第25話 茜に至るまでー中編ー

 

 マンションを出て、目の前の公園で五十嵐を探す。毎日、帰り道で歩いていた光景が思い浮かんでは消えていく。

 辺りを見渡すが、雨のせいか誰もいない。

 公園に並んだベンチには、僅かな水たまりが出来始めている。五十嵐、何処に行ったんだ。

 落ち着け。

 落ち着けよ。

 そうだ、一條だ。一條に連絡をしよう。どこか行きそうな場所が分かるかもしれない。

 コール音が二度鳴る前に、一條の声が耳に届いた。綿飴のような甘く優しい声が頭に響く。


「どうしたの。紫苑君から連絡なんて珍しいね」

「突然ごめん。ちょっと、聞きたいことがあって。いま大丈夫かな」

「うん、大丈夫だよ。何か、あったの?」

「唐突だけど、五十嵐が行きそうな場所って分かる?」

「本当に唐突だね。何カ所かは、分かるよ」

「どこ?」

「その前に、だよ。詳しいことは聞かないけど、どうしたの、喧嘩した?」

「喧嘩したわけじゃない。......僕が一方的に傷つけた。一條、ごめん」

「そっか。それで、朱音ちゃんがどこかへ行っちゃって、探しているところかな。雨の中、傘もささずに」


 一條は察しが良いな。

 言いたいことを汲み取ってくれている安心感がある。

 僕は返す言葉が見当たらず曖昧な返事をすると、「場所だよね」と言葉を続けた。


「一つ目は、小学校のときに住んでいた家の近くの空地かな。二つ目は、山の上の公園。そこは......お化け屋敷のときに話したっけ、私たちが良く遊んでいた場所で、朱音ちゃんも家族で良く行ってたよ」


 そういえば、一昨日そんな話をしていたっけ。

 一條を信じて、二択のどちらかに賭けよう。間違えるな。

 よし、覚悟を決めた。


「山の上にある公園の場所を教えてくれ」

「わかった。えっとね、学校の前にあるバス停からバスに乗れば近くまで行けたよ。後でバス停の名前送るね」

「ごめん。ありがとう、助かる」

「気にしないで。それと、私には謝らなくていいから。朱音ちゃんをこんなに必死に探してくれてるのは、大切に思ってくれてるからでしょ。どんなに仲良くても、どんなに好きでも擦れ違うことはあるんだよ。それでね、その擦れ違いを直そうとするかが問題なわけ。だからさ、しっかり仲直りしてね。私は、紫苑君と朱音ちゃんのことが大好きだから......ううん、私だけじゃなくて、圭も同じだと思う。また四人で、遊びに行くって約束でしょ」


 五十嵐と一條と初めて出会った日を思い出す。三人で撮ったプリクラ。上手く笑えていない、僕と五十嵐のツーショット。あの日から今日まで濃かったな。僕はこの縁を切りたいとは思えなかった。

 そして、夕日に照らされた観覧車での光景が蘇る。

 花火にも夏祭りにも行くって約束だよな。


「夏休みの約束もあるしな」

「そうだよ、約束は守らないと約束じゃないからね。だから、新しい約束。ちゃんとまた二人で笑っているところを見せること、良いね。......なんて、プレッシャーをかけてみたり」

