第37話 夏の大三角
午後三時前、世間はおやつの時間に入る頃。
クレープの香りが漂う教室へと戻り、シフト交代の準備を始める。
エプロンを着け手を洗ってからレジへと入ると、調理場のカーテンの奥から一條と一ノ瀬が顔を出す。
「二人ともお疲れ」
「お疲れー。紫苑くんは今からシフトだっけ?」
「そうだよ。これから最後まで」
「頑張ってね。そうだ、後で写真を撮らせてよ」
「良いよ、好きに撮って」
「お疲れ、篠崎。迷惑かけたな」
「よう、お疲れ。元気そうで良かった。一條はもう知っているのか?」
「ああ、見つかったのもな。お前が見つけたってのは知らないみたいだけど」
引継ぎをしながら喋ってくると、これからのシフトメンバーが少しずつ集まってくる。
その中には雨宮の姿もあり、他のクラスメイトと喋る様子は元気そうで安心する。
「じゃあ、紫苑くん。またね、頑張って」
「おう、二人も楽しんで」
さて学園祭も、このシフトが終わればもう終わりだ。
思い返すと、あっという間だったな。そういえば、学園祭っぽいことを殆ど何もしていないんじゃないか。
呆然としていると時計は三時を示し、急いでレジの横に立つ。隣には雨宮もいて、未だに僕は罪悪感に潰されそうになっている。それでも元気そうな表情を見ると、僅かながらに救われたようになる。
思いっきり息を吸い。行列にも同じ光景を見たな、と目の前に伸びる列へ視線を向けた。
いらっしゃいませを何度繰り返したんだろう。笑顔をし過ぎて、普段使わない顔の筋肉が悲鳴を上げている気がする。スマイルって無料にすると赤字になりそうだな。
時間と共に機械的にこなせる様になる接客。
効率化されていく注文の連携。
楽しくなってきた。
「こんにちは、注文良いかな。雨宮さん」
「いらっしゃいませ。あっ、西山先輩。来てくれたんですね」
「ここのクレープをおすすめしてもらってね」
「いらっしゃいませ、先輩。ありがとうございます」
「こんにちは、篠崎君。こちらこそ。それで、おすすめって?」
「僕のおすすめは、このリンゴかオレンジのどちらかですね」
「リンゴとイチゴのクレープにしようかな」
「二つ頼んでもらっても良いんですよ?」
「そんなに食べれないから」
西山先輩へ自作のクレープをお勧めしつつ、注文を取る。出来れば二つとも注文して欲しかったな。
「あのさ、雨宮さん。後で時間ある? 少し話したいことがあるの」
「片付け終わってからなら大丈夫ですよ」
「ありがとう、それじゃあまた後で連絡するね」
二人の会話が途切れたタイミングで丁度出来上がったクレープを、先輩へと手渡す。
「どうぞ先輩」
「ありがとう。それじゃあ雨宮さんと篠崎君、またね」
「また来てください」
「先輩、また後で」
この後、西山先輩は雨宮に話すのだろうか。ただ、これから先は僕が踏み込むことではないし、どうなるかは見守る事しか出来ないな。
西山先輩が帰った後も、客足は途絶えることなくゆっくりできず、接客に追われていた。時間と共に近づく学園祭の終わりを感じながら。
それから何分経ったのだろう。
注文を受けたチョコバナナを受け渡し、再びレジへと顔を戻す。廊下に溢れていた人影や、足音が落ち着いてきて、すこしゆっくりと出来そうな気配がしてきた。
列も一区切りし、やっと落ち着ける。
「いらっしゃいませ」
何回言ったのかな。
スムーズに言葉が出る自分に驚きながら、一向に上手くならない笑顔を浮かべる。
「あれ貴方、いつもスーパーに来てくれる」
「えっと」
突然掛けられた声に、思わずじっと相手の顔を見る。この人、どこかで見たことあるような......。あ、そういえば。
「ああ、いつも試食コーナーでおまけしてくれる」
「そうそう、覚えててくれて嬉しいわ。いつも一緒に来てくれる彼女さんは元気?」
どこかで会ったなと思ったら、良く朱音と一緒に夕飯の材料を買いに行っているスーパーだ。いつも試食コーナーで会っていた。
彼女って言うのも、朱音のことだろう。初めて会ったときに、お互い否定するのも面倒でそのままにしていたからな。
「元気ですよ。たぶん今頃、食べ歩きしてますね」
「そうなんだ。それにしてもこのクラスだったんだね。実はね――」
「あれ、お母さん。篠崎くんと知り合い? え、いや、いやいや、その前に彼女って?」
隣で接客を終えた雨宮が顔を覗かせる。
