第4話・幽霊猫と夏祭り


 夏の気配がする。

 今年も猛暑になりそうだ。

 しかし今年は一味違う。

 俺は壁に備え付けられたエアコンを見上げた。

 この白桜荘、なんとも贅沢な事に元々――かなり旧式とは言え――エアコンが付いているのだ。

 その代わり窓が殆ど開かない。左右、10センチ程がせいぜいだ。

 まぁ困る事は殆ど無い。

「良かったなぁ、小鉄」

 俺は足元でごろごろ言う気配に声を掛ける。

 なぁん、と可愛い声が帰ってきた。 

 が、やはり姿は見えない。

 小鉄は幽霊。猫の幽霊なのだから、当たり前だ。

 しかし、幽霊とは言え小鉄は暑いのを嫌う。狭い部屋の中、ちゃんと涼しい場所を発見して休んでいる。

 ……幽霊も暑さを感じるのだろうか。

 うーん、どうなんだろう。暑い時に傍に寄ると怒られるしなぁ。

 俺は思わず首を傾げる。

 まぁ、しかし! 今年の夏は大丈夫だ! 熱帯夜だろうが小鉄に寄り添って寝ていても怒られない。

 何とも贅沢な夏を過ごせそうだ。

 俺が一人大きく頷いていると、ノックの音が聞こえた。

「――基樹君、居るかい?」

 柔らかい調子の男性の声。

 珍しい。黒川さんの声だ。

 眼鏡を掛けた温厚そうな顔を思い出しながら、俺は慌ててドアを開いた。

 ドアの向こうにはやはり黒川さんが立っていた。

 いつもと同じような白いシャツに黒いパンツ。そして、優しそうな表情。

「やぁ、久しぶり」

 言われてみれば確かにそうだ。

 黒川 水生さんは二号室住人。雨の日にしか出歩かない、ちょっと変わった人。

 故に俺も雨が降っている時にしか黒川さんと会ってなかった。この白桜荘に引っ越してきてから……三度目だ。

「本当、お久しぶりです」

 俺は笑顔で答えた。黒川さんの優しそうな顔を見ているだけで嬉しくなる。

「どうしたんですか、今日は?」

「今日は夏祭りだから。基樹君も行くのなら一緒にどうかと思って」

 夏祭り。

 ああ、もしかして。

「……神社の?」

「そう」

 黒川さんは笑顔で頷いた。

 黒川さんと同じ名前の神社。白桜荘の近くにある、静かな、とても綺麗な神社だ。

「あ、でも」

 頷きかけた俺は慌てて背後を見る。

 窓。

「雨、降ってないですよ」

「今から降るよ」

 黒川さんは笑みを含んだ声で答える。

 その答えが終わると同時に、窓に水滴。

「ね」

 楽しげに言う黒川さんの声に答えるように、雨が嫌いな小鉄が不満げに鳴いた。





『幽霊猫と夏祭り』




「――あら、お出かけ?」

 玄関先で靴を履いていると、茜さんに声を掛けられた。

 白桜荘の管理人である茜さんは今日もエプロン姿だ。

「今日はお祭りだから」

「あら? もうそんな時間?」

「夕方だよ、茜さん」

 黒川さんと茜さんの会話。

 夕方だと指摘され、茜さんは小さく笑った。

「夏は日が落ちるのが遅いから……夕方だと思わなかった」

 笑みのまま、俺にだけ傘を差し出す。

 受け取ったそれと黒川さんの顔を交互に見た。

「僕はいいよ。どうせ霧雨だし、雨は、好きだから」

 初めて会った時も大雨だと言うのにびしょぬれで歩いていたな。

 変わった人だ。

 小鉄はふにゃふにゃ鳴いて俺の腕に抱かれた。雨の上を歩くのが嫌らしい。

「皆は先に行ったわよ、水生さん」

「ああ、そうだろうね。少しのんびりし過ぎた」

「向こうで会えるわ。広い場所でもないし」

