第26話 茜に至るまでー後編ー
シャワーを浴びて濡れた服を取り換えると、安心からかソファーに倒れ込む。今までは殆ど一人で過ごしていたのに、五十嵐のいないこの部屋はやけに広く感じた。優しく体を包み込むクッションの柔らかさが憎い。
幸せか......。
幸せってどんな姿だろうな。
シャボン玉みたいな形か。お風呂上がりのシャンプーみたいな香りか。鈴みたいな音がするのか......。
乾いたインターホンの音が響き、玄関の扉を開けに行く。五十嵐だろう、自由に入ってきていいのに。扉を開けると、自分のシャンプーとは違う香りがふわりと膨らむ。
「おかえり」
「ただいま......またよろしく」
恥ずかしそうに呟く声を背中に受け、リビングへ戻ると一瞬立ち止まってしまう。
いつの間に雨が上がったのだろう。カーテンが開かれていたベランダから、綺麗な夕日が差し込む。あんなに黒く、渦巻く様に漂っていた雲も減り、空と街が赤く染まっていた。
マジックアワーにはまだ遠い。
夕焼け、黄昏時、逢魔が時、どの言葉がぴったりだろう。
「茜」
ふと思いついた言葉。
綺麗な茜空だ。
フローリングもテーブルもソファーも、全て包み込むような茜色。
「突然、名前でどうしたのよ。恥ずかしいんだけど」
後ろから背中を小突かれた。
何を言っているのか。いや、茜か。
「五十嵐の名前じゃなくて、茜だよ、色の方」
隣に並んだ五十嵐が、小さく驚きの声を上げる。
「雨あがってたのね。凄く綺麗」
「雨上がりの夕日って良いよな」
「そうね。ねえ、篠崎君。私のこと、さっきみたいに名前で呼んでよ。こういうときだけで良いから。ほら、まずは呼び方から仲良くなろう」
「さっきも名前を呼んでは無いんだけどな。良いよ。二人っきりのときだけ、皆の前でいきなり変えると恥ずかしいから。その代わり、僕のことも名前で呼んでよ」
「分かったわ、紫苑君」
「呼び捨てで良いよ。一條のことは呼び捨てにしてるだろ? そっちの方が僕は落ち着くから」
「......紫苑。これで良い?」
「ああ。よろしくな、朱音」
改めて名前を呼ぶと恥ずかしい。
朱音の顔から目を逸らし、雨上がりの空を見上げる。数羽の鳥が優雅に羽を広げ、茜空を横切っていた。徐々に小さくなり、小さな点となって明日へと向かって行く。
「もう一日が終わっちゃうわね」
「でも、また明日があるから」
「うん、私には明日があるんだよね。幸せを願っても......」
「朱音が幸せにならないと僕が困るからな」
「そうだったわね。期待してる。あと、私のお父さんの話、内緒ね。美菜にも言ってないから。転校するときも、誰にも言わないようにしてもらったのよ」
「そんな話を、僕にして良かったのか?」
「うん、良かった。話したこと間違ってなかったよ、聞いてくれてありがとう」
そっか、それならよかった。
この茜さす笑顔を見られて、ほっと一息つく。なんだろう、また目の奥が熱くて鼻の奥が痛くなる。
朱に交われば赤くなる。
僕も朱音と関わって、幸せな家族に憧れるようになった。家族ってものに対するトラウマが減って、一歩進めた気がする。こんな優しい日々が続けばいいのに。
「夏休み。海とかお祭りとか花火とかには行くけど。プールにも行ってみない。初恋の人もいるかもよ、プールで会ったんでしょ?」
「何年も経って会えるかな。出会ったプールも取り壊されちゃったし」
「行動することに意味があるのよ」
「それもそうだな、どこかで擦れ違うかもしれない。でもその前に、学校のテストと学園祭があるけど」
「......頑張りましょう」
ベランダの扉を開けると、湿った暖かな風とアスファルトの濡れた香りが部屋に流れ込む。揺れるカーテンと部屋の奥へと伸びる影。柔らかな日差しが直接体を包み込む。
隣に立っていた朱音がベランダへと出て、「街が輝いてるみたい」と空を見上げた。
「私、この景色が好き。これから先、明日が今日になって、今日が昨日になって......未来が過去になっても、今日のこの景色を思い出すわ。だって、久しぶりに幸せだなって言えた日だから」
朱音の言葉を一言一言受け取っては、ゆっくり心の奥に仕舞う。
僕も、今日のことはこれから先も忘れない。絶対に。
「そうだった」と振り向く朱音。風が花の香りを運ぶ。
「私も、紫苑の笑顔好きだよ。無理をしてない、いつもの優しい笑顔が」
鈴のような優しい声に救われたような気持ちになる。
目の前に広がる夕日は、更に色を増し、夜へと近づく。また明日が来るんだ。過去に囚われていた僕と朱音は、今日も過去を増やし進む。どこか壊れかけていた僕たちは、互いに手を差し延べることでなら受け入れることができるようになった。
夕日に照らされる朱音の笑顔が綺麗なんだ。涙が出るほど綺麗だった。
僕はこれから先、誰かを傷つけることがあるだろう。でも、せめて僕の手が届く範囲には、そっと手を差し伸べたい。
雨降りの中、持っていた傘を差しだすように。
僕はベランダに出て、朱音の隣に並び空を見上げる。
黄昏色をした雲の間に、どこまでも朱く、どこまでも広い空が続く。
朱音に幸せを。
茜空に願いを。
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