外伝3・幽霊猫のいない街 前編


 初めて訪れる安王市は雨に包まれていた。

 ざぁざぁ、と灰色に近い色が街を塗り潰している。

 駅から一歩出て、黒川 水生は空を見上げた。

 嫌な雨だ、と思う。

 雨は嫌いではない。

 彼にとって水に属するすべては友であり、故郷である。

 ただ、既に他人に支配されている水は好みではない。

 この雨は、既に他の者によって支配されている。

 しかも――この雨は。

 ため息ひとつ漏らして、改めて辺りを見回した。

 待ち合わせの場所はこの駅を指定された。車で迎えに行くと言われたが、周囲を見回す限り、迎えらしい人間は見えない。

 上着のポケットから携帯電話を取り出す。

 連絡先は聞いていた。勿論、メールアドレスも。

 到着したとメールを送るのが良いだろう。

 いまだ慣れないメールを送るために、携帯を操作し出した。

 と。

 携帯が鳴り出す。

 着信。

 画面に表示される番号は、先日登録したばかりの、今回の関係者の番号だ。

 通話ボタンを押し、耳に当てる。

「――もしもし、黒川です」

『ども、こんにちはー!』

 妙に明るい、奇妙なイントネーションの声が聞こえた。

 若い男性の声である以外、水生には特徴を掴めない。

『今どちらにおります? ワシは……正面入り口の方におるんやけど』

「ええと」

 振り返る。「……東って書いてますね」

『東。ああ、ならすぐお迎えにあがります。そのまま待っといて下さい』

 それじゃ! と明るく別れを告げて、通話は終了。

 水生は二つ折り携帯をそのまま閉じる。

 やがて、何だか奇妙な音がしてきた。

「……」

 そちらを見る。

 明るい黄色の軽自動車が奇妙な音を立てつつ、すぐ近くに止まる所だった。

「よっと」

 運転席が開いて妙に長身の男が降りてくる。

 原色のフード付き上着が灰色の世界の中、妙に鮮やかだったのが印象的だった。

「黒川 水生さん?」

「はい」

 名前を呼ばれて、この男が迎えの人間だと改めて理解する。

 男は人懐こそうな笑顔を浮かべた。

 そして、軽く腕を広げるような動作後、言った。

「ようこそ、安王市へ!」





『幽霊猫のいない街』





「どうぞー」

 助手席側のドアをドアマンさながらの仕草で開きながら、男が水生を招く。

 名前を出された以上関係者だと判断した。

 礼を述べつつ、助手席に座った。

 外見と比べると、中は思ったより広い。

 運転席に男が座った。

「ああ、自己紹介がまだだった」

 シートベルトを締めながら男が笑顔を向けてくる。

 二十代後半と言う所だろうか。

 しかし笑うと酷く少年ぽく見える。幼いのではない、少年のような色合いが強くなるのだ。

 常に楽しげな色を浮かべてている、その大きな瞳故かもしれない。

「ワシは草薙 龍王って言います」

「僕は黒川です。宜しく、草薙さん」

「龍王って呼んで下さい。親しい人は皆そう呼びますから」

 水生は曖昧に笑う。

 今の所、親しくなる予定は無い。

 草薙は顔全体にで笑うとエンジンを掛けた。

 車は、壊れそうな音を立てながら動き出す。

「あーやっぱり調子悪いなぁ」

 いや、ね、と続く。「知り合いの言魂使いの子に、『お前はまだ壊れてない』って言い聞かして貰ったんやけど――やっぱり無理だったかなぁ」

「……」

「雨降ってなきゃワシのバイクでお迎えに上がったんですよ。でも最近この調子で――勘弁して下さい」

「大丈夫です」

「なら良かった!」

 このまま案内します、と、草薙は続ける。

 お願いしますと答え、水生は外を見た。

 安王市。

 8年前の事だ。

 様々な試験的試みが行われたこの街は、大きな事故により一度、処分される寸前まで行ったのだ。

 だが住民と多くの企業の力により、ごく普通の街として今も動いている。

 ――表向きは。

 人間の住人たちは気付いていないだろう。