 気を付けて、と茜さんは俺たちを送り出した。

 玄関を出て、俺は背後を振り返る。

 閉じられた白桜荘のドア。

「――茜さんは行かないんですね」

「無人になる訳には行かないからね」

 それに、と何かを言いかけて黒川さんはただ笑った。

 不思議な話だけど、黒川さんは常に優しそうな雰囲気なのに、こうやって笑われると俺は何も言えなくなる。

 これ以上、質問出来なくなる。

「さぁ、急ごうか」

 黒川さんは歩き出す。

 雨は彼の言葉通りに霧雨。傘が無くても良いぐらいだ。

 俺たちはどうでもいい雑談をしつつ、神社へと向かった。



 前に見た時は寂しくさえ思った石段が賑やかだった。

 まずは人。ぎゅうぎゅうと言う程ではないが、沢山の人が神社の石段を昇っている。その人々を出迎えるように、石段の左右に灯された灯り。

 石段を昇る。

「――何だか綺麗ですね」

「お祭りだからね」

「竜神様のお祭りでしたよね?」

「そう」

 黒川さんが嬉しそうに頷く。

「年に一度、竜神が出歩く事を己に許した日だよ」

 続けて、小さく笑った。「表向きはそういう事になってる」

 表向き。

 だけど黒川さんは例の笑顔で笑うものだから、俺は何も問えない。

 小鉄だけが不満そうにふにゃふにゃ鳴いてる。

 人が沢山居て賑やかな場所だから小鉄が多少鳴いても気づかれないだろう。第一、周囲の人たちは気にした様子を見せない。

 石段を昇りきると傘は必要なくなった。

 このお祭りは雨が降るとあらかじめ予測されていたらしい。何本ものパイプを立てて、空にビニールの屋根を作っているのだ。

 俺は傘を閉じながら辺りを見回した。

 本殿まで続く、いつもは少し長く感じるその道が、とても賑やかだった。左右に並ぶ屋台。そしてそれを見て歩く人々。

 女の人は浴衣を着ている人も多い。

 鮮やかな色彩が、パイプやら屋台に付けられた灯りに照らされて――とても綺麗だ。

 腕の中の小鉄の気配が動く。

 するりと抜け出して、少しでも安全な位置へ――俺の肩の上で安定。

 ふにゃん、と小さな声。人が余りに多くて驚いているらしい。

「奉納舞がもう少しで始まるから屋台よりもそっちへ行こうか」

 言うなり黒川さんはどんどん奥へと歩き出した。

 俺は慌てて後を追う。

 奥へ向かうに連れて人が増える。

 どうやらその奉納舞は本殿で行われるらしい。

 人を掻き分け、何とか行き着いたそこには、仮設の舞台が作られていた。

 ……そう言えば、昨日は雨が降っていたから散歩に来なかったけど……こんな舞台を一日で作ったのか。

 ぼんやりとした――蝋燭だ――灯りに照らされる舞台は結構立派なものに見えた。

「丁度良かった。もう、始まるみたいだ」

「奉納舞――神楽ですよね。巫女さんが居るんですか、この神社」

「居ないよ」

 黒川さんは苦笑。「此処を守っている人は誰も居ない」

「え?」

 この神社はいつも綺麗に整えられている。

 いつ来ても空気が違うのだ。

 とても綺麗な――ああ、そうだ。神聖なものの、気がする。

 俺がそう言えば黒川さんは瞳を細めた。

 とても優しい表情だった。

「嬉しいな。有り難う」

 でも、と彼は続ける。

「此処を守っている人は誰も居ないよ。神社の掃除は町内会の人がやってくれるし、この祭りもそうだ。町内会の有志が集まって開いてくれているんだ。だから――あと二十年もしたら、無くなるかもしれない」

