第40話 打ち上げ花火
バスから降りて十分ほど暑い日差しの中を歩くと、川のせせらぎと幾重にも重なる人声が聞こえてきた。目の前には水底まで見通せるほど透明な川が流れ、それに沿って広がる川の何倍もの河川敷。そして土手には、まだ明かりのついていない白い提灯が屋台と一緒に遠くまで並んでいる。
「すごい屋台の数ね。終わりが見えない」
「ここの花火大会は規模が凄いよな。確かこの屋台って、1km近く続いているんじゃなかったか?」
「そんなにあるの? 人も多いし、全部見るまで時間がかかりそう」
「あれ、五十嵐さんはこの花火大会初めてだっけ?」
「ううん、引っ越す前は見に来てたけど、こうやって全体を見れたのは初めて」
「そうなんだ。なら早く場所取りして、屋台を見に行こうぜ。俺も会場まで来たの初めてでさ、篠崎も美菜も良いだろ?」
はしゃぐ一ノ瀬に続いて、僕らは屋台が並ぶ土手へと足を運ぶ。冷たい風が走り抜け、鮮やかな萌葱色の芝生がさらさらと揺れる。
人の声、屋台から響く発電機の振動、焼けた油とソースの香り。
下駄の音。
そして人の熱とアスファルトの照り返しが、夏らしさを一層加速させていた。揺れる袖口を写真で切り取りながら、人の波に沿って進む。ペットボトルのサイダーを買って、りんご飴をなめて、かき氷で体を冷やして、ヨーヨーを釣る。あれが良い、そこが良いと歩いていると長かった屋台の列が、すうっと終わりを迎えた。
一気に視界が開け、もわっとした熱気が消え冷たくさっぱりとした空気が包み込む。
見上げた空は綺麗な黄昏色。振り返ると長かった土手の両脇には、白かった提灯に明かりが灯り、暖かなオレンジが風に揺れながら遠くまで波線を描いていた。
花火が打ち上がるまで、あと一時間くらいかな。
「紫苑君は何食べる?」
「うん?」
「そろそろ花火の時間だし、適当に何か買って場所取りしたところへ行こうよ。私と朱音ちゃんは、お好み焼きにするけど、二人は何が良いかな?」
赤いヨーヨーを手のひらで転がしながら、一條がしゃべる。バシャっと籠もった水しぶきの音と、動くたびに響く下駄の音が涼しげだ。
「僕は焼きそばが良いな。一ノ瀬は」
「本当、いろいろありすぎて悩む。じゃがバターが美味しそうだった」
「よし、買いに行こうか! もう一回、あの人混みに突撃するよ!」
一條の声に導かれて、僕らは再び人の波に飲まれていった。
やっぱり、かき氷も食べたいかな。みかんシロップのやつ。
芝の上に敷いたレジャーシートの上で足を伸ばしていると、川の冷えた空気が手足の熱を奪ってくれるみたいで心地が良い。土手に等間隔で並べられたスピーカーから、打ち上げ一分前のアナウンスが降ってきた。
隣で寝転びながら空を見上げていた一ノ瀬が、勢いよく体を起こし、時計と夜空へ交互に視線を向けては、来るかなもう始まるかなと背中を叩いてくる。楽しいのは分かるけど、ちょっと力が強いかな。僕の背中に、真っ赤な花火が打ち上がりそうなんだけど。
周囲の雑談の声が一秒、さらに一秒と大きくなり、いつの間にか一ノ瀬の声くらいしかはっきりと聞こえなくなっていた。
そんな中、甲高い音と共に一本の白い線が空に引かれ、真っすぐ伸びた。
あんなにも騒いでいた観客の声が、波のようにすぅっと引いていく。
風の音が聞こえた。
火薬の香りが香った。
濃紺の空に花が咲く。一輪の大きな花。
真っ赤に輝く花が僕らを照らす。
一瞬の静寂の後に、心臓に響く重い音が届いた。
その音に僕ら観客が、一斉に歓声を上げる。
空を彩る花火は増えていき、赤から緑へ、青から白へと色を変えては色のないキャンバスを埋め尽くす。時々周囲から漏れる感嘆の声が聞こえるだけで、いまではもう花火の開く音しかない。隣に座る一ノ瀬が、綺麗だなと呟く。
僕はその声には返事をせずに、ただ空を見上げ続ける。綺麗なものを綺麗って言えるのは羨ましいな。一ノ瀬のそういうところは素直に憧れる......。
「なあ篠崎、花火って良いな。いろんなことを忘れられるし、勇気を貰える」
僕にぎりぎり聞こえる声で話す。視線も意識もほとんど花火に向けられた状態だ。一條と朱音に聞こえているかと思って、二人の様子を伺うけれど、こちらには意識を向けずに空を見ていた。
「そうだな。......忘れたいことか」
「何だ? 忘れたいことでもあるのか」
「それはもう数え切れないほどにな。でも忘れたくないことも、忘れて逃げたくないことも同じくらいある」
「初恋とかか?」
一際大きな花火が打ち上げられる。真っ白な花火は、和太鼓のような重い音と共に輝き、さらさらと溢れ落ちる。
「悪いかよ。っていうか、どうしてそう思ったんだ?」
「ほら四月辺りに、いまでも初恋の人が好きだって言ってただろ。あの頃は冗談だと思っていたんだけど、たまたま学祭のときに五十嵐さんと同じこと話しているの聞いちゃってな」
学園祭か......いつそんな話をしたっけ。
リズムよく花火が打ち上がり、絶え間なく空の色を変化させている。花火に照らされるたびに、前の花火が残した煙が白く見えていた。
