第44話 サマー・ナース
りん。
小さく震えた空気が、扇風機の音に混ざって優しく揺れる。
目を閉じていると、冷えた空気と灰色の香りが徐々に広がる。遠くで聞こえる話し声と自分の思考が、混ざり溶け合い渦を巻く。
もう再会することはないだろう。そう思いこんでいた数年前の別れから、彼女は時間を超えてふと目の前に現れた。
唐突に。マジシャンが何もない箱の中から、真っ白な鳩の群れを飛び出させるよう、いとも簡単に。
彼女が振り向いた。笑った。
世界が華やいだ。
モノクロだった僕の世界に溢れた色彩。
何重にも鍵を掛けて隠した感情の檻を、一瞬で開いた。
閉ざしていた未来を拓いて、世界は思ったよりを優しいことを教えてくれた。
向き合わないと。
何と?
自分と、過去と。
どうして?
もう逃げたくない。
お前にできるの?
やるしかない。もう少しなんだ……もう少しで。
朱音の泣いた顔。幸せそうな表情。前に見た家族写真。みんな優しそうだった。朱音も結衣さんも、朱音の父親も。こんな世界があるんだって羨ましかった。憧れていた。父親か……。
灰色の香りが強くなる。甘く、せつない香り。
ぐるぐると巡る思考。
僕は生きているのか。俺は死んているのか。いつの日かに捨てた願い。
頭がぼうっとして体の奥が熱く、呼吸の音が大きくなった。
目を開ける。
合わせた手の奥、焦点の合わない視界の中に、白っぽく柔らかな木のフレームに包まれた写真が立っていた。僕の知らない人だ。じっと写真を見つめると、優しそうな笑顔をしたその人が、何か話そうとしているように感じる。開かれた扉の向こうから何か伝えようと……。
あぁ、家族なんだな。笑ったときの目元が朱音に似ている。
また会いに来ます。
声に出した言葉が弱々しい。
とある夏の日。お盆の空は晴れ渡り、精霊馬に乗った魂は迷うこともなく目的地へ迎えるだろう。
ふわふわと暖かな空気に包まれた体。漂う線香の香りを嗅ぎながら、ゆっくりと立ち上がろうとして、そのまま倒れた。
誰かの声が聞こえる。
悲鳴か、歓声か。
ぼやけた視界の中で差し出された手を無視して立ち上がる。空と地が逆さになったかのような、不安定になる自分の存在。誰かが体に触れるのを感じながら、どこかを目指して歩いていた。腰に回された腕の温もりと、名前を呼ぶ声だけが頭の奥で鳴り響く。
朱音......一言だけ呟いて意識が消えた。
「うっ、あ......」
「気づいた、大丈夫? 私のこと分かる?」
僕に覆いかぶさるように広がる影。誰だ。
開けた目の中に入る光の束が視界を奪って、現実の輪郭を消し去る。
「母......さん?」
「桜さんじゃないわ。大丈夫、見えてる?」
「その声、朱音か」
「意識がはっきりしだしたようで安心したわ」
僕の視界に広がっていた影が消えた。消えた影の先へ目を向けると、ベッドサイドに置かれた椅子に座っていた。目元が少しだけ赤くなっている。
冷房の効いた涼しい部屋。
そういえばさっきまで朱音の家にいたはず。お盆だからと朝から手を合わせに行って、そのまま一人――。朱音に向き合おうと体を起こそうとするが、慌てて止められる。いつの間にか繋がれていた手。その温もりを感じ、何とはなしに目を向けた。
エアコンが空気を出す音だけが部屋に響く。どれほどそんな時間が過ぎたのかと思うほど、一瞬が長く感じる。僕の視線に朱音が、ぱっと手を放し立ち上がった。
「桜さん、呼んでくる。あなたは大人しく寝ていて」
「はい」
「そういえば原因は疲労だって。お母さんが言ってた」
足音が遠のく。
疲労か。最近は一ノ瀬たちと祭りへ行ったり、プールへ行ったりと遊んでいただけだ。他には朱音が初恋の相手だとやっと分かったり、色々あったけど倒れるほどでもないはずだけど、そんなにか。
――違う。
温もりの残った手を眺める。あの日、プールの屋上で朱音と話して、張りつめていた気持ちの弦が切れたのか。少しだけ体が軽くなった気がした。僅かに残った頭痛と額の熱が、自分の気持ちの枷を外す。
意識を戻すように響く、ドアをノックする音。起こした体が重い。今更ながらここが自分の部屋だと気づく。もしかして、僕は朱音の家から歩いて帰ってきたのか。
「大丈夫、起きたの?」
「うん」
「朱音ちゃん、心配してずっと傍を離れなかったんだからね。後でお礼を言っておきなよ」
「そうだったのか、後で伝えておく」
「あのね紫苑、あなた考えすぎだし、子供のころからなんでも一人で背負いすぎ。私のこと頼りないとは思うけど、偶にはお母さんのこと信頼して。息子に信頼されないっていうのは、親にとっては寂しいものよ。結衣も疲労だって言ってたし、今日明日は大人しくしてなさい」
壁にかかった時計が三時を示していた。なんか最近全部だめだな。迷惑かけて、泣かして、心配かけて。
自分と向き合うと決めたんだろう。
母さんが部屋を出ようとドアに手をかける。
「母さん」
「どうしたの?」
「なんか、安心した。昔からさ、嫌だったんだ親子とか家族とか。自分の知ってる家族は、一般的だって言われる他の家族とは違うし。でも、今じゃそこまで悪くないかなって思えてる。家庭環境とか関係ないよな、母さんの苦労も知ってるし、今の生活も嫌いじゃない。ありがとう、俺、ここに生まれて良かった。そうじゃなきゃ、会えない人もいたし」
