第42話 サヨナラ―前編―
同じ夢を見るようになった。
いつからだっけ、子供の頃の光景を思い出すようになったのは。
景色や音、香りや触感。微かに鼻の奥がツンとするような痛みも、必死に足を動かしても前へ進めない感覚も全部思い出せる。
未だに引き摺っている初恋も、忘れていた幼稚園頃の記憶も全部、昨日のように。
ただ一つを除いて。
そう、ただ顔だけが思い出せなかった。
夢の中では見えているのかもしれないけれど、目が覚めるとどうしても顔だけが靄がかかったように思い出せなくなる。
いつも僕の思い出には顔が無い。
好きだった人の顔すら思い出せないなんて……朝から若干憂鬱になる。ブルーな気持ち。
晴れた朝の空よりは濃く、夏の海よりは薄い青。
今日の空模様と一緒だった。
夏の空といえば真っ青なイメージが強いが、あまりにも晴れすぎて白っぽくなる日もたまにある。
憂鬱な僕には、明るすぎる太陽という希望は眩しい。少し雲にかかっているくらいが丁度いいのだ。そのほうが青空が見やすい。
吹き出すように膨らむ入道雲。
存在の証明に必死な蝉。
揺らぐ陽炎。
最近、毎日同じものを見ている気がする。
いや、同じでは無いな。毎日形を変えては目の前に現れる、それに気づけるかどうかの違いだけだ。
この頃の僕にはそれが少し分かるようになった。だから空を見る。空を見て、明日の空はどんな景色だろうと想像する。
あぁ、これは誰かさんの影響だ。……違うな、誰かさん達の影響だ。
拒んでいた優しさに触れて弱くなった僕は、優しさを受け入れようとして強くなった。
だから良いことなんだと思う、少しでも上を見て歩けることは。
でも上を向きすぎると、周囲の大切なことを見落とすわけで。
「どこ行くんだ。おーい、無視するな」
こんなふうに。
大切なことは意外と近くにあるんだ。
足元を見なければ、夏の影の短さも分からないし、靴紐が解けていることにすら気付かない。
「悪い、遠くで呼ばれた気がして」
「たぶんそれ俺だと思うんだけどな。お前がそこに見えてからずっと呼んてたから」
「あれ、本当?」
「そんな嘘つかないって」
大体一週間ぶりだろうか。久しぶりに会った一ノ瀬は、一段と日焼けをし美味しそうな色になっていた。
「部活忙しいの?」
「まぁな、ほとんど毎日あるから」
「そっか。宿題やってる?」
「……やってる」
袖を捲くった剥き出しの二の腕を、ぐっと指で押す。
「なんだよ」
「日焼け痛くないのかなってさ」
「子供か! ちゃんと日焼け止め塗ったり色々ケアしてるから」
「え、お前本当に一ノ瀬か? 偽物じゃないか?」
「本物だわ。俺の顔を見ながら、ガムを踏んだみたいな嫌な顔をするのはやめろ」
「ごめんごめん。ところで一條とは一緒じゃないの」
「美菜なら五十嵐さんと先に向かってる」
「早くない?」
「知らんけど、なんか張り切ってたな」
「もしかして五十嵐も?」
「いや、無理矢理連れて行かれてるような感じだったぞ。捕獲された宇宙人の写真みたいに無抵抗だったけど」
「だろうな」
「だな。なぁ、そろそろ行かないか? めちゃくちゃ暑くて、早くプール行きたいんだが」
無駄話もそろそろ切り上げよう。暑すぎて会話の脱力感がいつも以上になってる。
それにどうやら僕が一番遅かったみたいだし、素直について行こう。
「もしかして待たせてた」
「少しだけな。って言っても、待ち合わせ時間まであと五分はあるから、誰も気にしないだろ」
「僕が気になるんだよな。そうだ、今度一つだけ夏休みの宿題見せるよ」
「良いの? やった助かる」
「やっぱお前、宿題やってないな」
「……そんなこと無い。宿題、進めてる。楽しい、宿題」
「うわ、嘘くさい」
宿題をやっていないことが判明した一ノ瀬と、走らないようにでも歩かないようにプールへ急ぐ。
日差しを受けた腕が僅かに汗を反射し輝いている。一ノ瀬が、そっと額の汗を拭って呟く。
「篠崎。お前、なんかいつもと違うか?」
「……いつも通りだよ」
嘘だ。
僕は今日のプールで、一つの区切りをつけようとしている。過去を過去として受け入れるための覚悟。思い出を思い出として、別れを言う覚悟。
これは僕が一歩踏み出すために必要なこと。
優しさも素直さも自分らしさも、ほとんど捨てた気になっていた僕が、唯一捨てられなかったもの。それと今日、別れを言うつもりだったのだ。
あの日の初恋にさよならを言うために。
新しい一歩を踏み出すために。
いつだっけ、朱音とした約束だ。夏までに初恋の相手と出会わなければ、僕は初恋へ逃げるのをやめるという、九割以上負けが確定している賭け。
それでも朱音は、僕が初恋の相手と出会えるようにと色々と手伝ってくれていた。それも今日までだ。
僕は今日、さよならを言う。
そしてまた一つ弱くなるのだろう……。
車のフロントガラスに反射する日光に目を細めながら、目の前の建物を見上げる。丸い風船を上下で潰したような、穴の無いドーナツのような形をしたそれは、鉄骨と木で作られ、優しさを帯びていた。コンクリートジャングルの中にあるオアシスのよう。
