第7話・幽霊猫と温泉旅行
カーテンを開くと雨降りだった。
思わず肩を落とす俺の足元に擦り寄ってくる気配。
小鉄だ。
幽霊猫である小鉄の姿は見えないが、可愛い声と擦り寄ってくる気配は十分に分かる。
まるで慰めてくれているようだ。
「有り難う小鉄」
気配に笑いかけて。「でも、移動は車だから大丈夫だよ」
隣県まで旅行。
そう、旅行なのだ。
この、白桜荘の住人たちと。
人と一緒に旅行するなんて久しぶりだ。……いや、ひょっとして修学旅行以来?
一泊二日の短い旅行だけど、本当に楽しみで、この旅行の予定を聞いた時から俺は子供みたいにはしゃいでいた。
現に、出発の9時にはまだ3時間もあると言うのに、俺は既に用意完了。今すぐにでも出発出来る状態。
……張り切りすぎて五時には目を覚ましてたからなぁ。
「下に行こうか」
自室でうろうろしていてもしょうがない。
下でお茶でも飲もう。
にゃん、と、俺の考えに小鉄も同意してくれた。
『幽霊猫と温泉旅行』
一階の食堂には誰かの荷物と、その荷物番のように竜さんが座っていた。
湯飲みで黙って茶を飲んでいる。
聞こえる音はテレビから流れるニュースぐらいだ。
そのニュースがここ数日ですっかり耳慣れた県名を呼んだのを聞きとめ、テレビを見た。
これから旅行に行く隣県の名前だ。
「……あれ」
しかも、丁度旅行先の土地だ。
テレビ画面には沼が写っている。森の中の小さな沼。
『――沼では年々貯水量が減り、近年中に消滅する恐れが――』
テレビで見る限り、沼は枯れる様子なんてない。
「自然破壊ってのでしょうか」
「どうだろうな」
竜さんはさほど興味なさげにお茶を飲んでいる。
テレビは近隣に与える影響を述べ、そして原因と思われる事を話していた。近くに出来たダム。それが原因ではないか、と。
小鉄に牛乳を用意して、俺もマグカップに牛乳を入れた。食卓テーブルの椅子に座る。足元に置いた皿から水音。小鉄が牛乳を飲んでいるのだ。
それを聞きながら考える。
枯れていく沼。
そこに居る動物たちはどうなるのだろう。
翼が、手足があるのはまだいい。でも、水でしか生きられないものたちは。
「………」
マグカップに口を付ける。
俺が考えてもしょうがない事だ。
竜さんはリモコンでチャンネルを変える。
よく分からないアニメが放送され始めた。
竜さんが何も言わないものだから、俺は黙って牛乳を飲み続けた。
結局、出発の1時間前には皆食堂に揃った。
「じゃあ、もう出発しようか」
小さなボストンバックひとつの黒川さんが笑う。
ちなみに参加メンバーは、黒川さんに竜さん、小夜さんにまゆちゃん、そして俺と小鉄。
茜さんはお留守番だそうだ。千葉さんも誘ったのだけど仕事が入っているから、と申し訳無さそうに断られた。
じゃあ茜さんを宜しくお願いします、なんて言ったら物凄く赤面していたけど。
……女の人一人じゃ危ないから、と思ったのだけど……余計なお節介だったかな。
移動手段は車。
近くの商店のおじさんから、ワゴンタイプの乗用車を竜さんが借りてくれた。
車は既に庭に到着している。
「――助手席、誰が乗るんだ?」
車の横。キーを指に掛けてくるくる廻しながら竜さんが言う。
にこにこ笑いながら小夜さんが手を上げるが、竜さん、あからさまに視線を逸らす。そんなに小夜さんの隣が嫌か。
でも他のメンバーはさっさと後部座席に向かってます。竜さん、黒川さんを恨めしそうに見てるけど、黒川さんは竜さんなど見てない。まゆちゃんの荷物――意外に多いんだ――を手伝って車に積んであげている。
「おい、五郎」
「あ、俺も後部座席で」
「………」
情けない顔で見ないで欲しい。
後部座席に乗り込もうとして――俺はふと質問を投げかける。
「竜さんって免許持ってたんですね」
俺よりも少し年上に見えるから、年齢的には持っていてもおかしくは無いが――ほら、この人のキャラ的に車なんていう物は縁遠そうに見える。
ん、と竜さんは曖昧な声を漏らしながら運転席側に向かう。
「免許はねぇけど動かせる」
「ちょっと待てー!!!!!!!!!」
「戸籍無いんだから仕方ねぇだろ」
「物凄い非常識な事をふたつ連続で言わないで下さいっ! どっちから突っ込んでいいのか困る!!」
「ま、気にするな。車に関しては事故った事は一度もねぇぞ」
「……あれ、真之介、二年前の、ほら、峠の」
「……………あ、あぁ」
車の窓から顔を出した黒川さんの声に、あからさまに泳ぐ竜さんの目。
怖い。
怖過ぎる。
いまだキーをくるくる廻している竜さんの手をがっしと掴み、俺は言う。
「キーを下さい」
「五郎は運転出来んのかよ」
「普通免許は持ってます」
「免許あっても運転出来ねぇなら意味無いだろ」
「いいからさっさと渡せ」
「………はい」
キーを受け取って運転席に回る。
小夜さんが笑顔で助手席に座った。
宜しくね、と言わんばかりに笑顔で会釈。
相変わらずの綺麗な笑顔。
でもその笑顔に何も返せないほど、俺は緊張していた。
………え、エンジンってどう掛けるんだったかな………。
それから、地獄の数時間が始まった。
「――よっと」
軽く声を上げて、黒川さんが後部座席から降りる気配。
途端、よろめく。
俺はハンドルに突っ伏したまま、横目で黒川さんを見た。声を掛けたい所なのだが今はもう声を出す気力も無い。
あはは、と黒川さんは声に出して笑う。右のこめかみを軽く拳で叩きながら。
「凄いものだね。空でも飛んでいる気分だったよ」
「………地獄巡りした気分でもあるな」
げんなり、と言う顔で地面に車から降りたのは竜さん。顔色が物凄く悪い。
最初のうちは吐くだの死ぬだの騒いでいたけど、後半は一言も言葉が無かったのを思い出す。
……気絶してたかな。
「ちび、生きてるか」
「……」
