夏休み
第38話 水に溶ける七月の空
体をジリジリと焦がすような照り返しと、むせ返るようなコンクリートの焼ける匂い。
校庭から聞こえる、鈴のような声。そして、風に運ばれる校庭で夏を満喫しているアブラゼミの声が、水面を揺らしていた。飛び跳ねた水飛沫が、黒く熱せられたコンクリートを濡らし、生温い影を残して一瞬で空気へ溶けていく。じゅっと音が聞こえそうだった。
学園祭も終わり、七月も真ん中。夏休みが両手を広げて僕らを迎えようとしてくれている中、僕はプールサイドでタオルにくるまりながら、宙を舞うビーチボールを眺めていた。
隣には一ノ瀬が膝を抱え、フェンス越しに校庭を見ている。
「プールの授業なんて無くなれば良いのに」
「お前があんなにも泳げないなんてな」
「体が浮かないんだよ。仕方がない」
「まあ、驚いたけどな。夏休みプールに行こう、って誘ってきた本人が泳げないのは」
「良いんだよ。俺は浮き輪とかに乗ってゆっくりと流されたり、プールサイドで焼きそば食べたりするのが目的だから」
「一條とプールに行くのが目的じゃないのか?」
「お、ここから女子の方が見えるぞ。五十嵐さんが走り幅跳びするな」
「おい、話を逸らすなって」
プールサイドの角。排水口に鮮やかな緑の葉が詰まっている、その溝のそばに立ち針金が歪み大きな穴が空いたフェンスを掴む。柔らかくなったフェンスが体重で軋んでいた。
校庭に目を向けると、遠く校庭の隅で走り出した朱音の姿が見えた。軽やかな走り出しから、紙飛行機のように風を切る助走。そして、右足で思いっきり踏み込んだ。
空に揺れるポニーテール。
舞い上がる砂埃。
一ノ瀬に言われるまま、思わず朱音の姿を見てしまっていた。
日差しが痛いな。
「綺麗なフォームだったな」
「ああ、綺麗だったな。お前が言うから、つい見ちゃったじゃないかよ。なんか、覗いているみたいで罪悪感凄いわ」
「たまには篠崎もこういうの良いだろ」
「たまにはな。よし、夏休みはプールで特訓な」
「なんでそうなるんだよ」
火照った背中に水がかかる。
「冷た」
突然の冷水に驚いて振り向くと、目の前にスイカがあった。反射的に顔を逸らすと、後ろに立っていた一ノ瀬にスイカが直撃する。大丈夫か。
一ノ瀬の顔に当たったスイカは、地面で二度、三度と弾んで足元に転がってきた。
そっか、ビーチボールか。それはそうだよな。
空気の詰まった、ビニールの香りがするスイカを拾い上げ、プールへと顔を向ける。
「篠崎もこっち来いよ。ドッジボールしようぜ! 一ノ瀬は出来そうか?」
相良がプールの中から手を振って呼んでいる。相変わらず声がでかいな。
一ノ瀬は腕を交差させ、無理だと叫んでいた。
「行ってくる。はあ、プール寒そうだな」
「俺は見てるな」
「女子の方をか?」
「違うわ!」
「相良! しっかり受け取れよ!」
一ノ瀬の返しに笑いながら、プールへとビーチボールを投げ込み、プールサイドから飛び込んだ。投げたボールは、葉山の顔に当たっていたような気がするけど、今はどうでも良いか。どうせこれからもっと当てるんだし。
プールに飛び込んだ瞬間から、透明な青に包まれる。体が勢いを失いながらゆっくりと水底にたどり着くと、浮遊感に包まれ徐々に空へと落ちていく。僕を追い越していく泡の一粒一粒が、炭酸水のように弾けては光を生む。
遠くから、飛び込むなよと先生の気怠げな声が聞こえてきた。
ごめんなさいと思いながらも、水に身を任せて空を見る。今はこの瞬間を楽しもう。
水に溶けた七月の空は、蝉の声とともに右へ左へ揺れていた。
あ、スイカが飛んでる。
