第2話
翌朝はいつもどおりで、なにも変化はなかった。マイコさんは、私が教室に入っても見向きもせずに本を読んでいたし、物理の講義のために移動教室するときもハンカチを返しに来ることなくひとりでさっさと歩いていってしまった。
昨日のあれはなんだったのだろう、と彼女の涙や香りが気になって、いつも真面目に聞いていた先生の講義も今日は上の空だった。マイコさんは前の席で退屈そうな表情を浮かべながらも真っ直ぐに伸びた背筋が美しくて、今までそれに気づかなかったことが悔やまれた。
終業のチャイムが鳴ると、私は教科書たちをまとめて席を立った。そして、頼まれもしていないのに前に向かい、先生の代わりに黒板の文字を消した。
「いつもありがとう」
先生は私に向かってそう言い、柔和な笑みを浮かべた。
「ついでにこれもお願いしていいかな」
先生が指したものは台車に乗った水平すだれ式波動実験器だった。教科書や書類を両手に持った先生の代わりに実験器を彼の研究室まで運ぶ。すると、その日の放課後はいつも研究室でコーヒーを飲ませてくれる。私は先生と二人きりになれるその時間が好きで、誰も手伝わない雑務を率先して行うのだった。
「アキさん」
私が台車に手をかけようとしたとき、マイコさんが手を伸ばしてそれを遮った。
「すこし、いいかしら」
私は戸惑い、先生を見やった。
「構わないよ」
先生はそう言って微笑み、手荷物を片手に持ち替えて、空いた片手で台車を押して教室から出ていった。マイコさんはその背中を睨むように見つめ、彼が扉を閉めると鼻を鳴らした。
「はじめから自分ですればいいと思わない?汚らしい人」
「なにか御用?」
先生を手伝いたかった私はその邪魔したマイコさんを快く思えず、つい棘のある声を出してしまった。
「あら、あれはなにかしら」
マイコさんは白々しい声をあげ、廊下と教室の間を仕切る窓に近づいて透明なガラスの向こうを指さした。私も彼女に倣って廊下のようすを眺めると、まだ見える範囲に先生がいた。そして、その隣には化学を担当する若い女性教師がいた。私の代わりに先生を手伝うつもりか、彼が持っていた手荷物を受け取り、並んで歩き始めた。
「アキさんにライバル登場、かしら」
「別に……ただ手伝ってるだけじゃない」
「そうかしら。ほら、あの人の爪を見て」
言われたとおり目を凝らして女性教師の爪を見ると、そこにはマニキュアが塗られていた。光沢のあるクリアなベースに、原色の水玉が糸を引くように描かれ、彼女の爪を涼しげに彩っていた。
「水風船ネイル。今年の初夏に流行ったのだったかしら」
「それだけで先生に恋してるなんて……」
「あのもさいリケジョがおしゃれをしているだけで青天の霹靂よ。それに、あの女がああやって笑うところを見たことがあって?」
マイコさんが言うとおり、女性教師は頭一つ分高い位置にある先生の顔を見上げながらにこやかな表情でなにごとかを話し、彼女が笑うのと同じタイミングで先生も笑っていた。
「可哀想な人。爪を綺麗にしたって、男はそんなところ見てやしないのに」
私がマイコさんを見上げると、彼女はその視線に気がついて微笑んだ。
「アキさんは告白しないのかしら。いまなら間に合うかも」
「私は……」
「自信がない? なら、とっておきのおまじない」
そう言ってマイコさんが取り出したものは、昨日私が彼女に貸したハンカチだった。
「洗ってから返すつもりだったのよ」
私がそのハンカチを受け取ったとき、ハンカチからかすかに覚えのある香りが立ち上り、私は思わずハンカチを鼻に近づけた。線香あるいは木材のような香りのなかに甘さがあり、香りを感じるたびに肩の力が抜けていくように落ち着く。
「いい香り」
そのようすを見ていたマイコさんがくすくすと笑い、私はようやく自分の行動がはしたないものだったことに気がつき、すぐに手を下ろした。ハンカチから感じた香りは、昨日のマイコさんが去り際に振りまいたあの優しい香りだった。
「いつものくせで精油をすこし染みこませてしまったの」
「精油……」
「インドの白檀よ。落ち着く香りでしょう?」
私は小さく頷き、再びハンカチを鼻にあて、ふすふすと香りを楽しんだ。
「お気に召したのなら、うちにいらっしゃる? ほかにもいろいろな香りがあるのだけれど」
「それは……無理」
「あら、そう。それは残念」
マイコさんは首を横に振った私を見ながら、さして残念そうでもない表情でそう言った。
「ともあれ、男は香りに弱いものよ」
その香りを使うかどうかはあなた次第、とマイコさんは手を振りながら教室から出ていった。
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