外伝4・幽霊猫に蒼い月



 月が綺麗な夜は身体が勝手に動き出す。

 ――みゃん、とひとつ鳴いて、彼女は瞳を開いた。

 人には見えない、その瞳をぽっかり開いて、窓の外、今は見えない月を仰ぐ。

 月が誘っているような気がする。

 だから、彼女は自分の真横で寝ている青年を呼んだ。

 気持ち良さそうに眠っている、見慣れた――そして大好きな人。

 基樹。

 彼女の飼い主。

 彼女――幽霊猫の、小鉄の飼い主だ。

 気持ち良さそうに眠っている基樹を起こすのは可哀想だけど、月はいまだ声無く誘いかけてくる。

 早くおいでと蒼い色で手招きする。

 みゃ、みゃあ、と鳴き声を上げると、基樹は小さな声を上げて目を覚ました。

 まだだいぶ寝ぼけている。

「どうしたの……小鉄? 外行くの?」

 目元をこすりながら起き上がる。

 そしてドアを開いてくれた。

 幽霊のくせして小鉄は壁抜けが出来ない。だって、猫が壁抜け出来るなんて彼女は習ってないのだ。

 基樹が開いてくれたドアの隙間を潜ってアパートの廊下へ。

「あんまり遠く行っちゃ駄目だよ」

 欠伸交じりにそう言って、ドアの隙間にストッパー代わりの雑誌を挟む。

 そして基樹はベッドに戻っていった。

 部屋が静かになったのを確認して、小鉄は長い尾っぽをぴんっと立てて、廊下を歩き出した。





外伝4

 『幽霊猫に蒼い月』





 外へと続くドアは茜が開けてくれた。

 彼女はいつも起きている。

 いってらっしゃい、と綺麗な笑顔で見送ってくれた。

 にゃん、と一声鳴いて外に出る。

 やはり月は蒼く大きく。

 小鉄は嬉しくてしょうがなくなる。

 月は彼女の味方だ。

 よく分からないが、月は優しい。

 太陽は少し苦手だ。他の猫が好むから、真似て日のあたる場所で転がってみるが、暖かくはならない。

 だけど夜。月光を浴びて外を歩けば、それだけで心が騒ぐ。嬉しくなる。何かを与えられた気がする。

 幽霊猫の小鉄にも、分け隔てなく何かを与えてくれる。

 小鉄は生まれて三ヶ月で死んだ。

 行き場所が分からなくて困っていると、幼い基樹は泣きながら言ってくれた。

 幽霊でもいいからおいで、と、言ってくれたのだ。

 それからずっと小鉄は基樹の傍に居る。

 人の時間で言えば10年と少し。猫の時間で言うのなら……たくさん、としか言えない。

 幽霊でも構わない。

 姿が見えなくても構わない。

 基樹はそう言ってくれる。

 だから小鉄は満足している。

 基樹が良いならそれでいい。

 基樹が嬉しいなら小鉄もそれでいい。

 基樹が彼女の世界の中心である。

 月を見上げる。

 青白い月。

 基樹もこの月が好きなら嬉しい。いつか一緒に見上げたい、と願う。

 みゃん、と、月にそれを強請るように鳴いて、更に散歩を続けた。

 月は何処までも付いて来る。

 人には見えない、長い尾を立てて散歩を続ける。

 ゆらゆらと。

 幽霊猫の尾が揺れる。

「――タマぁ?」

 背後から声を掛けられて小鉄はみゃ、と鳴き返す。

 彼女の名前は勿論小鉄。大好きな基樹が付けてくれた、とても良い名だ。

 だけどたった一人だけ、小鉄を『タマ』と呼ぶ人が居る。

 蒼い月の下。

 刀の入った紫色の袋を肩に担いだ男が立っている。

 いつもは首の後ろで結わえている金髪が落ちて、ざんばらと言う形容が似合う様子で流れていた。

 日本人とは到底思えない顔立ちの中、更にそれを際立たせる蒼い瞳がまん丸に、小鉄を見ている。

「何してんだよ、お前」

 みゃん、と鳴き返す。

 とてとてと男――基樹と同じアパートに住む、竜 真之介の足に駆け寄った。

 すりっと身を寄せて挨拶。

 そこで気付く。

 漂う、におい。

 紅いにおい。

 血のにおいだ。

 みゃん、と、竜を見上げる。

