第5話・幽霊猫と影遊び

 変な夢を見て飛び起きた。

 目覚まし代わりの携帯電話で時間を確認すれば、真夜中二時。

 ふにゃあん、と俺の胸上辺りで丸まっていた小鉄が動く。姿は見えないが、恐らく伸びをしたのだろうと考えた。

「ごめん」

 俺は小さく小鉄に呟く。動く気配に顔を近づける。

 擦り寄ってくる気配に微笑んだ。

「ごめん、起こしちゃった?」

 にゃぅ、と小さな声。ごろごろと喉を鳴らす音。

 甘えた音だ。

 だけどやはり姿は見えない。生きている猫ではない、幽霊猫の小鉄を、俺は見る事が出来ない。

 見えない小鉄と暫く顔をくっつけ合って、それから俺はベッドから降りた。

 変な夢を見たせいだろう。微妙に汗ばんで気持ち悪い。

 部屋には備え付けの古いクーラーがあるが、音が五月蝿いものだからタイマーで動かしていた。

 季節はそろそろ夏真っ盛り。暑いのは事実なのだが、うん、クーラーに頼るのは身体に悪い。

 でも暑い。

 顔だけでも洗ってこよう。

 二階の洗面台は薄暗くて嫌いなので、タオル片手に一階のお風呂に向かう。あそこも洗面所がある。

 小鉄も可愛い泣き声を上げてついてきた。

 俺は慌てて人差し指を一本立てて「静かに」と囁く。

 賢い小鉄は悟ったらしく、鳴き声停止。微かな足音だけが俺の後を着いてきた。





『幽霊猫と影遊び』





 一階のお風呂場。使用中の札が下がってなかったものだから、脱衣所へ向かうドアを遠慮なく開く。

 途端、聞こえてきたのは水音。

 誰かがお風呂に入ってる。

「……」

 こんな真夜中に誰が? と思わず逃げ腰になりながら確認。

 小夜さんだったら物凄く失礼な事をまたやる羽目になりそうだ。

 脱衣籠の中にあったのは、紫色の布に包まれた長物。

 竜さんの刀だ。

 ああ、ならいいや。

 俺は脱衣所に入り込むと、洗面台で顔を洗い出した。

「――誰だぁ?」

 風呂場からの声。

 俺は手で顔の水を拭いながら声を返す。

「俺ですよ」

「五郎か」

「……」

 ちなみに俺の名前は大野 基樹。竜さんって人は俺の名前を決して覚えない。正直、もう諦めた。

「五郎、悪ィ、ちょっと洗剤くれ」

 洗剤?

 脱衣所の中には洗濯機もある。昔ながらの二層式の。

 その横にある洗剤の箱を掴んで、俺は風呂場へ続くドアを開く。ちなみに水嫌いの小鉄は脱衣所の入り口でみゃみゃと鳴いていた。

 風呂場の中。

 どうやら竜さんは風呂に入っていた訳ではないようだ。だって上半身は裸だが、下はちゃんとジーンズ穿いている。

 風呂椅子に座った彼は、肩越しに俺を見た。

「おお、どうもな」

「何してるんですか?」

「洗い物」

 そうですか、と答えながら、洗剤を渡そうとして――動きが止まった。

 竜さんの左肩。丁度覗き込んだから見えたのだが、大きな刺青がある。

 いや、刺青じゃない。小夜さんのもののように綺麗な絵じゃない。紅く、引き連れたような……火傷の痕。

 それが漢字を作っていた。

 『辰號』と二文字。

 ちょっと難しい漢字なので俺には読めない。一文字目が『たつ』なのは分かるのだけど。

 火傷の痕が漢字を作るなんてありえない。人為的なもの?

