第5話

 私が教室の扉を開けたとき、マイコさんは私の机に伏せるような姿勢で座っていた。

「行ったのね。あの人のところ」

 マイコさんは姿勢を変えることなく首を回して私のほうを向き、薄い笑みを浮かべた。

「振られたでしょう? 可哀想に」

「婚約者がいるって」

「でしょうね」

「知ってたなら、なんで……」

 マイコさんは席を立ち、少しずつ私のほうに近づいてきた。

「慰めてあげる」

 マイコさんは私に向かって両腕を広げ、慈しむような微笑みを浮かべた。馬鹿にされたようなきがして、その手を払い除けようと思った。けれど、私は耐え切れず、その開かれた胸に飛びつくように顔をうずめた。呼吸をするたび、彼女の制服に染み付いた白檀の香りが私の鼻腔をくすぐり、同時に少しずつ気持ちを落ち着かせてくれた。

「そんな泣き顔を家の人に見せては心配されてしまうわ。うちにいらっしゃい。ね? せめて、目の赤みが引くまでは」

私はそのことばに頷き、マイコさんにいっそう身を預けるようにもたれかかった。彼女はそれに満足そうに微笑み、私の頭を撫でた。


 マイコさんの家は四方を高い壁に囲まれた西洋風の屋敷で、門をくぐっただけではその全容を把握することはできなかった。玄関を開けて最初に見えた長い階段を上って二階に向かい、いくつもの扉の前を通過した末にたどり着いた奥の部屋がどうやらマイコさんの部屋のようだった。

 マイコさんが自室の扉を開けたとき、私は自分のハンカチ以上に濃い香りをその部屋から感じた。中に入ると、白を基調とした部屋の中で異彩を放つオレンジ色のミニテーブルがベッド脇にあり、そのうえには三センチに満たない大きさのビンが二、三〇個あった。それらに囲まれるような形でオイルウォーマーに使う三脚の皿が置かれており、テーブルの下に未使用のロウソクたちがビニールに包まれたままの状態で保管されていた。

「イランイランを焚きましょうか。そうね、それがいいわ。一度換気するから、どこでも好きな場所に座っていて」

 マイコさんが観音開きの窓を開けて換気の準備をしている間、私は精油のビンたちに近づき、それらに貼られているラベルを見た。サンダルウッド。これがあの白檀だろう。ラベンダー。これは私でも知っている植物だ。イランイラン。その隣にはイランイラン・エクストラというものがあり、どちらを使うのか私には分からなかった。両方のビンを手に取り、見比べてみても大差ない。

「エクストラのほうが上質で、いっそう濃厚なのよ」

 マイコさんは前かがみになって私の肩ごしに手元を覗き込んでいて、驚いて振り返った私を見て笑った。

「今日は特別に、エクストラのほうを使いましょうか」

 私がイランイラン・エクストラのビンをおずおずと差し出しても、彼女はそれを受け取らなかった。

「すこし、準備が必要なの」

 マイコさんはそう言って、オイルウォーマーの皿を持って、部屋から出ていった。その間に私はビンの蓋を開け、試しに香りを嗅いでみた。白檀よりも濃厚で甘く、熟れた果物のような南国風の官能的な香りだった。私はたったひと呼吸分の刺激で頭がくらくらとするようなしびれを感じ、ビンを取り落としてしまう前に蓋をして元に戻した。

「あら、開けてしまったの?」

 部屋に戻ってきたマイコさんの手には、水を張った皿があった。それをテーブルの上に置き、三脚の真下に直径二センチ程度の円柱型のロウソクを置いた。

「艶やかな趣のある香りでしょう? 私もお気に入りなのよ」

 マイコさんはビンの蓋を開けて香りを楽しんだあと、水を張った皿に五滴ほどオイルを垂らした。そして、机の引き出しからマッチを取り出して着火し、ロウソクに火を灯した。

「温まるまですこし時間はかかるけれど」

 そう言ってマイコさんはカーテンを閉めて部屋の明りを消した。すると、ロウソクの火だけが部屋で唯一の光源になり、なんともいえない大人の雰囲気を醸し出した。

「なんで、明かり……」

「顔が見えないほうが話しやすいこともあるわ」

 マイコさんは私の隣に寄り添うように座り、私の腰に手を回し、私を抱き寄せた。

「聞かせて。あなたの想いを」

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