「約束する。それに......僕も一條のこと好きだからな。一ノ瀬も五十嵐も好きだから」

「そういうところズルいよね。ほら、そろそろ行きなよ」

「うん、ありがとう」

「いいよ、いいよ。そうだ今度、二人で何をしていたか教えてね」

「課題だよ、課題。じゃあな、切るよ」

「うわっ、課題やってない。どうしよう」


 スピーカーから聞こえる悲痛な叫びを最後に、通話が途切れた。

 あんなに頼りになる、格好良い様子だったのに、この締りの悪さは一條らしくて安心した。

 手元が震え、一條からのメッセージが届く。

 降車するバス停の名前に添えられた一枚の写真。それは、学校の昼食の時に何気なく四人で撮った写真だった。みんな楽しそうな顔をしている。

 よし行こう。

 地面にぶつかり弾けた雨粒を蹴るように歩き出した。




 バスは右へ左へ揺れながら山道を進む。

 窓は結露で真っ白に曇り、誰かが指で描いたイタズラ書きの跡が浮かび上がっていた。

 ため息を吐く様なブレーキ音と共に止まったバスが、目的地の到着を告げる。

 僕はバスを降り、走り去る後ろ姿を見送りながら歩き出した。木と土の匂いが鼻を掠め、いつもなら安心させてくれる香りも、今は焦りにしか感じない。はやく行かないと。

 雨脚が一段と強まる。

 公園へと続く坂道を登る間、五十嵐に会ったら何を言えば良いのか探す。言いたい言葉が浮かんでは消える。思い浮かぶのはどれも本音を隠した言葉で、こんな時にまで誰かと向き合おうとしない自分が嫌にいなる。

 全て僕のせいだ。

 五十嵐のお父さんは、たぶん......。

 そうだ、僕は気付いていたのに見ないようにしていた。幸せな家族から、幸せだった家族から目を背けるように。朝日の眩しさに目を閉じるように。

 答えは問題文にあるよ、という昼に聞いた五十嵐の声が蘇る。

 五十嵐が小学校を転校した時期と料理を始めた時期、笑うのが少なくなったという一條の言葉。五十嵐の家で見た写真立てと、どこか懐かしい香り。ここ数日の生活でも、朝早く家を出た五十嵐は、その香りを仄かに纏って帰ってきていた。柑橘系の黄色い香りに隠れた灰色の香り。

 そして、ときどき香る花の匂い。

 他にも切っ掛けはどこにでもあって、近くで見ていた僕には、気付かないふりをするのは無理があった。それでも、それなに、僕は踏み込まないようにしていた一線を越えていた。

 最悪だ、馬鹿。頭悪すぎだろ。

 何度も何度も、頭の中に反芻する自分の言葉と五十嵐の濡れた瞳に愚痴を吐く。

 会えたらなんて言えばいいのか。思い浮かべる言葉は、どれも表面だけの取り繕った言葉や当たり障りのない言葉ばかり。ふざけるな、考えるのはやめよう。会えた時の気持ちを素直に伝えれば良い。

 もう逃げない。向き合うんだ。

 背中を押されるように、いつしか僕は走っていた。地面がアスファルトから土に変わり、水分を含み柔らかくなった泥が、地面を踏むたびに小さく跳ねて靴を汚す。開かずに右手に握ったままの傘が、水に濡れて重くなる。




 ささくれた木の看板の前で立ち止まる。公園の名前と山道の絵が描かれ、山の下からのルートが記されていた。僕はその隣を通り抜け、足を踏み入れる。

 そこは小さな公園で、見渡すと、大きな一本の木が、街を見下ろす見晴らし台の近くに生えている。その木に寄り添うように立つ人影。

 湿った長い髪が、風に重く揺れる光景に目の奥が熱くなる。

 もう少し。


「やっと見つけた」


 安心と焦燥が入り混じった心から最初に漏れた言葉は、ありきたりで、全く捻りのないものだった。格好もつかないし、五十嵐に対する優しさもない言葉。でも、これが自分の素直な気持ちだ。ただただ安心して、歩く歩幅が狭くなった。