無言でまゆちゃんは車から降りる。こっちも顔色が悪い。
俺が黙って見ていると、まゆちゃんはそれでも笑ってくれた。
「だいじょうぶよ、お兄ちゃん」
こんな小さい子に気遣われてしまった。
俺の横。
助手席の小夜さんはまったく動じてなかった。俺を心配そうに見ている。
「……だ、大丈夫です」
自分の運転がこれほどまでに下手だとは思ってなかった。
手足がガクガク震えている。
本当、宿泊予定であるホテルの駐車場、此処に事故を起こさず到着出来たのは奇跡だと思う。
神様有り難う。
みゃん、と。
小鉄の声。
小夜さんの膝上から飛び降りて地面の上。
「……小鉄?」
俺の呼びかけに声が返ってこない。
あー、と曖昧な竜さんの声。
「怒ってるみたいだぞ、タマ」
「…………」
俺はもう一度ハンドルに突っ伏した。
窓からちらりと外を確認すると、頭から激しく斜めに突っ込んでいるこの車は、二台分の駐車スペースを占拠しているようだ。
本来なら直さなきゃならないのだろうけど。
ごめんなさい、エンジン掛ける気力もありません。
フロントに鍵を預けよう。問題があったら移動させてもらう。
そうしよう。
皆は既に車を降りている。
俺を待っていてくれている。
降りなきゃ、と思うのだけど。
――帰りはどうやって帰ろうかなぁ、と思って、俺はもう少し此処に突っ伏したくなった。
泊まる予定の場所は、ホテル……と名がついているが、どう見ても旅館って感じだった。
俺はこういう雰囲気は嫌いじゃない。
それに此処は温泉があるのだ。
それだけでご機嫌。
先ほどの不機嫌が嘘のように、俺の脚に絡まって可愛い声を上げる小鉄に、そっと指一本立てて合図。
「小鉄、部屋に行くまで静かにね」
みゃ、と可愛い声の後、鳴き声がぴたりと止まる。
本当に小鉄は良い子だ。
黒川さんがチェックインするとの事で、持っていたまゆちゃんの荷物を預かる。
思ったより重い。
……一泊二日の旅行でも女の子は荷物が多いんだなぁ。
いや、でも小夜さんはそんな荷物持ってない。俺より少ないぐらいだ。
フロントに居た人のよさそうなおじさんは、笑顔で対応してくれた。チェックインの手続きは黒川さん一人でいいものだから、俺以外の人たちはみんな、適当にロビーを見ている。
俺もさほど広くないロビー内を見回す。
端にお土産屋さんがあって、その前にテレビとソファがいくつか置かれている。
テレビは人気ドラマの再放送をやっていた。
そして、テレビなど見ていないかのように、こちらをじっと見ている女の子が居た。
……俺よりも少し年下、かな。
長い黒髪の、綺麗な女の子だ。
いまどき珍しい。鮮やかな振袖を着ている。
彼女は首を曲げて、じっと俺たちを見ていた。
「――流」
ながれ、と言うその言葉が、少女に対する呼びかけだと分かったのは、無表情だった彼女がぱっと顔を輝かせ、立ち上がった時だった。
短い距離を小走りで駆け、俺の横を抜けて――そして、流と呼ばれた少女は、名前を呼んだ人物に抱きついた。
「お兄様!」
嬉しそうに、兄、と、その人を呼んで。
――つまり、黒川さんを兄と呼んで、嬉しそうに、本当に嬉しそうに、笑った。
「流。夜に会いに行くって伝えた筈だけど」
「申し訳ございません、お兄様」
流さんは上目遣いに黒川さんを見た。「流は待ちきれなくて」
「気持ちは嬉しいけど、約束は約束だ。帰るんだ、流」
「……」
流さんは不満そうに黒川さんを見ている。
が、黒川さんは笑顔のまま一歩も引かない。
「……分かりました」
擦れそうな声で、流さんはそう返した。
手を伸ばして、黒川さんの白いシャツをぎゅっと掴む。
「夜に……夜になりましたら、必ず流に会いに来て下さいませね?」
「うん、分かった」
「お願い致します。流は、ずっとお兄様をお待ち申し上げております」
それから流さんは俺たちをぐるりと見回した。
ぴたり、と。
流さんは俺の所で視線を止めた。
あからさまに、不快そうな表情で。
不快――いや、それは敵意と言っても差し支えの無い表情だった。
俺は、初対面の人間に敵意を向けられるような人間ではない。
……無い、と思う。
流さんが俺の所に視線を止めていたのはほんの数秒だと思う。
短い時間だけど、真っ向から敵意のこもった視線を向けられた身としては、非常に、辛い。
だから流さんが黒川さんにもう一度頭を下げてその場を後にした時、大きく息を吐き出した。
「御免ね」
黒川さんが苦笑交じりに謝る。「性格のきつい子だから」
きついと言うか。
「俺、嫌われてませんでしたか」
「多分ね」
あっさり言って黒川さんは俺の手からまゆちゃんの荷物を取り上げた。
空いた手に、長めのプラスチックの棒に付けられた鍵を何本か持ってる。
「部屋の場所を聞いたから、さぁ、行こう」
黒川さんからのフォローは無かった。
せっかく楽しい旅行だってのに、なぜか気が重くなった。
みゃん、と小さく小鉄が鳴いて。
荷物を持って居ない方の手に、白い小さな手が絡まった。
まゆちゃんだ。
今日は白いワンピースを着ている。和服も可愛かったけど、こういう普通の女の子っぽい服装もとてもよく似合う。
可愛らしい少女の服装で、まゆちゃんは大人びた笑顔を浮かべる。
「行きましょう、お兄ちゃん」
「う、うん」
「だいじょうぶ、まゆはなにがあっても、お兄ちゃんのみかたよ?」
何があっても。
……何があるんだろうか。
物凄い不安を覚えた。
「――オイ、五郎」
「は、はい?」
「さっさと荷物部屋に置いて、行くぞ」
「……行くって、何処に」
竜さんはにやりと口元を捻じ曲げて笑って見せた。
「決まってんだろ」
雨はすっかり止んでいた。
青空が広がる。
こんな青空の下、露天風呂ってのは本当に悪くない。
竜さんは露天風呂の縁の岩に寄りかかり、顔にタオルを乗っけて気持ちよさそうに鼻歌を歌っている。
