡巡しゅんじゅんを終えた更科君が困ったような笑みを浮かべて言った。


「ホットケーキでもいい?」


「…………」


「ホイップクリームとバニラアイスも付けるよ。どうかな?」


「――――いいでしょう。……それと更科君のやっていること、手伝いますよ。依琥乃の最期を調べるのでしょう」


「えっ。…………バレてた?」


「……露骨でしたから。それに私も、興味がないとも言い切れません。一人でやろうとしないでください。……依琥乃のことですし、意地悪な置き土産があるかもしれません。だから――」


 一緒のほうがいいです、と呟いて、私は先に歩き出す。後ろから彼が追いつこうと足を速める気配がする。その地面を蹴る音は不思議と耳に心地よく響いた。


 失ったものは戻らない。親友の声はすでに遠く、私たちの宝物はもういない。私が彼女にできることはきっと、死を呪わずにいたむことだけ。


 だから、今手にしている幸福を守ろう。いつか失うその日まで。


 私に微笑みかける彼にとって、それが幸福な未来であるように願いながら。



         第一章 亡霊の後世  了



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