 この街が人で無いものたちの手によって救われ、そして今も動かされている事に。

 この街の総人口は約50万。

 そして、その半数が人間ではないのだ。

 あやかし。

 人の姿をした、人以外の生き物。

 車の窓の外。風景が流れていく。

 傘を差しながら歩いていく人々が見えた。人間でないものたちが紛れ込んでいるのが分かる。

 窓から視線を動かし、鼻歌を歌いながら運転している男の横顔を見た。

 こちらは人間に見える。

 善良そうな人間の男。

「――人間やけど?」

「……」

「人間。ごく普通の人間。――ま、この街で探偵なんてやっとるから、まぁ、それなりに色々出来るけど、正真正銘の人間」

 横目で水生を見る。

 笑う。

「そう、考えてませんでした?」

「実は」

 水生は笑った。

 へへ、と草薙は上機嫌のまま視線を前に戻す。

「よく聞かれるんですよ。人間か、って。――ワシは残念ながら人間です。ああ、でも相方は人間やないんで、楽しみにしてて下さい」

 ちょっと日本じゃ見ないタイプなんで、と笑う。

 日本原産以外のあやかしは正直苦手なのでどう答えて良いものか迷う。

 迷って、結局、話題を変える事にした。

「今回の件――神代さんから簡単にしか聞いてないのだけど、改めて、教えて貰えるかな」

「ああ、それも相方がやります」

 スイマセン、と草薙が謝罪する。「ワシもたいして聞いてなくて――スイマセンが、相方から聞いて下さい」

「じゃあ、相方さんの名前ぐらいは教えて貰えるかな」

「それなら」

 草薙が笑う。

「比良坂。――比良坂 保、言います」




 『比良坂探偵事務所』。

 ドアに張られたプレートを読む。

 草薙はプレートが張られたドアを遠慮なく開いた。

「たもっちゃーん、連れて来たでー」

「ご苦労」

 ドアの向こうから若い男の声。

 草薙が身体を避けて室内に迎え入れてくれる。

 中は――探偵事務所といわれたら、十人中九人ぐらいはこういうのを想像するのではと思わせるような典型的な事務所だった。

 ただし『一昔前の推理小説の』探偵事務所、ではあるが。

 部屋の奥。

 ブラインドの下りた窓際に男が一人、立っていた。

 二十歳を超えたばかり、と言う年齢である。草薙よりも幾分若い。

 長く伸ばした金髪を首の後ろでひとつに結わえている。

 振り返った顔は見るからに日本人ではなく、そして、十分過ぎる程整っていた。

 ただし、瞳は室内だと言うのに、黒いサングラスで隠されていたが。

 シャツにベスト、細身のパンツと言う、これまた一昔前の服装が時代を間違えてしまうほど似合っていた。

「――初めまして」

 一歩、踏み出しつつ、サングラスの男が笑う。

「俺が比良坂 保です。――今回は神代さんの代理人として、貴方に御協力をお願いしました」

 差し出された手を握り締める。

 冷たい手だった。

「黒川です。宜しく」

 サングラスの奥。感情は読み取れない。

 失礼、と、比良坂が笑った。

 握手を止め、サングラスの縁に手を当てながら。

「俺の種族は皆――特徴的な目をしているもので。こうやって隠させて頂いてます」

 大丈夫でしょうから、と、比良坂はサングラスを外した。

 現れた瞳は、血の色がそのまま映し出された真紅。

 白目が少ない、鮮やか過ぎる真紅だ。

 ――そして、笑う口元に大き過ぎる八重歯が見えた。

「吸血鬼ですよ」

「……」

「ハーフです。母親が日本人で。国籍も日本ですよ」

 吸血鬼の紅い瞳。人間を魅了する力を持つと言われるが、幸い、水生にはまったく効果は無い。

 草薙にも効果は無いようだ。

 鼻歌交じりに奥に引っ込んでいく。

 食器が触れ合う音が聞こえ出した。茶の用意でもしているらしい。

「どうぞ。座って下さい」

 応接用のテーブルを示される。

 促されるまま、ソファに腰掛けた。

 比良坂はソファに寄りかかり、サングラスを手に持ったまま話し出した。