あれ、今お母さんって言わなかったか。まさか、この人が雨宮のお母さんなのか。
「お疲れ、花。そうそう実はこの子が娘なの。あなたと仲良さそうで安心した。あ、まずは注文だよね。このブルーベリーのクレープを一つ頂戴」
「そうだったんですね、いつもお世話になってます。篠崎です」
「あ、キミが篠崎君なんだ。こちらこそ、娘がお世話になってます。ほら、花。よくスーパーに来る仲良いカップルの話したでしょ、この子だよ」
「あ、二人で夕飯の献立を話してるって言ってた」
「そうそう、あの子も綺麗でお似合いよね」
「だから、あの子って誰なの?」
このまま話が広がると、後で収集が付かなくなりそうになる気がするな。
段々と盛り上がりをみせる雨宮のお母さんへ、出来立てのクレープを手渡す。いつもは試食コーナーで手渡されている側なのに、変な感じ。
「あら、このクレープ美味しいね」
「でしょ、もう一つどうですか?」
「さすがにお腹いっぱいだからね。ありがとうね、篠崎君も花も。そうだ、二人並んで写真撮らせて?」
クレープ待ちの列も無いし、一枚くらいなら良いかなと思い、雨宮の隣に並ぶように近づく。
「ほら、花も近づいて」
「もう、お母さん恥ずかしいから」
恥ずかしがる雨宮と並んだ写真を撮ると、雨宮のお母さんは満足そうに教室を出ていった。
「ごめんね、お母さんが」
「別に良いって」
「篠崎くん、彼女いるの?」
「あれは冗談。ほら、お客さん来たぞ」
「ちょ、ちょっと話を逸らさないで」
朱音の名前は出せずに笑って誤魔化す。まあ、彼女でもないけれど。
その後も、何度か来る雨宮からの質問に答えつつ、クレープの販売に意識を向けていると、一つ二つと果物が無くなったと報告が届く。そのたびにメニュー表に終了のシールを貼られるのが寂しくなる。
そして最後の一つのクレープにシールを貼り終えた。完売だ。
一昨日、放課後にこっそりと作った完売の看板を立てることになった。天井を見上げて、背筋を伸ばす。やっと終わったのか。
最初は大量に見えていたクレープの材料が無くなり、達成感が込み上げてくるが、その向こうからは喪失感が手を振っている。準備のリーダーに指名され、一ヶ月以上前に準備を始めた頃はこんな気持ちになるなんて思っても見なかった。
慌ただしくがむしゃらに走っているうちに、いつの間にかゴールを迎えていた。振り返ると、その道にはいくつもの苦労が転がり、幸せ思い出がシャボン玉のように漂う。
楽しかったんだな。
完売の知らせを聞いたクラスメイトが教室に戻ってきては、写真を撮ったりし盛り上がっている。少しだけ余った果物を皆で食べながら、残り時間を過ごす。
そんな時間はあっという間に過ぎ、教室の前につけられたスピーカーから学園祭の終わりを告げる放送が流れた。
その後は、体育館で行われた閉会式でバンド演奏に盛り上がり、クラス対抗の順位発表があったり、実行委員長の言葉の一つ一つに盛り上がったりと、高校初めての学園祭は熱量に圧倒されているうちに終わった。
後片付けを行い、教室が約一ヶ月ぶりにダンボールや紙の束が何一つ無いスッキリとした空間に戻った。開放的な広さを感じるが、心の奥が空っぽになった様な寂しさが溢れ出る。
ああ、無くなるのは一瞬だ。
控え室のごちゃごちゃした黒板の前で、皆で集合写真を撮った後は、殆どが校庭で行われる後夜祭へと向かう。
小道具担当だった僕と川口さんは、教室で細かな片付けをするために残り、クレープ担当だった葉山や朱音たちは調理道具を片付けに調理室の方へと向かっていった。
時刻は六時半を過ぎ、空は紺色に染まっていた。
窓の外に広がる校庭には、先生たちが出す模擬店やライトアップされた大きな櫓が見え、後夜祭の盛り上がりが伝わってくる。そして思い思いの場所へと向かい、はしゃぐ生徒達の声を背中に、僕たちは教室に僅かに残った飾りを剥がしてはまとめていく。
祭りのあとの虚しさ。
一通り教室内を見回し残りがないことを確認すると、渡り廊下へと出て外の空気を思いっきり吸う。これで本当に終わりなんだな。
渡り廊下から見える中庭には、校庭の喧騒から逃れるように数組のカップルがベンチに座ったり、中央の謎のモニュメントに並んで立っている。何を話しているのか、ただ楽しそうな表情だけがこちらまで伝わってくる。
「篠崎くん。ここに居たんだ。この一ヶ月半くらい、お疲れ様。ありがとうね」