 でもどう見ても火傷だ。火傷が、どうして、文字になる? 自分でした? そんな、想像しただけでも物凄く痛い。

 ……他人にされた、って言うのも想像したくないほど、痛いが。

 何となく見てはいけないものの気がして、俺は視線を逸らす。

 逸らして、今度はそれが見えた。

 竜さんが此処に居る理由。洗っているもの。

 血塗れのTシャツ。

 慌てて竜さんを見る。

「な、何ですか、その傷っ!!!」

 お腹。お腹がばっさり裂けてる。

 いや、もうこれ冗談とか例えじゃなくて、本当に、指でも突っ込めそうなぐらいばっさりと裂けてる。

「ああ、ちょっと裂けた」

「ちょっとじゃない! 内臓見えそうって、言うか、何か覗いてる!!」

「コンバンハ」

「裏声使っても可愛くないっ!!」

 俺が真っ青になってるって言うのに、竜さんは平然としたもの。

 蒼い瞳を半眼。洗っていたTシャツをぱんと膝で叩いて広げる。

 お腹あたりがばっさり裂けたTシャツ。

 ちなみに文字は『日当良好』。

「あー……血も取れねぇし、これじゃあ修復無理だな」

「……Tシャツの洗濯やら修復の前に身体の手当を行って下さい……」

「腹ってたまに気付いたら裂けてねぇか?」

「一度もありませんよ、そんな事っ!!!」

 指先切るとかと話が違う。

 俺は洗剤を放り投げて竜さんの腕を掴んだ。

「本当に手当しましょう。俺も応急手当ぐらいは習ってますから」

「軍式なら俺も出来るからいい」

「……何処で習ったんですか?」

「陸軍」

「あんた何歳だよっ?!」

 突っ込みも連続だと疲れる。

 もう無理矢理でも立たせる。それから手当する!

 そう思って振り返った俺は、風呂場のドアの所に立った少女に気付いた。

 黒髪おかっぱの、幼い少女。白地に紅い水玉の、子供っぽいネグリジェを着ている彼女は、不機嫌そうに俺たちを見ていた。

「お兄ちゃん、何時だとおもってるの?」

「ま、まゆちゃん、ごめん」

「竜のことなんて放っておいていいわよ。たんさいぼうのいきものは、すぐに怪我が治るってきいたわ」

「……誰が単細胞だ、チビ」

「こりない竜みたいなひとのことをそういうのでしょ?」

 竜さんと会話の後、まゆちゃんは俺に向き直る。

 小さく、笑み。

「もときお兄ちゃん、もう寝ましょう? あしたもお仕事でしょう?」

「……うん」

「まゆもお仕事なの」

「……え?」

 仕事? この小さな子が? 学校じゃなくて?

