第43話 サヨナラ―後編―

 ぽたん。

 周囲の喧騒が一瞬にして、古いラジオから流れる声のように薄い膜に包まれる。

 こぽん。とぷん。

 大きく膨らんだ銀色の泡が空へと昇り、心地良い光と共に弾ける。その泡を追うように、小さな泡の粒も一斉に空を目指す。

 沈む僕の体は、ゆっくりと底に触れ再び浮上した。


「おかえり」

「た、ただいま」


 体が完全に浮かび上がると、今まで水に溶けきっていた音がはっきりとした形になる。

 そして、一番最初に視界に入るのが、大きな浮き輪の縁に捕まり、じっとりとした視線を向けてくる朱音の姿。


「これで何回目よ」

「五回目かな」

「やり過ぎよ、近くにいる子供たちが引いてるわ」

「そんなことないだろ。ただ潜ってるだけなんだし」

「いやいや、仰向けで沈んだり浮かんだりを繰り返すのは、不気味すぎるから」

「そうかな」

「向こうの男の子なんか、ずっとこっちを見たまま動かないからね」


 ゆっくりと体を起こし、朱音の視線の先へと目を向ける。そこには確かに、こっちを見て固まっている男の子がいた。

 あれ、いま目が合ったかな。

 そう思っていると、 男の子は急いで反対側へと泳ぎ始めて、あっという間に姿が消えた。

 逃げられたな。完全に逃げられただろ。


「逃げられたわね」

「やっぱり?」

「だって今の、突然起き上がったゾンビが迷わず自分を見つめてくるような状況だから。……ほら、浮き輪に掴まってなよ」

「ゾンビか……」


 朱音に言われた通り、僕は大人しく浮き輪の縁を掴んだ。なめらかな表面に、ハリがあるけど柔らかな感触が手のひら伝わる。

 滑りそうになる手を離し、腕を預けるように浮き輪にのせた。

 浮き輪のもう半分に身を預ける朱音と同じ態勢になる。


「浮き輪大きくてよかったよね。小さかったら二人で使えないし」

「これって二人で使うものなのか?」

「……さぁ。そんな小さいことは良いのよ。ドーナツの真ん中が空いてるのは、二人で半分に分けやすくするためなの、だから浮き輪も二人で半分に分け合っても良いでしょ」

「へぇ、それは初めて聞いたな」

「だろうね。たった今、私が思いついた話だから」


 口元を綻ばせながら朱音は、浮き輪へ二の腕と胸を乗せ前のめりになる。崩れたバランスを取ろうと、僕は腕を上げてとっさに朱音の肩に手を乗せた。

 触れた肌の滑らかさに心臓が静かに脈打つ。


「ごめん、痛くなかったか?」

「心配しなくても大丈夫だよ」

「それにしても、このまま浮き輪と一緒に流され続けて......朱音は泳がなくて良い?」

「ちょっとね、髪が濡れちゃうのがなって。ねぇ、そんな呆れたような顔しないでよ。この髪型作るの結構大変だったのよ。だから、もう少しだけこのまま維持したくて」

「確かにその髪型凄いよな、どうなってるんだ?」

「内緒よ」


 そう言って朱音は、未だに浮き輪を掴めずに空を彷徨っていた僕の手を取り、手の甲を指でなぞる。


「プールって落ち着くよね。このままゆっくり流されて、何も考えないで喋ってるのが幸せかな」

「長閑だな、眠くなる。......まあ、あのウォータースライダーの悲鳴がなければの話だけど」

「ふふ、そうね。あれがなければ......悲鳴を聞いているだけで怖いわよ。美菜たち大丈夫かな」

「大丈夫じゃないか。一條は」

「心配なのは一ノ瀬君ね」

「すぐに泣き止んでくれると良いけど」

「なんで泣いてる前提なの」


 頭上を流れるウォータースライダーに等間隔で人影が通る。

 遠くに聞こえる誰かの悲鳴を聞きながら、僕らはゆっくりと水に流される。その隣を小さなビニールボートや、赤や黄色のビニールマットが通り過ぎ、影が小さくなっていく。