………えーと、確か日曜日の朝にやっている少女向けのアニメのテーマ曲だと思います。すっかり聞き慣れた。
にゃ、にゃ、と小鉄は露天風呂周辺の木に登って遊んでいるらしい。
「――真昼間から温泉ってのは贅沢だよなぁ」
上機嫌過ぎる竜さんの声。
はぁ、と曖昧な声を返しつつ、俺は竜さんの正面で少しばかり困っていた。
念の為に言っておくが、竜さんの裸を見て困っている訳じゃなくて、左肩の――ほぼ正面にあるその文字が気になってしょうがないのだ。
辰號。
二文字。
火傷が象った文字。
「――そんなにこれが気になるか」
くく、と。
そんな笑い声と共に、竜さんが自分の左肩――火傷の痕をなぞる。
「前の時も見てたな。まぁ、確かに珍しい傷か」
「スイマセン……」
「いや、慣れてる」
竜さんはまだ笑ったままの声で言うと顔からタオルを取り去った。
それでも姿勢は変わらず、僅かに空を見ている。
「俺がガキの時に変な奴らが居て、そいつらにとっ捕まって、色々とされて――で、その色々の中で俺の回復能力を超える傷を負わせるには、って実験の結果で付いた」
続いて、竜さんは「お、雀」とか空を見たまま呟いた。
竜さんは空を見たまま気持ち良さそうに温泉に浸かっている。
一方俺は、どうしていいものか。
竜さんから視線を逸らすようにうつむいた。
「どうして、そんな――」
「傷の形の理由か? 名前じゃなくて番号で呼ばれてたからな。俺は五番目の丸太だったから、辰號って」
たつごう。
五番目。そういう意味、の。
「でも、そんな、人体実験が、今の世の中で許される訳は――」
そこで竜さんはようやく身体を起こす。
俺を正面から見て、竜さんは笑っていた。
呆れた様な、笑みに見えた。
「今の世の中なら、な。もうひとつおまけに、人間相手なら、な」
「……」
「五郎、お前……俺が人間だと思ってるのか?」
俺はどう答えたいいのか分からなくなった。
竜さんが人間じゃない?
それは――それは。
「お――温泉に浸かりながらする話じゃないと思いますよ」
色々考えて、俺が口にしたのは、そんな言葉だった。
竜さんは先ほどの笑みを消して、「だな」と笑う。
「一応言っておく」
「はい」
「俺の事、『大戦の遺物』って呼ぶ奴らが居る」
「……たいせんの、いぶつ?」
大戦、と聞いて浮かぶのは。
「……世界大戦?」
竜さんは何も答えずに笑った。
笑って。
「面倒くせぇ」
と、本当に面倒そうに、吐き捨てた。
そして、俺は上がるタイミングを逃し、長風呂の竜さんと同じだけ、露天風呂に入る事になった。
のぼせた。
露天風呂の前。自販機やソファがある小スペースで俺は死亡中。
ソファにぐったりと伸びている俺の上を、にゃにゃ、と小さな声を上げた小鉄が乗っている。心配してくれているらしい。俺の顔を覗き込む気配もする。
だけど小鉄に答えてやる気力も無い。
「おい」
竜さんは俺の横で、さすがに気まずそうに俺を見下ろしている。
「……動けるか?」
「……少しでいいんで休ませて下さい」
下手に動いたら死ぬ気さえしてる。
旅館の浴衣を着ているのだから普段よりはずっと涼しい筈なのに、それでも暑い。気持ち悪い。
竜さんは少し迷ったようだ。
「待ってろよ」
と動き出した。
何の事だろ、と思いながらもそちらを見る気力も無い。
やがて、ぴたり、と俺の顔に冷たいものが押し当てられた。
瓶の感触。
「ほら」
「……有難うございます」
受け取る。
冷たくて気持ちいい。
……気持ちいいが。
「……フルーツ牛乳以外の選択肢ってなかったんですか?」
「コーヒー牛乳の方が良かったか?」
此処は温泉であって、銭湯じゃありません。
でも。
「冷たくて気持ちいいです」
有難いのは本当。
竜さんは俺の正面に位置するソファに腰掛けて、同じように牛乳を飲みだした。
みゃ! と小鉄の訴える声。
「おい、タマ。これはコーヒー牛乳だからてめぇは無理」
「そうだよ、小鉄。あとで普通の牛乳買ってあげるから」
みゃう、ととりあえず納得の声。
俺はフルーツ牛乳を額に押し当ててそのまま伸びてた。
黙って目を閉じている。
「――おい」
竜さんが小さな声で言った。
「はい?」
「……変な話して、悪い」
「いえ、俺こそ、スイマセン」
竜さんに話をさせたのは俺が原因だ。
あの火傷が……気になって、見ていたのは俺だ。
でも、と俺はちょっとだけ笑う。
苦笑、だった。
「みんな、何だか複雑なんですね」
「お前もだろ」
「俺も?」
複雑、かなぁ。
みゃあ、と小鉄が鳴いた。
訴えるような声。
「ああ、そういえば、そうですね」
幽霊猫を飼っているなんて、確かに複雑だ。
俺の言葉に同意は無かったけど、特に聞き返しもせず、冷たい牛乳瓶を顔に押し当てたまま、俺はずっと伸びてた。
ようやく動けるようになってから部屋に戻る。
男性陣と女性陣で一部屋ずつ。勿論、戻るのは男部屋。
部屋の中では黒川さんが一人、外を眺めていた。
「クロ」
「ああ、お帰り」
普段どおりの笑顔。
竜さんは親指でお風呂の方向を示す。
「風呂は?」
「うん、夜になったら行くよ」
「夜はさっきの女と会うんだろ?」
「流かぁ」
そこで初めて黒川さんは表情を変えた。
今にもため息を付きそうな顔だった。
黒川さんの妹。彼女、会えてあんなに嬉しそうだったのに。
俺の顔を見て言いたい事を悟ったのだろう。
黒川さんは小さく笑って言った。
「流は少し思い込みが激しい子で。今回もちょっとお転婆しそうな感じなんだよ」
「お転婆じゃすまねぇだろ」
竜さんはげんなりした顔で言う。「実際戦いになったら、俺じゃあ抑えこめねぇぞ、あの女」
「た、戦い?」
「小さい頃から武道やっていた子だから喧嘩早くて」
そ、そういうレベルの話なのか?