 ねぇ、とまゆちゃんが促す。

「こねこちゃんが待ってるわ。もう寝ましょう、お兄ちゃん」

「でも、竜さんが」

 竜さんはTシャツをあきらめたらしい。丸めたそれを右手に立ち上がった。

 ……あ、れ。

 さっきは何か――考えたくない何かが――覗いていた筈の傷が、一本だけの線になっている。

 傷だと言うのは分かる。だけど、何かが覗いてない。

 まゆちゃんと話している間に、傷が、治っている。

 完全ではないが、はっきりと分かるほど回復していた。

「大丈夫だろ?」

「……」

 竜さんがそう言って笑うものだから困る。

 くぃ、と俺の袖を引く手。

「ね、竜はたんさいぼうせいぶつでしょ?」

 見れば、まゆちゃんはそんな風に言いながら、悪戯っぽく笑った。





 此処、白桜荘は古い病院を改造したアパート。

 住んでいる人は色々だけど、皆、それぞれ個性的。

 多分恐らく――俺が今まで出会った事も無かった、考えもしなかった、人たち。

 だけど俺は知っている。

 彼らは小鉄を気に入ってくれて、そして小鉄も彼らを気に入っている事。

 これだけ知っていれば、俺は十分。

 他には何も要らない。

 彼らが俺たちを受け入れてくれる以上、俺も彼らを無条件で受け入れる。

 そう決めた。



 だって、俺もこのアパートに住む人たちが大好きだから。




 風呂場を掃除してから寝ると言う竜さんをそのままに、俺とまゆちゃんは二階に戻る。

 小鉄はふにゃふにゃ鳴いてる。俺の足に擦り寄ってくる気配。

 まゆちゃんとは部屋の前で別れた。

 部屋に戻ってベッドに入る。部屋はまだ暑いけど眠気がある。眠れそうだ。

 小鉄がベッドに入って来たのを確認し、俺は目を閉じた。

 大丈夫。変な夢なんてみない。

 俺には小鉄も皆も居る。だから大丈夫。

 呪文のように言い聞かせ――そのうち、俺は眠りに付いた。

 小鉄の気配は俺を安心させるように、ずっと傍でごろごろ言っていた。





 翌日。

 仕事を終えて帰宅した俺は、玄関先で茜さんとまゆちゃんに会った。

「あら、お兄ちゃん、おかえりなさい」

 大人びた口調で微笑むまゆちゃんは、鮮やかな紅い振袖を着ていた。足元には大きな箱。

 その箱を心配そうな顔で眺めながら、茜さんが言う。

「大丈夫? 一人で持てる?」

「だいじょうぶよ、いつも、はこんでるもの」

 まゆちゃんは笑顔。

 反対に、茜さんは心配そうな顔。

 俺は二人の顔を交互に見て、それから「あのー」と小さく声を出す。

 視線が集まる中、自分の顔を示した。

「俺が、運びましょうか」

 主に茜さんに向けての発言。

 茜さんはまゆちゃんを見て、まゆちゃんは笑顔でにっこりと頷いた。

「そうね、お兄ちゃんならいいわ」

「なら決まり」

 俺はまゆちゃんの横を抜けて、一度、アパート内へと向かう。手に持っている鞄を見せて、言った。

「荷物置いてくるから、ちょっと待っていて」

「わかったわ」

 部屋に戻って、鞄をベッドに放り投げて、財布と携帯だけは持った。

 何処かに遊びに行っていたらしい小鉄がにゃあん、と甘い声を上げて戻ってきた。声の辺りに検討をつけて、俺は言う。

「小鉄、まゆちゃんと一緒に出かけてくるけど、一緒に行く?」

 にゃう、と高い声。

 そしてごろごろと喉を鳴らす音。一緒に行く気らしい。

 俺は笑う。

「まぁ散歩代わりに丁度良いか」

 そう言えば、何処に行くのか聞いてなかった。

 まぁいいか。もう夕方だ。あんな小さい子が真夜中までうろつく事は無いだろう。

 小鉄、と名前を呼んで、俺はまゆちゃんが待つ玄関に向かった。





 箱はきちんと風呂敷に包まれている。ちゃんと持ちやすいように、取っ手のような部分がある縛り方。

 持ち上げてみると結構ずっしりと重い。取っ手部分を持つのをやめて、胸に抱く事にした。こっちの方が安定感がある。

「まゆちゃん、何処まで行くの?」

 俺の前を歩き出したまゆちゃんの背中に声を掛ける。

 足元を歩く小鉄とじゃれあいながら歩いているらしいまゆちゃんは、可愛らしい笑い声を零しながら、俺を見た。

 肩越しに、瞳を細める。

「夕闇町をぬけて、行きましょう?」

「……ゆうやみちょう?」

 夕闇町。漢字変換完了。

 だけど、そんな町あったかな?

 首を傾げる俺の前で、まゆちゃんはちょいと角を曲がった。

「こっちよ」

 気付けばさほど詳しく無い場所まで来ている。まゆちゃんに置いていかれると迷うかもしれない。

 俺は慌てて角を曲がった。

 曲がって、思わず、足を止める。

 いつの間に、夕方になったのだろう。

 左右にレトロな雰囲気の商店街が続く道。店屋をやってない建物は、どうやら住宅のようだが、どれもこれもが殆ど平屋の木造住宅。

 見た事が無い。だけど懐かしい景色を、紅い――紅い夕焼けが照らしていた。

 子供たちが笑う。大人たちが会話する。家路を急ぐ人々の間、こちらを見て、軽く腕を広げたまゆちゃんが笑う。

「さぁ、行きましょう」

「……うん」

 俺は迷いながらも一歩踏み出す。

 きゃらきゃら、と。

 箱の中からも笑い声が響いた気がした。

 それに応えるようにまゆちゃんが笑い、小鉄もにゃうにゃうとご機嫌に鳴く。

「――ねぇ、まゆちゃん」

「なぁに?」

「此処は、何処?」

「夕闇町よ」

 そんな町、あったかなぁ。

 俺の記憶には無い。

 横を駆け抜けた子供。野球帽に少し大きなTシャツに、短パン。

 あんな格好の子供、今時見ない気がする。

 通りの横で会話している女の人たちだって――と、その顔を見て、妙な悲鳴が出そうになった。

 顔が無い。

 電信柱の横。買い物帰りらしい、買い物籠から野菜やら何やらを出している女の人たち。その人たちは普通に笑い、楽しげに会話しているのだけど――顔の部分がぽっかり黒い。そこだけ黒で塗り潰された、奇妙な映画を見ているような気分になる。