「まずは――ご覧になって頂きましょうか」

 ベストのポケットから一枚の紙を取り出す。

 テーブルの上を滑るように渡されたのは写真だった。

 女性が一人、映っている。

 証明写真のようだった。

 真正面を真剣な顔で見据える女。

 二十代の筈なのだが、年老いて見える。

 顔が、そして纏う空気が疲れきっているのだ。

「見覚えは?」

 比良坂は足を組んだ。

 ソファに身体を預けたまま、何処か面白がるようにこちらに尋ねてくる。

 写真を手に、水生はため息を付いた。

「知っている」

「間違いなく?」

「間違いないよ」

 写真を見たまま口元を歪める。

 笑みと言うにはあまりにも嫌な種類のものだった。

「僕が――竜玉をあげた最後の一人だ」

 比良坂ははっきりとした笑みを浮かべた。




「名前は秋山 由子。そう名乗ってます」

 偽名でしょうが。

 続けた比良坂の声に頷く。

「何時ごろ、彼女に力を?」

「よく覚えてないな。……昭和にはなってなかったと思う」

「随分適当に力を与えていたのですね」

「後悔してる」

 水生は肩を竦めた。「だから、今、回収して回っているよ」

「残りは」

「これで最後。他の六人は……いや、五人は僕が殺した」

「……一人は?」

「人間に殺されたよ」

「分かりました」

 比良坂は頷いた。

 先ほどの笑みが消えていた。

 少々、複雑な表情をしている。

「――お待たせー」

 二人の前に紅茶の満たされたカップが置かれる。茶菓子は何故かどらやき。

 比良坂がどらやきを無遠慮に指差した。

「要らない」

「甘いもん嫌いやないやろ。どーせ朝からろくに喰っとらんなら、なんでも喰う」

「吸血鬼に固形物を食わせようとする事態間違い」

「水生さんもどうぞー」

 どうやら下の名前で呼ばれる事になったらしい。

 満面の笑みの草薙に曖昧に笑い返して、紅茶だけには口を付けた。

「――話を戻します」

 ソファにではなく、近くの椅子を引いて背もたれを前に座った草薙を横目に、比良坂が口を開く。

 今はテーブルの上に戻された写真を指で示した。

「彼女は今、横川組に属しています」

「……?」

 よこかわぐみ、と言われても水生はぴんと来ない。

 比良坂が苦笑する。

「ヤクザです。――まぁ、チンピラ、って言った方が良いかな」

「ロクでもない奴等なのは確かやしなぁ」

 草薙もしみじみと頷く。

 比良坂はさも面倒そうに紅い瞳を細めた。

「多いんですよ、この街は。俺たちも何度か――相手をしています」

「苦労するんですよ」

 草薙が続ける。「相手さん、面子面子ってホンマ煩いから、後が大変で――」

「しかも、ご存知の通り、この街のあやかしの数を思えば、構成員も人外が多くて色々と大変です」

 比良坂は紅茶に口を付けた。

 満足そうに小さく息を吐く。

 吐き――言葉を続けた。

「彼女も、人以外の構成員として働いているようです」

 その働き方に問題がある。

「彼女は、竜の力を他人に分け与える能力を有しているようです」

 つまり、とカップをテーブルに戻した比良坂は、紅い瞳を真っ直ぐに水生に注いだ。

 吸血鬼の紅い瞳。

 水生にはまったく効果の無い筈のそれなのに――背筋に伝う何かがある。

 これが不死者たちの王と呼ばれる一族の迫力なのか。

 つまり、と比良坂はもう一度繰り返した。

「貴方から比べれば劣っているが――貴方と似た種類の能力を持った人間が、この街に増えている」

「……まさか、としか言いようがないね」

「前例が無い?」

「その通り」

 水生は小さく頷いた。

 竜が人に力を与える事はあっても、与えられた人間が更に力を……など。

 聞いた事が無い。

 しかし前例が無くとも実際それが行われているとしたら――厄介な話だ。

「先日、横川組のお一人とお話する機会を得ましてね。――まぁ、ちょっとお話を伺いましたら、彼女の名前と竜の力なんて言う実にファンタジーなお話を聞きました」

