第39話 プレゼント
ぽたん。
髪から滴る水滴が水面に歪な円を描く。
「だいぶ泳げるようになったんじゃないか」
「やっと沈まなくなったわ。まだ息継ぎとか上手くできないけどさ」
「こうやって、仰向けで浮かんでいられるだけ良くなったよ」
「ありがとうな」
「うん」
木の葉のように漂っている一ノ瀬の隣で、僕も空を見るように体を浮かす。
屋根のないプールからは、太陽の光が真っ青な空の中で輝いているのを眩しさと温度で感じた。
「眩しいな」
「だな。でも夏って感じがして、俺は好き」
「そっか? 暑いのが辛いから、夏よりは冬のほうが好きだな」
「いやいや暑いのが良いんだろ。こうやってプールにも入れるし」
「なるほど」
「そうだ、明日の昼は暇か?」
「まあ、暇だよ。っていうか一ノ瀬さん、確か明日は夏祭りだって言ってませんでしたか? そんな日の昼に予定入れないから」
「わかってる分かってる。でも良かった。もしさ、篠崎が良ければ昼頃に家に来てくれない? 美菜も五十嵐さんも昼に来る予定なんだけど」
「唐突だな。行くよ、せっかく誘ってくれたんだし」
「五十嵐さんに言ったら、篠崎にも伝わると思っててな。すまんな、伝えるのをすっかり忘れてたわ」
耳が水中へ潜るたび、一ノ瀬の声に膜がかかる。それはとても心地良い、低音の響きで眠気を誘ってくる。それと同時に、もしかしたら忘れられ、自分だけ何も知らずに明日の昼を迎えるところだったと考えると、笑えてくる。
知らなくても、たぶん明日も朝食は朱音と一緒に食べて、そのまま当たり前のように一緒に行くことになるんだろうけど。
「どうしたなんか面白かったか?」
「いや、なんでもない。それよりも昼から何するんだ?」
「実は明日、美菜の誕生日でさ。祭りへ行く前にちょっとしたお祝いをな」
「一條の誕生日って八月三日なのか。プレゼントの用意もしてないんだけど」
「そこは気にしなくていい。でも、そうだな沢山写真を撮ってあげて」
「そんなことで良いなら、喜んで撮らせてもらうよ」
「ありがとう。それで夕方になったら皆で祭りに行こう。......なぁ篠崎」
「うん?」
「俺さ......」
「うん」
「明日、頑張る」
「そっか」
「言葉にすると消えてしまいそうなことってあるだろ? 何年もかけて必死に作り上げた決意とか、伝えたい想いとかさ。結局は、ありきたりなフレーズに頼って、どこからか引用した言葉を口にして、気持ちの七割くらいを伝えて満足するんだよ」
「なんか突然、詩人っぽくなったな」
「良いだろ、たまには。珍しく二人っきりだし、恥ずかしいこと言っていこうぜ」
思いっきり右手を振り上げて、水しぶきを上げる。顔にかかった冷たい水滴が、塩素の香りを残して頬を伝う。
「はいはい、それで?」
「それでもさ、自分の言葉で言いたいんだよ」
「そうだな」
「だろ。だから明日は頑張ってみる。まずはお前と、五十嵐さんを家へ招待することからだからな」
「それも頑張ることなのか?」
「まあな」
「分かった。応援してる」
「ありがと。お前と五十嵐さんは、俺の大切な友達だって思ってる......ああ、なんて言ったら良いかわかんね」
「どうした、嬉しいけど気持ち悪いな」
「うわ、酷くないか」
「僕も、一ノ瀬のことは大切な友達だと思ってるけどな」
「確かに気持ち悪いな」
「だろ?」
「とりあえず明日、頑張るわ」
「しっかり伝えろよ」
「なんのことだよ」
そう言って笑う一ノ瀬の振動が、波になって肩や首を優しく撫でる。
「一ノ瀬」
名前を呼びながら、僕は左腕を空へと伸ばす。ちょうど太陽が隠れるように伸ばした左腕からは、日光を帯びて黄金色に輝いた雫が降り注ぐ。
開いて左の手のひらに、一ノ瀬が思いっきり右手をぶつけた。
ぱぁん。
濡れた手のひらからは、花火にも似た綺麗な音が響いていた。
僅かな残響が去った後からは、子供の声と蝉の声が別世界のことのように、遠くから聞こえてきた。