 慌てて周囲を見回すが、俺とまゆちゃん以外の皆に顔がなかった。

 それでも彼らが笑い、動き、存在しているのが分かる。

「まゆちゃん――」

「はやく、行きましょう、お兄ちゃん」

 まゆちゃんは笑って俺の服を引っ張る。

 上目遣いで見てくる瞳は、どこか悪戯っ子の色。

「ここは、ずっと夕方がつづく町だけど、ずっといるのはたいくつよ?」

「あ、あぁ――う、うん」

 訳が分からないが、長い間居る場所じゃない。それは分かる。

 まゆちゃんの手の導きのまま、俺は通りを歩き出す。

 俺を導く小さな手。そして、小鉄は相変わらずご機嫌の様子で道を歩く。俺以外のすべてが怯えていないものだから、俺も少しだけ、安堵する。



 ――その人はだぁれ?



 声が尋ねる。

 まゆちゃんが笑う。

「まゆの新しいお兄ちゃんよ」



 ――いいなぁ、いいなぁ。



 俺たちの横を子供が歩く。

 闇色の顔。それでも笑ったのが分かる。



 ――お兄ちゃん、いいなぁ。


 ――ねぇ、まゆちゃん、すこぉし、貸して?



 手が。

 俺に向かって伸びる。


「だめよ」

 ふぅ、と威嚇の声。

 ふたつの声が子供を止める。

 俺を守る、小鉄とまゆちゃん。

「お兄ちゃんは貸せないわ。あなたはあなたで、じぶんのお兄ちゃんをさがしなさいな」

 でも、と闇の子供が反論する。

 まゆちゃんは足を止めず、横目で子供を睨み付けた。

「わがままな子は、きついおしおきをしてもらうわよ」



 ――おしおき? おしおきって。



 子供の声が遠ざかる。



 ――雨は嫌だなぁ。



「そうでしょう? じゃあ、さようなら」

 その声が合図のように、ふぃっと夕方色が俺たちの周りから消滅する。

 最初に目に入ったのは、何処にでも有るコンビニの看板だった。

 俺は背後を振り返る。

 そこには塀があるだけ。

 夕闇色の町など存在しない。

 俺はまゆちゃんを見る。

 まゆちゃんは地面に手を伸ばした。うにゃん、と甘える小鉄の声。どうやら小鉄を抱き上げてくれたらしいまゆちゃんは、俺に笑顔を向ける。

「ちかみち、なの」

「……近道?」

 改めて周囲を見回す。

 そして気付いた。

 あの夕闇町に入る前の場所から、此処は車でも30分ほど掛かる距離にある事を。

 まゆちゃんは小鉄を抱いたまま歩き出した。

 紅い振袖がゆらゆらと俺の前で揺れている。




 それからもう少し歩いて辿り着いたのは、古い家が立ち並ぶ、昔ながら住宅街の中の一件。平屋の、人が住んでいるかどうか不安になるような家だった。

 一応、何が書いてあるのか分からない木製の看板が下がっている。

 ……何かのお店なのかな……。

「こんばんは」

 まゆちゃんが横引きのドアに手を掛ける。曇りガラスが嵌められたそれは、がらがらと音を立てて開いた。

 中はごちゃごちゃと色々なものがあった。

 一番最初に目に入ったのは――沢山の人形。

 和服を着た日本人形が、いくつもいくつも並んでいる。大きさは子供が両手に抱くのに丁度良いぐらいのサイズから、大きいものでは本当の少女サイズのものまである。