さっきまで一緒に片付けていた川口さんが、教室から出てきて中庭を見下ろしている僕の隣に並ぶ。
「お疲れ。こっちこそ、ありがとうな。色々助けられたよ」
「良いの、それは私の仕事だから。私が副委員長なの忘れてない?」
「そういえば、忘れてたかも」
「もう、酷いなあ」
川口さんは手すりを指でなぞりながら、ゆっくりと話す。のんびりとした会話の間合いが心地良い。
「覚えてる? 篠崎くんと五十嵐さんが、ここで私が落とした書類の束を拾ってくれたこと」
「覚えてるよ」
「初めてちゃんと喋ったのがあのときだったっけ。あれからは考えられないくらい仲良くなれたよね、私たち」
「そうだな。五十嵐もそう言ってたな」
「それは嬉しいな。あれ、五十嵐さんのこと名前で呼ばないの?」
「覚えてたか......今は呼ばない。なんか恥ずかしいし。川口さんは、葉山とも仲良くなれたか?」
「......うん。お陰様でね、この準備期間とても楽しかった。一緒にクレープ作ったり、帰ったりしてね。今日だって、少しだけ一緒に見て回れてさ」
「よかったな」
「うん」
中庭を見ていると、下駄箱から出てきた一組のカップルが目に入る。
どこかで見たような長身とストレートの綺麗な黒髪のそのカップルは、中庭の中央まで歩いてきて立ち止った。他のカップルと比べては近くはない距離で向き合う。やはり何を話しているかは分からないが、男子生徒の言葉に、女子生徒の方が僅かに笑って恥ずかしそうに俯いた。
小さな灯りに照らされて伸びる二人の影が、一つに重なり地面に染みを作る。
ぼんやりとその様子を見ていると、ふとこちらを見上げた男子生徒と視線が合う。合ったように感じた。その一瞬から逃れようと視線をそらし、手すりへと背中を預けるように体を反転させた。
これだと僕が逃げているみたいだ。
「あれって、葉山くんと五十嵐さん?」
「そうみたいだな」
「二人共、楽しそうだね」
「葉山と一緒にいなくて良いのか」
「葉山くんが楽しそうなら私は――」
小さくなる声をかき消すように、二人のスマホが鳴った。
「葉山くんから、今から会えないかって......。会って良いのかな」
「行ってきたほうが良いんじゃないか? 言いたいことを言えないって、後悔することになるから」
あのとき伝えておけば良かった。あのとき名前を聞ければ良かった。
僕を掴んで離さない初恋の後悔が、目の前に浮かんでは話しかけてくる。
川口さんの声を聞きながら、ディスプレイを確認する。暗闇の中、青白い光で照らされているのは「いまから、そっちへ行って良い?」という朱音からのメッセージだった。
「私、行ってくる。まだ諦められないし。篠崎くんはまだここにいるの?」
「うん、五十嵐がこっちに来るって言ってたから。ここにいるの気づかれてたんだな」
「そっか篠崎くんも頑張って。じゃあね」
何を頑張れば良いのかと笑いながら、僕は走って校舎へと戻っていく川口さんへ手を振った。最後くらい、幸せなことが起きても良いんじゃないかな。
見下ろした中庭には、もう既に朱音の姿が見えなくなっていた。
空を見上げる。墨をこぼしたような真っ黒な空には、いくつかの光の欠片が埋め込まれている。どれが一番星かは、もう分からない。
乙女座のスピカも、蠍座のアンタレスも、北極星も。こんなに星があると僕には区別がつかなくなる。そもそも、この時間に見えているのかどうかも僕には確認できないんだ。
星座表みたいに線が引かれていれば、星と星を繋ぐことにも迷うこともないのに。
夏の大三角を思い浮かべ、空へ出鱈目な線を引いていると、人工芝を踏む音が聞こえてきた。
音の方へ視線を向ける。
「お疲れ、大丈夫だった?」
「お疲れ。大丈夫って何のことだよ」
「川口さんと話しているみたいだったし、それに、昼のこととか」
「昼って写真部の?」
「そう。まだなんか悩んでいるでしょ」
隣に並んだ朱音も、手すりに背中を預けて僕の方へと視線を向ける。
「分かる?」
「分かるよ、通話のときの声がいつもと違ったから。解決したって言っているのに、あの感じなら、何かあったんだなって誰でも分かるわよ」
気付いたのは朱音だけじゃないか。
「今から話すことは、秘密にしておいてもらえるか」
「大丈夫」
朱音には写真部で起きたことの顛末を話し、その原因が自分にあったことも伝えた。その間、朱音はときどき相槌を打つだけで黙って話を聞いてくれた。
