外伝3・幽霊猫のいない街 後編


 翌日は朝から雨が降っていた。

 雨に指先を触れさせる。

 やはり呼び声がする。

 朝食の席で、プリントアウトされた何枚かの書類を月薙は水生に手渡した。

「横川組に関係するすべての建造物を洗い出しました」

「凄い情報網やなぁ」

 草薙は焼き魚を上手に食べつつ書類を眺める。少々行儀悪いが誰も注意をしない。

 月薙はシンプルなグレイのワンピースを身に着けている。髪型は昨日と同じポニーテール。化粧はしていないようだが、それでも唇だけが僅かに紅い。

 その紅い唇が動く。

「あやかし側の中心人物が居るようです。その人物に当たる事が出来れば、話は早いかと思います」

 月薙は一枚の書類を選び出し、水生に差し出す。

 水生はそれを受け取り、眺めた。

 写真は無いが男の名前があった。

「岸田 大蔵。うーん、聞き覚えが……」

 横から覗き込んだ草薙は、目を細めて書類に書かれた文字列を眺める。この男が関わったと思われる事件。

 ああ、とひとつ頷いて中ほどの文章を箸で示した。

 異国からあやかしを輸入したと言う文章だ。

「これ潰したのワシらや。――そういや、何だか言ってたなぁ、上の人の名前。覚えてろ言われたけど、綺麗に忘れてたわ」

 アハハ、と草薙は笑って食事を再開。

 よく食べる。

 水生は既に食事を終えてお茶を手にしていた。

 指先で文字を辿りつつ、眺める。

「――この、異様な肉体強化が、竜玉の力とみなされている訳だね」

「そういう事ですわ」

 幾つかの事件に登場する、人とは思えぬ身体能力を持った人間。それが秋山から力を付与された者たちだと言われているのだ。

 ただ。

「……秋山さんの姿は、見えてないんだね」

「半年ほど前までは横川組に属している者の家族として目撃情報はあります」

 隠されているのか。

 それは本人の意思か。それとも――

 水生は外を見る。

 雨。

 彼を呼ぶ、雨。

「黒川さん」

 呼ばれる。

 水生は月薙を見た。

「どう致しますか」

「一番、人が集まってそうな場所は?」

「では、こちらの建物になります」

 草薙がぶつぶつと何か言っている。だから危ないゆうてるのに、と、ぶつぶつ。

 ぶつぶつ言いながら、挙手。

「そのぉ、昨日の事が知れていると思うので、めちゃくちゃ危ないと思いますがー」

「危ないの、承知」

「そうです」

「………静さんも水生さんも、世の常識から外れていると思いますー」

 でもそれ以上は何も言わない気らしい。食後のお茶を自分で淹れている。

 お茶を啜っている草薙に、水生は言った。

「危険だと思うなら草薙君は此処で戻っても――」

「ヤ」

「……戦えますか?」

「一応、探偵なんてアレな商売してますから、そりゃあ、人並み以上に」

 昔からの知り合いらしい月薙を見る。

 月薙は小さく頷いた。

「条件が揃えば、草薙さんは頼りになります」

「逆を言えば、条件が揃わなければ頼りにならない、と」