……だって、竜さんだってかなり強いと思うんだけど……。
その竜さんが止められないレベルって、異常だと思う。
「まぁ念の為に僕も来たから……何とかなるかな? 小夜さんも居るしね」
………黒川さんと小夜さん、二人が必要なレベル。
物凄い怖い気がしてきた。
「基樹くんは小鉄ちゃんと此処に居るといいよ」
黒川さんは優しい笑顔。
本当に、この人は優しく笑う。
「大丈夫。何も、心配は無いから」
「……はい」
俺は頷くしかなかった。
その後、夕方頃に黒川さんはお風呂に入りに行った。竜さん「俺も」といそいそと用意してお付き合い。
……お風呂大好きなんだなぁ。
窓から外をぼんやり見ていると、ぽつんぽつんと雨が降り出した。
せっかく晴れていたのに。
勿体無いなぁ。
にゃあ、と小鉄が鳴いた。
「ん?」
声の方向に手を差し出す。
気配が手に擦り寄ってきた。
ごろごろと鳴る喉の音を指先に感じる。
「こうやってのんびりするのも久しぶりの気がするな」
何だか此処最近、色々な事があり過ぎた。
嫌じゃないけど……疲れるのは確か。
竜さんがよく見ているアニメの登場人物たちは、色んな厄介ごとに関わって、かつ、学校に行ったり働いたりし、そしてプライベートを心から楽しんでる。
架空の世界の人間。確かにそうだけど、俺からしてみると、凄い体力と精神力だな、と思う。
俺は、直接自分が何かした訳じゃない――そう、巻き込まれてばかりだ――けど、仕事と普通の生活するだけで精一杯。
でも。
小鉄が居るのなら何とでもなる気がしていた。
うん。
小鉄が居るなら、きっと、何があっても大丈夫。
――こつん、と。
小さな音が響いた。
「……?」
窓から?
小鉄の居る辺りに向けていた視線を、窓に向ける。
窓の向こう。ベランダの手摺にカラスが一羽、止まっていた。
身体を精一杯伸ばして、こつん、と窓ガラスをつつくのだ。
俺が自分に気付いたのが分かると、じっとこちらを見ている。
「………???」
首を傾げる。
何、だろう。
俺は立ち上がって、窓の傍に寄る。
カラスは俺を待つようにぴくりとも動かない。
じっと、視線を注ぐ。
理由は無い。
だけど無性にそのカラスが気になって、俺はベランダへ続く窓を開いた。
かぁ、とカラスが鳴いた。
鳴いた、が、それ以上の動きはない。
逃げる様子も無い。
もう一度、首を傾げる。
――背後から、ふぅ、と威嚇の声が聞こえた。
小鉄。
小鉄が威嚇している。
「小鉄?」
俺は慌てて振り返った。
姿は見えない。だが、小鉄の意識が向かっている場所は分かった。
俺の正面。
カラスの、居る場所。
視線を戻す。
カラスはそこに居た。
今まで同じ姿で。
その嘴が、笑ったような気がした。
「――加賀美沼までいらっしゃい」
カラスが、しゃべった。
俺は眉をひそめる。
その声に聞き覚えがあったからだ。
「……流さん?」
そう、黒川さんを兄と呼ぶ、あの少女の声だった。
それがカラスの嘴から零れ落ちる。
カラスは答えずに少女の声で笑った。
「加賀美沼までいらっしゃい」
「なに……?」
どうして、と俺は続ける。
加賀美沼?
どうして、俺がそこに行かなきゃならないんだ?
