第8話・幽霊猫と黒い紳士

「――おはようございまーす」

 俺は一階の台所に顔を出す。

 朝はまだ早い。

 新聞を広げている竜さんと、台所と食堂を行ったり来たりしている茜さんの姿があるだけだ。

「おお、五郎、今朝は早いな」

「そうみたいですね」

 起きると皆が揃っていてそろそろ食事、ってのがいつものパターンだった。

 だけど今朝は竜さん以外誰も起きてない。

 ……確かに朝早いものなぁ。

「あ、基樹さん、おはようございます」

 茜さんが俺に気付いて笑顔で挨拶してくる。

 その笑顔に挨拶を返しながら、やはりまだ早かったのを実感した。

「俺、ちょっと散歩してきます」

「あら、そう?」

 でも丁度いいわ、と茜さんが笑う。「戻った頃にはご飯、出来てますからね」

「はい」

 手作りの朝食ってのはもう最高に幸せだ。

 特に茜さんは料理が本当に上手だから。

 今日も一日頑張れそうな気になってくる。

「小鉄、行くよ」

 にゃん、と俺の飼い猫、幽霊猫の小鉄が可愛い声を上げる。

 付いてくる気配を感じながら、俺は玄関のドアを開けた。

 そして、その人物を見かけたのだ。

 黒ずくめの、長身の男性。

 そしてその服装を認識し――俺は大慌てでドアを閉めた。

「……どうしたぁ?」

 竜さんが新聞を手にしたまま、玄関を覗き込んでくる。

 玄関のドアを背に、俺は困り果てた気分で言った。

「か――仮装行列みたいな格好した人が、門のところに立ってます」

 そうとしか、言いようがなかった。





『幽霊猫と黒い紳士』



 

「仮装行列?」

「な、何でしょうか、あれ」

「見てないものはどうとも言えねぇよ」

 言いながら、竜さんは一度食堂に引っ込んだ。

 そして出てきた時は、手に紫色の袋に入った刀を持っていた。俺の言葉を信じて用心してくれているらしい。

 それでも竜さんはまったく警戒などしてないように、遠慮なく玄関のドアを開いた。

 まだ少しだけ薄暗い朝の風景。

 大きな桜の木の向こう、シンプルな門。

 その横に、それは立っていた。

 長身の男性。

 タキシードを着ている。礼服の見本から抜け出してきたような、きっちりとしたタキシード。現代日本の朝から見かけるようなものじゃない。

 その人の横には遠めでも古びているのがよく分かる、巨大なトランクがひとつ。人間の死体なら畳んで丸ごと入りそうだ。

 握りの部分がきらきらと光る杖を片手に、何だか辺りを見回している。

「り、竜さん、何処の外人さんでしょうか、あの人」

「あー」

 悪ィ、と竜さんは玄関のドアを閉めつつ、俺を見た。

 台詞に反して、顔はあんまり申し訳なさそうじゃない。

「あれ、此処の住人」

「…………」

「四号室の、水鳥川」

「年に何度しか帰ってこないけど、部屋借りてるって言う――」

「そう、そいつ」

 丸々太った金持ちそうな中年男性を想像していたのだがまったく違った。

 ――ふわり、と。

 音も無く玄関のドアが開いた。

 嬉しそうな、よく通る低い声が聞こえた。

「こんな朝早くにお出迎えとは嬉しいね、シンノスケ」

「出迎えしたくてした訳じゃねぇよ、オッサン」

 玄関のドアを開けて、その――水鳥川さんが立っていた。

 手足が長い長身におろしたてのようにも見えるタキシード。後ろに撫で付けた銀髪に綺麗に刈りそろえられた髭。

 目の色は真紅。片方の目にはモノクルが嵌っていた。

 彫りの深い整った顔立ち。

 服装と相まって、映画俳優だと言われても信じたかもしれない。

 吸血鬼とか、悪魔の役ならはまり役だ。

「失礼」

 水鳥川さんは俺を見て笑う。「こちらはどなたかな?」

「ああ、新入り。八号室の――五郎」

「ゴロー?」

「違いますっ!! 基樹です! 大野 基樹!」

「ああ、シンノスケの悪い癖が出てるのだね。了解した、モトキ」

 ……この人、本当に此処の住人だ。

 確信する。

「オッサン、荷物は? 運んでやろうか?」

「有難う。しかし、これひとつだ」

 いつの間にか玄関近くまで運んである大型トランク。

 近くで見ると古いながらもしっかりとしたもので、アンティーク作品と言っても値が付きそうな代物だ。

 水鳥川さんは杖――きらきら光っていると思ったのは、握りの部分が鷲か何かをモチーフにした彫刻になっているからだ――を器用に一回転。中央部分を持ったそれで、トランクの端を一度、叩いた。

 こん、と。

軽い音をひとつ残して、トランクが消えた。

「………」

 手品。

 ……う、うん、そういう事にしておこう。

 みゃあ、と。

 いつの間にか寄って来た小鉄が、俺の足に擦り寄る。

「あ、ああ、水鳥川さん、この子は俺の飼い猫で小鉄って――」

 きっとこの人も小鉄が見れるのだろう。

 だから「可愛い猫だ」とか言う反応を期待していたのに、水鳥川さんは紅い目をまん丸に見開いて俺の足元を見ている。

 ……あ、あれ?