「そっか。......お腹すいてない?」
「少し」
「食欲があれば安心ね。今、朱音ちゃんが雑炊作ってくれているから、楽しみにしてて」
「僕はアイスが良い」
「文句言わない。そうだ、あなたたち、いつから名前を呼びあうくらい仲良くなったの? 後で結衣と一緒に詳しく聞かせてもらうからね」
「うっせ」
「あんな良い子、他にいないから大切にしてあげなよ」
余計疲れた。
枕に頭を預け天井を眺める。時間が経つにつれ、脱力感とともに安心感が増すと共に、取り戻した冷静さに支配され始めた。
勢いよく布団をかぶって目を閉じる。ぐるぐると体が回る感覚。頭の向きと足の向きが分からなくなって、自分の居場所を見失いそうになる。これは熱が見せる幻覚。自分の居場所はここだ。母さんがいて、朱音がいて、結衣さんも、一ノ瀬や一條、皆がいれば十分。心配しなくても自分はここにいる。
風邪をひくと弱るっていうのは本当らしい。熟したキウイのように柔らかくなった心は、簡単に傷つくし、どんな言葉も奥深くへ入り込んでしまう。
今だけは何も考えないようにしよう。
優しい香りと小さな声で目を覚ます。
布団から顔を出し時計を確認すると、針は三時半を示していた。
「ごめん眠ってた?」
「大丈夫」
ドアから覗くように顔を出した朱音に返事して体を起こす。
朱音が部屋へ入ってくると、美味しそうな香りが充満し、忘れかけていた空腹感が再び顔を出し始める。手に持った小さな土鍋から、白い湯気がゆらゆらと昇っていた。
「食欲ある?」
「あるよ、おかげさまで」
「美味しいか不安だけど、食べてくれると嬉しい」
「悪いな作らせちゃって」
「良いの良いの、困ったときはお互い様でしょ」
「ありがとう。食べても良い?」
「良いわ、待ってて」
そういうと朱音は、ローテーブルにお盆ごと土鍋を置き、ゆっくりと蓋を開ける。白いご飯と黄色い卵、散らされた緑の小ネギの色どりが綺麗。小さな器に取り分けてくれたお米の一粒一粒が、艶々と輝いている。ふぅっと息を吹きかける度に流れる湯気。
器とレンゲを貰おうと手を出すが、一向に朱音は渡してくれる素振りをしてくれない。器を持ったまま椅子に座る朱音と、手を差し伸べたまま固まっている僕。
僕が首をかしげると、首を振って雑炊の乗ったレンゲを僕に差し出す。持ち手は朱音が持ったまま。
「自分で食べれるけど」
朱音は首を振るだけ。
口元に近づけられる雑炊の香りに思わず口を開く。優しく押し込められたレンゲの冷たさと、程よい雑炊の温かさ。
「美味しい」
思わず漏れた言葉に朱音が微笑んだ。
「本当? よかった」
「うん、ありがとう。それと、あとは自分で食べれるから大丈夫」
「だめ、あなたは大人しくしていて」
「子供じゃないんだから、恥ずかしいんだけど」
僕の言葉が聞こえないかのように、もうひと口を差し出してくる。朱音の視線はどこか虚を眺め赤くなった目元に、僕は素直に受け入れようと諦めた。
器とレンゲがぶつかる音だけが部屋に響く。
無言でも心地の良い空間。
「あのさ」
「なに」
「ありがとう、ずっと傍にいてくれたって聞いた」
「別にお礼を言われるほどじゃ」
「いや、心配かけちゃったな」
「......はぁ、びっくりしたんだから。部屋から倒れる音が聞こえて、急いで見に行ったら仏壇の前で紫苑が倒れているし、名前を呼んでも返事はしないし、どうしていいか分からなくて」
「ごめん」
「お父さんが死んじゃって、あなたまで目の前で居なくなっちゃったら、私......」
「......」
「生きて離れ離れになるのと、死に別れって違うんだよね。希望がないの」
「そうだよな。でも大丈夫、僕は元気だから」
「だから。だからさ、今日は大人しく私に看病されなさい。ほら」
無理やり食べさせようとする朱音の姿に、思わず笑っていた。ああ、良いな、こんな一日も。
最後の一口を食べ終わる頃には、四時になろうとしていた。こんなにゆっくりと流れる時間は久しぶりで、いつまでも続くような錯覚に陥る。僕も朱音も適当に本棚から小説を取り出し、読むことにする。書かれた文字があまり頭に入らない。
大切にしてあげなよ。
その言葉が今ではすんなりと受け入れられる気がした。
考え事をしていると、足元に感じる軽い圧。
「せっかく再会できたんだから......もう少し近くで......」
呟き声に視線を向けると、布団の上へ体を預け眠っていた。
扇のように広がった髪に光の帯が伸びる。
手に持っていた本を預かり、肩へブランケットをかけた。無垢な表情で眠る朱音の小さな頭へ手を伸ばすが、寸前のところで止める。何度か手のひらを握り、ゆっくりと頭を撫でた。
眠くなってきたな。
指先に伝わる暖かく滑らかな髪の質感は、生きているのを感じるようで、そして自分のものとは違うようで――。
「ありがとう、傍にいてくれて」
この感情は友情か、家族愛か、それとも恋愛感情か。
そんなのもう解ってる。
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