「うわー、水生さんきっつー」

 言いながら、草薙は何がおかしいのかけたけた笑った。





 草薙の車で到着したのは、安王市の外れの一軒家だった。

 高い塀に囲まれている。

 事務所には到底思えない。

「横川 博美の自宅になります」

「一番偉い人?」

「そうなりますね」

 月薙は車から降りつつ頷いた。

 彼女は朝と同じグレイのワンピース。そして手には刀を持っている。

 運転席でハンドルに突っ伏しそうな姿勢で建物を見ている草薙。そして諦めたようにため息を付くと、水生に預けていたリュックを手に、車から降りた。

 水生は最後に降りる。

 雨が降っていた。

 水の呼び声。

 水生が水の声に耳を澄ましている間に、月薙は門へと向かい、無遠慮にその中に踏み入った。

 誰だてめぇ何しに来やがった、の声に返る声は無く、逆に何かが潰れるような醜い悲鳴がひとつ聞こえた。

 切る必要も無い。刃を逆に胴に叩き込めば、人間はだいたい意識を失う。月薙はそれが得意なようだ。

「あーぁ、静さん、もう始めよったで」

「じゃあ僕らも行こうか」

「はーい」

 物凄く力の無い声で草薙が答える。

 塀の中。覗き込み、既に二桁に及ぶ男を倒したらしい月薙を見た。

 彼女はつま先で黒い塊――銃だ――を蹴飛ばす。

「飛び道具をもう出してきました。お気を付けて」

「……ワシ、防弾ベストでも着てくれば良かったかな」

「今から取りに帰られますか?」

「いえ、エンリョします」

 草薙はリュックを手に苦笑した。

 庭を見回す。池のある、手入れがされた立派な庭だ。

 今は自分たち三人以外の姿は無い。

 月薙は刀を手に進む。

 屋敷の玄関。

「失礼致します」

 声を掛けて、ドアを開く。

 と同時に彼女は身体を低くした。 

 その頭上に刃が貫く。

 異様に低いその姿勢のまま、脚力だけで踏み込み、月薙は刃を振るった。

 悲鳴。

 ドアの向こうに隠れていた男は、胸を大きく切り裂かれ、のた打ち回っている。

 月薙は遠慮なくその男の首筋に刃の背を叩き込んだ。

 男は静かになる。

 気絶したようだ。

「お話を伺えそうな方を探しましょう」

 月薙の声。

 了解、と頷き、草薙はリュックから己の武器を取り出した。

 銃。

 少しばかり、驚いた。

 指先にそれを引っ掛けて草薙は笑う。

「弾丸がちぃっと変わってるのでアレですけど、ま、ワシもこれには自信ありますよ」

 草薙が戦える条件があると聞いた。

 銃ならば簡単に条件も揃うと思うのだが。

 水生の考えている間にも月薙は進む。

「――参ります」

 向こうから駆けて来る足音に、月薙は低くそう呟いた。





 月薙の強さは異様だった。

 飛び道具の発射より早く踏み込める人間など聞いた事も無い。

 例えば、竜 真之介もそれが可能だが、彼は人間ではない。人間ではない身体能力があるからこそ、それが出来るのだ。同時に彼は銃を恐れない。心臓を撃たれたとしてもそのうち再生出来るのだから。