「………」

「この神社が綺麗だと言うのならそれは神が生きている証拠だろうけど――祭ってくれる人が居なければ、神だけ居てもしょうがないね」

 黒川さんは苦笑し、視線を本殿に戻した。

 俺はその横顔を眺める。口元に笑み。瞳は優しいまま。

 普段の表情だけど――何故か、寂しいものに感じた。

 何か言いたくて口を開いた俺を封じるように、黒川さんが呟いた。

「始まるよ」

 その言葉と同時に、音楽が聞こえた。

 



 舞台に楽器は無い。

 恐らく録音されたものだ。

 唯一、此処で作られているのは、鈴の音。

 舞台の奥から進み出てきた人が、何処かに身に付けているだろう鈴の音だ。

 りん、と甲高い音。

 俺の肩の上で小鉄がぴくぴくと動いている。鈴の音に反応しているのだろうか。大騒ぎする様子は無いので、とりあえず一安心しておく。

 舞台中央に立ったのは、巫女のような衣装を纏った人。長い黒髪が俯いた顔を半ば覆っている。

 両手は胸の前。持っているのは一振りの日本刀だ。両手で横に、まるで捧げるように刀を持っている。

 音楽が続く。緩やかに――。

 りんっ、と。

 音が強く。

 それと同時に舞台の上の人が顔を上げた。

 顔は分からなかった。見えたのは、優しげな顔立ちの女の面だ。

 右手で刀を抜く。

 一閃。

 銀ではなく、真白い光。

 ……日本刀じゃない? 刃の色じゃ、ない。

 俺が考えている間に、舞が始まった。

 音楽は強く、激しくなる。

 顔は優しげな女性のもの。その面を付けた人物の舞は激しいものだった。架空の敵と戦うように、刃を構え、振り、引く。

 ……神楽ってこんな激しいものだったろうか?

 鈴の音が響く。

 舞はさほど長いものではなかったろう。

 大きく振り下ろした刃を止め、その人の動きが止まる。

 最初と同じように刃を横に、捧げるように持ち、そのまま一礼。

 拍手が起こる。

 俺も気付けば拍手していた。

 横目で見たのなら黒川さんも笑顔で拍手を行っていた。



「――この神社が出来た由来とは別に、もうひとつ伝説があってね」

 舞を見終わり、俺たちは屋台をからかって歩いた。

 懐かしいラムネと、それからフランクフルトを買った。黒川さんも手にラムネを持っている。

「一年に一度だけ空を飛ぶ事を決めた竜神を哀れに思って、最初に竜神に空を飛ばぬようにと願った男の妹が、竜神が普段眠っている池の傍で舞った、のが、今の奉納舞のはじまり」