 比良坂が牙を見せて笑う。

 その『お話』とやらを伺った状況が、平和的じゃないのだけはよく分かる笑顔だ。

「秋山と名乗る女から力を貰った、と、横川組の人は仰いましたよ」

「……何かの勘違いだと良いのだけど」

「色々と情報を集めてみましたが、それは間違いの無いようです」

 水生は二度目のため息を零した。

 ――竜の力。

分け与えた力は主と似る。

知り合いが見たのなら一目瞭然だ。気配がよく似ているのだから。

そして、不幸にも、この街には古い知り合いが居た。

 神代 健一郎。日本刀の付喪神。神社に収められていた刀が自力であやかし退治を始め――それを何度か協力したのが知り合ったきっかけだ。

 数少ない、友人と言っても良い知り合い。

 彼からの話であり、同時に自分が根本的な原因となれば、断る事は出来なかった。

 水生は手に持っていた写真を比良坂に示す。

「この写真、貰ってもいいかな」

「どうぞ」

「有難う」

 言って、立ち上がる。「それじゃあ」

 比良坂の視線が不振そうに見上げている。

 水生はその瞳に笑いかける。

「迷惑はかけられないよ。後は、僕が一人で片付ける」

「な」

 声を上げたのは草薙だ。

 慌てた様子で立ち上がる。

「そ、そんな、水生さん、この街初めてで――どうやって調査する気」

「でも、雨が降ってるから平気だよ」

 ブラインドがいまだ下りたままの窓を見る。

 雨音が続いていた。

「この雨は……誰かが降らせている。恐らく、彼女だよ」

 写真を見る。「僕に来いって言うのかな」

「それでも横川組相手に一人じゃあ」

「いいよ。何とかする」

 僕が撒いた種なのだし。

 そう続けて笑っても、でも、と草薙は食い下がる。

「本人がいいと言ってるんだ、そのあたりで下がっておけ、龍王」

 比良坂は既に興味なさそうだ。

 紅茶に口を付けている。

「たもっちゃん、そんな、冷たい。神代のセンセに頼まれたやろ、くれぐれも宜しくって」

「本人が断ったらなくれぐれも何も無いだろ」

「たもっちゃーんっ!!!」

 何だか泣き出しそうな顔の草薙を見て不思議な気持ちになる。

 何がしたいのだろう、この男は。

 水生を心配しているような動作をしているが、初対面の相手にそこまで親身になるのも珍しい。

 理由があるのかと勘繰りたくなる。

「大丈夫。――それじゃあ、ちょっと騒ぎになるかもしれないけど、出来るだけご迷惑掛けないように片付けます」

「頼みますよ」

 比良坂は紅い瞳を細めた。「俺は正直、面倒が嫌いなんで」

 水生は笑って頭を下げる。

 そのまままだ食い下がりそうな草薙にも笑いかけ、部屋を後にした。





 そして。

「――たもっちゃんのド阿呆」

「何で膨れるんだ」

「この街に来たばっかりの人を放っておくなんて酷い。酷過ぎる。鬼。悪魔。人でなし」

「好きに言え」

 だいたい、と、ソファの背もたれに腕を掛ける。「あの男――俺の事、気に入らんと思ってたぞ」

「理由も無く他人を嫌うような人もおらへんよ」

「理由なんて知るか。だいたい、吸血鬼とかそういうのが嫌いなんだろ」

 不死の民はよく嫌われる。

 特に比良坂はハーフだ。

 不死の民からもあまり良い目では見られない。

 なんせ、人との間に生まれた吸血鬼は、吸血鬼を狩る能力を得ると言うし。

 そんな伝説を真っ向から信じ、幼い比良坂を殺せと命じた馬鹿者どもさえも居たと言う。

 嫌われるのには慣れている。

 慣れている。

「たもっちゃんなんて嫌い」

「……おい」

 草薙がでかい図体を縮めてすんすん言っているのは、正直、気持ち悪く――同時に嫌だった。

 もう8年近くも相棒として傍に居るこの人間を、すっかり気に入っていると言うのを認めるのは、物凄く、癪なのだ。

 だから出来る限り冷たい表情で見てやる。

 草薙が立ち上がる。

「ワシ、やっぱり行って来る」