「また誰かを傷つけることをしちゃったよ」
一條も雨宮も、そして西山先輩もすべて僕の一言で傷つけたようなものだ。
「考えすぎよ」
「でも」
「もう、ちょっとこっち向いて」
朱音の声とともに体を引き寄せられる。突然のことに驚いていると、頬に暖かな感触が伝わってきた。
朱音の両手が添えられて動けなくなる。
「紫苑は考えすぎ。美菜も雨宮さんも傷つけてないから」
「それでも、あのとき――」
「その先輩の質問に対して、言い方を変えれば良かったのかなとか、その時間に行かなければ良かったとかなとか、それはもう仕方ないことなの。そんなこと言ったら、私が紫苑にエプロンを持って来てって言ったから、その時間に写真部に行くようになったのかもしれないし、私が貴方と仲良く成らなければ、違う感想を言ってたかもしれないし、そもそも展示に行くきっかけも無かったかもしれない。私の言いたいこと、伝わるかな」
「伝わるよ。朱音と仲良くなれて良かった。っていうか、朱音が隣の部屋に引っ越してきてくれて良かった。もしもを考えるのはやめるよ。今までの関係も出来事も否定したくはない」
「うん。次、どうするかを考えよう。それに」
ぐっと、顔を寄せられる。ちょっと顔が近く、一條の撮った写真を思い出す。
「紫苑の感想、普通の内容だよ。聞く人によっては傷つけちゃうかもしれないけど、それは仕方のないことだって皆納得してくれるはず。少なくても私はそう思う。......私は貴方の味方だから、隣りにいるから、一人で悩まないで私には相談して」
――私だって助けられてばかりは嫌だから
最後の一言は、この顔の近さでしか聞き取れないくらいの囁き声だった。校庭で歓声が上がるが、僕らは見つめ合ったまま。
「篠崎くん......と五十嵐さん?」
背中から聞こえた声に、思わず距離を開ける。
振り向くと雨宮が立っていた。スカートの裾を右手で握って、こっちを見ていた。
「えっと、ごめんね。邪魔しちゃったかな」
「そんなことないよ。どうしたの?」
「あのね、西山先輩から全部話を聞いたよ。ありがとう。お昼にも言ってたけど、篠崎くんは気にしないで」
「全部聞いたんだ。ごめんな、ちゃんと謝れなくて」
「ううん、良いの。篠崎くんを頼ることが出来て良かった、本当にありがとう。それじゃあ、またね」
「またな。後夜祭に行くのか?」
「うん参加してくる。五十嵐さんも幸せに......ね。ばいばい」
「ええ、またね」
「私ね、篠崎くんのこと好きになれてよかった。二人とも幸せにね」
最後にそう言って走り去る雨宮を、何も言えず眺めていた。後を追うことも、呼び止めることもしようとはせずに。
「どうするの」
「どうやって声をかければ良いんだ」
「私には分からないわよ。もし何も返さないなら、私なら今まで通りに接して欲しいとは思うかな」
「普段通りか。人を好きになるって難しいな」
「紫苑の場合は、引きずっている初恋をなんとかしないといけないしね」
「ああ、このまま逃げ続けるのは良くないってのは分かってる。もう少しでなんとかなりそうな気はするから」
「楽しみにしている」
ちらっと振り向きざまに視界に入った中庭では、葉山と川口さんが二人並んでベンチに座っているのが見えた。それ以上は見ないように、空を見上げる。
「葉山とはどうなんだ?」
「ああ、やっぱり微妙に勘違いしてるわね。私は相談に乗ってただけだから。紫苑だって、川口さんの相談に乗ってたんでしょ」
「気付いてたのか? 勘違いっていうか、もしもの場合の心配っていうか」
「私も同じようなことを葉山くんに聞かれてたから。たぶん、二人なら大丈夫よ。私が保証する」
「保証期限短そうだな」
「やめなさい、縁起でもないから。っていうか、もっと信用して」
「はいはい。もし葉山と付き合うことになったら、夕飯とか一緒に食べられなくなるなって思っただけ」
「当分、恋愛はしないって言ったでしょ。貴方が幸せにしてくれるって言ってるから」
「幸せになれるなら、付き合うのも応援するし」
「それじゃあ、お互いに意味ないじゃない」
隣で朱音が小さく笑う。その息が漏れるような笑い方に、安心している自分がいて、焦りを覚える自分がいる。頭の隅には雨宮の横顔がフラッシュバックしていた。
空の星は数を増やし、今まで見えなかった光が目に見えている。