 ひょっとしたら見れない?

 いや、見れない反応じゃない。

 ゆ、幽霊見るの初めてとか。

 あれ?

「……しまった」

 ぽつり、と竜さんが呟く。

 しまった??

 何が?

 竜さんに問おうとした俺の横で、ふわりと布地が動く。

 それは水鳥川さんが腕にかけていたコートが揺れるものだった。

 水鳥川さんは俺の足元に跪いていた。

 そりゃもう、思わず動きも止まるほど、優雅、と言う言葉がこれ以上ってないってほど似合う姿で。

 水鳥川さんは嬉しそうに俺の足元を見ている。

 つまり、小鉄。

「初めまして、レディ。私は水鳥川と申します」

 白手袋に包まれた手を差し出して。

「レディ、宜しければ、お名前を。――貴女を名で呼ぶ幸福を、私に与えて下さいませんか」

 ぎりぎり、と。

 俺は竜さんに視線を戻す。

 遠慮はしない。

 水鳥川さんを指で指し示す。

「何ですか、このオッサン」

「猫好き」

 竜さんは少し考えて、言葉を続ける。

「猫オタク? 猫マニア? 猫変態?」

 どれにしてもヤバイ。

 しかもかなり。

「レディ?」

 水鳥川さんが動く。

 差し出された手が。

 ふみゃ、と小鉄が何だか不安そうに鳴いた。

 ぶち、と。

 頭の中で、何かが切れる。

「こ――」

 一歩踏み出す。

 竜さんが俺を止める為にか、視線の端で何かやっていたが、完全無視。

「小鉄に触るんじゃねぇっ!!!」

 俺は思い切り、水鳥川さんの顔面に蹴りを入れていた。

 ごり、と。人体ではありえない、もっと堅い何かを蹴り飛ばす感覚がつま先から伝わる。

 ――玄関のドアに激突する水鳥川さんの音を聞いて、茜さんがようやく顔を出した。

「あら」

 口元に手を当てて、驚きの声。

「水鳥川さん、いつ帰られたんですか?」

 玄関ドアの前で屍状態になっているのは気にしないらしい。

 俺は足元の小鉄に手を差し出す。慌てて小鉄が飛びついてくる気配。

 竜さんは刀で水鳥川さんを突き――無言で肩をすくめた。

 あら、と茜さんはもう一度声を出す。

「なら、先にご飯にしましょう?」





 しかし朝食の席には水鳥川さんは復活していた。

 食卓テーブルに付いて、割れてしまったモノクルを手に持って眺めている。

 ……わ、割っちゃったか。

 そりゃあ顔面に蹴り入れちゃったものなぁ。

 小鉄に近寄る変人を許す訳には行かないけど、一言謝ろう。

「あ――」

 あの、と声を出した俺の前で、水鳥川さんは人差し指で手に持ったモノクルを軽く弾いた。

 途端、モノクルは元通り。

「ん? どうかしたかね、モトキ」

「いえ、なんでもないです」

 器用にモノクルを嵌めつつ、こちらに笑顔で声を掛けてくる水鳥川さんに、何を言っていいものか分からなくなっていた。

「水鳥川さん、お食事は」

「ああ、結構。既に済ませてきましたよ、アカネ」

「ご夕食までいらっしゃいます?」

「そうだね」

 水鳥川さんはゆったりと笑った。「可愛らしいレディも居る事だ。数日はゆっくりとさせて頂こう」

「即刻消えて欲しいです」

「ハハハハ」

 俺の一言を冗談だと思ったのか綺麗に笑い飛ばされた。

 竜さんは無言で朝食を食べている。

 関わりたくない、と思っているのかもしれない。

「――所で、クロカワ殿はどちらに?」

「水生さんは今、旅行中ですよ」

 え、と俺の口から言葉が漏れた。

 初耳だ。

 黒川さんは外出するのも珍しい。この前の温泉旅行が俺の知っている一番長い外出だ。

 ……温泉旅行の事を思い出して、ちらり、と俺の意識に触れるもの。

 つい、無意識にも部屋の隅を見る。

 きっと、また水に濡れた姿でうずくまっているのだろう。

 俺の傍に、ずっと。

 ――上目遣いの、恨めしそうな視線を、俺は想像する。

 俺がそんな幻想を見ている間にも会話が進んでいた。

「旅行中? それは珍しい。いったいどちらに?」

「安王市へ。古い知り合いに頼まれたみたいで断われなかったようです」

 ふむ、と水鳥川さんは小さな声を出す。

 顎を撫でながら何だか複雑な顔。

「挨拶はしておきたかったのだがね。――まぁ仕方ない。どうやら我々は相容れない存在のようだし、それはそれで幸いと言うべきか」

「白桜荘の中で争いごとは禁止ですよ」

 茜さんは真っ直ぐに水鳥川さんを見て言った。

 口元に笑み。

 だけど、瞳は怖いぐらい真剣だった。

 水鳥川さんはオーバーに肩を竦めた。

「ああ、知っているよ、アカネ。流石の私も、契約者も陣も無い状態でクロカワ殿と戦う気にはならない」

 第一、と。「此処はアカネのテリトリーだしね」

 茜さんは水鳥川さんの台詞に何かを満足したようだ。

 にこり、と普段どおりの笑顔。

 ――にゃあ、と小鉄が鳴いて、俺の膝の上に飛び乗ってきた。

「おお、レディ、何か御用でしょうか」

 すぐさま嬉しそうに水鳥川さんが声を出す。

 俺は自分が出来る限りの凶悪な視線で睨み付けてやる。

「……小鉄に半径一メートル以上近付かないで下さいよ」

「了解。分かった、誓おう」

 両手を挙げて水鳥川さんが頷く。

「君の赦し無く、レディには触れない。如何かな」

 この室内に居る限り、一メートル以内に近付かない、と言うのは難しいだろう。

 俺は渋々頷いた。

「――日本茶ですけど」

 茜さんが俺たちの前に湯飲みを差し出してくれる。

 竜さんは受け取った湯飲みを手にテレビが見える方向に向きを直した。

 テレビ。

 いつもは見覚えの無い、番組。

「あっ!!!」

 しまった、時間っ!!