カラスが笑う。
人の声で笑い――そして続けた。
「水で死んだ子が居るでしょう」
俺は、何も表に出さない筈だった。
だけど、小さな、小さな――殺しきれない声が漏れた。
それを聞きとめたカラスが笑う。
「加賀美沼までいらっしゃい」
カラスは三度繰り返し、黒い翼を広げる。
俺の顔を打つ風を起こす翼。
僅かにたじろぐ俺を残して、カラスはベランダの手摺から飛び上がる。
にゃあ、と。
動けぬ俺の足に小鉄が擦り寄ってくる。
「小鉄」
気配に向けて手を広げる。
手に飛び込んでくる小鉄の気配。
「どうしよう、小鉄」
俺はずるずるとその場に座り込む。
触れられない気配を抱き上げて、顔を寄せる。
「どうしようか、小鉄」
みゃあ、と小鉄は一生懸命に俺の顔に擦り寄ってきているようだった。
何も、見えないけれど。
加賀美沼は何処ですか、とフロントに訪ねたのなら、おじさんは不思議そうに俺を見上げた。
しばし迷ったような顔して、それから、「ああ」と笑う。
少し遠いんですが、と前置きして描いてくれた地図を手に、俺はホテルを出た。
雨は小降り。傘は必要無いだろう。
地図を頼りに道を歩いて、辿り着いたのは森の中の沼。
沼、とは言われているが思ったより大きい。
そして、その沼には見覚えがあった。
朝のニュースでやっていた、涸れ続けていると言う沼。
「……」
俺は沼をしばし眺め、それから、その周囲を歩き出す。
此処に来いと言ったんだ。
何処かに居る筈だ。
ぐちゃり、と湿った落ち葉がスニーカーの下で嫌な音を立てる。
森の中にある為かとても暗い。
何かが、澱んでいる。
「――本当に来たのですね」
背後からの声。
俺はもう驚かなかった。
誰が相手か分かれば、驚く必要なんて無い。
足を止めて、ゆっくりと振り返る。両手は身体の横に落とし、軽く、握り締める。
特に身構えもせず、俺は、声の主と向き合う。
声の主は、沼地に不釣合いな振袖を着た、流さんだった。
彼女は瞳を細めて笑っている。
良い種の笑みではなかった。
俺を嘲るような、笑みだった。
「何の用ですか」
「……」
俺の態度が気に入らなかったのだろう。
すぅ、と流さんの顔から笑みが消えた。
「何の用……?」
「カラス、貴女の使いでしょ? 此処に来いって言ったのは貴女だ。来たんだから早く用を言って下さい」
流さんは袖で口元を隠した。
見えるのは瞳だけ。
それでもその瞳が俺を睨み付けているのはよく分かった。
「――偉そうに」
呟くかのような声も、低いものだった。
「人殺しのくせに、偉そうに」
「……」
俺は何も言わなかった。
流さんを見返す。
「どうして、人間が――しかも罪人が、お兄様の傍に居るのか分からない」
いいえ、と、彼女はすぐさま続けた。
「分からなくてもいい。ただ、私は許せない。人間がお兄様の傍に居るだけでも許せないのに、裁かれるべき人間がお兄様の傍に居ることが許されるなんて、絶対に、許せない」
口元を袖で隠したまま、瞳は俺を睨み付けたまま、流さんはぶつぶつと許せないを繰り返す。
俺は軽く首を傾げる。
「許せないって言うのが目的なんですか?」
挑発的な台詞だ。
だけど正直、俺も苛々していた。
此処は暗い。
暗く――水の傍。
嫌でも思い出される風景。
たすけて、と俺を呼ぶ声。
振り返った俺の瞳に映ったのは、力なく沈み行く、白い、小さな手だった。
暗い、暗い沼。
思えば、あの風景は今の風景とよく似ている。
流さんは俺の顔を見ていた。
瞳の強さが少し薄れているように思える。
それでも、十分に強い色だったけど。
「――そんな事の為に呼びません」
「なら」
「穢れた人間は処分すべきだと思いますので」
今まで口元にあった袖を振るう。
腕が、俺に向かって伸びた。
光。
それが、長い爪だと気付いたのは、顔の正面に突きつけられてからだった。
流さんの右手が変わっていた。
巨大な、鱗に覆われた四本爪の手。一本一本に長い爪が伸びている。
大人の頭でも握り潰せそうな右手を俺に向けて、綺麗なままの顔で流さんが笑った。
「どうせお兄様がいくらお止めになっても、私は人間に復讐します。それに――罪人が一人処刑されたとしても、お兄様はお怒りにならないでしょう」
それとも、と流さんが言った。
「お兄様はご自分で貴方を処分されるおつもりだったのでしょうか」
「――流さん」
俺は巨大な手を見ないように、その向こうの顔を見ていた。
綺麗な笑顔。
でもまったく黒川さんに似てない、流さんの顔。
「貴女、黒川さんに似てないですね。兄妹なんでしょ?」
「……」
なぜか、流さんはたじろいだ。
「――血の繋がりはありません」
「ああ、良かった」
俺は精一杯笑ってやる。
口元を歪ませ、精一杯、嫌な奴の笑顔をしてやる。
「あんたみたいな性格の女と、黒川さんが本当の兄妹じゃなくて良かったよ」
瞬間、流さんの顔が歪んだのが見えた。
そして、殴られた。
爪を俺に向けた速度を、大きさを思えば、横に逃げるのは無理だと最初から分かっていた。だから俺は思い切り背後に飛んだのだ。
それでも胸を大きく打たれ、息が詰まる。
飛んだにも関わらず吹っ飛ばされた。
着地は勿論上手く行く訳も無い。
べちゃり、とした土の上に仰向けに転がった。
……この上着もジーンズもお気に入りだったんだけどなぁ。
だんだん降りが強くなる雨空を見上げながらそんな事を考えた。
息をしようにも咳が出るだけ。
声なんて、出ない。
ただ空を見上げる。
ゆらり、と、揺れるように視界に流さんの顔が割って入る。
綺麗な顔とはもう言えない。
怒り狂っているのもあるが、それ以前にその顔は人のものじゃない。
顔全体に鱗が生え、まるで蛇のようだった。
「殺します、絶対に貴方を殺します。私が貴方を裁きます」
「……あ、んたに――」
ようやく声が漏れる。