塩素の香りがまだ抜けきらないしっとりとした髪を指で撫でながら、エレベーターを降りて蒸し返すような空気の中を、僕は玄関の前までゆっくり歩く。
咥えていたアイスキャンディーは今では木の棒だけになり、ソーダの残り香も木の香りへと変わっていた。家の鍵がどれかを探していると、ちょうど奥の扉が開く。
「あれ、今帰り?」
「朱音は今から買い物か?」
「えぇ、明日の準備をね」
キーホルダーが沢山ついた塊の中から、鍵を見つける。
「そういえば明日、昼に一ノ瀬君の家に集合って話を......言ってなかったわよね」
「言ってなかったね。さっき一ノ瀬から聞いたよ」
「ごめんなさい」朱音が両手を後ろで組んで、覗き込むように声を出す。ふわっと揺れるワンピースの裾と、前かがみで少しゆるくなった胸元。
「大丈夫」僕は、朱音を見ないように握った鍵をゆっくりと回した。
カチッと音が手を通して伝わってくると同時に、甘い香りが漂う。
「この匂いって、もしかしてプール?」
「正解。そんな分かるか」
甘い香りの方へ顔を向けると、朱音が微笑んでいる。
「プールの香りは、流石に分かるわよ。でも来週みんなで行くのに、もうプールに行っちゃったの?」
「色々あってな」
遠くで流れ始めた『新世界より』。
もうそんな時間か。
「私、そろそろ行かないと」
「また明日な」
「ええ、また明日ね。寝坊しないでよ」
朱音の言葉に、素直に首をふることができなかった。明日は目覚ましをかけておこうか、それとも眠らずに起きていようか。
どうすれば寝坊しないかと逡巡していると、朱音が力の抜けたような目をしていた。背中がゾクッとするような目つきだ。
「寝坊しないでよ」
「はい」
二度目の返事は、驚くほど素直に口からこぼれ出た。
お互い合鍵は預かっているし......まさか、部屋にまで起こしに来たりしないよな。
遠ざかる足音を聞きながら、今日は早く眠ろうと決意して玄関へ入る。流れていた『新世界より』は、ブォンと余韻を残しながら終わりを告げていた。
ピンポーン。
軽い音と小刻みに揺れる体に目が覚める。目の前で赤い光が煌々と輝いている。
ん......。
「起きた?」
隣から聞き慣れた声がして、つい眠っていたことを思い出す。
「眠っちゃってたか。そろそろ?」
「ええ、もう次よ」
再びガタンとバスが揺れた。舗装された山道をバスが走る。窓の外を眺めると、真っ白なガードレールが途切れること無く続いている。そのガードレールの向こう、見下ろす限りどこまでも町並みが広がっていた。
空気の抜ける音と共に、山道の途中にあるバス停に停まった。バスに乗ってから三十分くらいかな、バスから降りるとクーラーの冷気で冷えた体が一瞬にして、温められる。バスが酸っぱい匂いの排気ガスを出しながら、舗装されたアスファルトの上を生暖かな空気だけを残して、走り去っていった。
「暑いわね。ここから歩いて五分くらいだって。家の前に美菜が待っていてくれているから、とりあえず行こう?」
「全然方向がわからないから、案内頼んだ」
スマホを眺めながら進む朱音の後ろを、どこへ行けば良いのか分からないまま歩く。首筋に当てたペットボトルのお茶が、いつの間にかぬるくなっていた。
代わり映えのない道を歩いていると、見慣れた人影が現れた。陽炎なのではと疑いつつ、手をふる。ぴょこぴょこと揺れるその小さな陽炎は、徐々に実態となって一條の姿へと変わっていった。
「おはよ!」
「おはよう。元気だったか?」
「夏休みなんだよ、もちろん元気だよ」
「ところで美菜。一ノ瀬君の家って、まさか......ここ?」
「え、そうだけど?」
平然と答える一條の前で、僕と朱音はフリーズする。これは暑さのせいで、頭の中がオーバーヒートしたわけでもなく、処理落ちしたわけでもないのだけは、確信を持って言える。
うん、想定外ってこういうことなんだな。
僕らの前には、大きく構えた門がそびえていた。その奥には、青々とした芝の生えた庭と大きな屋敷が広がり、隅には噴水が音を立てている。これこそ蜃気楼なのではないかと、何度がまばたきをして鉄の門に触れる。