 そろそろ出ないと仕事に間に合わない。

「スイマセン、出かけます。竜さん、水鳥川さんが小鉄に変態行為を実行しないように見張っていて下さいっ!!」

 おお、と答える竜さんと同時に、苦笑する水鳥川さん。

「モトキ、私は一度した誓いを決して破らないよ」

 苦笑……と言うよりも寂しそうな笑顔に見えた。

 だから、何だけど。

 ……俺は、水鳥川さんを信じる事にした。

「分かりました」

 行ってきます、と膝上の小鉄に降りるように促し、俺は仕事へと向かった。





 そして夕方。

 仕事を終えた俺は、白桜荘近くのたいやき屋さんの前で足を止めていた。

 たまには甘いものも良い。

 どうせ買うならみんなの分も、と考える。

 メンバーを数えて――水鳥川さんも食べるかな、と数に入れた。

「――有難うございましたぁ」

 俺と同じぐらいの年齢の、明るい兄ちゃんの挨拶に軽く頭を下げて、家路を急ぐ。

 距離はさほどない。

 あと歩いて五分ぐらい。

 ゆっくり歩けばもう少し掛かるだろう。

 たいやきの入った袋を抱えて、歩く。

 そして、俺は気付いた。

 ――妙に、猫が多い。

 塀の上。

 道の端。

 木の陰。

 あちらこちらに大人の猫が、子供の猫が。

「……?」

 夜に猫の集会と言うのがあるらしいが。

 今はまだ夕方。

 どう見ても飼い猫の長毛の子が尾を揺らしながら塀の上を歩くのを見ながら、帰宅する。

 帰宅し――門の周辺に五匹ばかり猫を見て、何となく原因を悟った。

 尾を立てて歩いていく白い猫の後を追う。猫は真っ直ぐ裏庭に歩いていった。

 塀に囲まれた裏庭。古びたベンチがふたつ置かれ、足を休める事も出来る場所になっている。

 此処が病院として使用されていた頃、庭に出られる患者は表の桜や、裏庭の緑に癒されたのだろう。

 小さいながらも居心地の良いスペースだ。

 俺の部屋からも裏庭は見える。

 来たのは初めてだけど、綺麗に掃除されているのが分かった。

 秋を迎えようとする季節。寂しくすら感じられる色合いが多い庭の中、古びたベンチに水鳥川さんが腰掛けていた。

 朝と同じ服装。

 ただし、タキシードの上にコートを着ている。銀の握りの杖はベンチに立てかけてあった。

 そして彼の周辺には、十匹ほどの猫が集まっていた。

 猫同士、微妙な距離をとりつつ、それでも水鳥川さんから大きく離れない。

 順番でもあるのか。一匹がふらりと離れると、新たな一匹がその場に納まる。

 水鳥川さんは笑顔だ。

 笑顔で、猫たちに挨拶を述べている。

「――貴方もお変わりなく。私? 私ですかな。何、見ての通り」

 胸に白手袋の手を当てて笑う。

「ああ、レディ。お待たせして申し訳ありません。宜しければ、お手を」

 ベンチにまで侵入している大きな三毛猫が求めに応じて右前足を差し出す。水鳥川さんは優雅にその猫の手を取った。

 そのまま身体を屈めて猫の前足に口付ける。

 長身の水鳥川さんがそれを行うのはとても窮屈そうで、何だか物凄く不思議なものを見ている気になった。

 ……いや、実際見てるんだろうなぁ。

 小さな猫がベンチに上がって、まだ三毛猫と何やら話している水鳥川さんの背を鼻面で突く。

 水鳥川さんが顔を上げて、そしてようやく俺に気付いた。

「おおモトキ。何か用かな」

 三毛猫にもう一度笑いかけて俺に向き直る。

 用と言うか。

 ゆっくりと辺りを見回した。

「猫、沢山ですね」

「ああ、喜ばしい事に」

 嬉しそうに両腕を広げる。

 オーバーアクションにも猫は驚かない。先ほど背中を突いた小さな猫が、水鳥川さんの膝に乗って身体を丸めた。

 それを愛しそうに見やる視線は優しい。

