第4話

「マイコさんと友達だったんだね」

 放課後のことだった。先生はコーヒーメーカーから抽出されているコーヒーを眺めながら、私のほうを見ずに呟いた。

「ハンカチ、貸しただけです」

「そう?」

 先生はふたつのマグカップにコーヒーを注ぎ、ひとつを私に差し出した。

「おや、いい香りだね」

 コーヒーのことだと思った私は受け取ったカップから湯気とともに立ち上る香りを吸い込んで頷くと、先生は笑った。

「違う違う。君のことだよ」

 顔が熱くなるのを感じながら、にやけてしまう頬を見られないようにとうつむいた。カップのなかに映る私はとても嬉しそうで、マイコさんの言ったとおりだ、と期待に胸が高鳴った。

「香水?」

「精油……白檀、とか」

「ああ、線香の。けど、若い子が使うと途端にお洒落に思えるのはなんでだろうね」

 先生は笑い、自分の椅子に腰掛けてコーヒーを一口飲んだ。

「精油か。たしか、マイコさんがそれを集めるのが趣味だったかな」

「あ……はい。これも、マイコさんが」

「仲良しなんだね」

「そんなこと……」

 私が言いよどむと、先生は首をかしげた。わざわざ私とマイコさんの関係を説明する必要もないか、と思い、首を振ってなんでもないことを示した。

 温かいマグカップを包むように持ち、親指でその縁をなぞっているだけで、どれほどの時間が経ったのだろう。コーヒーの温度が体温と同じていどにまで下がってしまったのか、温もりを感じることができなくなっていた。

「あの……」

 私が決意して顔を上げると、先生は柔和な笑みを浮かべて私を見やった。

「先生は、お付き合いしている人とか、いらっしゃるんですか」

 先生は驚いたように目を見開き、やがて照れくさそうに笑って頭を掻いた。

「みんなには内緒にしておいてくれるかい?」

 私はそのことばだけで答えがわかってしまった。だって、いないなら内緒にする必要がないのだもの。

「交際しているというと微妙なところだけれど、婚約者がいるんだ」

「それって、化学の先生ですか?」

 それを聞いた先生は意外そうな表情を浮かべ、一瞬の空白のあとに笑い始めた。

「いやいや、彼女は関係ないよ。もっと素敵な人さ」

 私はうつむき、カップを先生に返して席を立った。告白なんてできるはずがない。だって、今の先生を見ればわかる。婚約者を素敵だと言ってのけた彼の表情は明るく、恋する人間のものだった。

「おや、もう帰るのかい?」

「コーヒー、ごちそうさまでした」

 私は一礼し、足早に研究室から出ていった。涙をこらえることもできないまま廊下を走っていると、開いた窓から風が吹き込んでいた。風の強い地域なのだから、それだけではなにも特筆すべきことはなかった。あるとすれば、その風に白檀の香りが含まれていたことだ。窓に駆け寄り、外を眺めると窓が空いたままの教室が見えた。教室からは逆光でなにも見えなかったけれど、こちらからは教室のようすが見えた。そこには誰もいないように見える。けれど、香りが漂ってくるのだから、きっとそこにはマイコさんがいるはずなのだ。私は渡り廊下を走り、教室を目指した。

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