あ、これは現実だ。
隣には同じような顔をしている朱音がいた。視線の先にある焦げ茶色の扉が開く。その扉の隙間から見えた顔は、紛れもなく見慣れた一ノ瀬の顔であった。
フカフカのソファーと毛足の長いカーペット。見渡す限りの高級感。緊張する。
机の上に置かれたジュースとお菓子だけが僕に安心感を与えてくれた。
「今日は来てくれてありがとう。まあ、なにもないけれどくつろいでくれ」
「いや、うん。なにもないっていうか、広くない? この家、広くないか?」
「びっくりよね。豪邸っていうか......」
僕と朱音が驚いている横で、一條がくつろいだ様子でジュースを飲んで笑う。
そういえば、今日は誕生日だっけ。
「やっぱり最初は驚くよね。こんなに大きく綺麗な家なのに、圭ったら、二人を呼びたがらなくてさ」
「嫌だったわけじゃないけど、ほら、篠崎と五十嵐さんの態度が変わるのが怖くて」
「変わるわけない」
「そうね、心配しすぎ」
「信じてたけどさ、怖いんだよ。二人を招待するの、結構頑張ったんだからな。精神的に。子供の頃って、少し家が大きかったりするだけで、お金持ちだって言われて、普通に接してくれなくなるんだよ。友達だと思っていた相手との関係が歪んじゃうことばかりでさ。唯一、こいつだけは違ったけど」
一條を指差す。
昨日一瞬だけ見た、心配しそうな表情を思う浮かべる。
「だって私達の間にはお金なんて関係ないし、圭は、何があっても圭だからね。それに、私は圭の唯一の幼馴染だから!」
「えっ、小学校の頃よく話してた、美菜の幼馴染って、一ノ瀬くんだったの?」
「へへ、実はそうなんだよ。小学校は別々だったけど、幼稚園の頃からよく遊んでたんだ。知ってる? 圭って昔は泣き虫で、私がお姉さんみたいだったんだよ」
子供の頃の二人の姿は想像できないな。
一ノ瀬が髪をかき上げながら、息を吐く。
「もうその話はやめような、俺が恥ずかしくて泣いちゃうから。今日はそれよりも美菜の誕生日だって。まずこれが、俺からの誕生日プレゼント」
一ノ瀬からは、赤い包装がされた小さなプレゼント。
朱音の手には袋に包まれた青い袋。
そして僕の手には......。
「篠崎のそれは?」
「SDカード。誕生日を知ったの昨日だし、今日の写真を撮ったら渡すよ」
手に持ったケースに入ったSDカードが重く感じて、急いで持ってきたカメラへ差し込み、一枚シャッターを切る。三人が写った写真が、今日の一枚目だ。あと何枚撮ることができるのか。
「一條、誕生日おめでとう」、良い忘れてた一言を伝えて、ささやかな誕生日会が始まった。
ロウソクの立った小さな誕生日ケーキとプレゼント。
ふぅっと吹き消したロウソクの煙が、ゆらりと立ち上がっていた。
ボォーン、ボォーンと廊下の時計から、体の奥底に響くような音が聞こえてくる。それと同時に、騒がしい足音が鳴り部屋の扉が叩かれた。そのままの勢いで開かれた扉からは、浴衣姿の二人の姿が揃って入ってきて、僕は突然のことに反応できずに呆然としていた。
向かいに座っている一ノ瀬は、何やら笑顔で感想を行っているようだが、耳に入ってこない。
朱音の水色の青空にシャボン玉が浮かんだような浴衣と、一條のオレンジの朝の光が差したような浴衣。そのどちらも二人の雰囲気を映したかのようで、似合っていた。
似合っている。それ以外の感想は、今は考えられない。圧倒的に言葉が足りない。
すらすらと感想を言い続ける一ノ瀬を、恨みつつ朱音の方へ顔を向ける。
驚くほど、まっすぐに僕の目を見てくる朱音。
普段見ない姿に、僕の心臓と肺が締め付けられるような感覚に陥る。
どうすれば良いんだよ。なにを伝えれば......。
「似合ってる......かしら?」
「うん、似合ってる」
その一言だけで会話が終わる。
だめだ、まだなにか言わないと。
これだけでは足りない。
「似合っていて、綺麗だよ」
「えっ......ありがとう」