まだ胸が苦しい。
息を吐くたびに、痛い。
それでも俺は笑う。
強がってなきゃ、やってられない。
「あんたに、俺を、裁く権利が、あるのかよ」
流さんの振り上げた手が止まる。
鋭い爪が俺の真上で停止。
あれが落ちたら、俺は死ぬ。
分かっているけど口は止まらない。
「俺のしたこと、どうして、あんたが裁けるんだ」
なぁ。
「あんた――何様のつもりだよ」
誰も裁けなかったから俺は此処に居る。
それを、ほぼ初対面のこの人が裁けるなんて思えない。
「神様にでも、なったつもりかよ」
いや。
神様だって俺を裁けなかった。
俺から、何ひとつ奪えなかったんだから。
――俺の言葉なんて何の力も無い。
流さんが逆上して、右手を落としたら終わり。
そういうレベルの言葉だ。
だけど、流さんは完全に動きを止めた。
怒りのひとつに染まっていた顔が、強張り、歪んだ。
今度は嘆くような顔に。
「……私は、神様になんて、なれませんでした」
「――そうだね」
流さんの声に答えたのは、穏やかな声だった。
慌てて顔を上げる流さんは、今度こそ本当に泣きそうな顔になった。
哀れな子供の顔に見えた。
「お兄様」
「お転婆が過ぎるよ、流」
俺はゆっくりと上半身を起こす。
既にジーンズも上着も泥で悲惨な事になっていた。立ち上がる気力も無かったので、泥の上に直接座り込む。
流さんと対面していたのは、勿論、黒川さんだった。
穏やかな笑顔の黒川さんに反して、その背後、付き従うような竜さんは流さんをきつく睨み付けている。
にゃ、と可愛い声がひとつ。
「小鉄」
腕を伸ばすと、黒川さんの方から可愛い気配が飛んできた。
濡れるのが嫌いだって言うのに、この雨降りの中、泥だらけの俺に飛び込んでくる小鉄の気配が本当に愛しかった。
「基樹くん」
「はい」
「御免ね、流が悪さをして」
いいえ、とは言えなかった。
悪さとは正直済まないレベルじゃないかなぁ、と。
それは竜さんも思ったらしい。
大げさに舌を打って、一歩前に出た。今日は袋に入ってない刀を、流さんに突き付ける。
「悪さじゃ済まねぇだろ、クロ。この女――」
「そうだね、基樹くんを殺す気だったんだろう?」
流さんはあからさまに狼狽していた。
顔も元の綺麗な女の人に戻っている。右手の爪も消えていた。
「お兄様、流は」
「こんな悪さをさせる為に流を助けたんじゃない。分かってるだろ」
「は、はい」
流さんは今にも泣き出しそうだ。
黒川さんは相変わらず笑顔で、右手を差し出した。
「ちょっと注意をして休んでもらうつもりだったけれど……やっぱり、返して貰うよ」
「……っ!」
言葉の意味は分からなかったが、それは流さんにとってショックな事だったらしい。白い顔が真っ青になった。
震える唇が、ようやくの様子で言葉を繋ぐ。
「お、お兄様は、流よりもこの人間が大切なんですか」
「……ん?」
「流が、この人間を殺そうとしたから、流を罰するのですか」
「違うよ」
あっさりと黒川さんが答えた。
常と変わらない、穏やかな笑顔。
でも、目の色が少しだけ、怖かった。
「人を傷付けようとしたのが許せないだけ。基樹くんじゃなくとも、他の誰かを傷付けた時点で流には返してもらうつもりだった」
「どうしてそこまで人間を大切にするのですか。お兄様だって人間なんてろくな生き物じゃないとご存知でしょう?」
「うーん」
黒川さんは困ったような表情を浮かべる。
いまだ、右手は流さんに差し向けたまま。
「約束したからね。口約束とは言え、一度誓った事は破れない。それが僕たちのルールだから」
「ですが!」
「時が流れて人が死んで時代が変わっても――僕らが同じである以上、約束は守られるべきだよ」
「……お兄様」
流さんはその場に座り込んだ。
気付いたら竜さんが横に居て、刀を持ってない方の手で俺を立ち上がらせてくれた。
流さんは涙の浮かんだ瞳で俺を見る。
「その人間は人を殺しています。心の中に、人を殺した風景をずっと持っています。殺した罪を意識しています。同族殺しは重い罪なのでしょう? ――それでも、助けるのですか?」
「人の罪を裁く権利は僕らには無い」
「では、誰がその男を裁くのですか!」
黒川さんは少しだけ俺を見た。
ちょっと笑って、それから、流さんに視線を戻す。
「彼自身だよ」
右手が流さんの頭に触れた。
黒川さんはとてもとても優しく笑う。
流さんの両手が上がった。頭に触れた黒川さんの右手を振り払おうとするように、爪を、立てる。
全然力の入ってないように思えるその手が、何故か振り払えないらしい。
姿勢さえ崩せないまま、流さんは黒川さんを見た。
「おやすみ、流」
――ぐ、と。
竜さんが俺を掴んだ。
流さんから視線を外させる。
「すぐ終わるから、見るな」
「いえ」
見ています、と答えたのなら、竜さんはそれ以上止めなかった。
はじめに見えたのは光。
黒川さんの右手の下から、光が漏れる。丸い――光。
ゆっくりと引かれる右手の動きに合わせて、光が、その手の中に納まる。
ずるずる。
そんな音を立てて、流さんの額から、光の玉が引き抜かれていく。
それを奪われる事がかなりの苦痛なのだろう。流さんはもがき、黒川さんの右手に爪を立て、吼え、泣いた。
そして流さんの様子も変わっていく。
長かった黒髪が抜け落ちていく。肌もつやがなくなり、少女らしい肉が落ち、皮が黒ずみ、骨に張り付いていく。
纏っていた振袖も汚れ、破け、古びていく。
「……」
黒川さんが手の中に光の玉を握り締め、ふぅ、と小さく息を吐くと同時。
がらがら、と、既に骨だけになった身体が、沼地に転がった。
最後に、汚れ果て、元の模様が分からなくなった振袖が、骨の上に落ちた。
「基樹くん、御免ね」
黒川さんはそう言って笑った。
普段と同じ笑みだった。
俺は何か言いたくなって口を開く。
