外伝2・幽霊猫の悪霊退治

 入った途端嫌な予感がした。

 千葉 啓介は完全に動きを止める。

 辺りを油断なく見回す動きの間も、視線以外は動かない。動けない。

 少し前まで何かが建っていたらしい土地。今は上の建物は壊され、更地にされている。千葉は同僚たちと共に、この土地を駐車場へと変える工事の為に呼ばれたのだ。

 同僚たちは千葉を見ている。

 不審そうな表情ではない。

 何があった、と心配する顔だ。

 彼らは千葉の性質を知っている。

 『何か』がある土地に踏み込むと、千葉はそれを誰よりも先に察知するのだ。

「――お客さん」

 親父さんと皆に呼ばれて親しまれている男が、此処で待っていた、この土地の持ち主に尋ねる。

 ゆっくりと、言葉を選ぶように。

「此処――前に何か建ってましたか?」

 客はまだ若い男だ。何となく陰がある。仕事でなければ付き合いたくないタイプの人種だ。

 その男は不審そうに親父さんを見ながら、言った。

「ああ、祖父さんの土地だった。祖父さんの家と――」

 男は続ける。

「小さな稲荷神社が」

 ビンゴ。

 まだ動けぬ千葉を挟んで、同僚たちが視線で頷き合った。



 外伝2

 『幽霊猫の悪霊退治』




 千葉 啓介は今年で三十歳になる。

 小さい頃から身体を使う事が得意で、それに合わせて体格も立派に育った。

 気付けば学生時代のバイトから流れに流れて、そのまま工事現場で働く人間になった。

 それに関しては不満は無い。自分にとって天職だと思っている。身体の自由が利く間はこうやって働いていこう、と思っている。

 ただ、千葉にはひとつだけ厄介な特技があった。

 所謂、霊感体質なのだ。

 何かある土地に踏み込めば分かる。嫌な気配に動けなくなる。

 これも仕事だと言い聞かせ、何とか働き続けるが、そのうち悪い事が起きる。

 千葉にではなく、その現場に。

 後で調べてみれば、昔殺人があったのだの、今回のように元は神社だったのだの、そういうオチが付く。

 同僚たちは千葉が動きを止めるとそれを思い出し、用心するのだ。

 今回もそう。

 親父さんが雇い主に言っている。

「その神社――ちゃんと供養したんで?」

「供養? 別に」

 男は当たり前のように答えた。顎で土地の隅を示す。

 そこにあるのは積み上げられた廃材。その幾つかが、いまだ鮮やかに紅い。

 神社の残り。

 その量を見る限りでは本当に小さな神社だったのだろう。信心深い人が庭に用意する、小さな神社。

 しかし、大きさではない。

 それに対し、人がどれだけの思いを込めたのか。それが肝心なのだ。