 同じ流れに乗っているはずなのに、どうしてか周りと時間の流れが違っているような感覚に陥った。なんでだろうな、懐かしくて落ち着く。

 水の流れに逆らった浮き輪から跳ね上がる水飛沫が、ときどき僅かに髪を濡らす。乾いた手でそっと耳元の髪をかき上げる。


「なんでさっきから手を触ってるんだよ」

「手、綺麗だよね」

「そうか?」

「うん、指は長いし、爪もきれいで。羨ましい」

「ありがとう。でもな、そんなこと言われても何も出ないぞ」

「あら、それは残念」


 まったく残念そうな声色ではなく、なんともないように僕の指を手に取り、一本一本撫でる。僕はその朱音の手を返し、手のひらと親指で挟むように握る。

 無意識に握った朱音の手の甲を親指で摩る。


「朱音だって綺麗だろ」

「そうかな。そんなこと言っても何も出ないわよ」

「期待してない」

「そう。......見つかった? 初恋の相手」


 そのまま朱音がゆっくりと指を絡ませ、顔の前へ僕の手ごと持ちあげる。

 そして指を解いて手のひらを合わせた。ゆっくりと流れていた時間が、呼吸を止めたようにさらに遅くなる。

 重ねた指の隙間から見える朱音の目。

 濡れた頬と唇。

 薬指と中指の隙間から見えた優しく細められた目がどこか懐かしくて、ゆらゆらと揺れながら日差しを受け止める水面へと目を背けた。


「懐かしいね」

 

 そう呟いた朱音の声が、近くを泳ぐ子供の作る水飛沫に吸い込まれて溶けた。




 どれくらい浮き輪に乗って流されていたのだろう。プールサイドに植えられたヤシの葉が揺れ、長細い影が肩を撫でる。

 何度、大きなシャチの浮き輪に追い越される光景を見たのか。そういえば子供のころ、あのシャチに乗りたかったんだっけな。

 そんなことを考えていると、遠くから聞きなれた声がする。


「いたいた。二人ともお待たせ」


 ウォータースライダーから戻ってきた二人が、プールサイドを歩いてこちらへと向かってきていた。

 軽い足取りの一條に対し、肩を落としたように歩く一ノ瀬。


「よかった、生きてたか」

「ああ、ぎりぎり」

「楽しかったよ! 二人も後で行ってみなよ」

「どうしようかしら。いまは一ノ瀬君の様子を見るだけで満足かな」

「篠崎、あれはやばい。スピードも出るし、途中で一回転とかしてるの本当意味が分からないんだけど。しかも最後、最高速度で水に突っ込まれるとか何考えてるの?」

「いや、それは知らんな。みんな水に飛び込みたいんだろうな」

「えいっ」


 プールに入ってきた一條が手で水を飛ばし、僕と朱音の乾ききっていた髪に水がかかる。


「もう美菜、覚悟してよね。ちょっと浮き輪支えておいて」


 髪が濡れてもう気にしなくなった朱音と一條が、互いに水を掛け合い始め、さっきまでの静かだった空気が換気したようにガラッと変わる。

 浮き輪が大きく揺れ、大きく波が立つ。

 気づくと水を掛け合っていた二人の標的は一ノ瀬へと移り、三人で楽しそうにはしゃいでいた。僕はそれを静かに、夏って良いなとぼんやり見守る。自分が標的にされないように、こっそりと息をひそめて。


「篠崎も見てないで助けてくれよ」


 ああ、ばれた。

 一ノ瀬の声に反応した朱音が、おいでと言いながら僕の腕を抱き寄せて優しく引っ張る。

 遠くから見ていた風景画に僕の色が加わる感覚。これまでは僕の一色が、調和を保っていた光景を壊してしまわないか心配だったが、今なら目の前で遊ぶ三人の眩しさを受け止められる気がした。腕を引く朱音の笑顔が見えるだけで、もう臆病になる必要はないと思える。

 もう過去に囚われなくても良いのかもしれないな――。


 


 プール上がりのロビーは朝よりも塩素の香りが強くなり、一日の終わりをどことなく漂わせる。更衣室から出た僕は一ノ瀬とも別れ、一人で散歩がてら自動販売機を探しつつ館内を歩き回る。