「星座って分かる?」
「あまり分からないわね、紫苑は?」
「オリオン座くらい」
「それなら私も分かる。この季節だと夏の大三角かな」
「ベガもアルタイルもデネブも分からないから、適当に三つの星を繋いでも区別つかないわ」
「大雑把ね」
「これくらい大雑把のほうが良いんだよ」
そう言って適当に見つけた星を繋げて、三角形を作る。夏の大三角の三つの頂点には、誰がいるのだろうか。僕がいて、朱音がいて、初恋の相手がいて――。もしかしたら、雨宮かもしれないし、葉山かもしれない。一ノ瀬がいても、一條がいても可笑しくないな。
目を瞑る。三角関係は嫌いだ。誰かが幸せになるには、誰かが傷つく構図にしか見えない。
もし、皆が幸せになれるなら、その三角はどうやって壊せば良いのだろうか。
「三角関係で誰も不幸に成らない方法ってあるのかな」
意識せずに考えていた内容が、思わず声に出てしまう。何を言っているのか。
「そうね。それぞれの頂点を極力近づけて、遠くから見れば幸せそうには見えるかな」
「結局は三角のままだけど、限りなく点に近づけるってことか」
「他には」
そう言って、朱音は空を見上げて、顔の前に手を伸ばす。左右の親指と人差し指で作った小さな三角形を覗きながら、続きの言葉を紡ぐ。
「少しずるいけど、三角形を平面で考えちゃ駄目なんだよね。夏の大三角だって、空に見えているのは平面だけど、実際は何光年も遠い先にいる星でしょ。みんなそれを忘れがちだけど、星座は立体なのよ。三角関係も一緒で、人間関係っていうのは立体的なの」
そう言うと空に掲げた三角形を横に倒し、親指同士をくっつけた辺だけを見えるようにする。
「こうやって見方を変えてしまえば、一本の線になるのよ。そうすれば後は、この両端がくっつくだけ」
両手を握りしめて空へ祈るようなポーズをする朱音。こちらへ顔を向けて、これは答えにならないよねと笑う。
「三つの頂点の内、二つが同じじゃないと駄目だな」
「そうそう、それどういう状況なのって感じよね。だから、これはずるってこと」
確かに、その答えはずるいなとは思うけど、そんな状況になったら皆が幸せになれるんだろうな。三角関係に見えていったものがただの線だったなんて、きっとそれは奇跡だろう。
それこそ何光年先から届く、大昔の光を繋げて書かれる絵のように。
「星は綺麗よね。過去があるから今があるって実感させてくれる」
その瞬間、校舎の向こうから明るい光が差し込んできた。
光は、赤に白、黄色と変化し空を明るくする。
「後夜祭の花火が始まったのかな。打ち上げじゃないけど、結構綺麗らしいわよ」
「ここからでも凄い光だもんな」
「ほら見に行こう。星なら帰ってからベランダで見ても良いんだし。そうね、今度ベランダで天体観測でもしない?」
「それまでには星座を勉強しておくよ」
「ほら、はやく」と、僕に手を差し伸べる朱音。その奥に見える窓が何色にも輝き、僕らを照らす。花火の光を背に、逆光の中で見る朱音の笑顔は綺麗だった。
――花火よりも星よりも。
いつからだっけ、朱音のことを無意識に目で追うようになっていたのは。朱音の声に心地よさを覚えるようになったのは。
最初は、ただ単純に綺麗なものに視線を送るような感覚だった。美術館でふと足を止めてしまう絵画のように、街中でつい見てしまう花のように。それが今は違うように感じている。でも、まだ認めたくはない、認めてはいけないと、僕は目を背け続けることにした。
これまでに踏み躙ってきた想いのためにも。
幸せを望むのはもう少し先にしないと。
差し伸ばされた朱音の手を優しく掴み、引っ張られるように歩き出す。
もう少しだけ、この関係が続けば良いな。いつかこの手を離す日が来ても。
赤から黄色へ変化する光の中で大きく息を吸うと、昼に朱音と食べたかき氷の味が蘇る。
この心の痛みも、ほろ苦さも、ふとした瞬間に感じる甘酸っぱさも、全部青春というレモンシロップが見せる錯覚なら良いのに。
振り返った朱音と視線が合う。今日一番の自然な笑顔を浮かべられたかな。
夏風が僕らの熱を攫う。繋いだ手の熱はそのままにして。
どこまでも透き通った風が、夏の香りを残して遠くの空へと消えていった。
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