第18話 あなたの正面から隣へ
テーブルの上に並んだ料理の数々。
向かい合うように並べられた二組の皿。
それは凄く懐かしい光景だった。
キッチンから運んできたサラダをテーブルに置き、夕飯の準備が終える。
うん、豪華だ。色彩豊かな食卓に一人頷き、満足する。
「なあ五十嵐、そろそろ食べよう」
「そうね、今行くわ」
キッチンから戻ってきた五十嵐は、ポニーテールを解きながら向かいに座る。改めて正面から向かい合うと、学校の昼休みにご飯を食べるのとは違う気恥ずかしさと、これから少しの間一緒に生活するのかという実感が湧き上がってきた。
椅子に座り、下ろした髪を整える様子を眺めていると、五十嵐は頬を触りつつ小首を傾げた。
「ど、どうしたの。何か顔についてる?」
「別に。いつも通りだ」
「それなら良いけど。ほら、冷める前に食べましょう」
「そうだな。いただきます」
「うん、いただきます」
僅かに上がった口角から漏れる小さな笑い声。「いただきます」と言う姿が楽しそうに見える。
僕は、美味しく出来たかと緊張しながら、フライパンのままテーブルの中央に置いてあるパエリアを取り分けた。
おこげが良く出来ている。美味しそうな焦げ茶色。
これは完璧ではないのか? と言いたくなるのを我慢し、五十嵐が食べるのをサラダの器を持ちがらこっそりと待つ。
自分の料理を誰かに食べてもらうのは初めてだ。
どう言われるだろうか、気に入ってもらえるだろうか。
ドキドキしながらゆっくりとサラダを口に運ぶ。
レモンの爽やかな香りが口に広がった。
「あ、これ」
「美味しい。篠崎君、美味しいよ」
「よかった。気に入って貰えて」
驚いたような顔を見せた後、普段は見られないようなリラックスした笑顔を向けられ、僕は笑う。本当に良かった。誰かにご飯を作る理由って、この顔が見たいからなんだろうな。
いつまでもこの時間が続けばいいのになんて、柄にもないことを願ってしまう。
しかし、今はその他に気になることが……。
「サラダが美味しい。ねえ、このドレッシングって」
「ええ、私が作ったの。本当、美味しかった?」
「美味しい。これなら、ずっと食べられる気がする」
「ふふ、それは言い過ぎよ」
笑いながら食事をする、和やかな時間はあっという間に流れ、テーブルの上の料理も無くなっていた。
ごちそうさま、と声をそろえた僕ら。目が合うとお互い意味もなく笑みがこぼれる。
その一瞬の行為が恥ずかしく思い、五十嵐から目を逸らしテレビの上、壁に掛かった時計を見た。時刻は八時が過ぎ。
買っておいたアイスの時間だ。
「アイスにする、お風呂にする、それともご飯?」
「いや、もうご飯は良いわよ。お風呂かな、アイスは後で食べたいかも」
「じゃあ、お先どうぞ」
「良いの?」
「別に良いって。僕は風呂前にアイス食べて、風呂上りもアイス食べるから忙しいんだ」
「それは食べ過ぎよ」
ゆっくりと立ち上がり、手を後ろで組んで笑う五十嵐。笑った反動で前後に揺れる姿が、風に流れる風鈴のように儚い。無性にレモン味のアイスが食べたくなる。
「本当に良いの?」とテーブルを見ながら言う五十嵐を、手を振りながら送り出し気合を入れた。
さて、後片付けをしよう。
蛇口から出る水の音がシャワーの音に聞こえてくる。
食器を洗っている間、僕は今日一日のことを振り返っていた。
一つひとつの出来事や会話、表情が泡のように浮かんでは消え、消えては思い出になっていく。
そして最後に残るのは、どうして五十嵐がこの家でお風呂に入っているのだろうかという疑問。しつこい油汚れのように、消えない疑問。
本当、どうしてだろう。
洗い物を終えた僕は、冷凍庫からレモン味のアイスを取り出し、テレビの前に置かれているソファーに飛び込むように転がる。「ぐふ」と肺から空気が漏れた情けない声と共に、身体が小さく跳ねた。
うわ、もう動きたくない。
左手に持ったアイスを咥えながら、ソファーからはみ出た脚をバタバタ振る。爽やかな酸味の中に仄かに感じる甘さは幸せの味だ。
完全にスイッチの切れた僕は仰向けになり天井を見ながら、テレビとソファーの間にあるローテーブルの上に置かれているリモコンを、手探りで掴もうとする。
