第19話 いつもの朝、特別な朝
カチャン。
と、と、たん。
た、た。
誰かが廊下を通り抜ける音で目が覚める。
霧のようにぼんやりとした朝日の中、霞む視界でスマホを探し、時刻を確認した。
ぱっと明るくなった画面から発される光が、寝起きの目に刺さるように痛い。
AM 06:00。
まだ眠れるな。たぶん、四時間くらいは眠れるはず。
僕は、そっとスマホから手を離し、意識を手放し、微睡みへと堕ちていく。水の中に沈むように静かに、ゆっくりと……。
「……のざきくん。しのざきくん。おーい」
突如、微睡みから引き上げられ、沈んでいた意識がふわっと顔を出す。
気分は釣り針に引っかかった魚だ。思い浮かべるのは、勢いよく引っ張り上げられる釣り針と、水面を飛び出し宙を舞う僕。今なら一本釣りをされたカツオの気持ちが分かる気がする。
カツオのエサはイワシだけど、僕のエサは、このテンションの低い声なのか。
うわ、それはなんとなく嫌だな。
「おーい、篠崎君。もう九時半よ」
「ん……あと二時間」
「それだと朝食が昼食になるわ。ほら早く起きないと、ほっぺ抓るよ」
「……もっと優しく」
「早く起きないと、ほっぺ抓っちゃうよ」
「いや、言い方の問題じゃないわ」
予想外の言葉に、思わず目を開ける。
横向きに寝ていた僕の前には、すっかり明るくなった部屋と、クッションに身体を預ける五十嵐。
「おはよう。あれ、言い方じゃないの?」
「……おはよう。抓る以外の方法は無いのかってことだったんだけど、そもそも、なんで五十嵐がこの部屋にいるんだ」
這いずるように布団から出て、起き上がる僕の姿を、首をかしげながら見ていた五十嵐は、怪訝そうな顔をしながら「忘れたの?」と言う。
「昨日、寝る前に『何かあったら部屋に入って良い』って言ったでしょ」
「ああ、そういえば言ったな。何かあったの?」
「朝食作ったから」
「僕の分も?」
「そう。せっかく同じ家にいるんだから、食事は一緒にしましょう」
「そうだな、ありがとう。着替えたらすぐに行くよ」
「二度寝しないでよ」と言い残し、部屋を出る後ろ姿を見送り、クローゼットから服を取り出し着替えた。いつもは部屋着で生活しているのに、今日に限って、無意識に部屋着以外を手に取っている自分が笑える。
身なりを整えリビングの扉を開けると、中からは美味しそうなパンの香りが漂う。
テーブルに置かれた二組の皿の上は、サラダやスクランブルエッグ、昨日試食したベーコンなどが盛られ、そこに焼けたパンを持った五十嵐が歩いてきた。
「おはよう。なんか、僕の分まで作らせちゃって悪いな」
「別に良いわよ。朝は時間があったし、それに……食事は一緒の方が美味しいし」
ぼそっと恥ずかしそうに呟くと、「ほら座って」とポニーテールを解きながら小走りで椅子へと向かう。揺れる長い髪から微かに香るシャンプーの匂いは、自分と同じものの筈なのに柔らかく甘く感じた。
「いただきます」
声が揃った。
いただきますとは言ったものの、五十嵐は食事に手を付けず、僕がスープに口を付ける姿を、じっくりと見ている。
そんなに見られると食べ辛いんだよな。一昨日テレビで見た、実験中の動物学者を思い出す。
ん? ……実験。いや、そんなわけないよね。
色々と失礼なことを考えつつ、白い湯気が立ち上るスープを飲む。
コンソメの香りと玉ねぎの優しい味の後に、ピリッと効いたコショウが全体を引き締めていた。思わず語りそうになったが、とにかく美味しい。それで十分。
「美味しい。っていうか、そんなに見られると食べ難いんだけど」
「はあ、よかった。だって、どんな反応するか、美味しいって言ってっくれるか気になって、緊張するでしょ。昨日は篠崎君だって、ちらちらこっち見てたじゃない」
「気付いてた?」
「ええ、気付くわよ」
「そっか気付いてたか。まあ、緊張するよな」
「そうね、とりあえず口に合って何より」
「五十嵐はいつも朝はパン派なのか?」
「私とお母さんの気分次第ね。お米のときもあるしパンのときもあるわ。今日は、昨日スーパーで篠崎君が朝食に、って買っていたベーコンに合わせてパンにしたの。もしかして、お米が良かった?」
「いや、僕も朝は気分次第だから。そもそも土日とか食べない時もあるし……」
「そこは、ちゃんと食べなさい」
「はい」
「明後日は和食にする予定だから」
「ありがとう。……でも無理して、ご飯を作るのを僕が起きる時間に合わせなくてもいいから」
固まったかのように動きを止め、驚きの表情を浮かべる五十嵐。お互い何も言わずに、時間だけが過ぎる。たったの十秒くらいだっただろうが、無言が辛い。