「この少年とは初対面ではあるが――どうやら私を認めてくれるようだ。嬉しいものだね」

「スイマセン、猫の性別を一目で区別出来るんですか?」

「何、君も初対面で人間相手ならば性別の判断ぐらい可能だろう」

 人間ならば可能です。

 でも猫は流石に無理。普通無理。

 水鳥川さんは小さな猫の頬辺りを撫でてた。

 気付くと俺の周辺にも猫が集まっていた。触れてはこないが、物凄く近距離。

 ひょっとしなくてもお邪魔かもしれない。

 俺はたいやきの袋を取り出した。

「良かったら、おひとつ」

「ん?」

 袋を差し出すと、水鳥川さんは袋の中を覗き込んだ。

 不思議そうな顔をしている。

 ……日本語達者でも、外人さんはたいやきなんて知らないかな。

 よく分からないような顔をして、指先でたいやきをつまみ出す。

「菓子、かな?」

「焼き菓子、みたいなものです。中身あんこ」

「ふむ。――しかし、これを受け取っても私が君に渡すべき対価が存在しない」

 変な台詞に思わず噴出す。

 俺は空いた手を左右に振って言った。

「いいですよ、お礼なんて」

「しかし」

「いいんです。食べて下さいよ。――それじゃ」

 皆まで言わせず、俺はそれじゃあと歩き出す。

 立ち上がろうとしてまで水鳥川さんは俺を引きとめようとしたけど、膝の上の猫が邪魔で立ち上がれない。

 歩き出してからちょっと振り返ると、困ったようにたいやきを見ている。

 ……苦手だったかな。

 そう思ったけど、頭からぱくりと口にした。

 不味そうじゃない、な。

 ならいいや。

 そう思って俺は前を向いた。





 たいやきは茜さんに預けた。これで皆に行き渡るだろう。

 此処には何人もの人間が住んでいるが、朝から一度も会わない事もあった。黒川さんは雨が降らないと出てこないし、小夜さんはふらりと数日間姿を消したりする。まゆちゃんも仕事が入ると数日間部屋から出こなかったりだしなぁ。

 茜さんは常に一階に居るし、竜さんもだいたい自室よりも一階に居る。

 この二人ならば確実に会えるんだけど、他の人に関しては、正直、会えるかどうかは難しい。

 だから、渡したいものがあると茜さんに預けるのが普通になっていた。

「――黒川さん、いつ帰ってくるんですか?」

「出かけには二三日で帰ってくるとは言っていたけど」

 茜さんは曖昧に言う。

 俺の前にたいやきが乗った皿と緑茶が満たされた湯飲みを出しながら。

「旅行なんて珍しいですよね」

「そうね。何年ぶりかしら」

 茜さんは俺の向かい側の席に座る。

 大きな食卓テーブルを二人で囲んだ。

 何故か茜さんは俺を見て微笑む。

 その顔が凄く優しいものだから――俺は湯飲みに口を付けたまま戸惑った。

「何ですか?」

 恐る恐る問うてみる。

 ううん、と茜さんが笑って、言った。

「基樹さんは優しい人だな、って思って」

「優しくななんて無いですよ」

 俺は視線を外す。

 多分、茜さんも見えているのだろう。

「茜さんも見えているんでしょう?」

「その子の事?」

 視線が俺の背後を見る。

 水浸しでうずくまる子供。

「でもその子は何も出来ないわ」

「みたいですね。黒川さんにも言われました」

 俺は笑う。

 自分でも嫌になる笑顔だった。

 その笑顔を見て、茜さんは一瞬哀しそうな顔になる。

 でも――すぐさま笑った。

「あのね……基樹さん、私ってたいした力を持ってないの」

 テーブルの上で手を組んで、困ったように続ける。

「竜さんみたいに敵を倒したり、水生さんみたいに雨を降らせたりなんて出来ないの。勿論、小夜さんみたいに封印なんて出来ないし、まゆちゃんみたいに形も与えてあげられない。水鳥川さんみたいに人の力になる事も出来ない」