確かこの辺に置いてあったはずなんだけど……手の届く範囲には無いな。まあ、仕方がない諦めよう。アイスを食べながらゲームでもしようと思ったが、五十嵐の目が無くなりスイッチが切れた僕は、テレビのスイッチすら入れられないのだった。
リモコンを探すのを止めた右手は行き場を無くし、ソファーから力なく垂れる。
そうして何もすることなく天井を眺めていると考えるのは、やっぱり一つだけ。未だに、五十嵐が僕の家で風呂に入っているという、そんな現実を受け止められなかった。
だって、だって、こんなの家族みたいじゃないか。
どれくらい時間が経ったのだろう。味のしなくなったアイスの棒を咥えながら、電源の入っていないテレビと天井を交互に眺めていた。
耳の奥がキーンと鳴ってしまう程、静かな部屋。やけに眩しく見える蛍光灯の灯りを遮る様に、天井に手を伸ばす。
それはいつも通りの筈なのに、孤独を、一人でいる寂しさを感じ、嫌なほど「一人」というのを自覚してしまう。
伸ばしていた手を下ろし、再び眩しさに目を細めていると、扉を開ける音が静寂を破った。いつもは聞くことの無い、リズムの良い軽い足音。その音が心地よく、安心感を与えてくれていた。
「お風呂ありがとう。それに後片づけも」
ソファーに寝転がる僕の顔をのぞき込む五十嵐。その肩の上から垂れる数本の髪が、そっと頬に触れる。風呂上りでしっとりとした濡羽色。目を奪われる。
「なに、死んだ魚のような目をしてるのよ」
「そうか? そんな死んだ魚を見る様な目で見ないでくれ」
「だって力が抜けすぎて、死体みたいになっているし。大丈夫、本当に生きてる?」
「うん、たぶん生きてるはず」
「そこは自信持ってよ。ほら、次お風呂どうぞ」
五十嵐と会話をしながら、動くために気合を入れた。ソファーに融けるように横になっている、このダメ人間状態を止めなければ。
ああ、風呂だ。
「よし、お風呂行ってくる。飲み物とか、部屋のものは自由にしていいから」
「分かった、ありがとう」
入浴剤とシャンプーの香りが混ざり合う浴室で、シャワーを浴びる。いつも通りのシャワーヘッド、いつもと変わらないシャンプーボトルの並び、そしてバスタブ。
でも何か違う。
たぶん五十嵐のせいだろう。僕が変に意識しすぎているのだ。
それなら、五十嵐はどうだったのかと、さっきの会話を思い返すが、いつもと変わらない落ち着いた口調と、冷たい目。もしかしたら、この状況を気にしているのは自分だけなのかも。少しだけ負けた気になる。
髪を洗い、身体を洗った後、水色のお湯に身体を沈めるが落ち着かない。ふわふわとした浮遊感が身体と心を包み込む。
「はあ、なにしているんだろうな」
このまま考えていたらのぼせてしまう。お風呂に溶けてしまいそうだ。
早めに風呂から上がり、冷たいシャワーを浴びて浴室を出る。冷たい水が、火照った頭をすっきりさせた。
急いで部屋着に着替え、リビングでもう一本アイスを食べよう。
明るいリビングから声が漏れている。
テレビでもついているのかと思いつつ、磨りガラスの扉を開けた。
「うん、うん。そうね」
リビングに入ると、ソファーに座って通話をしている後ろ姿が目に入った。僕は邪魔をしないようにソファーから離れた、ダイニングテーブルへと向かう。足音に気づいたのか、こちらを振り向いた五十嵐が手を振る。
廊下に漏れていたのは、通話をしている声だったのか。
何を話しているのかは分からないが、このままここに居ても良いのかな。
「それは難しいかな。いやいや分からないわよ」
話をする姿を見ながらぼうっとしていると、五十嵐が僕を見てペンで何かを書くジェスチャーをしていた。
「書くものが欲しいのか?」
大きく頷くのを確認し、ノートとペンを渡しに行く。
五十嵐の隣まで行き、テーブルを見ながら「ここに置くよ」と小声で言うと、五十嵐は空いたソファーの左端を指さす。
「こっちに置けば良いのか?」
違うと首を振って、今度は僕を指さしてからソファーの隅を手で、トントンと叩く。
なるほど。
「『お前が』、『ここに座れ』ってことね」
ごめんねと手で謝る五十嵐の隣に座り、ノートを開く。僕らは二人用のソファーに、並んでいる。それにしても……それにしてもこれは近い。
まだ向かい合うなら良いのに……。
若干の居心地の悪さを感じながら、五十嵐の次の言葉を待つ。
五十嵐が小さな口を動かす。
何だ?