 親父さんはまだ何やら雇い主と話していたが、やがて雇い主は手をひらひらと振って去っていった。

「駄目だ」

 親父さんは肩を竦める。「アイツ、祟りなんてこれっぽっちも信じちゃいねぇ」

 それから「千葉ァ」と申し訳無さそうに呼ぶ。

「すまねぇが今回も頑張ってくれ」

「はい」

 仕方無い。

 気が利く同僚が持ってきてくれた塩を肩に振りかけてもらえばかなり楽になった。

 動ける。呼吸もちゃんと出来る。

 もう少し時間があれば何とかなるだろう。

 千葉の様子を見て同僚たちも安心したようだ。

「じゃあ、働くかァ」

 親父さんののんびりとした声に思い思いの返答を誰もが返した。





 夜。

 既に仕事が終わった時間に、千葉は工事現場にやってきた。

 機械が運び込まれ、静かだった土地は急に賑やかになってきている。

 近付いて千葉は緊張していた大きな身体から力を抜いた。土地は静かなものだ。気配も弱い。

 手に持っていた日本酒と、皿に載せた油揚げをそっと廃材の前に置いて、手を合わせる。

 ――俺たちはあんたが嫌いで何かする訳じゃねぇ。頼むから祟らないでくれ。

 何とも情けない願いだが本心だ。

 さほど広くない土地だ。工事が終わるまで数日だ。

 その間だけでも鎮まってくれればそれでいい。

 手を合わせ終え、さて、と振り返った千葉は腰を抜かす事になる。

 後ろ。土地の入り口に辺りに誰かが立っている。ぼんやりと光る姿に腰を抜かしたのだ。

 が、よくよく見れば、そこらに立っている電灯に照らされただけのようである。

 二十代半ばぐらいの男がこちらを眺めているだけだ。

 千葉は軽く舌打ち。睨むように男を見る。

 威嚇しているような動作だが、本当を言えば照れ隠しだ。

 相手も、真夜中に空き地の隅っこでごそごそやっている男が気になって見ていただけだろう。ちょっと睨んでやれば消える。そう思っていた。

 近付いて分かった。

 どうやら相手は日本人ではないようだ。

 女のように長く伸ばされた金髪と、夜目にも鮮やかな蒼い瞳が見える。顔立ちも日本人ではないのが明白だ。

 千葉は睨むのを止めて男の横を通り抜けようとした。

「――なぁ」

 声を掛けられた。

 変なイントネーションも無い、綺麗な日本語だ。

 千葉は足を止め、男を見た。

 男は真っ直ぐに空き地に視線を注いでいる。

「何かあったのか、此処で」

「あ――いや、そういう訳では」

「だよ、なぁ」

 男は手に持っていた長い袋で己の肩を軽く叩いた。袋の中は、何か長いモノが入っているようだ。

肩を叩く音が硬い。

蒼い瞳を細め、その動きを繰り返す。

「気配――何も残ってねぇもんなぁ」

 気配?

