貴女の香り
音水薫
第1話
「先生、お慕いしております」
私は夕日差し込む教室の窓を開け、先生が講義のない時間にいつもこもっている研究室を見ながら、自身の秘密を囁いた。そのことばを聞いていたのは風ばかりであったから、私は風に、いま聞いたことは誰にも言わないでね、と頼んだ。すると、うしろからくすくすと笑う声が聞こえ、振り返るとそこにはマイコさんが立っていた。
「こんな時間まで残って、なにをしているの?」
マイコさんが意地悪そうな表情を隠さないままそう訊ねてきた。私は窓を閉めて自分の席に着き、開いたままだった日直日誌にペンを走らせた。
「きょうのまとめの欄に書くべきことばが見当たらなくて」
私は今日あった講義や欠席者の欄を埋めながら、マイコさんのほうを見ることなく答えた。
ふうん、とマイコさんは私の前の席に後ろ向きに座り、背もたれに頬杖をついて私を見つめた。私は恥ずかしさから震えてしまうペンの動きを気取られないように力を込め、彼女がなにも聞いていないことを願いながらうつむいた。
「言伝を頼んだら違う人に届けられてしまいました、なんてどう?」
やはりマイコさんは意地悪そうに微笑んでいて、私の顔が赤らむようすを見て楽しんでいるようだった。
「あの人のこと、どれくらい好きなの?」
私は答えることばが見つからず、ただ黙ってやり過ごそうとした。すると、マイコさんは重ねて訊いてきた。
「誰にも負けないくらい?」
私は彼女の問いに小さく頷いたあと、もしもマイコさんが恋敵であるなら負けるわけにはいかないと思い直し、睨みつけるような気持ちで顔を上げて彼女を見返した。
しかし、そのときすでにマイコさんは私を見ておらず、そのかわりに窓の外に顔を向け、先生がいるだろう研究室を見ていた。私もそれにつられて同じ方向を見たけれど、夕焼けの赤が眩しくて、いつのまにかなにも見えなくなっていた。
「出てきたの?」
「さあね」
マイコさんの瞳からひと滴の涙がこぼれ落ちた。その涙は斜陽を受けてオレンジにきらめき、机に落下した。頬に残された微かな涙の道は雫が通過したあとでさえ、彼女が悲しみに暮れていたことを忘れないでと訴えるように弱い光を湛えていた。それからあとを追うように涙がほろほろとこぼれだし、机にいくつもの染みをつくった。もったいない、と思った私はスカートのポケットからハンカチを取り出し、マイコさんに差し出した。彼女はそのハンカチを不思議そうに見つめ、首をかしげた。
「泣いてるよ」
言われてはじめて気がついたかのように、マイコさんは自身の頬に指を這わせて涙の跡に触れ、微笑んだ。
「さようですか。……なんてね。こんなに眩しいんですもの。涙くらい出るでしょうよ」
マイコさんはハンカチを受け取って涙を拭い、自身のポケットに仕舞った。それを返してほしいのだけれど、と私が彼女のポケットを凝視していると、視線に気がついたマイコさんは私に微笑みかけ、なにも言わずに立ち上がった。
そのとき、彼女の制服からふわりと甘い香りが漂い、私の鼻腔をくすぐった。香水にしてはあまりにも優しくて、嗅ぎ慣れない香り。
「日誌なんて適当でいいのよ」
マイコさんはそう言って手を振り、黒く長い髪を揺らしながら教室から出ていった。私はその背中が見えなくなるまで廊下のほうを向いて彼女を見送った。足音が聞こえなくなると、さきほどまでマイコさんがいた場所の香りを集めるように手で扇いだ。それでもやはり、私にはその香りの正体がなにかわからなかった。けれど、先生はきっとこういう香りがする女性を好むのだろうな、と思いながら日誌の続きを書き始めた。
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