「随分と激しい舞でしたね」

「竜神が退屈しないように舞ったものだったから……まぁ、本物はそんなに激しいものじゃないよ」

 苦笑。

 何だか不思議な苦笑だった。

「踊った人間がアレンジ加え過ぎてる」

 その不思議な苦笑のまま、黒川さんは小さく言葉を繋いだ。「前は亜子たちがやってくれたからね。もう少し大人しいものだった」

「……あこ?」

 思わず口に出す。

 黒川さんは俺を見た。

「今はもう居ない子だよ」

「……そう、ですか」

 話はこれで終わり。そう言い切られた気持ちになる。

 俺は何とか話を変えようと考えつつ、ラムネを一口飲んだ。

「そ、そういえば、その伝説に出てくる竜神の池って何処にあるんですか?」

「ん? もう何年も前に埋められて――今はマンションか何かになってるよ」

「………」

 あああああ。何だか黒川さん寂しそうな顔してる。話変え失敗。大失敗。

 こういう時のフォローをしてくれる小鉄は俺の肩の上で大人しくしているし。

 ど、どうしよう。

 沈黙する俺の手から、ひょい、とラムネの瓶が取り上げられた。

「?!」

 俯いていた顔を上げたのなら、立っていたのは竜さんだった。

 俺から取り上げたラムネを一気飲み。

「ちょ、竜さん、それ俺のラムネ!!!」

「いいだろ、少しぐらい」

「少しじゃないでしょ、全部飲んで――って、フランクフルトまで持って行くなー!! 一口で喰うな!!!」

 そこで俺はふと気付いた。

 竜さんの姿。

 上半身を半ば脱いで、随分と気崩しているが――先ほど、舞で見た衣装。

 まさかなぁ、と考える俺の目の前で、黒川さんが未開封のままだったラムネの瓶を差し出した。

「奉納舞、お疲れ様、真之介」

「おお」

 ……えーと。

「女装」

「一言でとんでもねぇ事言うな五郎」

「ちなみに名前は真之介?」

「竜 真之介。イイ名前だろ?」

「自分の名前はちゃんと言えるんですね。感心しました」

「……喧嘩売ってんのか、てめぇ?」

 俺と竜さんの会話を、黒川さんは笑みのまま聞いている。

 ぶつぶつと文句を言いながら、二本目のラムネを開ける竜さんが小脇に抱えている紫色の袋に視線を向けた。

「……それって、さっきの刀ですか?」

「ん」

 多くは語らず、それでも竜さんは頷いてくれた。

 ああ、あの紫色の袋は刀だったんだ。ようやく謎がひとつ解決した。

 って。

「……銃刀法違反?」

「人が斬れない刀でとっ捕まるのか?」

「さぁね。人間の法律はよく分からない」

「黒川さん、笑顔であっさり答えないで下さい」

 ラムネを黒川さんに渡し、竜さんが紫色の袋から刀を取り出してくれた。

 形は日本刀そのもの。

 だけど抜いてみるとその光が違った。

「……象牙か何かですか?」

 刃の部分が鈍く白い。

 恐る恐る刃の部分に指を当ててみるが、全然鋭くない。確かにこれで人は斬れないだろう。

「でも木刀持っているだけでも捕まるって聞いた事ありますよ」

「逃げ足早いから大丈夫だろ」

「白桜荘には逃げてこないで下さいね」

「臭い飯を喰う時は一緒だぞ、五郎」

 絶対に嫌だ。

 刀を袋に戻している竜さんからあからさまに逃げてやる。

「――真之介、これからどうする?」

「疲れた。帰る」

「そう、僕はもう少し祭りを見て帰るよ」

 黒川さんはそう言ってから俺を見た。

 俺は――どうしようか。

 もう少し屋台をからかって帰ってもいいし、と考える。

 その通り答えようとした時、肩の上で小鉄が鳴いた。

「……俺も帰ります」

 小鉄はもう人に疲れたようだ。

 俺の返事を理解したらしく、ごろごろとご機嫌の声がする。

 その小鉄が不意に喉を鳴らすのを止めた。

 にゃ、と短い声。何かを訴える声だ。

 小鉄が何かを注目している。

