沈黙の代償
花祭暁平
沈黙の代償
この町にはもう、人は住んでいませんでした。錆びた鉄の匂いを、いつも霞みが運んでいました。時たま、寂しそうに木がきしむ音がしました。それは、この町で聴ける唯一の音楽でした。
そんな町の、壊れた家々の合間に、まだしゃんと建っている建物がありました。喫茶ジル・ド・レ。誰かが霞みの中で、黒い影を揺らしています。
「今日の豆は……これだけか……」
老齢な男性が、自慢の髭を撫でながら言いました。もう誰もいなくなった町でも、この喫茶店の時間はまだ止まっていませんでした。今日もマスターは、常連客のためにコーヒー豆を仕入れます。もちろん、さびれた町に豆を届けてくれる業者などいません。かつての得意先も、だんだん離れていきました。
残った豆の袋を店内に入れながら、遠くを見ました。視界の先は真っ白で、右も左も分からないこの町。誰か真っ直ぐこちらに歩いてくるようです。
「来なすった……」
うす灰色のコートとお揃いのハットをちょいと上げて、その男は挨拶をしたようでした。マスターはゆっくり頷いて、足早に中へ入っていきました。
カランカラン、と静かにベルが鳴りました。店の中にはただふんわりと、コーヒーのかんばしい香りがただよっていました。
「いらっしゃいませ……」
男は席に着いても、コートと帽子を外しませんでした。マスターは無言で、カウンターの奥でコーヒーを淹れ始めます。何も言わなくても、出すものは分かっているからです。
慣れた手つきで淹れられたそのコーヒーは真っ黒で、光すら溶け込まないようでした。この店には砂糖やミルクは、置いてありません。必要がありませんから。
「……豆は、まだ足りているのか」
「はい」
どちらも目を合わせはしませんでした。男がコーヒーをひと口、ごくりと喉を鳴らしました。
「足りなくなれば、俺が持ってくるが」
「豆がなくなった時が、廃業の時です」
「そうか、悲しくなるな」
もうひと口、男がコーヒーをすすりました。
この喫茶店とこの町は、生まれた日は同じでした。この町で起こった色々なことを、この店は見てきました。喫茶店は、この町の最後のろうそくになりました。しかしそれももう、あと少しで火は消えてしまうのでしょうか。
カランカラン。ベルの音がしました。マスターの手が思わず、止まりました。目じりのしわがなくなるくらい、目を見開きました。男も顔には出しませんが、それにとても驚きました。俺のほかに客が来た。それが意味することはつまり……。
「……いらっしゃいませ」
「この店は初めてでね……」
男の横に座ったのは、人相の悪そうな男でした。両手に持っていた2つのアタッシュケースを、椅子の脇に丁寧に置きました。それから、メニューを見るまでもなく注文しました。
「レモンティーを……頼む」
マスターの手は震えていました。そして目を瞑りながら、言いました。
「……申し訳ございません。レモンティーはお出しするまでに時間がかかります。……よろしいですか?」
「……かまわんよ」
「かしこまりました。奥の方で、準備をしてまいります」
マスターがいなくなると、店内にはふたりの男が並んで座っていました。どちらもお互いの様子をうかがうことはなく、ただコーヒーを飲む男と、飲み物を待つ男がいるだけでした。
静けさが最高潮に達したくらいでしょうか、人相の悪い男が先に、口を開きました。
「アンタが、<龍>か」
コーヒーを飲む男の手が止まりました。そして初めて、ふたりは目を合わせました。<龍>と呼ばれた男の口角がにやりと上がりました。
「ああ……俺が<龍>だ。この方法を、どこで聞いたんだ?」
「随分時間がかかったよ、アンタを見つけんのは……。そんなことより、本題に入るぜ」
人相の悪い男は、その汚れた上着のポケットから小さな包みを取り出しました。中には地図と、誰かの写真と、メモが数枚入っていました。
「……明日の明朝。ここから北の方角に、大きな街がある。遂にジャック・ハッターが重い腰を上げたんだ。チャンスはそれしかない……」
「……ハッタリジャックか。その情報は、ハッタリじゃないんだろうな」
「ああ、保証する。なんせ俺は……いや、言ってはいけないんだったな……」
小包が<龍>に渡されると、ほぼ同時に奥の扉が開いて、マスターが顔を出しました。手には小さなカップがあって、レモンの爽やかな香りがしていました。どうぞ、とカップを差し出されると、男はその中を見つめました。澄んだオレンジ色をしていて、レモンの輪切りがプカプカと浮いていました。
「……ありがとう、マスター。お代を先に渡しておこう……200Mある」
男は持って来ていたあのアタッシュケースを2つ、静かにカウンターの上に置きました。マスターは無言でそれを受け取りました。<龍>は、それをただ見ているだけでした。
「……早速、いただくよ」
屈強な男には、小さなカップがまるでミニチュアのようでした。レモンティーはほぼひと口で、彼の喉を通っていったでしょう。それから男は、カップをカウンターに――置くことは出来ませんでした。陶器の割れる音が、店内に響きました。男はカウンターにうつ伏せになったまま、二度と喋ることはありませんでした。
「久しぶりだな、この方法は……」
「あなたも私も若い頃は、日常茶飯事でしたけどね」
「……違いねぇ。まあ、裏のある依頼みたいだ。それなりのケジメをつけて逝ったんだろう」
アタッシュケースの留め金を外すと、中には札束がぎっしりと詰まっていました。この国であれば、一生遊んで暮らせるくらいかも知れません。一通り札束が偽札でないことを確認して、ひと息つきました。隣の席の男のまぶたを、そっと閉じてやりました。まるで眠っているようです。それを見ながら、コーヒーをひと口飲みました。
明日の明朝。コーヒーを飲んだら出発しなければいけません。
「マスター、大きい仕事だ。ついでに街で豆を買って来てやろう。こうして依頼人も、まだ来るようだからな」
「……仕方ありません。廃業はまだまだ先ですかね」
「ああ、俺も上手いコーヒーをまだ飲みたいからな。俺が動けるうちは、豆を買って来てやる」
「じゃあ廃業は、あなたが失敗した時ってことにしましょう」
「言ったな? 先にくたばるなよ、マスター」
コーヒーの残りを一気に飲み干すと、ポケットから数枚の金貨を置きました。そしてアタッシュケースを持って男は、店の出口へ歩みを進めました。男の顔は、まるで龍のごとく、かつて彼が<青龍>と呼ばれていた頃の、鋭く猛った顔つきに戻っていました。
「……ご武運を!」
カランカランと、ベルの音が彼を見送りました。
沈黙の代償 花祭暁平 @HANAMATSURI
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