 月薙は人間だ。

 その身体は銃の攻撃を食らえば傷付く。

 だが、それを理解していないような戦い方だ。

 草薙がせっかく取り出した銃を使う事も無かった。

 銃が使用されたのは、少し服装が立派な人間を捕まえて、その頭に銃を押し付け、「お偉いさんは何処ですか」と聞いた時ぐらいだった。

 立派だが悪趣味なその部屋には、二人の男が居た。

 一人は立ち、銃を構えている。

 もう一人のでっぷり太った男は、椅子に腰掛け、こちらを睨み付けていた。

 机の上に置いた手が、見て分かるほど震えている。

「椅子にいらっしゃる方が横川。立っている方が岸田で宜しいですか」

 月薙の声に椅子に座った男――恐らく横川――は答えなかった。

 ただ銃を構えた男が少しだけ笑った。

 黒髪をオールバックにした細身の男だ。三白眼の目が爬虫類じみてる。

 月薙の刀を前に、まだ笑っていた。

 それでも銃口は先頭の月薙にぴたりと合ったままだったが。

「どういう出入りだ、コレは」

 横川が口を開く。低い声。精一杯の迫力を利かせた声を出しているつもりらしいが、迫力は無い。

 月薙の表情は微塵も動かない。

 岸田に向けていた視線を、思い出したように横川に向けた。

「最近――こちらの方々が少々目立ち過ぎですので、粛清に参りました」

 粛清。

 そうあっさりと口にする。

「な――」

「安王の街に害をなす存在は、許せません」

 それから、と水生を見、岸田を見る。

「こちらの方は別の用事があるそうですので、後でお話を伺わせて頂きます。――それでは、まず」

 月薙の声は何の抑揚も無い。

 日本刀を、構える。

「貴方の処分を致します」

 殺す気だ。

 流石に草薙も慌てたようだ。

「ちょ、月薙さん、それは――」

「死に値する行為は十分に行われています」

 草薙を見る。

 月薙の瞳は澄んでいた。

「それでもワシの前で人殺しなんて嫌ヤ」

「草薙さん」

「甘いって言うなら好きに言えばええけど、これだけは譲れん」

 敵の前で二人、睨み合う。

 ――そして、響いた笑い声。

 続く銃声。

 笑い声の主は、岸田。

 そして銃を撃ったのも彼。

 倒れたのは――横川だ。

「そっちで話が付かないのならこっちで片付けました」

 頭を撃ち抜かれている。

 即死だ。

 小さく呻き、草薙は岸田に銃を向けた。

 岸田が笑い、顎を上げる。

「撃つのか?」

「……」

 草薙は撃てない。

 死を、齎せない。

 岸田は動けぬ草薙を鼻で笑う。

 笑い、横川が突っ伏す机に触れる。

 取り出したのは小さな球体。一瞬竜玉かと思ったが違った。水の属性を有しているのは分かるが、何か分からない。

 それを指先で弄びつつ、「で」と口を開く。

「俺に何の用ですか、そちらの方は?」

 話しかけられている。

 水生は一歩、前に出た。

「竜玉を持っている女性を探している」

「……」

 視線が上がった。

 三白眼の瞳が、水生を見る。

 眺める。

「探して――どうするつもりで?」

「さぁ、どうしよう」

「曖昧な」

 岸田が肩を竦める。

 竦め、弄んでいた小さな球体を、床に叩き付けた。

 月薙が動いたのが見えた。

 床に球体がぶつかるより先に動こうとしたらしいが、間に合わない。

 間に水生が居た。

 球体――蒼いそれ。

 床に叩き付けられ、割れて、そして、蒼い空気を放った。

 瞬間、部屋の空気に溶ける。

 月薙が更に動く。

 部屋の奥。窓へと向けて。

 その身体が沈んだ。

 床に膝を付く。

 月薙の顔が歪んでいるのが見えた。

 蒼い空気。

 あれは――

 倒れる音。

 振り返る水生の目に入ったのは、床に倒れた草薙。

「ガスですよ。あやかし用なのでちょっと強力ですが」

 岸田が笑う。

 もうひとつ、手に球体がある。

 立ち上がろうとしていた月薙の身体が倒れた。

「あんたにはちょっと利きが悪いみたいですね」

 もうひとつ行きますか。

 握り潰される、球体。

 止める事は出来た。

 だが、この男は人間だ。

 人間とは戦えない。

 蒼い空気が散った。

 ――水生が覚えているのはそこまでだ。





 ――水音。

 雨音ではない。

 こぷこぷ、と。

 誰かが水の中で呼吸するような音。

 何の音だ。

 水生は疑問符の中で目を覚ます。

 瞳を開いて、そして身体を動かそうとして痛みに顔を顰めた。

 両腕が後ろで結ばれている。