 男がようやく千葉を見た。

「何か見たら教えてくれよ」

「あ、あぁ」

 思わず頷く。

 男が唇の端を上げて笑った。

「じゃーな」

 その笑みのまま、長物が入った袋を降り、身を翻す。

 千葉の視線はその背に釘付けになった。

 白いTシャツ。そこにくっきりと描かれていたのは、『NO』の文字。

「……」

 思い出してみれば、Tシャツの前は『YES』だった気がする。

「……YES、NO……Tシャツ?」

 誰だそんなの商品化した奴。

 激しく突っ込みたくなったが、既に男の姿は無かった。






 千葉の祈りが聞いたのか。

 工事は順調に進んだ。

 アスファルトを引き終わった地面を見て、ほっと安堵の息を吐く。

 このまま無事に終わってくれればいい。



 にゃん、と。



 猫の声が聞こえたのはそんな時。

 甲高い声。子猫の声だ。

 千葉は辺りを見回す。

 機械だらけのこの場所に猫が入り込んで、万が一の事があれば大変だ。工事に差し支えるし、だいたい、猫が可哀想だ。

 捜して追い出そう。

 そう考えたのだ。

 しかし見当たらない。

 猫の声はする。

 にゃん、にゃん、と少し間を置いて、まるで工事現場をご機嫌で散歩するような猫の声。

「……?」

 居ない。

 もう敷地の外に出ているのかと考える千葉の目の前で。

 まだ柔らかいアスファルトに、ぺたり、ぺたりと猫の足跡が付いていった。

 猫の姿は無い。

 だが、猫の足跡が、ぺたぺたと、アスファルトの上を横断する。

 千葉はその足跡の方向を見守る。

 やがて柔らかいアスファルトの箇所を抜けたらしく、足跡は付かなくなった。

 残ったのは小さな猫の足跡が幾つか。

「……」

 千葉は無言で腰を抜かした。




 千葉は猫の幽霊を見た、と仕事を休んだ。






 親父さんが気を利かしてくれたおかげで、その後、あの現場には行かずとも済んだ。

 猫の幽霊を見ずとも済んだのだ。

 安心して別の現場で千葉は働く。

「――千葉ァ」

 同僚の呼び声。

 見れば、同僚が手招きしている。

 入り口間際に見覚えのある男が立っていた。

 先の現場の持ち主だ。あの陰のある若い男。

 千葉を認め、男はぺこりと頭を下げた。



 男の名前は平井と言った。

 陰のある男。本人が暗い訳ではない。まるで日陰に居るようにその姿に陰が差す。

 千葉はこういう人間が苦手だった。

 覇気が無い。まるで人間以外の何かを相手にしている気がしてくるのだ。

 工事現場の入り口。とりあえず危険の無い場所で、上司の許可を得た上で話を聞く。

 正直、聞きたくない話の気がしていた。

「――猫の幽霊を見た、と聞きました」

 平井はそう言って切り出した。

 若い外見に似合わぬ、丁寧な口調。

「ああ、見たと言うか――うん、見た、かぁ」

 足跡と鳴き声だけだが。

 平井の顔は真っ青だ。

 その真っ青な顔で、平井は左袖を捲った。

 見てぎょっとする。

 一面、赤い傷跡が走っていた。

 それはまるで――猫の爪跡。

「身体中にあります」

「……ね、猫にやられたのか?」

「さぁ、分かりません。目が覚めると傷が増えています。徹夜をすれば傷も増えませんが、一瞬でも寝ると傷が増えます」

 平井は苦笑。「このままだと俺の気が狂いそうです」

 平井の苦笑にぞっとした。

 暗い笑み。

 確かに狂う人間と言うのは、こういう顔をしているのかもしれない。

「そ、それで平井さんは俺に何をしろと――」

「一緒にあの土地へ行って下さい」

「へ?!」

 逃げ腰になる千葉に、平井は勢い良く頭を下げた。

「あの土地を動かしてからこうなったんです。お願いします。一緒に原因を探して下さい」

「し、しかしよ、俺はそういうのは分からない――」

「でも見れるのでしょう?」

「見たと言っても――」

「お願いします!」

 平井はまた頭を下げる。

 このままだと土下座でもされそうだ。

 同僚たちの視線が痛い。

 結局。

 ……千葉は平井の頼みを受ける事にしたのだ。

 行っても俺は何の力にもならない、と何度も繰り返して。





 土地に向かったのは翌日の昼間だ。

 夜に行く事だけは避けたかった。

 それでも土地に着いた頃には午後を大きく回り、既に夕方だ。

 案内すると言った平井が道に迷いに迷ったのだ。

 ――駐車場として既に完成している。

 一台、既に車が停まっていた。軽トラックだ。

 千葉は無言で辺りを見回す。

 何も感じない。

「……変だな」

「どうしました?」

 平井は相変わらず丁寧な口調で尋ねてくる。

 いや、と曖昧に答え、千葉は更に辺りを見回した。

「何も――気配を感じない」

「何も?」

「ああ」

 綺麗なものだ。

 此処は既に人工的に作られた土地。何も残っていない。

「それは良かったです」

 平井が言う。

 笑い声。

 ふと――妙な事に気が付いた。

 平井はこんな丁寧な男だったろうか。

 親父さんに話しかけられ、「別に」と突き放すように答えた声。神社の廃材を顎で示す動き。とてもとても――千葉に敬語で話しかけてくる人間には見えなかった。

第一、誰に千葉が猫の幽霊を見たと聞いた?