 だけどすべてが人形だ。

「――人形屋さん?」

 俺の呟きに、奥から小さな笑い声が聞こえた。

 低いけどよく通る、男性の声だった。

「――そうだ」

 視線を向ける。

 うにゃん、と小鉄が鳴いた。

 店の奥。一番ごちゃごちゃと物が置かれた場所。そこは小さなカウンターのようになっていた。そのカウンターの向こうで、男が一人、俺を見ていた。

 肩ぐらいまで伸ばされたぼさぼさの黒髪に、無精髭。前髪なのか横の髪なのかよく分からない伸びた髪の隙間から、白っぽい色の瞳が覗いている。

 それが、三日月形に笑っていた。

 カウンターの上に置いた手を組んで、男が笑う。

 男の手の横に、よく出来た日本人形が座って俺たちを見ていた。

「おじさま」

 まゆちゃんが男を呼んだ。

 おじさま。

 ……年齢は30代ぐらいだと思う。確かにまゆちゃんから見たらおじさまか。

「おじさま、やくそくのもの、おもちしたわ」

「ああ、早かったな」

 で、と俺を組んだままの手で示す。「そっちは――誰だ?」

 笑みのまま細める瞳。

「猫の方はどうやらこっち側らしいが、そいつは人間だろ」

「まゆの新しいお兄ちゃんよ」

「……そうか、そうか。そういう事か」

 男は何か納得したように喉の奥で笑った。

 何だか訳の分からない会話が俺の前で繰り広げられる。

 小鉄は黙って俺の足元に居た。男の様子を伺っているように思える。

「――さて、まぁ。品物を受け取ろうか」

「はい」

 まゆちゃんは頷いて俺に向き直った。

 小さな両手を俺に差し出す。

「もときお兄ちゃん、その子をちょうだいな」

「……その子?」

 まゆちゃんの視線の先。

 俺が抱いていた箱。

 この中?

 そっと、箱を渡す。まゆちゃんは満面の笑みで受け取った。

 箱を愛しげに抱いて、箱をカウンターへと持って行く。

 男は両腕を伸ばして、とても大切そうに箱を受け取った。

 そして、箱が開かれる。

 中に居たのは、この店に相応しい――日本人形だった。

 今日のまゆちゃんとよく似た着物を着ている。肩の上で切り揃えた黒髪も、大きな黒眼がちの瞳もそっくりだ。

 とても愛らしい、赤ん坊ほどもある日本人形。

 男は満足そうに何度も頷いた。

「流石だな、嬢ちゃん、あんたの腕はいつも確かだ」

「うふふ」

 まゆちゃんは嬉しそうに笑う。

 男の言葉の意味を考えて――俺は思わず呟いた。

「まゆちゃんが、人形を作ったの?」

 二人の視線が俺に集まる。

 男は一瞬不思議そうに俺を見たが、やがて納得したようにひとつ頷いた。だけど何も言わない。

 代わりに口を開いたのは、俺に向き直ったまゆちゃんだ。

「まゆはね、あふれたものを、ひとのかたちにするのが、お仕事なの」

「………?」

 溢れたものを、人の形にする?

 どういう、意味だ?

「うふふ、そのままの意味よ、お兄ちゃん」

 カウンターでは男がにやにや笑って頬杖を付いている。

 にゃにゃ、と小鉄が小さく鳴いた。

 気配が動く。

 たん、と軽い音。

「小鉄」

 カウンターの上に飛び乗った?