間違えた。色々考えた結果の言葉なのに、恥ずかしい勘違いをしてしまっていた気がする。
顔が熱くなる。
「あー、今のなし。忘れて、うん。何もなかった、何も言わなかった。おーけー?」
「何で分かったの」
消える様な声に引っ張られるかのように、五十嵐へと顔を向けた。視線は、部屋の隅へと向けられ、ほんのりと頬を染めている……気がする。
「……ほら。今朝、六時ごろには起きてただろ。それなのに、九時半に温かい朝食が出来上がってるし、それにさ、普段の休みだってもう朝食、食べ終わってる時間だろ。前の休みに連絡くれたとき、そんなこと言ってたし」
「そうね、合ってる。私も一緒なの。前にお部屋の蛍光灯直してもらったとき、寝起きの篠崎君が返信くれたのがこの時間だったから。まさか朝食を食べ無い日もあるなんてのは、予想外だったけど」
「五十嵐と一緒の間はちゃんと食べます。はい」
誰かが自分のことを気にかけてくれるというのは、少しだけ嬉しかった。
いまの僕は、五十嵐と一緒で顔が僅かに赤くなっていることだろう。
でも、それでも悪くない。テーブルの上に対になって並ぶグラスや皿。その空間に僕と五十嵐も入り込めた気がしたから。
五十嵐が言っていた、一緒に食事をする大切さっていうのはこの感覚なのかもしれない。
「そろそろ、片付けようか。一條と待ち合わせもあるだろ?」
「そうね、準備しないと」
「ごちそうさま。美味しかった」
「ありがとう。ごちそうさま」
皿を下げ、洗い物をしようとするが、
「今回は私がするわ。昨日は篠崎君に片付けてもらったし」
「そうか、頼むよ」
再び髪を結う姿を横目にキッチンを後にし、昨日二人で座ったソファーに腰を下ろした。
汚れた皿が、一枚ずつ綺麗になっていく音を聞きながら。
洗い物を済ませた五十嵐は、部屋と洗面所を往復し忙しそうな足音を立てている。
その音が止むと、リビングの扉が開き、涼しげな柑橘系の香りが流れ込んできた。緩やかなウェーブを描く長い髪と、暖色でまとめられた服装。
ほんの少しのことで印象が変わるのはズルい。僕は、いつもと違う姿に一瞬見惚れてしまった。
「行ってくるね。七時までには帰ると思うわ」
外見の雰囲気は変わっても、あまり表情の出ない顔や落ち着いた喋り方までもが変わるわけではなく、いつも通りの様子になぜか安心する。
「おう。夕飯はどうする? 家で食べる?」
「そうね。そうしようと思ってる」
「分かった。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「五十嵐」
そうだ、忘れてた。
リビングの扉を閉めようとする五十嵐に向かい、テーブルに置いてあるものを掴み投げる。
しっかり、受け取ってくれよ。
「え、うわぁ、危な。……なにこれ、鍵?」
「ごめんごめん。それ、家の合鍵。ここで生活する間、持っていた方が便利でしょ」
「良いの?」
「良いよ」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるわ」
しばらくすると玄関の扉が開き、そして閉まる。
すっかり広く、寂しく、静かになった部屋。ポツンと、一人取り残されたように感じる。
……さて、何をしようか。
ピコンと電子音が鳴り、テレビから目を離す。『七時過ぎには家に着くよ』とメッセージがスマホの画面に浮かんでいた。もう直ぐ午後六時。
今日はほとんどを家の中で過ごしてしまった。少しだけ課題に手を付け、掃除して、ゲームして……。普段と何も変わらないな。
ゲームの電源を落とし、夕飯の支度が始まるキッチン。
包丁の立てる音、鍋で油が弾ける音、湯気の向こうに見える部屋。何も間違えることの無い、作り慣れた工程。見慣れた光景。
ただ、料理の中に溶けてかき混ぜられた想いは、いつもよりも多く、優しいもの。
炊飯器からご飯の炊ける音が聞こえると同時に、「ただいま」の声が届く。紙袋を片手に持った五十嵐がキッチンを覗いている。
「おかえり。タイミングばっちり」
「ただいま。良い匂い、和食の香りね。もしかして、肉じゃがかしら?」
「正解。もう出来上がるから」
「ありがとう。待ってって、すぐ準備してくる」
それから僕らは、食事をしつつ明日の予定を話し合い、いつもより早い朝に備えて夜更かしせずに眠ることにした。
目覚ましが五時に設定されているのを確認し、ベッドに入り込む。
真っ暗な部屋の中、明日は良い一日になるようにと願い、朝がはやく来るように目を瞑った。
やっぱりというか、当然というか、眠ると朝になるのはすぐに感じるようで、ふと目を覚ますと、もうすぐ朝の五時になるところだった。目覚ましよりも早く起きたのは久しぶりな気がする。