開こうとした途端、頭を小突かれた。
犯人は竜さん。
「あのな、何でこの女の挑発に乗ってるんだよ。こんな所まで一人が来るか?」
「フロントにメッセージ残したじゃないですか」
「風呂にまで言いに来りゃいいだろ」
「邪魔しちゃ悪いかな、と思って」
「い、生命の危機にのんきな奴だな……」
竜さんは呆れて、黒川さんは声に出して笑った。
手の中で、きらきら光る玉を弄びながら。
にゃあ、と小鉄が気になるようだ。可愛い声を出して訴える。
俺は地面に転がっている骨と振袖を見た。
しかし、既に骨さえ解けて消えていく所だった。
振袖も、やがて消える。
後には何も残らない。
「竜玉、奪って良かったのか」
「仕方ないよ」
「……りゅーぎょくって、それですか?」
二人の会話に割って入る。小鉄がさっきから気になって仕方ないらしく、可愛い声でずっと鳴いてる。
黒川さんの手の中にあるのは、大きめのビー玉のように見えた。ゴルフボールぐらいの、青緑の玉。
「僕がずっと前に流に貸してあげたものなんだ。――でも、これを使って悪さするようになったんじゃあ、もう貸してあげられないよ」
言いながら、竜玉を見る。
「良い色になったね。流がちゃんと己を鍛えていた証拠だ」
「……」
褒められても、その声はおそらく流さんには届かない。
竜さんが大きく身体を伸ばした。
「さ、帰ろうぜ。疲れた」
「真之介は何もしてないんじゃないかな?」
「来ただけで疲れた」
二人の雑談を見ながら、俺もゆっくりと歩き出す。
最後に振り返るも、やはりもう流さんの痕跡は何も見つからなかった。
にゃあん、と小鉄が俺を慰めるように鳴いた。
それから、旅館に戻ってもう一度温泉に入った。竜さんも嬉しそうに付き合ってくれた。
旅館のコインランドリーで服は洗濯。旅館に浴衣と言うものが備え付けてあって本当に良かった。
晩御飯の時、流さんの話を誰に聞いたのか。まゆちゃんが怒りながら俺の横にやってきた。
「流はいやなひと。まゆのお兄ちゃんになんてことするのかしら」
そんなに大人数じゃないのに、旅館の人が気を使ってくれて、小さな宴会場を用意してくれた。せいぜい10人ぐらいで使う程度のものなのだろうけど、五人にはやはり少々、広い。
まゆちゃんは俺の横にぴったりとくっついているのだし。
子供用の浴衣を着ているのだけど、帯の結び方が可愛い。大きなリボン結び。こういう結び方もあるのか。
「お兄ちゃん、けがはないの?」
「大丈夫。ちょっと胸を打たれただけで」
胸に手を当ててまゆちゃんの言葉に返す。
でもまゆちゃんはさらにむっとした顔になった。
「まゆのお兄ちゃんに手をあげたのね。まゆ、流は嫌いよ」
「嫌いって言ってももう滅んだぞ」
竜さんは手酌で日本酒を注ぎながら言った。
横の黒川さんにも勧めているのだけど、黒川さんはやんわりと断って黙ってウーロン茶を飲んでる。
「ほろんだの? いいきみ」
「まゆちゃん」
「だって、お兄ちゃんにひどいことするひと、まゆ嫌いよ?」
俺に寄り添ってまゆちゃんは上目遣い。
……この子、大人になったら凄い手管で男を陥落しそうだなぁ。
末恐ろしい。
つんつん、と逆側からつつかれる。
そちらは小夜さん。
にっこり笑って、ビールの瓶を示された。
俺の目の前には、まださかさまのコップ。
「い、頂きます」
お酒は苦手だけど、美人の酌は本当に良いと思います。
特に浴衣姿の小夜さんは、普段以上に色っぽいです。
「お兄ちゃん、まゆ、きめたわ。いいでしょう?」
「え?」
小夜さんの綺麗な笑顔を見てたら、逆側からまゆちゃんにそう言われた。
何の話だろ。
「うたれたむねが、夜にいたんだら、たいへんよ? まゆがきょうはいっしょに寝てあげるわ」
「ああ、一緒に寝るの? いいよ、ええと……男部屋に来る?」
「そうね、そうしましょう」
まゆちゃんはちらりと竜さんを見た。
「まゆと竜が入れ替わるとちょうどよいわ」
竜さん、思い切り酒を噴いた。
小夜さんは片手を頬に当て、あら、と言わんばかりの表情で嬉しそうに笑う。
……あー、そうか。都合、竜さんと小夜さんが同室、か。
「いやだ、絶対に嫌だ。死ぬ、俺は絶対に死ぬ」
「殺しはしないよね、小夜さん」
黒川さんの言葉に、にこりと笑う小夜さん。
「ほら、せいぜい半死半生って所かな」
「半分殺す気じゃねぇか!!」
竜さんは泣きそうな顔でわめいた。
その声がよほど大きかったのだろう。部屋の隅で一人転がっていたらしい小鉄が不満そうに大きな声で鳴いた。
結局。俺が女部屋に行く事になったのはどういう理由だろう。
とにかく。
小夜さんの横で眠れぬ夜を過ごす羽目になった。
翌日。
朝風呂に向かう俺は、がちがちに凝った肩を回しながら旅館の廊下を歩いていた。
まゆちゃんに腕枕をしていたのだけど、同じ姿勢だとやっぱり身体がきつい。
うーん、温泉に来て肩凝りになって帰るってどういう事だろ。
「ね、小鉄」
足元に居るはずの小鉄に話を振るとふみゃん、と小さな声が返ってきた。
廊下と言う事で用心してくれているのかもしれない。
男風呂の脱衣所に入ると同時に、黒川さんとばたりと会った。
「あれ」
「早起きだね、基樹くん」
「眠れなくて」
俺は苦笑する。
小夜さんが真横で寝ているんですよ。眠れません。
そういう意味だったんだが、黒川さんは少しだけ表情を曇らせた。
「御免」
そして、続いた謝罪の言葉。
誤解させた。
「あ、いえ、流さんの事は、その――」
「迷惑かけたね」
「……いえ」
「流は――元は人だったから、逆に、人の罪が許せないんだ」
元は人。
人が、どうして。
「生きたいって望んだ流が可哀想で力を貸したんだ」
でも止めておいた方が良かったかな、と黒川さんは苦笑。
手にタオルを持って、それじゃあ、と脱衣所を後にしようとする。