 男が軽く身を引いたのを見て、俺は慌てて小鉄を止める。

「猫、お前もこの子が見たいのかい?」

 小鉄はカウンター上で、箱に納められた人形を覗き込んでいるようだ。

 男が楽しげに言う。

「お前の飼い主は分からないようだが――お前は分かるんだろう?」

 まゆちゃんがくすくすと笑う。

 小鉄は小さく鳴いた。

 男は再びカウンターの上で手を組んだ。

 俺を見て、笑う。

「人間には――影がある。それは分かるか?」

「え? あ、はい」

「影は人間の気持ちを吸ってどんどん変わっていく。良い感情も、悪い感情も、全部吸って――そして、普通は夜の闇に溶けて浄化される」

「……」

 男の言葉に続いたのは、まゆちゃんの声だった。

「ふつうは、そうなの。でも、さいきんは、そうじゃないの」

「闇だけじゃあ浄化しきれない。毎日毎日積み重なって、やがて溢れて形になる」

 まゆちゃんは小さな手を胸に当てて微笑んだ。

 まるで人形のような、整った、可愛らしい笑みだ。

「まゆはそれをかたちにするの。ひとのかたちをあたえ、いばしょをあげるの」

「それを俺が綺麗になるまで保管しておいてる、って訳だ」

 俺は沈黙のまま、辺りを見回した。

 沢山の人形。

 今の話が本当なら、これはすべて――

「人の、感情」

「そう」

 男が笑う。

「形になって、悪さをしようとしていたのが、こうやって今は人形になっている。やがて――時が至れば、もしかすると、嬢ちゃんのようになる人形も出るかもしれない。でも、いまはただ人形のまま、たまった影が消えるのを待っている」

 男の言葉を聞いて、俺は小さく声を漏らした。

 『嬢ちゃんのようになる人形』?

 嬢ちゃんとは――まゆちゃん。

 まゆちゃんは――

 見ても、まゆちゃんはただ笑う。可愛らしい手を伸ばして、俺の右手をぎゅっと握った。柔らかい、子供独特の小さな手。

「もときお兄ちゃん、どうしたの? 困った顔をしているわ」

 まゆちゃん、君は。

 問いかけようとした俺の言葉は、がらがらと音を立てて開いたドアによって封じられた。

 入り口の方を見ると、若い男が不安そうに店の中を覗き込んでいた。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうで無精髭の男が笑う。

 客らしい若い男は恐る恐ると店の中に入って来た。

「あの――此処は?」

「人形屋だ」

「にんぎょう」

 客は呟き、辺りを見回す。

 やがてひとつの人形に吸い寄せられるように近付いていった。

 30センチぐらいの小型の人形。日本人形だ。

 客はそれを見て、何故か安心したような表情を浮かべた。

 それから慌てて気付いたように、カウンターの男を見る。

「この人形はお幾らで?」

「気に入ったなら持って行くといい」

「え?」

 客と俺が同時に驚く。

 カウンターの男はまだ笑っている。

「ただし――大切にしてやってくれ。あんたがその子を覚えている限り、大切に、大切に、な」

「そうじゃないと、わるさをするかもよ」

 くすくすとまゆちゃんが笑った。

 