学園祭が終わり、僕らの周りの環境は何か大きく変わりそうだと思っていたが、結局の所、大きな変化はなく、今まで通りの日常がただひたすら続いた。昨日も今日も、まっすぐと明日へ向かって延びているだけだった。
それが良かったのか、悪かったのか。
一番心配していた雨宮との関係も、未だに友達として続いているし、朱音との距離感も変化はない。
変わったのは葉山と川口さんくらいで、学園祭の後に、こっそり付き合うことになったと嬉しそうにファミレスで報告された。せいぜい幸せになってくれと、朱音と僕でお祝いしたのは先週のことだ。
二人の報告を聞いた後に僕らは、幸せって良いなと言いながら、やけ食いしたのを思い出す。あの時の朱音は、めちゃくちゃ食べてたな。
まあ、後は友達が増えたのが大きいのか――。
チャイムの音が聞こえ、夏休み前、最後のHRが終わる。全身から力が抜ける気がして、今までの考え事もどうでも良くなる。隣を通るクラスメイトが、「また九月」と声を掛けては一人、二人と教室を出ていく。
休みだ。夏休みだよ、何しようか。どれだけ眠れるかな。
そういえば......。
一ノ瀬が見せてくれた夏休みの計画表を思い出す。
夏祭りにプール、勉強会もあったはず。
空になった机を覗き込み、忘れ物がないかを確認する。教科書が一冊も詰まっていない鞄を持ち上げて、教室を出る。教室の外には一ノ瀬と一條が並び、その後ろには朱音が壁に寄りかかっていた。
「やっと出てきたか、帰ろう」
「ごめん、待たせた」
「やっと夏休みだね、いっぱい遊べる」
「まずは宿題を終わらせてからよ」
夏休みが始まる。熱されたアスファルトの匂いと街路樹の緑の香りが、開いた校舎の窓から水のように流れ込んできていた。
カチ、カチと時を刻む音が耳に届く。いつの間にか枕元に置かれていた、目覚まし時計の小さな秒針の音に目が覚める。カーテンから漏れる朝日が、今日の始まりと夢の終わりを告げる。
眠い。
もっと眠っていたいのに、もっと夢を見ていたいのに!
夏休みが始まって三日目。
リビングへ入ると、母さんと朱音がキッチンに並んでる。夏休み初日から続く、もう見慣れた光景。
「おはよう、やっと起きてきたのね」
朱音が顔を上げる。
「おはよう、今日も朝からこっちにいるのか」
「せっかく桜さんも誘ってくれたわけだし、それに宿題を早く終わらせたいから」
「そういえば紫苑は宿題終わらせたの? 朱音ちゃんは順調そうだけど」
シンクの奥から母さんの声が聞こえた。
宿題なら夏休み入る前に大体は――。
「僕は殆ど宿題を終わらせたし」
「作文とか残ってるって朱音ちゃんに聞いたけど」
「あー、作文。作文ね。そんなの遊びながら考えられるし......それよりも今日は結衣さんはいないの?」
「作文考える気無いでしょ。お母さんなら、写真を持ってくるって家に戻ったわ」
「そうなんだ、何の写真」
「よく分からないのよ」
二人から話を聞きつつ、少し遅めの朝食を食べていると、写真を片手に持って嬉しそうな結衣さんが戻ってきた。
結衣さんが僕を見ると、口元をわずかに上げどこか含みのある笑顔を向けてくる。
「おはようございます。どうしたんですか、気味の悪い笑顔を浮かべてますけど」
「気味の悪いって酷いなあ、私でも傷ついちゃうよ? さてさて、寝坊した紫苑くんにプレゼントです。この写真、何か分かる?」
「いや、流石にわからないです。母さんは知っているの?」
「私は知っているよ。半分くらいは私が撮ったし」
そう言うと、母さんも気味の悪い笑顔を浮かべた。
魔女か。この二人は魔女かな。
魔女二人に挟まれた朱音が、天使に見えてくるほどに。
「これでも分からない?」
そういって袋から一枚の写真を取り出す。
そこに写っていたのは――。