「あ、あの!!」
俺は必死で呼び止めた。
黒川さんは俺の横。首を傾げて立ち止まる。
「……俺が、人殺しだって言われた事、どうして、黒川さんも竜さんも具体的に聞かないんですか」
「知ってるから」
物凄くあっさりと答えが返ってきた。
長い指が、俺の真後ろ、脱衣所の隅辺りを示す。
「そこに居るよ。……7、8歳ぐらいかな。男の子。ずぶ濡れで座ってる」
俺は振り返る。
勿論、俺には何も見えない。
「その子の全身に基樹くんの罪の意識が絡んでいるから、その子の死に基樹くんが絡んでいるんだろうな、と。そう、思っていた」
違うのかな。
問い掛けられても俺は何も言えなかった。
逆に問い返す。
「最初から……居ました?」
「そうだね。白桜荘に来た時から基樹くんに付いて来てたよ」
ずっと、傍に居たのか。
黒川さんは俺の顔を見て宥めるように笑った。
「そんなに強い存在じゃない。何も出来ないよ」
「分かってます」
笑い返す。
「何か出来るんだったら、俺はもう祟り殺されている筈ですから」
黒川さんはもう少しだけ笑った。
長い指で今度はお風呂の方を示す。
「誰も居なくて気持ちいいよ」
「はい」
黒川さんは軽く手を振って脱衣所から出て行った。
――俺は、部屋の隅を見る。
小鉄が小さく鳴いて俺の足元に擦り寄ってくる。
「ずっと居たのなら、俺の事、もっとちゃんと恨んだら良かっただろ」
なぁ、と呼び掛ける。
「なぁ、文弥」
呼び掛けに答える声は無かった。
俺は何故だかため息を付いて、風呂に入るための準備を始めた。
朝ご飯を食べてなんだかんだしているうちに、出発の時間になってしまった。
待ち合わせのロビーでぼんやりしていると、何だか旅館の人が騒がしい。
「……どうかしました?」
通りかかった、フロントのおじさんを呼び止めて聞いてみる。
それが、とおじさんは困ったように口を開いた。
「流沼が突然涸れちゃって」
「ながれ、ぬま」
「ああ、お客さんが昨日行った、加賀美沼の事ですよ。土地の人間はみんな流沼って呼ぶんで」
地図には加賀美で載ってますが、と付け加える。
おじさんは足を止めてくれていた。
ならばともう少し聞いてみる。
「どうして流って……名前がふたつあるんですか?」
「昔、あそこで流って名前の巫女さんが殺された、って伝説があるんですよ」
「……殺された?」
「嫌な伝説でしょう」
おじさんは苦笑。
でも言葉は止まらなかった。
「竜神さんの力で予言が出来たって言う巫女さんが居て、その人が流って言ったそうです。綺麗な娘さんだったそうで、土地の権力者が彼女を手に入れようとしたけど、『自分は竜神のものだから』と巫女さんは決して頷かない」
土地の権力者はそれでも諦められなかった。
村の人たちに命じて彼女を村八分にして、それでさらに彼女に迫った。
しかし、巫女は頷かない。
「そこで怒った土地のお偉いさんは刀で巫女さんをバッサリ」
おじさんは自分の首を切るような仕草をした。
「死体は沼に沈めたそうですが――それから何週間も雨が降り続け、しまいには、川が溢れてその権力者の家を流してしまったそうです」
権力者の家は全員が溺れ死んだと言う。
「自分の巫女を殺された竜神が怒ったって言う話ですが、同時に、死んだ巫女さんが竜神から力を貰って神様になって祟った、って言う伝説もあるんですよ」
「いえ――」
俺は情けない顔で笑う。
「その巫女さん、神様にはなれなかったそうです」
「は、はぁ?」
不思議そうな顔をされた。
俺は笑うしかなかった。
おじさんが不思議そうな顔のままその場を去って、俺は一人で他のみんなを待っていた。
小鉄の気配さえ感じない。
「さびしいなぁ」
ぽつん、と呟いた。
ぽふん、と頭に何かが乗った。
やわらかい感触。それを抑えながら振り返ると、竜さんが立っていた。
そして、俺の頭の上にあるもの。
くたくたした感触の、猫のぬいぐるみだった。白地に茶色のぶちの子猫。
「タマに似ているから、やる」
「……」
「受け取れよ?」
「はい」
にゃん、と、いつの間にか来ていた小鉄が鳴く。どうやら竜さんと一緒に行動していたようだ。
「ねぇ、竜さん」
「ん?」
「流さんの沼が涸れたそうです」
「だろうな」
「黒川さんは寂しいって思わないんでしょうか」
「あいつ、そういうの表に出さないから」
「影でこそりと泣くタイプ?」
「泣きもしない」
つまんねーだろ、と竜さんが言う。
そうかもしれませんね、と俺は返す。
二人と一匹で、皆が揃うまで、ぐだぐだと話し込んでいた。
そして、最後の難関。
車。
俺は大きく深呼吸して運転席側のドアに付いた。
――つんつん、と。
背中をつつかれる。
振り返ると小夜さん。
彼女は小さなバッグから一枚のカードを取り出した。
厚手のそれは。
「……運転免許証?」
にこり、と小夜さんは頷く。
ちゃんと竜胆 小夜って入ってる。
後部座席の窓に手をかけ、顔を出した竜さんが目を細めた。
「……まぁ、五郎よりはマシか」
「え、それなら帰りの運転お願いしてもいいですか?」
小夜さんは笑顔で頷いた。
良かった! これで帰りまで皆に地獄を味合わせなくとも済む!!
助手席に乗り込んだ俺の後ろで、ぽつん、とまゆちゃんが呟いた。
「お兄ちゃん、シートベルトはちゃんとね? あと――最後のおわかれは、ちゃんとすませた?」
「え???」
疑問はすぐに氷解した。
小夜さんの運転は非常に上手だった。
だが、スピード狂だった。
……どうしてあのオンボロな車があれほどの速度が出るのか。俺にはいまだ、よく分からない。
警察を振り切ったように見えたのは、気のせいだと思っておく。
気のせいだよね、小夜さん?
終
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