「は?」

「水生さん助けてくる」

「要らないって言ってたろ」

 草薙は比良坂の言葉など聞いていない。さっさと荷物をまとめ、小さなリュックを肩に背負う。

 すたすたとドアまで向かい、ようやくそこで振り返った。

「たもっちゃんのド阿呆のド阿呆」

 べぇ、と舌まで出して草薙はそう言い捨てて部屋を出て行く。

 残された比良坂は、ソファから立ち上がりかけた姿勢で停止。片手は草薙を引き止めるために上がっていた。

「……」

 自分の今の格好を改めて見る。

 ふん、と取り繕うように呟くと、音を立ててソファに座った。

「勝手にしろっ!!!」

 そして、拗ねているとしか見えない顔で横を向いた。





 ビルの入り口で水生は外を見る。

 雨が降っていた。

 手を伸ばし、指先を雨に触れさせる。

 微かに――聞こえた。

 声に近いそれ。

 誰かの、呼び声にも聞こえる。

 水生は瞳を閉じた。それでも声は明瞭にならない。分かるのは、その声がとても自分に近いものだと言う事だ。

 呼んでいるのか、と、思う。

 自分に力を与えた水生を呼び付けてどうする気なのか。

 更に力を望む気なのかと思い付き、苦笑した。

 奪う力などもう水生には無い。

 もう――力など。

「――水生さん!」

 近い呼び声に振り返る。

 指先の水を払わずに振り返った先には、草薙が居た。彼は満面の笑みで駆け寄ってくる。

「やっぱりワシもお付き合いします」

「でも」

「ご遠慮なさらず! 神代のセンセに頼まれてるんです」

 それに、とアニメのキャラクター――竜がよく見ているので覚えている――のキーホルダーが付いた車のキーを差し出した。

「アシがあった方が、便利でしょ?」

「……ご迷惑、掛けると思うよ」

「平気ヘイキ! 幾らでも掛けて下さい」

 草薙は子供のような笑みだ。

 その笑みに、水生は思わず笑う。

 軽く頭を下げた。

「それじゃあ……お願いします」

「了解!」

 草薙は本当に嬉しそうだ。

 笑顔のまま、口を開く。

「それじゃあ、まずどうしましょうか。秋山さんを見かけたって人から話聞くとか――まぁ、そういうのも手かと思いますけ――」

「横川組の本拠地は?」

「………」

 水生の言葉に草薙の笑顔が凍りつく。

 暫くして、ええと、と困ったような声。

「い、一応、情報として知ってますけど……どうする気ですか?」

「彼女がそこに居るのなら、直接行くのが一番早いと思うけど」

「……相手、ヤクザさんやって言いましたよね?」

「聞いたよ」

 草薙は水生を上から下まで眺める。

 不安そうな、顔。

「ま、丸腰やないか」

「武器は持たない主義だからね」

「何かあったらどうするんですかっ!!」

「そう簡単には死なないよ」

 笑って草薙を見る。

「場所さえ教えて貰えるなら一人で行くよ」

「……行きますよ」

「無理しなくとも」

「心配やから。行きます」

 草薙は両手をぐっと握り締めて変な声を上げた。

 奇声。

 どうやらそれが気合を入れている声だと少しの後に気付いた。

「さー、水生さん、行きましょ行きましょ」

 歩き出す草薙は少し進んで首だけで振り返った。

 ちょっとだけ、言い難そうに。

「水生さんって――」

「何?」

「……あーいや、やっぱりイイです」

 行きましょう、と、草薙はもう一度言うと前を向いた。





 表通りを一本入った所に面しているビル。

 此処の一階が横川組の事務所のひとつらしい。

 草薙が知っているのは此処だけだと、申し訳なさそうに伝えられる。

 雨はまだ降り続いているが、車は少し離れた場所に止めてきた。

 ビルを見上げる。

 此処から見る限り、ビルは静かだ。

 正面に立っていると言うのに声を掛けてくる様子も無い。

「――静かだね」

 言いながら水生は動き出す。

 遠慮なく入り口に手を掛けて中へ踏み込んだ。

 草薙はもう何も言わない。