「それ、学園祭のときの?」
「正解。どうこれ、良い感じでしょ」
手に持っていたのは、クレープの模擬店で僕が店番をしていたときのものだ。確かによく撮れている。学園祭の写真なんか一枚も無いと思っていたから、少しだけ驚いた。
次は、朱音が接客中の写真。そして、朱音から注文を受けている時の写真が続く。
最後は、二人でかき氷を食べたときのだ。
「この写真って」
「私は二人が仲良くなってくれて嬉しいよ。こっちなんて、かき氷を食べさせ合って」
「待ってよ、お母さん。いつの間にそんな写真撮っていたの? 私たちに声かけてくれても良かったのに」
「二人の邪魔しちゃ悪いかなって。桜も写真だけ撮ってそっとしておいてあげようってね」
「うん、写真撮って後から見せたら面白いかなとか」
「それが、母さんの本音だな。......最悪だ」
二人は何十枚もの写真を机に並べ、この写真が良いとか、こっちの方が可愛く撮れてるとか話だし、僕と朱音は二人して蚊帳の外に放り出された気分だった。
「どうしよう」
「どうしようも無いかな。仕方ないって」
「そうね」
僕らは諦めて食事と宿題を進める。
向かいでは英語の参考書を広げて、宿題の範囲を確認する朱音を見る。
作文か、何を書くか。
「それで二人は、付き合ってるの?」
「ん?」
朱音が声を出す。
参考書を捲る手が止まり、視線が中を彷徨う。
「付き合ってないけど」
「嘘っぽいなあ。こんなに幸せそうな顔して写っているのに。私達は紫苑くんが朱音の恋人なら、安心なんだけど」
「いやいや、なんでですか」
「それは紫苑くんだからだよ」
「答えになってないですよ」
「ふふ、青春って良いね。イチゴのかき氷美味しかった?」
「まあ、美味しかったですよ」
それを聞くと満足そうに、結衣さんと母さんはソファーへと向かい再び写真を見始めた。
何だったんだ。
どことなく疲労感を覚えつつも、僕は食事を終えて片付けをする。ふとした拍子に、あの日のかき氷の味を思い出す。味も香りも全く一緒なのに、目で見ていると味が違うように感じたイチゴとレモン。
手を洗い、テーブルに戻ると不機嫌そうな朱音がいた。
「見ていたなら言ってくれても良いのにね」
「だな。隠し撮りされてるなんて思わないよな」
「ごめんね、私のお母さんが変なこと聞いて」
「いや、結衣さんは悪くないよ。面白がってた母さんが悪いって」
「そんなことないわ。どうする、私の家でする? ここだと宿題し難いでしょ」
「僕はなんとかなるけど、朱音はあっちの方が良いか?」
「そうね、ちょっと恥ずかしくて」
そう言うと、朱音は目を伏せながらノートを閉じる。
僕も作文用紙を纏めながら席を立ち、他の参考書や教科書を纏めて持ちながら、家を出る。
「あの英語の問題分かる?」
朱音が家の鍵を開けながら聞いた。
カチッと音がして、開いた扉の隙間から花のような香りが溢れ出てくる。
久しぶりに家へ入る気がして、今更ながら緊張していた。
「あの問題って?」
「長文の『どうして幼馴染が隣に居たことに気付いたのか』って問題」
「何だっけ、雰囲気じゃない?」
「うわ、適当ね。もしかして覚えてないでしょ」
「問題見れば思い出すから」
こうやって夏休み三日目には、山積みになった宿題は順調に消化されていったのだった。作文も終わったし、とても気分が良い。残っているのは、毎日の一言日記くらいか。
毎日書くっていうのが、一番面倒だ。天気とかは、夏休み終わりに一ノ瀬あたりにでも聞いちゃおうかな。
「再来週は一ノ瀬君達とプールよね」
「だな。久しぶりだな、屋内プール」
「水着どうしよう。はやく買わないと」
「一條を誘ってみれば?」