 同僚たち? まさか、誰が話すか。土地に何かが出たかだなんて、持ち主に話す訳が無い。

 じゃあ、何故――

 ゆっくりと千葉は振り返る。

 平井が笑っている。

 時刻は夕方。

 逢魔が時。そんな言葉を思い出す。

 時刻で一番怖いのは夕方。昼が終わり、夜が始まる。その時間。一番、人と魔が出会う瞬間だ。

「俺の気配に気付けないような貴方なら――呼ばなくても良かったかもしれませんね」

「ひ、平井さん、俺、用を思い出したんで――」

 逃げようとする千葉の手を引き止める、右手。

 男のクセになんでこんなに爪を伸ばしてるんだよ、と千葉は嫌な汗を流しながら考える。千葉の手首に食い込むほどの、長い爪。

「まだ全部終わってないんです。終わるまで――誰にも邪魔をされたくない」

 笑う平井の目が、すぅっと開く。

 縦の瞳孔。

 猫の目。

 悲鳴さえ上げられない。

「大丈夫ですよ。綺麗に隠してあげます」

 空いた手を胸に当てて、笑う。「“彼”のように」

 平井――いや、平井の皮を被った何かが笑う。

「平井さん、爪が、爪が痛いんだけど――」

 ああ、どうしよう。

 逃げられない。

 千葉の腕力でも、平井の細腕を振り切れない。

 平井が笑う。

 左手を、長い爪がきらめく左手を、振り上げる。

 ――あれを喰らったら流石に痛いだろうなぁ。

 そんな馬鹿な事を、悲鳴もあげられずに考えた瞬間だった。



 ふぅ、と。



 猫の威嚇の声がした。

 平井が咄嗟に振り返る。

 その平井の顔が、大きく裂けた。

 ざっくりと、左目を通った傷跡。鋭利なナイフで斬られたような傷跡が、その顔に刻まれる。

 上がった悲鳴は、人間ではなく猫の悲鳴だった。

 悶え苦しむ平井を置いて、千葉は地面を這うように逃げた。

「貴様、貴様、貴様ァっ!!」

 ようやく人の声で平井が怒鳴る。

 いや、平井ではない。その顔は、人の身体に乗っているものの、猫の顔だ。

 傷付けられた左半面を押さえ、残った右目でぎらぎらと千葉を睨み付ける。

 ふぅ、と猫の威嚇の声が、千葉の正面から。

 千葉は目を丸くする。

 気配がある。

 気付いた。

 千葉の前。千葉を守るように、小さな気配が、猫の化け物を威嚇している。

 化け物の半面を傷付けたのも、この気配がやってくれたのだろう。

 千葉を、守る動き。

「貴様も俺と同じ存在だろうがっ! 何故に人間を庇うっ!!」

 シャアッ、と威嚇の声が強くなる。

 化け物の言葉に反論しているらしい。

 千葉は自分の前の空間に目を凝らす。しかし、気配と声は感じるものの、姿は見えない。

 まるで幽霊。

 声を聞く限りは猫。そして姿の見えない――猫の幽霊、だ。

 血だらけの半面から手を離し、化け物が両手を構えた。

 長い爪から赤い血が落ちる。

「邪魔をするなら殺シテヤル!」

 後半は不明瞭な発音。

 化け物の姿は既に身体も人では無い。巨大な、グロテスクな猫。

 化け物が飛び掛ってくる。

 千葉は両手を交差させ、せめて自分の身体を庇った。

 ――身体が引かれた。

「……?」

 肩を乱暴に後ろ側へ引かれたのだと分かったのは、地面に倒れ、空を見上げた時。

 子供の時に見たような、綺麗な夕焼けの中。

 見覚えのある金髪の男が千葉を見下ろしていた。

「……YESNO……Tシャツの人」

「……あぁ?」

 物凄い不審そうな顔で見下ろされた。

 千葉を見下ろしながら、男は右手で武器を構えていた。白い刃の日本刀。

 横に構えられたそれが、化け物の爪の一撃を押さえ込んでいた。

「くっ」

 呻き、化け物が後方に飛ぶ。

 金髪の男は千葉から視線を外し、地面を見た。

「タマ、頑張ったな。後で牛乳奢ってやる」

 ふにゃあん、とご機嫌の声。

 タマ? 猫の名か?