 ツッコミも面倒らしい。

 入ってすぐはよくある事務所のような作りになっていた。

 奥にドアがある。

 その前。

 数人の男が倒れていた。

「おや――先客が居たかな?」

 呟く水生の横を抜けて草薙が動く。

 手身近。ぴくりとも動かぬ男の手を取り、小さく息を吐く。

 安堵の表情。

「生きてます。気ィ失ってるだけや」

「そう」

 短く答え、奥へ向かうドアを開く。

 背後で草薙が「後で救急車呼ぶから。もうちょい待ってや」などと気絶している男たちに声を掛けるのが聞こえたが、特に気にしない。

 ドアを開くと、此処にも男が一人、倒れていた。

 服装を見ると、他の男よりも上の位なのだろうと推測される男。

 そしてその男の横に、女が立っていた。

 長い黒髪を馬の尾のように結い上げた、女。黒いロングスカートに白いブラウス。薄手の黒のカーディガン。モノトーンの色彩の中、唇が薄く紅を塗ったように紅い。

 整った顔立ちの中、切れ長の黒い目が水生を見ている。

 綺麗と言う言葉がよく似合う女だ。

 ただ――その美しさは愛でる為のものではない。

 まるで人を切る為に作られた刃のような、そんな、心惹かれるべきではない美しさなのだ。

 女はゆっくりと構えた。

 その手に日本刀が握られているのに今更気付く。

 女によく似合うと、女が真正面に立つ間もそう考えた。

 水生は動く。

 女――人間だ。これは人間だ。

 ならば力を使えない。

 避けるしか、出来ない。

 女は遠慮しない。

 水生を倒すために刃を大きく振るう。

 胴へ、目掛けて。

「す――ストォオオオオップっ!!!」

 馬鹿のように大きな声が、水生の、そして、女の動きを止めた。

 女は細い瞳を少しだけ見開いて水生を――いや、その水生を押しのけて前に出てきた草薙を見やる。

 二人の間に入って、草薙は大きく両腕を広げて言った。

「ストップ、お二人ともストップ!! 後生ですからちょいと待ってっ!!」

 草薙さん、と水生が呼ぶと同時に、女が低い声で言った。

「……草薙さん、どうして、こちらに?」

 水生の視線が女の顔に移る。

 女も水生を見た。

「……知り合い?」

 水生の問いに草薙は大きく何度も頷いた。

「この街の――始末人の代表やっている人です」

「月薙 静と申します」

 女は床に落ちていた鞘を拾い上げ、その中に日本刀を返しながら、目礼もせずにそう言った。

 始末人。

 狩人。そうとも呼ばれる、人の身でありながら、あやかしを狩る者たちだ。

 そういう存在が居るのは知っていた。

 白桜荘のある街にも始末人たちが住んでいるのも知っている。

 しかし――どう見ても目前の女は20代後半。若過ぎる気がした。

「何か」

「……いえ」

 女――月薙との会話は少ない。

 どうやら元々口数の少ない人間のようだ。

 草薙が人懐こい笑みを月薙に向ける。

「静さん、どうして此処に?」

「最近、異形を使ってのこちらの行動が目に余りましたので、潰しに参りました」

 まるで買い物か何かに来たような口調だった。

 水生は周囲を見回す。

「潰し終わったみたいだね」

「しかし此処は人間しか居ません。――情報もお持ちではないようです」

「そう……なんだ」

「腕を一本、折らせて頂きました。それでも何も仰りません」

 さらりと怖い事を言ってのける。

 床に倒れた男の右腕を見た。言われてみれば奇妙な方向に捻じ曲がっている。これは――元に戻らないかもしれない。

刃物のように綺麗な女の顔。

月薙の表情はぴくりとも動かない。

 綺麗なままだ。

「草薙さん。先ほどの質問に答えて頂いていません。――なぜこちらに?」

 それから。

 水生を見て。

「こちらの――方は? 人ではないようですが」

「順番に話す。話しますけども――」

 草薙は周囲を見回した。

「まず、此処からぁ、出ません?」

 それには同意だった。

 