 振り返った俺たち三人と一匹の視線の先で、鮮やかな花を染め抜いた美女が立っていた。

 ひぐ、と竜さんが喉の奥で奇妙な悲鳴を上げる。

 その横で俺はその女性の名前を呼んだ。

「小夜さん」

 名前の通り、竜胆の花を大胆に染めた浴衣。小夜さんによく似合っている。

 笑顔で小夜さんは俺たちの方へ歩み寄ってきた。

 逃げ出そうと辺りを見回す竜さんの服を掴んで引き止める。

「小夜さんもお祭り来てたんですね」

 返事は小さく縦に振られた首。小夜さんは言葉を話さない。言葉を話せないのだろう。

 小夜さんは笑顔のまま竜さんを見た。

 竜さん、完全停止。

 敵など何も無いように思える竜さんだが、何故か小夜さんだけは苦手らしい。

 それが分かっているものだから、俺は笑顔で、掴んでいた服の裾を小夜さんに引き渡した。いやぁ、和服って布地が多めで掴むには丁度いいなぁ。

「五郎、てめぇっ!!」

 完全に悲鳴。

 黒川さんも助ける気ないらしい。

 楽しげに笑っている。

「真之介、いい加減に小夜さんの気持ちに応えてあげたらどうだい?」

「嫌だ、絶対に嫌だ!! お前が応えろ、クロ!!」

「僕は美味しくないって」

 ………食べたのか。

 中睦まじい――と言う事にしておく――竜さんと小夜さんを見ている俺の服を、ちょいちょい、と軽い力が引っ張った。

 そちらを見ると、小さな女の子が立っていた。

 ……小学校の低学年ぐらいだろうか。

 黒髪を肩の上で切り揃えたおかっぱにしている。大きめの瞳が妙に大人びた色を浮かべて俺を見ていた。

 きゅ、と。

 唇が笑みを刻む。

「あなたが、もときお兄ちゃんね?」

「……誰?」

 会った事はない。子供モデルでもやっていそうなぐらい可愛い子だ。会った事があるのなら覚えているだろう。

 …………。

 小夜さんを見る。

 まさか、小夜さんの子供とか――

「七号室の真雪ちゃんだよ」

 黒川さんが言った。「基樹君は会うの初めてかな」

「そうよ」

 俺ではなく、子供――まゆきちゃん、が答えた。

 唇の笑みを更に深めて。

「まゆともときお兄ちゃん、お会いするのはじめてね」

「まゆきちゃん」

「はじめまして。――まゆきじゃなくて、まゆって呼んでね、もときお兄ちゃん」

「まゆちゃん、だね。分かった」

 うふふ、とまゆちゃんは大人びた声で笑った。

 まゆちゃんも浴衣を着ていた。大きな鞠と金魚の柄。

 可愛らしい少女にはよく似合っている。

 上目遣いに俺を見て、それから俺の肩へと視線を動かした。

「かわいいねこちゃん。あなたがこてつちゃんね?」

「……見えるんだ」

「そうよ」

 まゆちゃんは口元を指で隠して微笑。「まゆは何でも見えてるわ」

 大人びた表情や物言いをする子だ。この年頃の女の子はみんなこうなのかな。

 うふふ、ともう一度笑って、くるりと身を翻す。

「こんど、おへやに遊びにいってもいいかしら?」

「うちに?」

 まゆちゃんの願いに俺は笑顔で頷いた。「いいよ、いつでもおいで」

「わすれないでね」

 可愛らしい笑みで一歩、下がる。

 そしていまだ竜さんと何やら楽しげな様子の小夜さんを見た。

「さよお姉ちゃん、屋台を見にいかないの?」

「ほ、ほら、ハナ! チビがあー言ってんだから、さっさと行けよ!!」

「そうよ、そんなおばかさんと遊んでないで、まゆと遊んで?」

 馬鹿と言われてかちんと来たらしい。むっとした表情でまゆちゃんを睨む。

 まゆちゃんは瞳を細めて笑った。

「あら、竜はいいこさんだったかしら? まゆははじめて知ったわ」

「……チビ」

「あなたにちびって言われるひつよう、ないもの」

 つん、と顔を逸らす。

 小夜さんと黒川さんが顔を見合わせ苦笑した。どうやら普段から仲が悪いらしい。

 名残惜しげに小夜さんが竜さんから離れる。

 白い手をまゆちゃんに差し出すと、まゆちゃんは子供らしい笑みを見せた。