 やはり、千葉に見えない猫が居るのだ。

 男は地面から視線を動かす。

 真正面。化け物を見据え、刃で指し示す。

「てめぇ、人が夕方アニメを観ている時間に邪魔すんな」

 男は心底起こっている声で言う。「とりあえず本編観たけどよ、エンディングと次週予告飛ばしたろーが」

 ……考えたくないが、それで千葉を助けに来るのが遅れたと言うオチではないだろうか。

 確認したくない。

 自分の生命が夕方アニメより安いものだと思いたくない。

「まぁ、早くぶっ飛ばして帰る」

 男は言うだけ言って脇に刀を構え――

 後の動きは見えなかった。

 踏み込み、同時に斬った。

 それだけの動きなのだろうが、恐ろしく踏み込みが早かった。

 人の、動きではない。

 わき腹から肩に向けて、斜めに切り裂かれた化け物が地面に倒れるのを見ながら、千葉は改めて腰を抜かしていた。

「――オッサン」

 化け物が灰になるのを確認してから、男が千葉の前にやってきた。

 着ているTシャツの文字は『日進月歩』。文字色はピンク。

 ……こういう変な柄のシャツは何処で売っているのだろう。

 千葉は腰を抜かしつつ考えた。

「なぁ、オッサン、聞こえてる?」

「あ、あぁ」

「オッサン、俺たちに助けられたの分かるか?」

「あ、あぁ」

 千葉は何とか身体を動かす。

 立ち上がるのは無理だが、座りなおすぐらいは出来た。

 男に向かって、一礼。

「訳は分からんが――助かった」

「だろ?」

 男はにやりと笑って、なら、と続ける。

 自分の足元を見て。

「タマに牛乳買ってやってくれよ」

 にゃん、と足元で猫の声がする。

「今日じゃなくていいぜ。今度――白桜荘に来てくれよ」

「はくおうそう?」

「あんたなら来れると思うぜ?」

 男は笑い、足元に「行くぞ」と声を掛けると歩き出した。

 歩きながら男は紫色の袋に刀を仕舞う。

 千葉の前で可愛らしく、見えない猫が鳴いた。

 声が動く。

「あ、あの!」

 千葉の声に、見えない猫と男が止まる。

 男と、猫を見て、千葉はもう一度頭を下げた。

「有り難う」

 にゃん、と見えない猫が嬉しそうに鳴いた。






 数日後。

 平井の自宅から、彼の惨殺屍体が発見された。

 猫科の大型動物に食い荒らされたような屍体だったらしい。

 ただ――死後既に十日以上経過していた。

 が、平井は数日前まで目撃されている。

 警察はかなり混乱したようだ。

 千葉の所にも取り調べは来たが、本当の事を話しても仕方無い。知らない見てない聞いてないで押し通した。

 此処からは女性週刊誌で読んだ事だが。

 平井を恨んでいる人間を調査中に、彼の祖父の名前が浮かんだ。平井は自分の親と共謀し、祖父から土地を奪い去ったと言う。

 平井の祖父と言う老人は大変な動物好きで、特に猫を溺愛していたと言う。

 飼われていた老猫は、老人が小さなアパートで首を吊った際にはもう姿が見えなかった。

 女性週刊誌の記事は、猫の怨念、と結んでいた。

 あながち間違いじゃない、と千葉は思うのだ。

 あの化け物が言っていた、「まだ全部終わってない」と言うのは、平井の両親をも殺そうとしていたのではないか、と考える。

 平井の両親は、今、何を考えているのだろう。

 千葉には分からない事だ。





 白桜荘。

 そこを見つけるのに一苦労した。

 せめて住所を伝えてくれれば、と、あの金髪の男を恨めしく思う。

 『白井病院』と書かれた門のプレートを見つつ、千葉は考え込んでいた。

 何となく入り難い。

 牛乳は買ってきたが、さて、どう言って入ったものか。

 ――スイマセン、先日化け猫から助けて頂いたものですが。

 何と言う挨拶だ。

 千葉は大きな身体でうろうろと門の前を行ったり来たり。

「――あの」

 真後ろからの呼びかけ。

 振り返れば、若い男が一人立っていた。

 軽く茶の入った髪以外は今風とは掛け離れた、真面目そうな、年寄り受けしそうな青年だ。

 ピアスやペンダントと言った装身具も見えない。あえていえば、左手首に付けた数珠のようなブレスレットが唯一の装身具。

 それでも真面目そうな印象はそのままだ。

 サマーパーカーの襟元に軽く触れながら、男は困ったように笑った。

「うちに何か用ですか?」

「え?」

「いえ、ずっとアパートの前を行ったり来たりしているな、と思って」

「い、いや」

 えぇい、度胸だ!