「……」

 水生は瞳を開いて周囲を見回す。

 何処かのビルの地下室、と言う所か。むき出しになったパイプが四方に走っている。そして水生の両腕は手錠によって背後に伝うパイプに繋がれていた。

 薄暗い。

 すぐ横に同じ状況の草薙の姿が見えた。

「……草薙君」

「……目ェ覚めてます」

 思ったより返答は早く来た。

 壁に寄りかかったまま、片目を開く草薙。

「荷物全部持っていかれちゃったみたいなんですけど……何か持ってます? 水生さん」

「うーん……元々荷物無いしなぁ」

「針金一本でもあればこんな手錠ぐらい取れるんやけどなぁ」

 器用な事だ。

 草薙は暫しもぞもぞと動き、やがて諦めた。

「静さんは何処に行ったんでしょうか」

「……」

「女性一人だけ別の場所って――」

 最悪な想像をしたらしい。

 一度諦めた動きが、がっちゃんがっちゃんと騒がしくなる。

「うるせぇぞ!!」

 奥。薄暗くてよく見えないが、そこにドアがあるらしい。

 ドアを蹴り飛ばす音と罵声が飛んできた。

 見張りか。

「見張りが居るなら挑発してドアを開けさせればええな」

 草薙が呟く。

 水生はそれを聞きながら腕に力を入れた。

 引っ張って強度を確認する。繋がれたパイプはだいぶ丈夫そうだ。

 ならば。

 乱暴に引っ張る。

 鎖がちぎれた音。

 妙に甲高い、奇妙に澄んだ音に聞こえた。

「うん、いけたね」

 両手首に怪我は無い。

 ゆっくりと立ち上がると、草薙が呆然とした顔でこちらを見ているのに気付いた。

 そうだ、彼の手錠も取らないと。

 草薙に手錠を外す旨を小声で伝え、手で引き千切る。

「……水生さんって」

「なに?」

「……凄い腕力ですね」

「まぁこれぐらいは」

 草薙は解放された両手を撫で摩る。

 部屋を見回す。

 彼の表情が歪んだ。

「……あー……可哀想なの見付け」

「……?」

 部屋の隅に、ビニールシートに包まれたものが積まれていた。

 今更ながらにおいに気付く。

 死のにおい。

 腐臭だ。

 草薙は動じた様子はなくビニールシートに近付く。

 そっとそれを剥ぎ、両手を合わせた。

 背後から覗く。

 死体だ。

 酷い状態の死体だった。

 全身が大きく崩れている。

 腐敗しているのではなく、何かで溶けたような状況に見えた。

 草薙はそれに暫くの間手を合わせ、右手を伸ばした。

「力、貸してな」

 指が、手が、崩れた肉に沈む。

 草薙の顔に不快の色は無い。

 祈りのように瞳を閉じて、口の中で小さく呟く。

 祈り――ではなく、呪文。

 死体がぴくりぴくりと動き出す。

 身を起こし、立ち上がり――動き出す。

 死体は、草薙の命令を待っている。

 草薙が役に立つと言う状況。

 それは、死体が必要だったのだ。

「じゃあ、ドア開けて、静さんを探しに行こうか」

 死体は頷いたように見えた。

 そして。

 ドアを開き、見張りをしていたチンピラを叩き潰し、死体はそのまま崩れた身体で歩き出す。

 草薙の命令を守っているのだ。

「――魔術師?」

「死体専門ですけどー」

 草薙は笑った。「死霊術師とか言うらしいですけど、よぉ分かりません」

 建物はまるで病院のようだった。

 白い清潔そうな廊下。薄暗いのと、人がまるで居ないのを覗けば、水生の印象はそれに近い。

「――……」

 水音。

 顔を巡らせる。

 こぽこぽ、と。

 水音。

「草薙君、御免。月薙さんは一人で探して貰えるかな」

「へ?」

「ちょっと、こっちに行って来る」

「は? ど、どうしたんですか、え?」

「御免」

 もう一度謝って、走り出す。

 水音。

 聞こえるのは地下からだ。

 水音。

 呼ぶ声――。

「えぇい、待ってくださいっ!!」

 草薙が追いかけてきた。

 死体も一緒に付いて来る。

 その死体に指を突きつけた。

「静さんを探す!」

 死体は黙って頷いて別方向へと動き出した。

 本当によく命令を聞く。

 それを背後の音として、水生は既に下へと向かう階段へと辿り付いていた。

 水音が強くなる。

 階段を駆け下りて、鍵の開かないドアを叩き壊す。

 警報の鳴り響く中、更に、走った。

 最奥の部屋。

 水音の満ちる場所。

「――おや、思ったより早いご到着で」

 岸田が笑った。

 こぷこぷと、その背後で水音がする。

 水音。

 人の背丈ほどの硝子の筒。