 肌に刺さるような雨音の中、すっと顔を上げた五十嵐の視線が交差する。目を赤く腫らし、顎からは水滴が滴る。


「篠崎君」


 五十嵐の透き通るような声は、包み込む雨音に掻き消されず耳に届く。


「五十嵐、ごめん」

「だめ、謝らないで。悪いのは篠崎君じゃない」

「そんなことない。お父さんのこと、何となく気付いてたんだよ。それなのに」

「それでも......悪いのは、私。篠崎君の事を考えないで、こんなところにまで逃げてさ。......ここ数日、迷惑だったよね」

「迷惑だなんて」


 そっと倒れ込むように、五十嵐が僕の胸元に頭を寄せる。濡れた服がじっとりと肌に張り付くが、服の重さと寒さで五十嵐の温もりすら感じられない。


「ごめん、少しこのままにさせて。涙、見せたくない」


 背中に回される五十嵐の腕。

 震える声と視界に入る小さい背中に、上げた腕が行き場を無くす。駄目だ、抱きしめる事はできない、僕にはその権利がない。

 ゆっくりと腕を下ろし、何もできないまま時間が過ぎる。

 忘れて錘になっていた、右手の傘を広げ僕らの頭上を覆う。今更遅いとは思うけれど、無いよりはマシかな。


「ありがとう、もう大丈夫」


 そう言って離れる五十嵐、僅かな重さを余韻に残しながら。


「一緒に帰ろう」


 二人で入る傘は驚くほど狭かった。でも、世界中の大切なものが、その小さな空間に詰まっているように感じてしまう。目の前に広がる見晴らし台からの景色は、雨で白く靄がかかり何も見えない。


「街が見えないね」

「そうだな」

「来てくれてありがとう。ごめん、迷惑かけたわね」

「迷惑って思ってないから」

「そっか......。あのさ、少しだけ話......聞いてくれる?」

「うん、聞く」


 これ以上濡れないように歩幅を合わせて歩く。傘で弾ける雨粒の鈍い音を聞きながら、ぽつりぽつりと五十嵐が話だした。「事故だったんだって、お父さん」と始まる、懺悔のような声。


「小学校四年生の秋だったな、紅葉が真っ赤で綺麗でさ。そんな時期に、家族で遊園地に行こうって約束があったの。一昨日、みんなで行った遊園地ね。それでね、久しぶりに家族で出かけられるからって、新しい洋服を準備して、何を食べようか考えて、遊園地のチケットも買って......でも当日になったら、お父さんが緊急の仕事が入って行けないって。私ね、泣いて怒って、文句を言ったの。『約束だったのに、嘘つき』って、『お父さんなんて嫌い』って。買った遊園地のチケットは期限がないから、来週に行こうって言ってくれたお母さんの言葉も無視して、また泣いたんだ。玄関から出るときお父さん、『朱音のこと大好きだよ。お父さんのこと嫌いになっても、それは忘れないで欲しいな。来週は絶対に遊園地に行こうね』」って......優しかった。困ったような表情の二人の顔を、今でもふとした瞬間に思い出すわ。思い出しては、後悔するの」


 下を向きながら歩く五十嵐の声は弱弱しく、痛々しい。

 何も言えない僕は、ただ隣で傘を差しだすだけ。傘からはみ出た左の肩が冷たく、重くなる。

 いまでも夢に見るんだと呟く声が聞こえる。


「それがお父さんとの最後の記憶だから。小説では、よくある話よね。喧嘩したら、その後にその相手が死んじゃって後悔し続けるの。優しい人が死んで、私みたいなのが生きている。不公平だよ、こんなの」

「そんなこと言うな。生きていることの何が悪いんだよ。五十嵐のお父さんだって、恨んだりしてないはず」

「そうだったら良いけど......。あの日から私は、幸せになることを諦めたんだ。笑うことを止めたの。私にはその資格が無いのよ。ねえ、篠崎君も思わない? 私がお父さんを殺したって。私が、泣いたり文句を言ったりしないで、素直にお父さんを見送ってさえいれば、事故には合わなかったかも、あと一分でも一秒でも違っていたら生きていたのかも」


 「そんなことない」と伝えたい言葉が喉につっかえる。

 思いすぎだ。

 付き合いの短い僕ですら、五十嵐の優しさを知っているのに、「嫌い」と言った子供に向かって「大好き」と返せる親が、そのことを分からないなんてことありえない。

 事故は五十嵐のせいじゃない。


「そんなことを思っていたのに......篠崎君との生活を楽しんでいたのよ。私ね、篠崎君にお父さんを、家族を重ねていたのかもしれない。一緒に家でご飯を食べて、お風呂上りにアイスを食べて......久しぶりだった。つい、幸せって思っちゃったのよ」