 入口の自動ドアが開き、生温い空気が冷房に混ざった。

 ――そういえば屋上があったよな。

 人のいない真っ白な階段を上り屋上を目指すと、目の前に無機質な鉄の扉が現れた。

 冷たい取手を回し扉を押すと、キィっと音を立てて新しい景色が広がる。夏の湿った空気の中で、そっと冷たい風が通り抜ける。

 遠くにはガラス張りの自動ドアが見え、その中はエレベーターホールになっていた。どうりでこの階段に人がいないわけだ。

 周囲を見渡すと、屋上の隅で柵に寄りかかりながら、ひとり景色を眺めている見慣れた後姿があった。


「一條たちは一緒じゃないのか」

「二人ともアイスを買いに行ったわ」


 夕日に照らされる逆光の中、風に揺れる髪を左手で押さえながら振り返った姿に、僕の中に残っていた記憶がフラッシュバックする。

 突然、水の中から引き上げられるように、昔の記憶が呼び出されていく。思い出の中では隠れて見えなかった顔が、ノイズを取り除くように輪郭が浮かび上がる。その顔を夕日に照らされた長い髪が隠す。そして次の瞬間、優しく吹いた風に誘われて記憶の中の彼女がやっと微笑んだ。

 笑った目元や口元が、揺れる髪が、朱音の姿へと重なっていく。

 記憶から現実に。

 過去が今に。

 手に力が入らない。ふらふらと揺れる足元を確かめるように、ゆっくりと確実に近づく。

 空はどこまでも広がっている。

 近くて遠い......遠かった距離。

 今までは手を伸ばしても届かなかった想い。

 言葉が詰まった。

 思い出の彼女が囁く。

『もし、いつかどこかで会えたら私を見つけてくれる?』

 そうだ、あのとき僕は――。

『必ず見つけ出して、僕から声をかけるよ。何年先でも。そうしたら必ず笑顔にさせるから、キミを幸せにさせるから』

 視界が滲んだ。

 再び風が吹く。

 揺れる髪を抑えた朱音は、一言も発することなく僕を見つめていた。茜色を取り込んで輝く瞳。あぁ......やっぱり。

 伝えないと。

 間違っているかとか、恥ずかしいとか、そんな迷いを捨てろ。

 これが最初で最後だ。手を伸ばすのは僕じゃないといけないんだ。


「久しぶり」


 やっと伝えた言葉。そういえば今日は、何度も朱音に言われていたことを思い出す。

 変なことを言うけどと、この期に及んで予防線を張る僕を、朱音は何も言わずに微笑んでいる。


「覚えてるかな、あの日の約束」


 一瞬、目を見開いた朱音が静かに頷く。

 届くかなこの声が。


「もし、いつかどこかで会えたら――」

「私を見つけてくれる?」


 リフレインする過去に聞いた声。

 ゆっくりと朱音が言葉を繋げる。


「必ず笑顔にさせるから――」

「キミを幸せにするから。......やっと会えた、やっと見つけ出せた。遅くなってごめん」

「本当、おそいよ......ばか。待たせすぎ」

「ごめん」

「ふふ、ごめんって謝ってばかりね」

「そうだったな、ごめん」

「ほらまた。思い出してくれたんだから、それだけで十分」


 朱音が俯きながら手を差し伸べる。

 その表情は見えないが、それでも静かに呟いた声には僅かな優しさが込められているのが分かる。

 少しだけ震える指先は、淡い熱を持った僕らの境界。

 そして僕がその白い指先に触れた瞬間、僕らの過去と今を繋ぐ。

 