 それでも、と。

「でも、この土地を守る事は出来るの。この土地に嫌な人や悪いものが立ち入らないようには、出来るの」

 ――ふと思い出す。

 以前、拾った子猫の無事を確認する為に、男の子が入り込んだ時。

 悪戯か目的かと問い掛けた千葉さんに、妙に強く竜さんが「此処で悪戯出来るやつは居ない」と断言したのを思い出す。

 それはこういう意味だったのだろうか。

「私が守っている限り、悪いものは此処に立ち入れないの。だから――基樹さんは悪い人じゃないの。大丈夫。私が保証します」

「茜さん」

「安心して。貴方は大丈夫」

 だから、と茜さんは柔らかく笑った。

「だから――そんな哀しい笑顔はしないで下さい。きっと、皆が哀しむから」

「は――はい」

 俺は茜さんを見て頷いた。

 茜さんは本当に優しい顔で笑う。

「小鉄ちゃんも心配するわよ」

「それは一大事です」

「基樹さんには小鉄ちゃんの名前を出すのが一番ね」

 くすくすと笑う茜さん。

 笑いながら立ち上がる。

「さぁ、じゃあ晩御飯の用意してきます。基樹さんはゆっくりお茶をしていてね」

「はい」

 手伝うのは禁止。キッチンは茜さんの聖域とも戦場とも言える場所。

 そういうルールだ。

 俺は黙ってお茶を飲むことにした。

 ……そういえば小鉄がお迎えに来ないな。

「茜さん」

 キッチンに向かって歩き出した茜さんを呼び止める。

「小鉄、どうしました?」

「竜さんの部屋に居るんじゃないかしら? 基樹さんの言いつけを守って、ずっと竜さんと一緒に居たから」

「ああ、分かりました」

 たいやき報告ついでに部屋に行ってみるか。

 湯飲みのお茶を飲み干して、俺は二階に行ってみる事にした。

 

 