「そうよ、おばかさんと遊んでいるよりもずっとよいわ、さよお姉ちゃん」

「チビ、てめぇは――」

「おばかさんって言われたくないなら、もっとおべんきょうなさいな、竜」

 今にも怒鳴りだしそうな竜さんから視線を外し、俺を見るまゆちゃん。

 可愛らしい笑み。

「また、ね。もときお兄ちゃん」

「うん」

 つい、と視線が動く。

 更に、笑み。

「こねこちゃんも、また会いましょうね」

 俺の肩の上で小鉄が可愛らしく、にゃん、と鳴いた。

 ――そして小夜さんとまゆちゃんは去っていった。

「――クソ餓鬼がっ!!」

 竜さんが怒鳴る。「いつか必ずぎゃふんと言わせてやるっ!」

「止めておいた方がいいよ。真雪ちゃんの方が絶対に強いから」

「それにその台詞は立派な倒されるだけの雑魚悪役の台詞です」

 なん、と小鉄も追従。

 竜さん、近くの木に額ぶつけて停止。

 あ、拗ねた。

「もう……俺帰る……」

「……一緒に帰りましょうね、竜さん」

 流石に哀れに思えて、その背中をぽんぽんと叩いた。



 お祭りも随分と静かになっていた。

 黒川さんは最後まで見て帰るつもりらしい。

 俺と小鉄、そして竜さんは一緒に白桜荘に帰る事にした。気付けばすっかり日が落ちて夜。

 神社からの帰り道と思うと、ちらり……と過去の、あの帰れなかった雨の夜を思い出す。今も霧雨とは言え雨が降り続いているのだし。

 だけど今夜は小鉄も竜さんも居る。

 大丈夫だ。

 道は半ば。

 突然、だった。

 前を行く竜さんが足を止めた。

「りゅ――」

 竜さん、と呼びかけようとした俺は小鉄の変化に気付いた。

 今は俺の足元を歩いていた小鉄が、小さな威嚇の声を出している。

 竜さんと小鉄の反応。

「……どうしたんですか?」

 俺の疑問に小鉄は勿論、竜さんも答えない。

 応えぬまま、竜さんは紫色の袋から刀を取り出した。

 人が斬れない筈の刃が、薄ぼんやりした灯りに――鋼よりも煌いた。

「ど、どうしたんですか?」

 再度問い掛ける。

 だけど答えを待つ必要は無かった。

 周囲に人の気配。

 小鉄の威嚇が強くなる。

 俺は周囲を見回す。

 気配。

 この気配には覚えがある。

 とても、嫌なもの。

「――おい」

 竜さんが俺ではなく、深くなった周囲の闇に声を放つ。

 普段の竜さんとは違う、冷たい、突き放すような物言い。

「祭りの夜はやめとけよ。流石のクロも許しちゃおかねぇぞ」

 答えは少しの間を置いて返って来た。

 低い笑い声だった。

「――今更、主でもない者の言葉など何の意味も無い」

 若い男性の声。

 ふぅん、と竜さんは曖昧に頷く。

 それから俺の方に視線を向けた。

「……逃げ足の速さの自信は?」

「体育は苦手でしたけど、かけっこは得意でした」

「十分」

 刀を持たない左手で俺の手を掴み、竜さんは言った。

「タマ、来い!」

 そのまま前方に走り出す。

 小鉄は甲高くひとつ鳴いて俺たちと同時に走り出した。

「どうせ見えねぇから大丈夫か」

「は?」

 質問に答えず、竜さんが刀を振るった。

 俺の目に見えたのはその軌跡だけ。

 そして続く何かが断ち切られる音。何かが地に倒れる音。

 音は聞こえる。だけど、俺の目には何も見えない。

 それでも分かるものはあった。

 とても嫌なものが、俺たちに近付いている。

 竜さんは足を止めない。刀を振るい、俺には見えない何かを断ち切る。濡れた音が続く事もあったが、俺には何も見えない。

 小鉄が小さく鳴いた。訴える声。

「小鉄?!」

 俺は足を止める。つられて竜さんも足を止めた。

 大きく舌打ちする竜さんの横で俺は地面に手を伸ばす。小鉄の気配が俺の腕に飛び込んできた。

「体力付けとけよ、タマ!!」