薄暗い窓の外、そこから見える空には藍色のカーテンがどこまでも広がっていた。
眠気でぼうっとする頭を無理やり起こすために、シャワーを浴び、着替えを済ませていると、玄関の扉が開き、廊下を歩く音が聞こえる。
どうやら五十嵐は外に出ていたらしい。
その足音をたどるように、僕は湿った髪を拭いながらリビングへと向かう。
「おはよう。ふふ、今日は早いのね」
「おはよ。流石に寝坊できないからな。朝ごはん、何か食べる?」
「どうしよう。篠崎君は? ちゃんと髪拭きなよ、まだ乾いてないわよ」
五十嵐は僕の首にかけていたタオルを取り、手を伸ばして雑に髪を拭く。
床を見ながら右へ左へ揺さぶられる頭。
「適当におにぎりでも食べとこうかなって思ってる」
「そうね、私も小さいのを作ろうかな」
ちゃんと拭きなよ、と僕の首にタオルを戻した五十嵐と一緒にキッチンへと歩く。
「具材はなにがいい? 明太子、梅、ツナマヨ……他に何があるかな」
五十嵐が手を洗う間に冷蔵庫を確認する。
「私は、梅にするわ」
手を洗い終えた五十嵐が隣に立ち、冷蔵庫を覗きながら言う。
肩が触れ合う距離。
「あれ、シャワー浴びた?」
「そうだけど、突然どうしたのよ」
「シャンプーの香りが……」
理由を伝えると、五十嵐はジメっとした湿度の高い視線を向け、「うわぁ、変態」と呟いた。
言葉っていうか言刃が、こころにグサッと刺さる。素晴らしく切れ味が高い。
「ごめんなさい」
「気にしてないから、それよりも早く」
わき腹を小突かれ、僕は思い出したように用意をする。
ご飯や梅、海苔やラップ、お茶碗が置かれたキッチンの前で、僕らは並びながらおにぎりを作り始めた。
「篠崎君も梅なのね」
「朝は食欲ないし、サッパリしたものが食べたくてさ。それにしても、それ小さくない? 僕のと比べても半分も無いよな」
「これくらいが丁度いいの。よし、出来た。まあ、手の大きさの違いもあるかもね」
ほら、と洗った右手を広げて僕に見せる。
改めて確認すると、本当に小さい。僕はそこに左手を合わせ、大きさを確かめると第一関節くらいの差があった。
柔らかな触感。
小さな掌。
「こんな構図、映画のポスターであったよな」
「えっと……あ、それは指先じゃないの。ほら、馬鹿なこと言ってないで、もう食べないと出発する時間になるよ」
それもそうだな、急がないと。朝は時間の流れが速くて嫌になる。
簡単な朝食を終え、準備を済ませると時計は六時半を差している。
さて、出発だ。遊園地だ。
「もう行けるか」
「大丈夫よ。行きましょう」
部屋から出てきた五十嵐と一緒に、玄関を出る。
「いってきます」
そろった声が、太陽が昇り明るくなった空へと吸い込まれていく。
マンションのエントランスを出て、大きく息を吸う。
冷えた朝の空気、緑の香り、小鳥の囀り。爽やかな風が、身体中を巡る。
「良い天気ね」
「そうだな。……あれ、一ノ瀬たちから連絡来てる」
「本当だ、私のところにも来てる。これおにぎり作ってた頃じゃない」
一ノ瀬からは『おはよう。篠崎、起きたか!? 寝坊すんなよ』と、一條からも『おっはよ! 起きた?』とメッセージが届いていた。その後も『おーい、起きてるか』、『起きてる? 生きてる?』と寝坊を心配するメッセージが続いていた。
「めちゃくちゃ、寝過ごしてないか心配されてんだけど」
「ええ、そうね。私のところにも、篠崎君を起こしてって来てるわ」
「嘘だろ。なんで五十嵐は返信しなくても起きてる前提なんだよ……」
「昨日もそうだけど朝、遅いじゃない。学校も遅刻ギリギリだし」
「あれか、日ごろの行いって奴か。僕だって、起きるときは起きるんだよ」
「まあ大丈夫よ、私は知ってるから。二人に返信しておかなくちゃ」
「僕も一ノ瀬には『おーい、課題やったか』って返信しておこう」
「ふふ、やめなさい」
そんな会話をしながら歩いていると、遠くに駅が見えてきた。まだ人の少ない、駅前ロータリーは新鮮で、寂しさと非日常的なワクワク感に溢れていた。
そんな駅前の写真を一枚撮り、駅へと入る。
ゴールデンウィークの晴れ空の下、ホームに立つ五十嵐の姿が綺麗で、思わず声を掛けて写真に撮ってしまう。そのお返しにと、五十嵐も僕にカメラを向けた。
レンズ越しに五十嵐と視線を合わし、僕らは決意を固めた。
それは、僕らを誘ってくれた二人への小さなお返し。
そして、大きなお節介。
幸せな未来を願って。
今日は楽しもう。
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