 ビルを出た後に公衆電話から救急車を呼んだ。

 そんな事をしなくてもいいのに、と水生は思う。月薙はどう思っているのやら。表情は読み取れない。

 近くの喫茶店。

 四人がけのテーブルに三人。月薙が一人、そして向かい側の窓際に草薙、通路側に水生が座った。

 店員が取りに来た注文に、草薙が確認しつつ三人分纏め、伝える。

 そこでようやく話が開始した。

 草薙が主にまとめて話す。

 水生の名。水生の目的――竜玉を与えられた女、そして、その女の新たな力。その女が属している横川組。

 話を終えて草薙は途中届いたコーヒーを一口飲んで息を吐く。

 水生は横で内心、感心していた。話は非常に分かり易かった。この草薙と言う男、ただの騒がしいだけの人間ではないようだ。

「お話は分かりました」

 膝の上で手を揃えたまま、月薙が口を開く。

 黒い瞳をまっすぐに水生を向けて。

「これからどうなさるおつもりですか」

「横川組を徹底的に当たって――最終的には竜玉を取り戻したい」

「ならば迷わず戦われた方が宜しいかと思います」

「……」

 月薙は少しだけ首を傾げた。

 表情は無表情のままだ。

 だが、角度が変わり、疑問の表情に見えた。

「私が刀を向けた際、私を倒す気はありませんでしたでしょう?」

「……そう、だね」

「戦わねば勝てません」

「だけど人に向ける武器は無い」

「人は貴方を殺す力を持っています」

 たとえ、と、月薙は言う。「神であれ、人は殺す事が出来る世です」

「……」

 そこで月薙は表情を変えた。

 瞳を細める。口角を上げる。

 笑ったのだと理解するのに暫し。

「人を倒す力がご必要でしたら、私がお手伝い致します」

「し、静さん?!」

 草薙が声を出した。

 驚いたようだ。

「そ――その、良いんですか。ワシらとしてはとても助かりますが」

「私は一日も早く、あの組織に属しているあやかしたちを倒したいのです。目的は同じ。ならば協力しあった方が良いかと思います」

「……何かありました?」

「私の恋人が、あの組織に属しているあやかしに傷付けられました」

 月薙はもう一度笑う。

 何処か、子供のような、笑み。

「ほんのかすり傷で、彼は勿論無事です。でも私は許せません。――ただの、復讐です」

 月薙は水生を見る。

 刃物の印象は薄れていた。

 此処に居るのは、女だ。

 人の女だ。

「お役に立てると思います。如何でしょうか」

「頼りっぱなしになるかもしれませんよ」

「喜んで」

「では」

 お願いします、と水生は頭を下げる。

 はい、と月薙は応じるように頭を下げ返した。

 長い黒髪がさらさらと揺れる。

 礼を終え、頭を上げた月薙は壁の時計を見た。

「あの組織の関係を探ってみます。お答えは明日になるかと思います。どちらに連絡すれば宜しいですか」

「ああ、ワシの携帯に」

「お二人はご一緒にいらっしゃいますか?」

 そこで草薙は妙な顔をした。

 酷く気まずそうな顔だ。

「いや……本来、水生さんにはワシの部屋に泊まって貰う予定やったんやけどぉ……」

「……?」

「たもっちゃんと喧嘩して出てきたから、家に戻り難いんです……」

「適当なビジネスホテルに泊まるつもりだったから構わないけど」

 部屋を用意してくれるとは聞いていたが、そこまで甘えるつもりは元々無かった。

 草薙は月薙を見た。

「って事で、ホテルが巧く見つかれば同じ場所かもしれません」

「うちにいらっしゃいますか」

 月薙は何事も無いように言う。「古い家ですが部屋数だけはあります。お二人をお泊めするのに何も問題は無いと思います」

「それは――」

 流石に、と思い断ろうとする水生の横で、草薙が立ち上がった。

 テーブル越しに月薙の両手を握り締め、満面の笑み。

「宜しくお願い致しますー!!」

「……」

 今晩の宿が決まった瞬間だった。





 月薙の家は安王市の中でも、古くからの町並みが残っている町内にあった。

 安王市が『市』になる前から存在していた箇所。

 その中でも一際大きい家が彼女の家である。

 案内されたのは離れの一室。二人でお使い下さい、と言われた部屋は広かった。草薙は「修学旅行みたいや」と上機嫌でごろごろしているが、水生はそれを耳で聞きながら、縁側で庭を見ていた。