 竜はそれだけで理由が分かったようだ。

 今日は長袖のTシャツを着ている。その袖口に鼻を押し付け、「まだ取れてねぇか」と笑った。

「タマぁ、ちょっと散歩してくか」

 その誘いには大賛成だった。




 途中コンビニに寄って紙パックの牛乳を買った。

 コンビニの店員さんにお願いしておでんの皿を貰ってくれた竜は、近くの公園で小鉄に牛乳をくれた。

 幽霊でも水分は摂取できる。牛乳は好き。

 公園のベンチに腰掛けて、竜は黙って月を見上げる。小鉄は小さく鳴きながら牛乳を飲んだ。おでんの皿は少々大きくて飲み難いが仕方ない。

 半分ぐらい飲み終わって竜を見る。

 血のにおいはいまだする。

 竜自身も傷を負っているようだが、それ以上に他人のにおいがする。

 竜の血は独特のにおいがした。紅い色が他の人より重く、強い。生きているにおいがとても、強い。

「タマ」

 呼ばれる。

 みゃん、と返事。

 紫色の袋の先で、月を示す。

「月、綺麗か?」

 みゃあ、と元気良く返事。

 綺麗だ。月はとても綺麗なものだ。

 普通の猫は色は分からないと言うが、小鉄はちゃんと色を判断する。

 基樹が花が綺麗だ海が綺麗だ、何が綺麗だと笑うから、置いてきぼりが嫌でちゃんと見えるようにした。

 だから、青白い月はちゃんと分かる。

 それがとても綺麗なものと言うのも、ちゃんと、分かる。

 そうかぁ、と竜は何だか嬉しそうに頷いた。

 白い顔が月光を浴びている。

 女みたいに長く伸びている髪が青白い光にさらさらと光っていた。

 それも綺麗だと、小鉄は思う。

「俺――なぁ、綺麗とか、よく分からねぇんだよ」

 淡々とした声が呟く。

「誰かに教えて貰わないと、綺麗もクソも分かりゃしねぇ」

 月は綺麗。

 覚えておく、と竜は言う。

 みゃあ、と小鉄はひとつ鳴いて、竜の膝に飛び乗った。

 ごろごろと喉を鳴らして身を摺り寄せる。

 竜は小鉄が見える。

 ちゃんと頭を撫でてくれた。

「お前――本当にイイヤツだよな」

 お前も――お前の飼い主も。

 基樹を褒めて貰うのは嬉しい。

 小鉄は更に喉を鳴らす。

「アイツ、俺らの事をなんて呼んだか知ってるか?」

 竜は笑う。

 蒼い瞳が月と同じぐらい綺麗で――優しかった。

「家族、だってさ」

 小鉄の顎を撫でる指先。

 そこに紅いにおいがする傷があった。

 しかし、それは一瞬ごとに薄まり、やがて消えて行く。

 人には有り得ぬ能力。

「仲間って言われた事はあるけどよ――家族ってのは始めてだったな」

 悪くねぇなぁ、と竜は笑う。

 笑う顔が優しくて、小鉄は、その笑顔を基樹に見せたいと思う。

「俺、な」

 小さな声。

 耳を澄ます。

 喉を鳴らして、まだ紅いにおいがする指先を舐め上げる。

「家族の為なら、とことん生命賭けたって悪くねぇかと思ってるぞ、正直」

 みゃう、と同意の鳴き声。

 竜はもう一度笑う。

 照れくさそうな笑みだった。

「あー……他のやつらに言うなよ、これは。俺のキャラじゃねぇーだろ」

 小鉄は何も答えず喉を鳴らす。

 ――基樹と、基樹に善意を向ける全ての人が幸せであるように。

 小鉄はそれだけを願う。

 その為ならば何でもしようと思う。

 自分は猫で、小さな猫で、強い力は何も無い。

 それでも全力で基樹を、皆を守ろうと思うのだ。

 竜はまだ何だか照れくさそうな顔で、手に持っていた紙パックの中の牛乳を一気に飲み干す。

 小鉄はいまだその膝の上でごろごろと喉を鳴らしていた。



 蒼い月が一人と一匹を見ていた。

 優しい、優しい蒼だった。



                     終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る