「ここがプール?」
「そう、確か完成してから一年くらいしか経ってないから、綺麗だろ」
「想像と違ったな。昔通ってたスイミングスクールとは大違いで、正直驚いた」
記憶の中のプールといえば、もっと小さく、日に焼けて黄色くなったプラスチックや、錆びついたベンチが置いてあるような場所だった。
だが目の前の建物は違った。規模が大きく、見上げると屋上には植物が植えられているのが僅かに見える。僕のイメージするプールと唯一共通点を見つけるとすれば、仄かに漂う塩素の香り。僕はこの匂いが好きだった。
今から泳げるような気がするから。懐かしいなこの感じ。
今はもう無くなってしまったスイミングスクールを思い出して、少しだけ感傷に浸る。
そう言えばあのプールにも屋上はあったっけ。
一ノ瀬に連れられ、プールのエントランスから直接更衣室までやってきた。一條たちとは着替えたあとで待ち合わせしているようで、僕は何も知らないまま取り敢えず着替えを済ます。
水着に着換え、白いパーカーを羽織る。
我ながらあまり泳ぐ気のない格好だと思う。
「行くぞ篠崎」
二重ドアになっている更衣室を抜けると、広い空間に出た。
空間を横切るように大きな川が流れているように見える。
いくつものプールと大きな滝、小さな椰子の木と山のような岩場から流れる水。
僕が知っているプールとは規模が違った。
水飛沫と人の声が反響し、屋内プール独特の厚みのある音に包まれる。
「確かあそこだな」
「待ち合わせか?」
「そう、あの遠くにあるカフェっぽいところにいるはず」
「二人でか」
「そうだな」
「なぁ、一ノ瀬」
「言わなくても察しはつく。だから言わなくてもいいぞ」
「……もしかして」
「いやいや、分かってるからな。言うなよ」
「……ナンパとかされてたら」
「だから言わなくてもいいって! やめろ、やめろ! 俺だってめちゃくちゃ心配してるんだから」
「心配性だな。よく考えろ、ナンパなんて現実であるわけ」
「無いよな。無いよな?」
「ごめん、無いって言いたいけど、この前の花火大会でナンパしてる人見たわ」
「……いやいやいや、それは花火大会だからだろ。篠崎、ここはプールだぜ。プールでナンパするなんて、そんな浮ついた奴いるわけ無いさ。うん、そうだ」
ついに暴論で現実逃避を始めた一ノ瀬。
僕は隣に流れるプールへ目を向ける。そこには、浮き輪に乗って浮いている人ばかりいた。そりゃ浮くよな、プールだし。
遠くに見えていたカフェが少しずつ大きくなる。
「一ノ瀬、もう焦っても変わらないと思うぞ。取り敢えず落ち着け」
「そうだな。でもその言葉、そのままお前に返すわ。篠崎だってめちゃくちゃ早歩きしてるくせに。付いていくのが大変だからな!」
良くない方に考えるのは悪い癖で、基本的にネガティブだから仕方がない。僕はナンパが心配なわけじゃなくて、二人に何かあったらどうしようかっていう心配なわけで、これはネガティブなりの危機管理だ。
そうだ、そうだよな。別にナンパじゃないんだ、心配なのは。
無理やり自分を落ち着かせていると、ウォータースライダーの近く、プールサイドから少し離れたカフェに見慣れた二人の姿があった。
いや見慣れているのは顔だけで、格好や髪型はあまり見慣れないものだった。そして、その二人の近くには一つの影が……。
「おい篠崎。あれって」
「五十嵐と一條だな。無事に見つかってよかった」
「いや、そうなんだけど……もっと他にない? ほらあれ」
一ノ瀬の気の抜けた声に返す言葉を悩む。
やっぱりここは、こう言うべきか。
「あれはナンパだな」
「ははは、うそ、ナンパされてると思ったの? それで急いで来たの? もう圭も、紫苑くんも心配しすぎだって」
「心配したのは僕じゃなくて、一ノ瀬だし」
と言うと、隣から一ノ瀬に脇腹を肘で突かれる。
「いや、篠崎だって同じくらい焦ってたからな」
「あなたもそんなこと思ってたのね。大丈夫よ、私達が……少なくても私がナンパされるわけないわ」
呆れたような顔で呟く朱音の様子をみて、心配したのはの正解だったと感じる。もう少し自分を知ってもらいたいものだ。
ほっと一息つくと、さっきの光景を思い出し、再び頬が緩む。
二人と楽しそうに話す一人の男。
いや、男の子だ。たぶん、幼稚園くらい。
僕らが近づくとタイミングよく、男の子のお母さんらしき人が現れ、朱音たちに何度も頭を下げて立ち去った。
手をつないで歩く親子の姿だけが記憶に残る。
そう、僕らが無駄な心配していた頃、二人は迷子の男の子の相手をしていたのだった。
その光景に、気が抜けた僕らを見て一條が大笑いし、朱音が呆れたような顔をしているのが今の状況。恥ずかしい。早く水に溶けてしまいたい。
「それでさ、どう? ねぇどうかな?」
ひとしきり笑った一條が声を上げる。
どうって……どうなんだ?