 竜さんの部屋は一番手前の一号室。

 ドアをノックしながら声を出した。

「竜さーん、小鉄居ませんかー」

 竜さんの返事を待つまでもなかった。

 みゃ、みゃ、みゃ、と可愛い声がドアの向こうから。

 俺の声に反応した小鉄だ。

 ……小鉄は幽霊でありながら、壁抜けなどが一切出来ない。

 出来たら便利なんだろうけどなぁ。

「――五郎かぁ?」

「そうです」

「鍵開いてるぞ」

「はい」

 失礼します、とドアを開く。

 そう言えば、竜さんの部屋に入るのは初めてだ。

 元病院と言う事もあって、床は基本的にビニールのような素材――クッションフロアとか呼ぶらしい――なのだが、竜さんの部屋はその上に畳が引いてあった。

 ちなみに俺の部屋は絨毯にしている。畳も好きなのだけど、絨毯の方が安かったので。

 部屋の隅には綺麗に畳まれた布団。それをクッション代わり寄りかかって、竜さんは一階から持ってきた新聞を読んでいた。

 にゃあ、と可愛い声がして俺の足元に擦り寄ってくる気配。

「小鉄」

 名を呼ぶ。

 ごろごろと喉を鳴らす気配が伝わってくる。

 うん、何事も無かったようだ。

「有難うございます。一日、見て貰っちゃって」

「別にいいぜ。何もしてないし」

 新聞を読んだまま竜さんは答える。

 俺は改めて竜さんの部屋を見回した。

 布団と、箪笥。

 以上。

「シンプルな部屋ですね」

「うん? ああ、あんまり物に執着無くてな」

 嘘だ。あの変な文字のシャツは絶対に本人が執着して集めている。

 ちなみに今は『愛染明王』。

 …………本当、何処で買ってるんだろ。

 俺は箪笥の中を開いてみたい誘惑に激しくかられる。

「たいやき、買って来てあるんです。食べません? 晩御飯までまだ時間あるらしいし」

「ん、食べる」

 即答。

 新聞を器用に片手で丸め、竜さんが立ち上がった。新聞と同じ手には刀の入った袋。

 俺はそれを示し、言った。

「いつも持ってますね」

「ああ、これ」

 軽く、振る。「身体から離せねぇの」

「………」

「せいぜい離せて数メートルだな。それ以上は無理だ」

「竜さんの電池か何かですか」

「俺は機械仕掛けのおもちゃか」

 竜さんは顔を顰めた。

 刀を、見る。

「俺が傍に居ないと泣きやがるんだよ」

「呪われてませんか、それ」

「さぁな」

 苦笑。

 もう片方の手で、袋越しに刀を軽く叩く。

「骨を削って作られた刃だ。呪われているかもしれねぇな」

 凄い事を聞いた気がする。

 俺も凄い顔をしていたのだろう。

 竜さんが口元だけで笑った。

「そんな妙な顔をするんじゃねぇよ。俺の肉親の骨だ」

「……」

「ま、気にすんな。――色々とな」

 行くぞ、と肩を叩かれる。

 竜さんが先に歩き出す。

 みゃあ、と小鉄が鳴いて俺を促した。

 うん、とひとつ頷いて。

 俺はようやく歩き出す。




 茜さんの料理の手際のよさを忘れていた俺は、結局、たいやきを食後のデザートにする事になった。

 勿論、竜さんも。

 夕飯には小夜さんも現れた。

 たいやきがあると言うと、嬉しそうに笑ってくれる。

 もう時間も過ぎて温めて食べないとならないけど、喜んでくれるならいいや。

 ご飯も始まった頃に水鳥川さんが手にコートを持って戻ってきた。

「おお、サヨ、お久しぶりですな」

 水鳥川さんは小夜さんの横に腰掛ける。小夜さんは笑顔で軽く頭を下げた。

 猫との再会とは違って、水鳥川さんの挨拶はその程度だった。

 ……俺は足元で牛乳を飲んでいる小鉄へと視線を送る。見えないけどぴちゃぴちゃと水音がするので間違いは無い。

 大丈夫。まだ狙われてない。

 食事中は雑談。

 本当に何処にでもあるような会話。

 小夜さんは一言も話さないけどにこにこと聞いている。

 食事も終わる頃、水鳥川さんが俺を呼んだ。

「これから、時間はあるかね?」

「大丈夫ですけど」

「なら」

 指で示すは外。「月見でも、いかがかな」

 今宵の月は良い月だと、笑う。

 確かに今日は満月。

 綺麗な月だとは思うが。

「先ほど頂いた菓子の対価を支払わねばならないし。お付き合い頂ければ幸いだ」

「お礼なんていいですよ」

 俺はそう言うが、つん、と俺の横に座っていた茜さんが脇を突いてくる。

 見れば、茜さんは小さく頷いた。

「水鳥川さんはそういうルールの人なの。与えられたら、与えなきゃならない。そういうルール」

「そういう事だ。菓子ひとつと言えども、誓いは守らねばならないのだよ、モトキ」

 ルール。

 皆色々のルールを持って生きている。

 よく分からないが、そういう事なのだろう。

 ……小夜さんもそういうルールを持っているのかな。

 水鳥川さんの横で、小夜さんは瞳を細めて笑っている。やはり綺麗な笑顔だ。茜さんとは違う。違うけど、優しい笑み。

「分かりました」

 頷けば、水鳥川さんはとても嬉しそうに頷いた。

「――では、行こうか」

 椅子の背にかけていたコートを持って立ち上がる姿は、やっぱり何だか決まっていて。

 ……これだけ格好決まり過ぎていると、やっぱり、変な人としか思えない。

 