 千葉は心を決める。

「せ、先日、こちらの方にお世話になってお礼に伺いました」

「誰にでしょうか?」

 青年は首を傾げる。

 そこで、名前を聞いてない事に気付いた。

「ええと、金髪の。タマって猫を連れた男の人で――」

「小鉄です」

 断言する口調が割って入る。

 驚いて男を見る千葉の前で、先程の愛想の良さが嘘のように不機嫌そうに男が言った。

「竜さんですね。竜さん、小鉄をすぐにタマって呼ぶんだから。仕方ない人だなぁ」

「こ、小鉄?」

「猫、ですよね」

 男はちょっと笑う。「少し変わった、猫でしょ?」

 声に混じる微妙な色合い。

 姿の見えない猫。

 確かに変わった猫だ。

「あの子、小鉄って言うんです。俺の飼猫です」

 そう言って笑う男の顔は、子供みたいに素直な笑みだ。

 どれだけ小鉄と言う猫を可愛がっているかがよく分かる。

「良い猫だな」

「有り難うございます」

 とても、嬉しそうな笑顔だ。

 千葉は牛乳を差し出す。

 不思議そうな顔で、それでも牛乳の入ったビニール袋を受け取る。

「小鉄にやってくれ。助けてもらったお礼だ」

「こんなに沢山。小鉄一人じゃ飲みきれませんよ」

 笑う声。

 笑う声のまま、誘う。

「竜さん、中に居ると思いますよ。どうぞ」

「あぁ、失礼します」

「そうだ。俺、大野って言います。大野 基樹」

「俺は千葉だ」

 簡単な自己紹介をしながら玄関へ向かう。

 丁度、玄関が開いた。

 顔を出したのは、長い髪の小柄な少女。

 ぴたり、と千葉の動きが止まる。

「茜さん」

 基樹がその少女の名を呼んだ。

 笑顔の少女は基樹を見て、それから千葉を見た。

「あら、お友達?」

「前に竜さんに助けてもらったってお礼を言いに来てくれたんだって。竜さん、部屋ですか?」

「ううん、一階に居るわ」

 会話の間、千葉は呆然と少女を見ていた。

 小柄な身体。千葉から見るとまるで子供のような背丈だ。

 身体を包むような長い髪は綺麗な黒で、可愛らしい少女っぽい顔立ちによく似合っている。

 茜と呼ばれた少女は、正直に言えば、とても、可愛らしかった。

「――千葉さん」

 基樹が笑顔で少女を示す。

「こちらは此処の管理人さん、桜井 茜さん」

「初めまして。桜井です」

 向けられた可愛い笑顔に、呆然と、ただ呆然と。

 千葉が動かないものだから、茜は困ったようだ。

 小首を傾げる。

「……千葉、さん?」

「は、はい!!!」

 呼ばれた名に直立不動。

 顔は真っ赤。汗はだらだら。心臓は暴れている。

「お、おれ、いや、わたくしは千葉 啓介と申します!!」

 裏返りかけた声で何とか名前を名乗る。

 茜は一瞬驚いたようだが、やがて可愛らしく笑った。

「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

 ね、と見上げてくる瞳が、これまた可愛い。

 千葉は自分の心臓がこのまま胸から飛び出すのでは、とありえない心配をした。

 茜はそんな千葉に気付かずか。身体を引いて、開いた玄関の中へと千葉を誘った。

「どうぞ。中へ入って下さいな」

「い、いえ!!」

 千葉は直立不動のまま答える。「じ、自分は用を思い出したので、これで!!」

「あら、残念。また遊びに来て下さいね」

「はい!! 必ず! そ、それでは!!」

 挨拶をして、そのまま身を翻し、猛ダッシュ。

 茜はにこにこ笑顔で千葉を見送ったが、基樹は首を傾げていた。

「そんなに忙しかったのかぁ」

 手の牛乳を見て。

「……そんなに忙しいのに、小鉄にちゃんとお礼を持ってきてくれるなんてイイ人だな」

 単純に、そう考えた。





「親父さん」

 千葉が遠い目をして言う。

 嫌な予感を覚えつつ、遠い目の千葉を見た。

 一昔前の少年漫画の熱血少年のような顔をして、千葉が、言った。

「恋は突然訪れるものなんですね」

「……千葉、てめぇ、今度は何に祟られた?」

 そうとしか思えなかった。






 千葉 啓介。

 ごく普通の一般人、男性。

 ただ、白桜荘管理人・桜井 茜に一目惚れ中。



 彼と、白桜荘の住人の物語は、まだまだ、これから。




                        終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る