視界の隅でひらひらと手を振りながら、必死に何かを訴えている。揺れる腕が海藻みたいに滑らかだ。
「なにが?」
「もう、水着だよ。せっかく新しいの買ってきたのに。それに朱音ちゃんに水着着せるの、大変だったんだからね! これは恥ずかしいって言うから、早めにプールに連れ出したりして!」
なるほど、集合場所がここだったのはそういうことか。
一條へとわずかに視線を向ける。白地に黒のアクセントがついた水着。クッキーの入ったバニラアイスみたいに甘い感じがした。
「似合ってると思います」
「なんで敬語!? って言うか、嘘でしょ! さっきから全然こっち見ないし!」
「見てますよ、とてもよく似合ってるし。なぁ、一ノ瀬もそう思うだろ」
「そうだな。……可愛い」
「ちょっと圭もどっち見てるの」
「美菜、落ち着いて、二人とも恥ずかしいのよ。……私もだけど」
「仕方ないなぁ。じゃあさっそく行こう、圭! ウォータースライダー行こう」
「え、俺かよ。五十嵐さんは行かないの?」
「朱音ちゃんは後で。オレンジジュース飲み終わったら来るから」
頭上に縦横無尽に張り巡らされたウォータースライダーの透明なパイプは、目の前で爆音を轟かせながら、次から次へと人間を水と一緒に吐き出し続けている。
出口から吐き出されるたびに、荒い水飛沫が上がる。
一ノ瀬大丈夫かな。溺れなければ良いけど。
「またね二人とも! 私達の勇姿を見ていてくれ!」
引きずられるように歩く一ノ瀬。それでも嬉しそうな表情だ。
もしかして、こういうのが好きなのだろうか。
僕は絶えず悲鳴を量産するウォータースライダーへと視線を送り、一ノ瀬に小さく手を振る。
それに気づいた一ノ瀬が、拳を突き出して頭上を見上げた。
心なしか目が泳いでいた。
世界を救いに行くように堂々と進む一條と、僅かに背中が丸まった一ノ瀬の影が消える。
「今まで通りで安心した」
朱音は椅子へ腰を下ろし、ゆっくりと脚を組む。
「あの二人か?」
「ええ、花火大会のさ……」
一面の花火に重なる二人のシルエット。
影絵みたいな光景が蘇る。
「あれだけ仲良ければ大丈夫よね」
「うん」
朱音が口をつけたストローがオレンジに染まる。
ゆっくりと上下するオレンジを、僕はぼぅっと眺めていた。
「ねぇ紫苑」
「なんだ?」
「久しぶり」
「プールか? 実はそんなこと無いんだよ、最近プール行ったばっかだし。あれ朱音に言わなかったっけ?」
「……言ったわね。プール帰りに会った」
無言が続く。
賑やかに響く歓声と悲鳴。
――カラン。
クラスの中で氷が溶けた。
「そろそろ行きましょう」
そう言って席を立つ朱音を視線だけで追う。
歩くたびに腰に結んだ黒い布が揺れている。
あれは何だっけ、えっと……そうだ。
「パレオか」
「これ?」
揺れる裾を軽くつまみ上げて、首を傾げる。
「それ」
「正解。……そんなに見ないでよ、恥ずかしいわ」
「ごめん」
「良いよ、余所見されるよりは。……そうだ、紫苑は泳げたよね」
そう言うと、テーブルの横に置かれた大きな浮き輪を抱え上げて、プールへと向かった。
朱音の来ている白いパーカーの裾が、空気を含んでふわりと大きく膨らむ。その柔らかな膨らみは希望か。
浮き輪がキュッと音を立てる。
フィッシュボーンに編み込んだ朱音の髪が揺れる。
大きく踏み出した右足を軸に、ゆっくりと弧を描くように振り向いた。
こちらを見つめる顔は、少し困ったような表情が浮かぶ。
「……初恋って叶わないのかな」
朱音にピントを合わせる僕の目には、遠くで光を浴びて輝く水飛沫がどこか遠い世界の花園のように見えた。
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