 客は人形を抱えて帰っていった。

 カウンターの男は、「たまに人形が客を呼ぶんだ」と笑って見せた。

 俺には、よく分からなかった。

 気付いたら結構な時間で、まゆちゃんに誘われるように俺は店を後にする。

 小鉄はごろごろ言いながら俺の足元に戻ってきた。

「まゆちゃん――」

「まゆは、お兄ちゃんが思っているとおりのものよ」

 顔を上げて、まゆちゃんが笑う。

 人形じゃない、生きている女の子の表情。

「でも、まゆはまゆよ? それでいいじゃない」

「――……」

 俺は少しだけ迷って。

 やがて、「うん」とだけ頷いた。

 まゆちゃんが笑う。

 紅い振袖をくるくる翻して、歩きながら、回る。

「ねぇ、お兄ちゃん。このせかいは、お兄ちゃんが知っているだけのせかいじゃないのよ。いろんなものがたくさんあって、いろんなものがごちゃごちゃしてるの」

 だから。

「しらないものがあっても、ちゃーんとうけとめて、あげてね?」

 俺は頷くしかない。

 時刻は夕方。

 紅く長い日が落ちる。

 まゆちゃんの足元の影がゆらゆら伸びる、揺れる。

 俺の足元でもゆらゆら、と。

 まゆちゃんの影よりも、幾分、俺の影の方が濃いような気がした。

 長く伸びる黒い影。俺の歩みに合わせて共に歩く、それ。

 影が俺の感情を吸って変わっていくものならば――

 そっと足元に視線を落とし、眺める。

 黒く見える、それ。

 俺の、心の化身。

 俺の――

 その影が揺れた。

 驚く俺に、うにゃあん、と甘えた声。

 小鉄が俺の影に踏み入ったのだ。

 気配。気配が少しだけ、俺の影を淡くする。

 うん、小鉄が居てくれるなら大丈夫。

 俺はそう思って笑う。

 小鉄が居るのなら――きっと、何もかも大丈夫。

「お兄ちゃん」

 まゆちゃんが笑う。

「もしも――本当に影がじゃまになったら、まゆに言ってね? お兄ちゃんの影とも遊んであげる」

 影遊び。

 人形の姿に変えられた影が、赤い振袖の幼子と戯れる。

 酷く非現実的な。

 でも、奇妙なぐらい綺麗な風景に思えた。

「俺は――小鉄が居るなら大丈夫だよ、まゆちゃん」

「そう? そうならいいの」

 まゆちゃんは楽しげな足取りで、夕闇の街を歩いていく。

「お兄ちゃんの影、とっても黒いの。とてもすてきよ。まゆ、そういうのだいすき」

 俺の影。

 ああ、やはり黒いのか。

「いままでそういう人、たくさんいたわ。でもお兄ちゃんがいちばん黒いわ」

 黒い。

 黒い、影。

 小鉄が恐れずに俺の影と共に歩む。

 それで救われた気持ちになる。

「その黒い影と、お兄ちゃん、とても仲良くしているの」

 だから、とまゆちゃんは笑う。

「アパートのみんなとも、なかよくできるとおもって、まゆも、お兄ちゃんが住むのを許したのよ?」

「そう」

 よく分からない。でも。「……有り難うまゆちゃん」

「どういたしまして」

 まゆちゃんはとても嬉しそうに笑って、もう一度、くるりと回った。






 白桜荘に戻って一階の食堂横を通りかかる。

 覗いてみると竜さんが一人、テレビの前に陣取っていた。

 テレビは――アニメ。好きなのかな、アニメ……。

 まゆちゃんは竜さんの姿を認めむっとしたように顔を顰める。

「まゆ、部屋に戻るわ」

「晩御飯、どうするの?」

「いらない!」

 まゆちゃんはぷぃっと拗ねたように二階に向かってしまう。

 俺はどうしようかと考えて、とりあえず食堂へと入った。

 竜さんが視線だけで俺を見る。

「おかえり」

「はい、ただいまです」

 食堂のテーブルにはサランラップが掛けられた晩御飯が二人分。

 まゆちゃんの分だな、片方。

 部屋に持っていってあげよう。

「チビの付き合い大変だったな。影屋に行って来たんだろ」

「影屋? ああ、あの人形屋ですか」

「人形屋。まぁ、確かにそうだな」

 竜さんはテレビから視線を外さない。

 外さないままで笑った。

「……竜さん、その影屋さんに行った事があるんですか?」

 まゆちゃんに連れて行ってもらったんだろうか。

 二人の仲を想像すると、どうやっても一緒に行動なんて考えられない。

「ああ、チビに一度、連れて行って貰った」

 想像出来ない回答が来た。

 俺は思わず悩む。

「チビが俺を嫌う理由、知ってるか?」

「……苛めたんですか?」

「苛めるか」

 げんなり、とした顔。

 なら、と問い掛けると竜さんはアニメを見たまま言った。

「あいつ、影を見るだろ。俺の影を見て、泣きやがった」

 影。人の心。感情の集まり。夜ごと闇に溶けて浄化される。

 そして、浄化されずに残ったものが、溜まっていく場所。