「分かった、僕も逃げるのをやめる。無理にでも五十嵐を幸せにさせてやる、それがお父さんの願いだと思うから」

「良いのかな、幸せになって」

「むしろ幸せになるべきだって、生きているんだから」

「そっか、幸せに」

「もしさ、思い詰めすぎて潰れそうになったら、僕を頼ってよ。痛みは分からないけど、受け止める事くらい出来るから」

「篠崎君もその言葉を言うんだ......うん、少しでも幸せになってみようかな」

「どんなに泣いても、最後は笑えるようになれば幸せになれるんだろ」

「そうね。......昔さ、私を幸せにしてくれるって言ってくれた人がいたんだ」


 「あの頃は楽しかったな」と言う五十嵐の声の後、バスのエンジン音が遠くから聞こえてきた。音につられて僕らは顔を見合わせると、バス停まで急ぐ。僕らはスマホケースに入れたICカードを取り出し、慌ただしく乗り込んだ。

 濡れて冷たくなった手が震えていた。




 濡れた僕らはバスの中で座ることも出来ず、無言で立ちながら学校の前まで戻ってきた。

 雨は弱くなり、水溜まりに反射するヘッドライトも形を保っている。


「聞いて良い? 篠崎君は、何から逃げてたの。さっき、逃げるのをやめるって」

「人を好きになることかな。怖いんだよ、誰かと深く関わって仲良くなることが。今日みたいに仲良くなった相手を、好きな相手を傷つけるんじゃないかって。ほら、僕の父親みたいに、幸せを壊す事しか出来ないのかなって思うと、相手と深く付き合うんじゃなくて、表面上だけの関係が落ち着くんだ。誰にでも優しくっていう風に、苦手な笑顔を振りまいて過ごすことに安心していたんだよ」

「やっぱり私、迷惑だったかな」


 そんなことはない。

 どう言って良いか分からなくて、支離滅裂になる。言いたいことは多いのに、上手くまとまらない。


「友情も愛情も全て捨てて、好きになるのはやめようとしたんだ。もう誰も好きにならないって、言い訳をしながら逃げてた。でも高校に入ってから、一ノ瀬と一條に連れられて遊んで、五十嵐ともこうやって過ごして......。好きだなって思ったんだよ、みんなが、みんなと過ごす毎日が」

「そうだったのね。嫌われてなくて安心した。そういえば、初恋を引きずっているって、一ノ瀬君が言ってたわよ。それが言い訳?」

「半分くらい正解。でも、言い訳って言っても、初恋を引きずっているのは事実だけどな。小学生の時に仲が良かった子がいるんだけど、顔も名前も憶えてなくて、いまどこにいるのか全然分からない。そんな相手が初恋で、いつかその人と再会できるまで誰も好きにならないって決めたんだよ。ああ、これは恋愛の方な」


 記憶に残っているのは、プールから漂う塩素の香りと夕日に照らされる長い髪。

 もう会えることは無いだろう。


「一途なんだ、意外ね。その人に会えたらどうするの?」

「『ありがとう』って言おうと思ってる。その人の言葉と笑顔に助けられてたんだよ、顔は憶えてないけど、笑顔が好きだった記憶はあるんだ」

「私もその人を探す手伝いをするわ。何も手掛かりはないけれど」

「ありがとう」

「それに、こんな私を篠崎君が幸せにしてくれるでしょ。一緒に、幸せから逃げないようにしてみない?」

「もう逃げないよ。少なくても、傍にいる間は幸せになってもらうからな」


 そういって笑いあう瞬間は、時間が止まったように、自分たちの音以外が聞こえなくなる。

 いつもの下校ルートを辿り、気付けば玄関の前。

 僕が五十嵐の家の鍵を開け、それぞれの家へと入っていく。

 風邪をひく前に、シャワーを浴びないと。

 さっきは、しっかり笑えていたかな。

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