「そうね。ちなみに、紫苑はどんな水着が好み?」
「似合っていればそれで」
一瞬だけ朱音の水着を想像し、思わず目を逸らす。
「そう言われると迷うわね。色とか無いの?」
「黒とか好き......です」
「なんか焦っているけど、どうしたのよ。分かった、黒ね」
「うん、朱音なら、黒以外にも青っぽいのも似合いそうだけど」
「んー、ありがとう。参考にしてみるわ」
そういえばプールのことを忘れていた。ついでに朱音達と一緒のことも思い出し、緊張している。
調子が狂うな。
朱音の笑顔を直視できなかった。
ちゃっぷん。
雫の落ちる音に目を開ける。
浮いている。波に揺られて流されている。
あれから二日後、僕は一ノ瀬と二人でプールに来ていた。
屋外のプールには、太陽の光が直接入り込み、波打つプールを宝石のように輝かせる。
太陽に向かって伸ばした手から水滴が落ち、温まった顔の上を伝う。手のひらが赤く透き通っていた。
「なあ篠崎は怖くないのか」
「何が?」
「そうやって水の上に浮かんでいるの」
「全然。むしろ安心する。ほら、まずは一ノ瀬も浮かんでみろ。まずはそれからだ」
「浮かぶって言われても、沈むんだけど」
「力入れすぎなんだよ。それに腰が引けてるから沈むんだ。とりあえず僕を信じて力を抜け。そして顎を引け」
「おい、なんか今日厳しくないか。何かあったか」
「いや」
仰向けになった一ノ瀬の背中を、持ち上げるように右手で支えて、後頭部へ左手を添える。これで浮くだろう。うん、大丈夫だ。
目の前の一ノ瀬に集中することで、頭に浮かぶ雑念を追い払おうとする。
「そういえば今日、美菜と五十嵐さんが水着買いに行くって言ってたな。って、痛い。肩を掴む力が強すぎませんか」
「強くなってないです」
「嘘だ、ダウトだ。あ、もしかして五十嵐さんの水着が気になっているとか?」
「違います」
「うわ、絶対そうだ。ちょっと意外だな、なんか聞かれた?」
「......どんな水着が良いかって」
「楽しそうなこと話しているな。それで?」
「似合えば良いんじゃないかって。でも、それじゃあ駄目って言われてさ、どんな色が良いかって言われたから、黒か青っぽいのって」
またあの日のことを想像したせいで、変な罪悪感に襲われる。
嫌だな、本当に。何を考えているんだよ。
「確かに似合いそうだなって、沈んでる! 支えて、体支えてくれ」
はっと意識を戻すと、目の前には少しずつ水に浸かっていく一ノ瀬がいた。
急いで両腕に力を込めて支える。
「悪い、気を抜いてた」
「焦った。いや大丈夫、こっちこそ色々聞いて悪かった。でも、五十嵐さんがそんなことを聞くなんてな」
「なんだよ」
「仲良いんだなって、それだけ。安心した」
「はいはい、練習するぞ。一條とプールに行くのに、もう時間が無いんだから」
「頼む」
夏休みは始まったばかり。予定は多いけれど、このままだとあっという間に終わってしまいそうだ。
まずは、一ノ瀬を少しでも泳げるようにすることから始めよう。
朱音とのプールまでには心の準備をしておかないと。
一ノ瀬の小麦色に日焼けした腕を眺めてから、僕は水の中で歪む自分の腕を見ていた。
思っていたよりも白い。部活もしてないし、そうだよな。
顔にかかった水を拭うと、プールの香りが強くなる。
空に湧き上がる入道雲は真っ白で、純白だった。
そういえば、あの子の手も白かったっけ。数年前に掴んだ手を思い出して、僕はゆっくりと水へと体を沈める。まだ僕の初恋は忘れられそうにはなかった。
空の青が水の色ならば、雲の白は――。
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