 夕方、水鳥川さんが座っていたベンチ。

 座るように促され、俺は黙って腰掛けた。にゃん、と小鉄が膝上に乗ってくる。

 待っているようにと促したんだけど小鉄は付いてきた。

 俺の赦しが無ければ小鉄に触れない。その誓いを守ってくれるとは思うけど。

 見上げる空には月。

 水鳥川さんは黙って月を見ていた。

 これだけ近くに居るのに、黒ずくめの服装が闇に溶けて、俺は一瞬、彼を見失う。

「水鳥川さん」

 思わず声に出して呼ぶ。

 闇の中、浮かび上がるような白い顔がこちらに向いた。

 紅い瞳が笑う。

「失礼」

 何を謝罪したのだろう。

 そうは思うものの、俺はゆっくりと首を左右に振った。

 大丈夫、と答えるように。

「さて」

 水鳥川さんは俺の前に立った。

 銀の握りの杖を軽く弄びながら笑う。

「何を対価に支払えば良いかな」

「逆に質問します。――たいやきって、何と等価なんでしょう?」

 杖の先を顎に当てて、水鳥川さんは空を見上げた。

 本人も悩んでいる。

「魂やら若さやら、または己の家族やらとは等価なものは分かるがね。――さてさて、菓子ひとつとなれば、何になるだろう」

 またもや凄い事を聞いている気がする。

 俺の膝上で小鉄が退屈そうに丸くなった。

 気配を撫でる。

 ごろごろと、手の下で、小鉄が喉を鳴らす。

「人が差し出すものがその者にとってどれだけ重要か――それで価値が決まる」

「なら、話でいいですよ」

「ふむ?」

「何か面白い話して下さい」

 俺よりも長く生きてそうだし、世界中を旅していると聞いた。

 なら俺が知らない面白い話を知ってそうだ。

 それでいい、と思った。

「それでいいのかね?」

「それぐらいですよ」

 たいやきの価値なんて。

 水鳥川さんは少し迷って、近くの木をステッキで示した。

「あの子は良いのかね?」

 あの子。

 水浸しの、あの子。

「随分とあの子供の存在を気にしているように見えたが。――存在自体が既に薄い魂だ。消し去ってしまう事も出来るが?」

「それもたいやきと等価なんですか?」

「その程度の魂だよ」

 ――それは、俺にとって文弥の魂が、それぐらいの価値しかなくなっていると言う意味なんだろうか。

「あの子は――良いんです」

 俺は水鳥川さんを見上げ、笑う。

 小鉄の気配を膝の上に感じながら、月を背後の、水鳥川さんを、見る。

「俺に復讐したくて傍に居ると思うんで――いいんです。傍に置いても」

 復讐する理由は十分にある。

 文弥は俺に殺されたんだから。

「復讐するような力は無いように見えるがね」

 まったく食指が動かん魂だ。

 水鳥川さんはそう言って、木に向けていた視線を外した。

 俺を見る。

「では――話か」

「はい」

「どうせなら君の役に立つ話が良いだろう」

 月。

 蒼いぐらいの大きな月。

 不思議な事に、水鳥川さんの背後の月が、よりいっそう大きく見えた。

「――君に未来を伝えよう」

「未来?」

「ああ、たったひとつだけだが。――これは予言とは言わない。予言は神がするものだ。――私が言うのは、未来だ」

 複数の選択肢のひとつ。

 だが、今現在、もっとも有力な未来。

 水鳥川さんはそう言った。



「近い未来――モトキ、君はひとつを失い、ふたつを得る」



 ひとつを失い、ふたつを得る。

 その言葉の意味を問いたくて、俺は水鳥川さんとその背後の月を黙って見上げる。

 水鳥川さんは紅い瞳を細めて笑っていた。

「私はこれしか伝えられないよ。言葉の意味を考えるのは君の仕事だ。――君が何かを与えてくれると言うのならば、具体的な事も言えるがね?」

「そういうルールなんですね」

「そう、私のルールのひとつだ」

 俺は少しだけ迷う。

 何かを渡せば、きっと、意味を教えてくれるだろう。

 でも――考えてみるけれど、俺は何にも持ってなくて。

 だから、そのまま、話を続けた。

「他の、ルールは?」

 月が綺麗で、小鉄がかわいらしく喉を鳴らしているので、俺はもう少し、水鳥川さんと話がしたくなった。

 笑顔で促す。

「契約が無ければ何の力も行使しない事。――まぁ、こちらのルールは曖昧だがね」

「力って何が出来るんですか」

「神が出来る事ならば何でも」

「凄いや」

「だが与えられなければ何も与えられない。神とは大きく違う。私は模倣者でしかないからね」

 そう言う水鳥川さんは少しだけ寂しげだ。

 小鉄のごろごろが止まった。

 ふみゃあ、と、可愛い声が鳴く。

 水鳥川さんが笑った。

「私を心配して下さるのかな、可愛いレディ。有難う、貴女のその声で、私は勇気付けられる」

「小鉄の言葉が分かるんですね」

「獣の言葉ならすべてを理解出来る。彼らは優秀な戦友だ」

 それに、と水鳥川さんは続ける。

「猫は、私にとって特別な存在だからね」

「特別?」

「大昔の話だ。――その時、私は酷い男だったよ。人をいかに欺くか、不幸にするかばかりを考えていた。人が嘆けば大笑いし、人が狂えば喜びに歌った。人の苦しみは我が喜びだった」

 孤独故に、と、付け足す。

「契約でしか人と関われない存在。――人など信じられなかった。彼らは私を呼び出し、求めるにも関わらず、私を嫌悪し、呪い、消滅させようとした」

 モトキ、と水鳥川さんは俺を呼ぶ。

「愛せるかね? 彼らを? 私を道具としか思わず、自分の利益の為に私の意志など封じ切る。そのような存在を、愛せるかね」

「いいえ」

 俺は即答した。

 水鳥川さんは深く頷く。

「だが――私は彼女に会った」

 闇色の身体をした、緑の目の――

「緑の目の――マルガレーテ。私の最愛のレディ」

「猫、なんですね」

「そう。丁度、レディぐらいのね」

 水鳥川さんは俺の膝上の小鉄を示す。

 みゃん、と小鉄は少し嬉しそうに鳴いた。

「マルガレーテは私に何も求めなかった。ただ傍に居て、冷たい私の手に寄り添ってくれた。人に捨てられて、尚、人を求める小さな命を、私は捨て置けなかった。――人の姿を持つ者としてね」

「可愛い子なんでしょうね」

「それはもう」

 水鳥川さんの笑顔は優しかった。

 瞳を閉じて、その子猫を思う。

「マルガレーテを得て、私は心は変わったよ。マルガレーテが存在する世を、そしてその世を繋ぐ人を滅ぼす訳には行かないと誓った。――私は闇色の子猫に恋をしていたのだよ」

 恥ずかしそうに苦笑する。

 それでも、子猫との思い出を、水鳥川さんは語り続ける。

「私が私としてこの世に存在している中で、あれほど幸福な時間は無かった。マルガレーテの為に人のふりをして家まで持ったよ。暖かい暖炉の傍で、マルガレーテと過ごす夜ほど心満たされる時は無かった。――私は、私として幸せになった」

 だが、と、瞳を開く。

「哀しい事に猫の命は短い。マルガレーテは私の元から去ってしまった。これが人相手ならばいくらでも契約し、命を繋ぐ事も出来ようが、マルガレーテは永遠など望まなかった。不死など、決して」