「可哀想だなんて泣くもんだから、別に俺は可哀想じゃねぇって言ったら、キレた」

「………」

「人の不幸を自分の物差しで計られちゃ、たまったもんじゃねぇな」

 そこで竜さんはようやく俺を見た。

 テーブル上の晩御飯を顎で示す。

「チビに持ってくならお茶も一緒に持っていってやれよ。あいつ、飲み物がねぇと巧く食事出来ねぇから」

「……はい」

 何だか、本当に此処の人たちは複雑だ。




 二階のまゆちゃんの部屋。

 ドアをノックすると細くドアが開き、まゆちゃんが顔を出す。

「晩御飯。持ってきたよ」

「……お兄ちゃん」

 まゆちゃんは小さく頷き、俺を部屋に招きいれた。

 途端、可愛らしい猫の鳴き声。

 ああ、小鉄。

 そう言えば気配を感じないと思ったら、まゆちゃんと一緒に二階に上がっていたのか。

 まゆちゃんの部屋は酷くシンプルだった。

 何も無い、と言ってもいいぐらい。テーブルさえないものだから、何処に食事を置いていいのか迷ってしまう。

 お盆の上のまゆちゃんの食事。湯気の立つお茶を見て、まゆちゃんは少しだけ眉を寄せた。

「竜とおはなししたのね」

「うん」

 俺は素直に頷いた。

 まゆちゃんは手を伸ばす。お盆を受け取る。

「まゆは、竜が嫌いなの」

 頼り無い言葉でまゆちゃんが言う。

「竜は、かわいそうな人なの。竜も、竜のたいせつな人もかわいそうな人なの。竜のされたことを思ったら、たくさん、ひどいことを仕返ししてもいいぐらい、かわいそうなの」

 ちらり、と浮かんだのはお風呂場で見た、竜さんの肩の傷跡。

 焼鏝、なんて言葉を思い出す。

 ああ――そうだ。家畜に押すような、あれ。かなり近いように思えた。

 人に、やる事か?

 違う。それは絶対に違う。

 わざわざ身体に残るような傷跡を深く与えるなんて、酷過ぎる。

「竜はかわいそうなのに、じぶんがかわいそうだって忘れてるの。忘れるように、されてしまったの。だから竜はおこっていいの。もっと、にくんでいいの。でもそれをしないの」

 まゆちゃんは俯いた。微かに見える表情が強張っているのが見えた。

「――竜は、なにもしないの。だから、まゆは竜が嫌いなの」

 俺は思わず手を伸ばす。

 小さなまゆちゃんの肩が震えているように見えて、思わず。

 だけど手が触れるより先に、まゆちゃんが顔を上げた。

 涙で濡れた瞳が――笑っている。

「お兄ちゃんも、まゆの気持ちわかるでしょう?」

 だって。

「お兄ちゃんは、ひどいことをされたら、ちゃぁんと仕返しする人だものね?」

 黒い黒い俺の影。

 夜の柔らかい闇でも浄化出来ない。俺の心が滲んだ影。

 ――伸ばしかけた手を引っ込め、俺は気弱に笑う。

「ごめん」

 出たのは謝罪の言葉。

「ごめん、まゆちゃん。――俺は、まゆちゃんの気持ちも分からないよ」

「……」

「ごめん、本当に、ごめん」

 まゆちゃんは軽く首を傾げて俺を見ている。

 やがて、ふぃっと瞳を伏せた。

「そう――そうなのね」

 微かに笑う声。

「分かったわ」

 何が分かったのか、俺にはよく分からない。

 みゃあぅ、と小鉄が小さく鳴くものだから、俺はまゆちゃんに別れを告げて、部屋を出た。






 食事を摂る気になんてなれなくて、俺は服も着替えずにベッドにうつ伏せに転がった。

 ああ、お風呂入らなきゃ。せめて歯は磨かないと。

 そうは思うものの身体が動かない。

 動きたくない。

 小鉄がふみゃふみゃ鳴いて俺の上に乗った。瞳を閉じると小鉄の気配をよりリアルに感じられる。小さな肉球が俺の身体の上を歩いていく。

 ――酷い事をされたのなら、仕返しする。

 ああ、と俺は小さく呻く。

 復讐でもっとも効率的で、もっとも楽なのは。

 ――相手が心から大切にする誰かを、傷付けるのが一番楽だ。その誰かが、幼く、無力であればあるほど、相手は苦しむだろう。

 うん。

 俺は知ってる。

 そういうのを、ちゃんと、知ってる。

「――小鉄」

 名前を呼ぶ。

 小鉄が俺の顔の横まで来る。ベッドのマットレスが、小鉄の足の重みで軽くへこむ。

 それを見て、俺は何故だか泣きたい気持ちになった。

「小鉄――」

 小鉄が俺の顔に擦り寄る。俺は黙って目を閉じる。

 ごろごろと喉を鳴らす音。

 可愛い、可愛い、俺の小鉄。

「こてつ……」

 掠れた声で小鉄の名を呼んだ。

 瞳を開いて、もしかして見えるかもしれない自分の影を確認するのが、とても、怖かった。



 夜が更けていく。

 小鉄はただ俺の傍に居てくれた。




                             終

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