二文字みたいだけれど。
――ばか。
突然罵倒されたんだが。
「え、『ばか』?」
その言葉に激しく首を横に振る。
違うのか。
――ひま。
いや、通話しているだろ。
「えっと、『ひま』?」
「みな」
みな。見な。美菜。
あ、一條か。
どうやら通話の相手が一條だと伝えたいらしい。でも、だからどうしろと。
僕は頼まれたノートとペンを渡し、五十嵐がノートに書きこむのを見る。
『明日 服 買いに行く ミナと』
「うん、いってらっしゃい」
『明後日 着る 服 欲しいみたい』
「そうか、良いのが見つかると良いな」
『この辺の お店 知らない?』
「前に結衣さんと母さんの四人で食事した辺りは? 色々お店があった気がする」
『確かに ありね ありがとう』
五十嵐が通話をしながらノートに書き、僕が答える。簡単なチャット状態で会話が進む。
「お店が多いところ心当たりがあったわ。……そう、こっちの駅からバスで十分もしないはず。……え、篠崎君? そうね、私から聞いてみるね。……ふふ、一ノ瀬君の好み? 聞いたことあったかな、ちょっと待って」
なるほどな、大体話の流れが分かった。
『一ノ瀬くんの好み しってる? 服の』
「それなら一條の方が知ってるんじゃないのか。付き合い長いし」
『自信ないみたい なにか 聞いてない?』
「えっと、可愛い方が好きって言ってたな。まあ、あいつは一條なら何でも喜びそうだけど……」
『可愛い方ね ありがとう』
『あと 何でもはダメなの 確かに 一ノ瀬くん 喜びそうだけど』
そういうものなのか、難しいな。
「ねえ、美菜。一ノ瀬君は可愛い方が好きらしいよ。……ええ、そうね。良いと思うよ。……え、私? いや別に。……って、なんで篠崎君の名前が出るのよ」
「大丈夫か」
『だいじょうぶ』
「……男の人の声? いや、お父さんはいないよ。……彼氏ってそんなわけないじゃない。だから篠崎君は関係ないわよ」
まずい、声が大きかったかな。珍しくあたふたとする五十嵐の姿に申し訳なさを感じつつ、適当な言い訳を考える。
僕はベタな方法しか思いつかなかったが、五十嵐からペンを借りてノートに書く。
『ごめん とりあえず テレビのせいに?』
『そうする』
「たぶんテレビじゃないかしら。……言い訳じゃないよ。それよりも明日、お昼で良い? ……うん、駅前。……そうね、また明日。おやすみ」
通話を切った五十嵐がため息をつき、「危なかったわ」と呟く。
最後は無理やりだったな。
「悪かった。声が大きかった」
「気にしないで、別に篠崎君のせいじゃないわよ。それより、ありがとう。こんな形でいきなり相談に乗って貰っちゃって」
「良いって。その、あれだな。一條も頑張ってるな」
「だよね、明後日は少しは力になれるかな」
「大丈夫だろ。そうだ、明日の昼食は一條と?」
「そうね、夕食までには帰ってくるわ」
「夕食も一緒に食べてくればいいのに」
「美菜の方も門限とか色々あるのよ。それに、遊園地に行くのにあまりお金使えないじゃない?」
「それもそうだな」
ノートでのチャットをしていたせいで、僕らの間の距離は肘がぶつかるほど近くなっていた。少し身体を動かし肩がぶつかると、その距離を急に意識しだしてしまう。
ぎこちなくソファーに座る僕ら。
指先で回すペンが床に落ちる。
「アイスでも食べる?」
「う、うん。食べる」
ペンを拾いながらキッチンへと向かい、僕は冷凍庫から、イチゴのアイスとチョコレートのアイスを取り出す。アイスを片手に戻り、
「どっちがいい?」
「篠崎君が先に選んでよ」
「それじゃあ、こっち」
「あら、イチゴ好きなの?」
「どっちも好きだけど、イチゴって幸せになれるよな」
「ふふ、ちょっと意外ね。でも分かるな、私もイチゴ好きよ」
結局、また五十嵐の隣に座り並んでアイスを食べる。
甘い。
五十嵐の隣で食べるアイスは、とても甘く感じた。
電源を消したままの真っ暗なテレビ画面。
そこに反射して映る、ソファーでアイスを食べる僕と五十嵐の姿が、幸せな家族の様で可笑しかった。僕とは関係の無い様に、画面の向こうの世界の様に見えたのだった。
「美味しいね」
「そうだな、美味しい」
今日が終わる。
甘さと幸せに包まれながら。
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