色々必死に考えたのに、最終的に口から出た言葉は無意識で、素直な一言だった。そして僕は、冷静になった後、ソファーの柔らかなクッションへ顔をうずめた。
最後に見えた俯いた朱音の顔は、たぶん一條の浴衣よりも赤かった。
顔を赤くした僕ら二人が復活する頃には、花火大会の時間が近づいていた。一ノ瀬たちは僕らが見えないのか、放っておいてくれたのかわからないけれど、恥ずかしさが和らぐまで、何も声をかけようとはしてこなかった。
もしかしたら、恥ずかしいって思っていると、僕らは透明人間になれるのかもしれないな。
僕はシャッターを切る。
写真がまた一枚増えた。これで何枚目だろう、写真が増えても記録されているSDカードの重さは一緒だ。重さが変わらないのなら、もっと写真を撮り続けたかった。
「出発前に皆で写真撮ろうよ。篠崎ばっかり撮ってると、お前の写っている写真がなくなっちゃうから」
一ノ瀬に促されるまま、机の上にカメラを置く。
急いで三人のもとへ向かうと、一ノ瀬に肩を引き寄せられる。バランスを崩しながらも、カメラへと視線を向けた瞬間、セルフタイマーをセットしたカメラが、カシャッと音を立てた。
崩れ落ちる僕と、それをみて笑う一ノ瀬と一條、驚く朱音。自然な表情を写っていた。
もう二度と同じ写真は撮れないかな。
外に出ると、太陽はまだ空高くで自己主張をし、クーラーで冷えた体が一瞬で熱を持つ。ピリピリとした刺激が夏を感じさせた。
浴衣姿の二人に合わせて歩く歩幅をいつもより小さくして、ゆっくりと歩く。空を流れる雲と虫の声、周りの時間の流れに比べたら、僕たちの時間はゆっくりだった。
前を歩く一ノ瀬と朱音の後を着いていく。隣に並んだ一條の髪に、リボンの形をしたヘアピンがきらきらと輝いている。
「一條、そのヘアピンって」
「朱音ちゃんからの誕生日プレゼントなんだ。可愛いでしょ」
「やっぱりそうなんだ、似合ってる」
「ありがとう。ちなみに圭からは、このネックレスだよ」
浴衣の胸元から、アゲハ蝶のペンダントがついたネックレスを引き出す。
アゲハ蝶の細い輪郭を指でなぞる。
「友達から誕生日とかにプレゼントをもらったの、初めてだったんだ。気持ちだけで良いのにさ、無理しなくても良いのにね。ふふ、本当嬉しいな」
「僕からは、ちゃんとしたもの渡せなくてごめんな」
「ううん、写真ってめちゃくちゃ嬉しい。写真を撮るのが好きで、私がいつも写真を撮っているのは知っているよね」
いつもの姿を思い出し、うなずく。
「いつかこの思い出を忘れちゃうって思うと怖いの。どんなに大切なことでも、記憶って曖昧になっちゃうからね。でも写真に残しておけば、私たちは今のままシャッターで切り取られる。いつでも思い出せるし、そこにいたんだって安心できるの。だからね、写真がプレゼントっていうのは嬉しい!」
「それならもっと撮らないとな」
「うん。じゃあ、はい、一枚撮ろう」
「二人で撮るのは珍しいな」
「ありがとう、紫苑君」
前を歩く二人には聞こえないくらい小さな声で、一條が囁く。僕の肩へ頭を寄せた一條の声が、朱音と歩くときよりも低い位置から聞こえてきた。
ああ、どうしよう。無意識に朱音が基準になっている。
「学園祭のとき、写真を見つけてくれてありがとう。ちゃんとお礼も言えなくて、ごめんね」
「話聞いたんだ。別に気にしなくていい」
「ううん。気にするよ。この前、先輩が謝りながら全部話してくれてびっくりしたけど、それよりも皆が探してくれたってことが嬉しかったんだ。だから......」
ほんの僅かに声が大きくなり、そっとリボンのヘアピンを触った。
浴衣の袖が揺れる。
「私と朱音ちゃんの思い出を見つけてくれてありがとう」
そう言った瞬間の一條の表情に、僕は脳内のシャッター切る。そして忘れないように、これから先も思い出せるように、大切に記憶した。
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