 そして。

 そこにおさめられた、眼球と、脳。

 緑を帯びた、ゴルフボールほどの、球体。

 竜玉。

 眼球と脳の隙間に、目的のそれが、揺れていた。

 岸田がそれを見上げる。

「人間の科学だけじゃあどう逆立ちしても無理なんですよ。それが――まぁ、奴等の協力と、こいつの生命力で何とか持ってる」

 こんこんと拳で硝子の筒を叩く。

「……秋山、さん?」

 確認しなくとも良い事を確認する。

 岸田が笑った。

「この女の血肉を貰うと、とんでもない力が出るんですよ」

 竜の力に支えられた血肉。

 それならば、確かに。

「最初に気付いたのはこいつの旦那でしたよ。怪我した時に輸血されて――目が覚めたら、とんでもない能力になってた」

 腕力も敏捷力も、生命力も。

 何もかも、人とは掛け離れ。

「まぁ定期的に貰わないと、人間のほうがもたなくなっちまうようですがね」

 背後から足音。気配は草薙だ。

 そこで思いつく。

「……あの、死体」

「ああ、同じ部屋にあった? あれも持たなくなった結果です」

 岸田は苦笑した。

「ああはなりたくないんで――そろそろ補給してもらいたいんですが、脳や目を食っても大丈夫なんですかね?」

「喰ったのか、貴方も」

 まぁね、と硝子の筒を見る。

「この女の旦那ってのが、俺でしたから」

 岸田が水生を見る。

 既に人ではない、獣の瞳。

「貴方は――この女を捜していた。同類ですか? 貴方の血肉にも、そういう力、あるんですかね?」

 水生はゆっくり笑い返した。

 水音がする。

 これだけ近いんだ。既に声。

 女の、声。

 聞こえる。

「僕が彼女に力を与えたんだよ」

 背後に手を伸ばす。前に歩いていた草薙の胸を押した。

 離れていて、と囁いた。

「へぇ――なら、貴方を食らえば、もっと力を増しますかね?」

「さぁね。喰われた事は無いから」

 身の内から、音がする。

 ぞわりぞわりと何かが這い上がってくる。

 暫くぶりだなぁ、と、水生は笑う。

 竜神の眷属を喰らって、それで人と言えるのか。

 否、だ。

 この男は既に人で非ず。

 ならば何の遠慮も要らない。

 ぎち。

 ぎちぎち、と。

 骨が軋む。

 身体が歪む。

 岸田が目を見開いた。

「水生さんっ!!」

 草薙の声がする。

 でも、もう遅い。

 さほど広くは無い地下の空間。それが許す限り広がって――元へと。

 神と呼ばれた、その姿へ。

 口を開く。

 牙が並ぶ、その口を開き、逃げようと身を翻した岸田を、喰らい尽くす。

 久しぶりの血肉の味に身体が笑う。ざわめく。揺れる。ざわめく。喜ぶ。

 結局、僕は人でないのだ、と何だか、馬鹿笑いしたくなった。

 揺れる瞳のまま、哀れな状態になった自分の眷属を見やる。

 それでも生きている瞳と、視線が合った。

 願いが、聞こえる。



 ころして、と。



 ひとつ、願い。

 水生は頷き、もう一度、巨大な口を開いた。

 牙を、硝子の筒ごと、突き立てる。

 血肉の味はしなかった。

 ただ、欠けていた力が身に戻ってくるのだけは、理解出来た。





 ゆっくりと身体が戻る。

 服は破けたりしない。自然と元に戻る。

 水生が握っていた手を開く。竜玉。そこに、ある。

 草薙は唇を噛み締めて水生を見ていた。

「ワシ――どんな悪人でも、人が死ぬのは、嫌です」

「そう」

 御免ね、と呟いた。

 草薙は更に唇を噛んだ。

 死者を操る人間だと言うのに、彼はあまりにも優し過ぎる。

 哀れに思えた。

 だから、笑った。

「さぁ、月薙さんを探しに行かないと」

「――女性を先に探すのが常識だろう」

 入り口からの声。

 草薙が弾かれたように振り返った。

 黒いマントを纏った男が立っている。不機嫌そうにこちらを見る表情は見覚えがある。

 比良坂だ。

 正統派なヴァンパイアの服装の彼は、黒い皮手袋の手で月薙を支えていた。

 月薙はこちらを認め、軽く微笑む。

 疲れが見えるが、無事なようだ。

「監禁されていた。――まぁ」

 比良坂は言い難そうに言い淀む。「何かある前に自力脱出されていた」

「でも、比良坂さんが来てくれなければ、私も、少々苦しかったです」

 有難うございます、と笑み。

 比良坂は少し照れたようだ。

 照れた表情を隠すように草薙を見る。

「龍王。今回の仕事が終わったらさっさと帰って来い。――次の予定が入っている」