「なんか複雑そうだから、俺からは気軽に言えないけど。逃げずに一歩を踏み出したいんだろ?」
「何を聞いたんだよ。まあ、初恋の人は今も好きだけど、それは憧れっていうのが大きいな。......はぁ仕方ない、笑うなよ。僕には誰かを好きになる資格は無いって思っていたし、周りの人、好きな人をいつか傷つけるって考えていたから、もう会えないはずの名前も知らない初恋の相手を想い続けていたってわけ」
一歩を踏み出そうとして、もうすでに傷つけたけどさ。学園祭の夜、曖昧な星空の下で泣きそうに笑った雨宮の顔が思い浮かぶ。
空にハートやアニメのキャラクターを描いた花火が綺麗に上がるたび、歓声が沸き上がる。
「そこまでの話を五十嵐さんは知っているのか?」
「知ってる。寧ろ、五十嵐しか知らなかったし、区切りをつける手伝いだってしてもらってる」
「それなら良かった。お前、五十嵐さんのこと好きなんだろ?」
僕は何も返事をせずに、光り輝く瞬間から目をそらした。
僕はまた逃げたんだ、肯定も否定もせずに。
「俺が言いたいのはさ、篠崎も五十嵐さんも幸せになってくれたら嬉しいなっていう、勝手な願いだけだ。そのために一歩を踏み出すって言うなら――」
「大丈夫。少なくても五十嵐だけは、幸せにするって約束してるから」
「それなら心配いらないな。......実は昼にも言ったけど、俺と美菜は幼馴染なんだよ。――そして初恋の相手」
「初恋だったのか」
「俺の家も見ても変わらずに接してくれ続けたのは、あいつくらいだし。あと優しいし、可愛いし。好きになるって」
「いきなり惚気けるな」
「俺も初恋と決着つけようと思ってる」
「昨日、頑張るって言ってたもんな。本当にできるのか?」
「覚悟はしている」
「そうか」
四つの白い花火が重なり合い、心地良い振動とともに一輪の大きな花となって空一面を照らす。いつまでも白い花びらが消えること無く、ゆっくりと舞い降りていた。
長い無音のあと、一部の終わりを告げるアナウンスが聞こえた。拍手と感想の声の隙間から、十五分後に二部を開始する放送が届く。
「私、飲み物を買いに行くわ。みんな何か買ってこようか?」
「それなら僕も行くよ」
「それが良い、篠崎が一緒なら安心か」
「朱音ちゃん、私はお茶飲みたいな」
「はいはい、いつものね。一ノ瀬君は?」
「ラムネが良い」
思いっきり背を伸ばす。
よし、頑張ろう。花火の匂いが漂う河川敷を歩き始めた。
飲み物の屋台を目指すが全然目的地に到達しない。ゆっくりとしか動かない人の波。見えない数m先の景色。
僕らは転ばないように、そして離れないように手を繋ぐ。時間だけがゆっくりと過ぎていく。
「もう休憩時間終わりそうね。そろそろ戻らないと厳しそう」
「でも、人が多くて戻れないしな......そうだ、一ノ瀬たちには連絡して、会場から離れるけど花火が見えるところへ行こうか?」
「二人には悪いけれど、確かにそうね。無理に戻るよりは良いかも」
屋台の列から抜け、提灯が揺れる緩やかな坂道へと足を運ぶ。この真っ直ぐ進んだ先には神社があり、正面に花火が打ち上がる隠れスポットだった。地元の人が多かったその神社も、最近では花火を見るために人が集まっているので、今頃はもう賑わっているだろう。
僕はその人混みを避けるため、神社へと続く道から逸れ薄暗い小道を進む。
「神社へは行かないの?」
「人が少ないほうがゆっくりできるだろ。こっちにまだ人が少ない穴場があるんだよ」
「よく知っているわね」
「母さんがこういう場所探すのが好きでな。子供の頃はよく、静かに花火が見える場所へ行っていたんだ」
「そういうの良いね」
カランコロンと下駄の音と、浴衣の袖口が擦れる音だけが二人の間に流れる。未だに手を繋いだまま、離すことはなかった。
歩いていると仄かに道の先から明かりが差し込み、その光のもとへ向かうと視界が開けて、祭り会場である河川敷を見下ろすことのできる小さな広場に着いた。土手に並ぶ屋台の列と、そこを埋める人の波。そして川の向こうには打ち上げ装置まで見える。
僕らが着いた広場には親子と数組のカップルがいるだけで、まだ一つベンチが空いていた。ベンチに座ると、遠くで笛の音が鳴り一筆書きの白い線が引かれる。
「あ......ちょうど始まったね」
ぱっと咲いた赤い花が空一面を覆い、朱音の浴衣を淡い赤に染める。ベンチに置いた右手に、朱音の左手が重なった。ちらっと横を向くと朱音と視線がぶつかり、また一つ花火が開いた。
僅かに微笑んで空を見上げた朱音の手が、僕の人差し指をそっと握る。
「――綺麗」
呟いた朱音の声が耳に残る。
その瞬間、僕は花火を見ることは出来ていなかった。
花火に染められ子供のように目を輝かせたその横顔から、その目の中で咲いた花火から、僕は目を離せなくなっていたから。あぁ、やっぱり僕は――。
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