 俺はどういう顔をしていたのだろう。

 水鳥川さんが俺を呼ぶ。

 柔らかい声で。

「だが聞いた事はあるかね? 猫は七つの命を持つと。マルガレーテもいつか私の元へ戻ってくれるだろう。私の時間はたっぷりある。彼女が生まれ変わるまで、何、ゆっくりと待てばいい」

 居心地の良い部屋を用意してね、と、水鳥川さんは片目を瞑った。

 俺は白桜荘を見上げる。

 居心地の良い、部屋。

「例えば、此処ですか」

「そうだ。世界中に用意してある。マルガレーテが何処で生まれ変わるか分からないからね」

「日本で生まれ変わるといいなぁ」

 俺もマルガレーテと呼ばれた猫に会いたくなった。

 緑の目の黒猫。

 綺麗な猫だったのだろう。

「もしも出会えたら、モトキ、君にも会わせてあげよう」

 小鉄を見る。「勿論、レディにもね」

 小鉄が高く鳴いた。

 嬉しそうな声だ。

 それを聞いて水鳥川さんはとても嬉しそうな顔をする。

 ――ざわり、と風が吹いた。

 水鳥川さんの黒いロングコートをざわめかせる風。

「――ふむ」

 月を見上げる。

「残念だが呼び出しが掛かったようだ。――もう少し時間を考えて呼び出しして欲しいものだがね。まぁ我らは闇を好むものが多いから仕方あるまい」

「行くんですか?」

「仕方があるまい。契約を望むものが居るならば、行かねばならない。それが私だ」

 杖を一回転させる。

 気付くと、あの巨大なトランクが彼の横に控えていた。

 まったく気付かなかった。

「皆に宜しく伝えてくれるかな、モトキ」

「はい」

「何、またすぐに来る。可愛いレディに会いにね」

「小鉄に何かしたら殴りますよ」

「ハハハ、誓いは破らないよ、モトキ」

 回した杖の先端で、トランクをノックする。

 トランクが弾け――炎が溢れた。

 俺にはそう感じられた。

 青白い月光の下、同じぐらい蒼い炎が、トランクから飛び出した。

 それが馬の形をしているのに気付いたのは、一瞬の後だった。

 鬣の代わりに蒼い炎を宿した巨大な白馬。

 闇色の瞳が、俺と小鉄を見ている。

 みゃあ、と小鉄が嬉しそうに鳴いた。

 どうやら、この蒼い炎の馬を気に入ったらしい。

 ほぉ、と感心したような声が水鳥川さんから出た。

「レディ、乗馬はお好きかな」

 みゃん、と小鉄が答える。

「それはそれは。――もし宜しければ、次の機会にご一緒致しませんか?」

 勿論、モトキが赦してくれるならば、と、笑みを含んだ声で続ける。

 俺は口を曲げる。

「小鉄が馬と遊びたいって言うなら、仕方ありませんよ。でも、俺の目の前でだけにして下さいね」

「了解した」

 笑いながら、水鳥川さんは重さを感じさせない動きでその馬に跨った。

「では――失礼」

 馬が空を見上げ、口を開く。

 嘶き。

 だけどそれは馬の声ではなかった。

 遠く遠くまで響く――風の音。

 水鳥川さんは俺たちを見てもう一度笑う。

 そして――馬が走り出した。

 走った距離はほんの数歩。

 それ以上は、まるで空中に溶けるように消えてしまった。

 辺りを見回すがトランクは何処にも落ちてなかった。

 それから――。

 空を見上げるが、月はさっきよりもずっと小さく、青くさえなかった。

「部屋に、戻ろうか、小鉄」

 にゃん、と小鉄が元気に返事をした。




 部屋に戻る。

 ベッドに腰掛けて、息を吐いた。

「――俺、何だか変わったなぁ」

 どう見ても普通の生き物じゃない馬を見ても驚かなかった。

 それに多分――水鳥川さんの正体も、分かった。

 分かったが、気にならないのだ。

 俺の知っている水鳥川さんは、猫が大好きな妙に格好付けの紳士なんだから。

 それだけだ。

 そのまま仰向けに転がった。

 天井を、見る。

 ――ひとつを失い、ふたつを得る。

 水鳥川さんから与えられた言葉を、思う。

 どういう意味なのだろう?

 悩むが答えは出てこない。

 ――こんこん、と、ノックの音。

「五郎―、風呂開いたぞー、入るんじゃねぇのか?」

「ああ、はいっ!」

 慌てて起き上がる。

 そうだ。お風呂に入りたい。

 お風呂道具を用意する俺は、水鳥川さんの言葉を半ば忘れていた。

 たいやきと引き換えに貰った未来だ。

 そんな重要なものじゃないだろう。

 ――そう思っていたのだ。




 でもそれは大きな間違いだって言う事を、俺は、もうしばらくの後に、心から、知る事となる。




                           終


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