「う、うん! はい! すぐ戻る! 終わったら、速攻戻る!!」

 草薙は満面の笑み。

 先ほどの唇を噛み締めていた表情が嘘のようだ。

「それから、死体はちゃんと処分しておいた。燃やしておいたから文句は無いだろう」

「あ、有難う」

「以上だ。先に帰る」

 月薙を見る比良坂。彼女はゆっくりと首を左右に振った。

 比良坂はこちらに背を向けて歩き出し――最後にもう一度振り返る。

 水生を見る。

「神代さんには俺の方から連絡しておきます。――何もかも片付いた、と」

「有難う」

「それから――うちの相方が迷惑を掛けました。謝罪します」

 草薙の事だ。

 水生は笑う。

「いや――迷惑掛けたのは僕の方だよ。龍王君は、色々と良くしてくれた」

「……それなら、結構」

 では、と、比良坂は今度こそその場を立ち去った。

 草薙は笑顔だ。

「龍王って呼んでくれましたねー」

「ああ、思わず」

「えへへ、呼び捨ての方が嬉しいんですけどねー」

「龍王、って呼べばいいのかな」

「えへへ、良いですねー」

 草薙は頭の後ろで手を組んで、尾を振る犬のようにご機嫌だ。

 月薙はそれを見て笑う。

 水生も、笑いたくなった。

 手の中の竜玉の存在など忘れて。





 もう一泊だけして、翌日、安王市から出る事にした。

 草薙と比良坂、そして月薙が雨が降っていると言うのに見送りに来てくれた。

「また安王市に来て下さい」

 月薙が言う。「次は、幽霊猫も連れて来て下さい」

「そうだね。皆で来るよ」

 きっと楽しい旅行になる。

 比良坂は何も言わない。サングラスで瞳の奥も見えないものだから、よく分からなかった。

 草薙は土産を手渡してくれた。

 この街の名物らしい。お饅頭だと言っていた。白桜荘の皆が喜ぶだろう。

 出発の間際まで四人で話した。

「――それじゃあ」

 別れの言葉は短く、水生は、改札を通った。





 駅前。

 草薙は振り返る。

 水生の姿は勿論無い。駅の建物を仰ぎ見ただけだ。

 月薙とは先ほど別れた。彼女の恋人である青年が迎えに来て、そのまま別れたのだ。

 此処に居るのは草薙と、比良坂。二人だ。

「なぁ――たもっちゃん」

「どうした?」

「水生さん……大丈夫かなぁ」

 比良坂は答えない。

 軽く肩を竦めた。

 草薙は俯く。

「あの人……死のにおいがした」

「……」

「もうすぐ、死ぬような、気がする」

 草薙は死者を操る。

 死を、見続ける。

 故に、彼は死を嗅ぎ取る。

 そして、それは不死の王とも呼ばれる種族の一員である比良坂も、同じだった。

 初対面から予感していた。

 黒川 水生。この男は弱りかけている。見た目はまだ若々しいが、恐らく長い時を生き抜いてきたのだ。

 疲れ果て、心が、死に掛けている。

 肉体の死は怖くない。人でない者たちにとって特に。

 怖いのは心の死だ。

 心が死ねば、肉体などもう意味は無い。

「たもっちゃん」

「俺たちにはどうしようもないだろう」

「……うん」

 頷くが、酷く寂しそうだ。

 大丈夫と言う代わりに背中を叩く。

「ほら、いつまでも今回の事を気にしてられないぞ。仕事があるんだ」

「そ――そやな」

 気合を入れるように草薙は両手を握った。

「それにワシの勘だって外れる事あるし。うん、きっとそうや。水生さん、元気そうやったし、うん、だいじょうぶ、気のせい、気のせい!」

「……」

 比良坂は何も言わなかった。

 空を見上げる。

 重かった雨雲が消え、ようやく青空が覗く。

 吸血鬼の比良坂にとって好むものではないが、久しぶりの青空だ。きっと皆が喜ぶだろう。

「あ、虹!!」

 草薙がはしゃいだ声を上げた。

 嬉しそうに歩き出す。

 少し歩いて、振り返った。

「なぁ、たもっちゃん。今度、時間あったら、水生さんの所に遊びに行こ?」

「あぁ、そうだな」

「へへ、楽しみ!」

 草薙が更に嬉しそうになる。

 子供っぽいその言動を見て、比良坂は苦笑した。

 旅行なんて、自分たちの忙しさを思えば随分と先になる。

 でも悪くは無い。

 あの水生と言う男にもう一度会えるのなら、草薙は喜ぶだろうし。




 ――しかし。

 草薙が水生と会うのは、これが最後となった。



                        終


 

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