 庭と――その上の月を。

 雨は今は止んでいる。

 此処は月が強い。

 とても大きい月が肌を照らしている。

 心地良い。

 月に心騒がせる種族ではないが、それでもそう思える。

「水生さんも、月が好き?」

 敷いてもらった布団の上でうつ伏せに寝転んだ草薙は、頬杖を付きつつそう声を掛けてきた。

 水生は振り返らず曖昧に笑う。

 草薙は返答を待たずに言葉を続けた。

「たもっちゃんも月が好きなんや。一晩中月見てる事もある」

「――吸血鬼と仲が良い人間なんて珍しいね」

「そうかぁ?」

 草薙は不思議そうだ。「皆損しとるなぁ」

「言っちゃ悪いけど――喰う側と喰われる側の関係だから」

「でも、違うからってそれだけでトモダチになれへんと思ってるのやったら、皆、損しとる」

 振り返る。

 草薙の顔を見た。

「トモダチ、か」

「トモダチ。水生さんは、人間のトモダチおらへんの?」

「居たよ。――だから、死んだ時に哀しくて、竜玉あげて……でもそのせいで、人間に殺された」

 人じゃないと思われて、殺された。

 もう、何年も前の話だ。

 草薙が何だか情けない表情を作った。

 それを見て笑う。

「気にしないで。元々死んでいた人間を生きながらせた僕が悪いのだから」

 水生さん、と草薙が呼んで。

 布団の上にきちんと正座する。

「人と――-人以外の何かの関係なんて、悪い終わり方だけじゃあ、ないって、ワシ、そう思います」

「……うん」

 思い出したのは、基樹と幽霊猫の小鉄だ。

 あの二人の関係。

 人とあやかし。ずっと一緒に居られる訳が無い。

 でも、やはり、水生は望むのだ。

 あの二人がずっと一緒に居られますように。

 そして、その二人を見ていられますように。

 祈ってしまうのだ。

 罪深い事に。

 草薙を見た。

 この青年は、どうなのだろう。

 人とあやかし。

 願ってしまう。

 祈ってしまう。

 願いを、口に、する。

「――草薙君ならきっと大丈夫な気がするよ」

「へへ」

 水生の言葉に草薙は照れくさそうに、それでも嬉しそうに笑った。





 やがて草薙は眠りに付き、水生は相変わらず外を眺める。

「――眠れませんか」

 音も立てずに目の前の庭に着物姿の月薙が現れる。

 彼女は水生の前に立つと軽く頭を下げた。

「ろくなおもてなしも出来ずに申し訳ありません」

「いえ。ご飯もお風呂も――寝床も頂いて。十分です」

「そうならよかったです」

 月薙の表情は殆ど変わらない。

 ただ、水生越しに部屋の中――草薙が、二人分の布団の中央に大の字になって寝ている――を見て微かに笑った。

「横、失礼しても宜しいですか」

「ああ、どうぞ」

 月薙は水生の横に腰掛ける。

 真似るように月を見上げた。

 二人、無言で月を見上げる。

 ――みゃあ、と猫の声がした。

 その声には聞き覚えがある。

「……小鉄ちゃん?」

 水生は小さく呟いた。

 横で月薙が小さく舌を鳴らした。猫を呼ぶ、音。

 庭の中から、一匹のキジ猫が現れる。

 みゃあ、と猫がもう一度鳴いた。

 小鉄の声に似ていたが、これは生きている猫だ。

 猫は月薙の足に擦り寄る。彼女は笑って猫を抱き上げた。

 それを見て、水生は笑った。

「幽霊猫かと思ったよ」

「幽霊……猫?」

 初めて聞く言葉だったのだろう。ゆっくりと復唱された。

 水生は自然と浮かぶ笑みのまま、小鉄を――基樹を思い出した。

「僕の住んでいるアパートに、人間の男の子が居て、その子が飼っている猫が幽霊なんだ」

「幽霊?」

「もうあやかしになりつつあるけどね」

 その猫を、男の子はとても可愛がっている。

 誰よりも大切にしている。

 そう伝えると、月薙は抱き上げた猫を愛しげに撫でた。

「素敵です」

「そう思ってくれる?」

「人と、あやかしが共に生きる世は、とても素敵だと思います」

 私の、と、月薙は笑みのまま言葉を続ける。

「私の恋人は、あやかしです」

「……」

 始末人を統べる存在の恋人が、人外。

 それは水生は思う以上の意味を持つ。

 不利な。危険な、意味を持つ。

「私は彼と共に生きたい。彼と共に在りたい。もし私が死んだとしても――可能なら、その猫のように人以外の存在になったとしても、傍に居たいのです」

 切ないぐらいの綺麗な表情で月薙は言う。

 猫を撫でる指先は優しい。

 冷たい、刃物のような表情の裏側。彼女はとても優しいものを持っている。

 そして、それを与えているのが、彼女の恋人なのだろうと、水生は想像した。

「この街に幽霊猫は居ません。居ませんが――どんな事になろうとも、人と共に在りたいと願うあやかしはたくさん居ます」

「……そうか」

 水生は少しだけ笑う。

 笑って――言葉を迷いながら、やっぱり、一番最初に思い付いた言葉を、続けた。

「何だか……嬉しいような、気がする」

 他人事なのだけど。

 月を見上げる。

「僕はもう――正直、人と生きる事を諦めている。でも、僕が諦めたそれを、叶えようと頑張っている子たちが居るのは……嬉しいな」

「諦めるのは早いのではありませんか?」

「そうかな」

 そうだと良いのだけど。

 水生は月から視線を外さずにそう答えた。

 そして――二人と一匹でもう少し、月を見上げていた。

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