「あの頃、こうやって話をしたよね」

「懐かしいな、二人でプールの中で意味もなく喋ってさ。お互いの名前も知らずに」

「不思議よね。どうしてか、紫苑と一緒に居られるのが安心したのよ」

「僕も、一緒にいられるのが嬉しかった。......それで改めてだけど、あの日の約束はまだ有効か? もう泣かせない」


 手のひらを合わせて顔を上げる。

 数年前、プールで隠れるように泣いていたあの子の笑顔で、僕の世界が埋め尽くされた。ずっと見たかった、涙のない優しい表情。

 綺麗な夕日に照らされた、初恋の人。

 そして、新しくできた僕の大切な友人。

 欠けていた記憶が、パズルのピースのように埋められる。

 いまなら、記憶の中の朱音が泣いていた理由も、囁いた言葉も、手のぬくもりも、すべて。すべて思い出せる。


「ありがとう。そうね、あの約束が有効じゃないと私は困るわ。だって、いつかキミが見つけてくれるのを待ってたんだから。あの頃は、お父さんの死が自分のせいだって思って、転校することも決まってお母さんに迷惑かけるって、そんな風に自分を責め続けてさ、怖くてさ、でもキミに、紫苑に会えたら何か変われるかもって、それだけを信じてたのよ」


 そう信じ続けていたのよ、この前まで。

 呟いて朱音は息を吸った。


「でも不思議なことに、まったく同じ約束をしてくれる人がいたのよね。だから安心して、その約束が無効でも、その人が私を幸せにしてくれるって」


 悪戯っぽく笑った朱音が、重ねた手を握った。


「大丈夫、信じて。どっちの約束も僕が果たすから、何年経ってでも」

「ありがとう。じゃあ、私からも改めて約束させて。私も紫苑のこと、幸せにするから」


 諦めかけていた出会いに感情が揺れ、自分が何を考えているのか分からなくなってくる。

 嬉しいのに、涙が出てくる。もう泣かないって決めたのに。

 再会は笑ってありがとうって言おうと思ってたのに。


「――やっと、やっと会えたんだね。ほら紫苑、泣かないでよ」


 ああこんな時に、本当、格好が悪いな。

 朱音が伸ばした手で頬に触れる。

 また距離が縮まった。よく見ると、朱音の頬にも一粒の雫が伝っている。

 それを拭おうと僕は手を伸ばし、そっと頬に手を添えた。

 ただ見つめあっていた。鳴いていた蝉の声が一瞬止まり、朱音は一歩踏み出し、目を閉じる。優しく吹いた風に揺れた髪から仄かに香る、あの日と同じプールの匂い。懐かしくて、愛おしくて目を閉じた。

 好きなんだ。どうしようもなく僕は――。




「おーい、篠崎」


 遠くから僕を呼ぶ声に、慌てて目を開けた僕らは互いの頬から手を放し、声の方を向く。屋上の入り口には、アイスを両手に持った一ノ瀬と一條の二人が立って手を振っている。

 あまり外には出たくないようで、急いで屋内へと入っていった。


「......戻るか?」

「そうね」


 顔を見合わせてから歩き出す。

 軽い足取りで前を歩く朱音。その後ろ姿で大切なことを思い出した。


「あのさ、朱音」

「どうしたの」

「言い忘れてた。ありがとう。あの頃、僕と出会ってくれて。希望をくれて。そして、今も近くにいてくれて。本当、感謝してる」

「改めて言われると恥ずかしいわね。......しかも私の初恋の相手に」


 そう言い残すと背を向けて歩き出した。

 空はまだ綺麗な茜色で、浮かぶ柔らかそうな雲が優しく広がる。その中を自由に飛ぶ鳥が、気持ちよさそうに翼を動かす。

 ふぅっと息を吐く。

 風が吹いた。少し涼しくなった夏風に、木々やプールの香りが混ざっている。

 そうだ、僕の初恋には必ずプールの香りが付いている。いつか同じ香りで、今日の記憶を思い出す日が来るようになるのだろう。

 幸せな記憶として。




 初恋にサヨナラを伝えようとしていたのに。

 実らない想いへ逃げるのを止めようとしていたのに。

 あきらめかけた瞬間、手を差し伸べてくれた。

 もう後悔したくない。だから、しっかりその手を握ろう。

 サヨナラを伝えるのは僕自身だ。弱い自分にサヨナラを。

 明日が幸せだと言えるように歩こう。この声で伝えよう。

 幸せを望むのは遠い未来じゃなくて良いんだ。

 

 

 


 


 

 

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