 俺と小鉄を庇う位置に立つ竜さん。刀を右手一本で構え、辺りを見る。

 仕方ねぇなぁ、と呟き。

「先に帰っておけ」

「で、でも、竜さんは――」

 何が起きているのかよく分からない。

 見えない相手。感じるのは気配だけ。

「もうちょい遊んでから帰る」

 遊ぶ、と言う口調は笑みを含んでいた。

 深い闇の向こうで誰かが呻く。

「半端者が調子に乗るな」

「雑魚の相手は半端者で丁度いいんじゃねぇか?」

 言いながら、左手で俺を押した。

 白桜荘の方へ。

 走れ、と、目で伝えてくる。

 俺は逡巡。

 でも腕の中の小鉄が鳴いた。

「――スイマセン」

 謝罪を述べて、走り出す。

 嫌な気配が動く。俺を追う気配。だけど大多数は竜さんの所で停止。

 それでも、幾つかが俺を追う。

 訳が分からない。

 何だろう、これは。

 嫌なものが手を伸ばす。俺たちを捕らえようと、見えない手を。

 シャァッ、と、俺の腕の中で、小鉄が今までよりも強く威嚇した。

 空気が動く。俺たちに向かって伸びていた手が引っ込んだ。

 小鉄が何かしてくれた。嫌なものとの距離が伸びる。

 俺は足に力を入れた。更に速度を上げて走る。

 ――白桜荘の門の所には、灯りを持った茜さんが立っていた。

 茜さんは不安そうな表情をしていたが、小鉄と俺の姿を見ると柔らかい笑みを浮かべた。

 両腕を広げて出迎える仕草。

「お帰りなさい」

 優しい声。「もう大丈夫よ、基樹さん、小鉄ちゃん」

 その言葉通りだった。

 嫌なものの気配がぴたりと消えた。

 震える足と荒れた呼吸のまま、俺は茜さんの前に座り込んだ。

 そこで気付く。

「竜さんが――」

「大丈夫」

 茜さんが俺の前に屈み込む。視線を合わせて優しい微笑。

 ぽんぽん、と俺の肩を叩く。

「水生さんがきっと気付いて動いてくれる。だから、もう大丈夫」

 思い出したのは、あの雨の日。俺を助けてくれた黒川さん。彼が言うだけで嫌な気配は逃げていった。

 その黒川さんが竜さんの所に行ってくれるのなら、きっと、大丈夫。

「基樹さんは家の中に居て。ね、冷たい飲み物、何か用意してあげるわ」

「はい」

 茜さんの手を借りて立ち上がると、俺は白桜荘の中へと入っていた。

 なぁん、と小鉄が俺の腕の中で甘えたように鳴いた。

 その鳴き声を聞いて、俺はようやく安心出来る場所へと帰ってきたのだと納得した。




 竜さんが帰宅したのはそれからすぐの事だった。

 窓を乱打するような大雨が始まってすぐの事だ。

「お帰りなさい」

 竜さんを出迎えた茜さんは、そっと外を見た。

 雨。

「凄い雨ね」

「でもこれならすぐだろ」

「……そうね」

 二人の会話の意味が分からない。

 小鉄を抱き、食堂の椅子に座ったまま、俺は黙って竜さんと茜さんを見ていた。

 竜さんが俺を見た。

 笑う。

「よぉ、無事だったな」

「……あの」

 聞きたい事が色々あった。

 茜さんが何か言いかけるが、それを視線で封じた竜さんが口を開く。

「麦茶」

「……う、うん」

 茜さんは俺たちを気にしながら食堂に入って行った。

 椅子を引いて竜さんは俺の目の前に座る。

 テーブルの上に頬杖。

「で、質問があるンだろ?」

「はい」

 少し考えて質問を口にする。

「さっきのは、何ですか?」

「お前は何だと思った?」

「とても――嫌なもの」

 竜さんは少し笑った。

 頬杖のまま、瞳を細めて、笑う。

「お前、動物的勘があるな」

「……?」

「動物は自分に危害を加えようとするモノに対しては敏感だからな。――普通のヤツだと、訳が分からないまま食い殺される事だってある」

 考えたくなかったが。

 万が一でも間違いであれば良いと思っていたけど。

 俺は、次の質問を恐る恐る口に出す。

「さっきのは、俺に危害を加えようとしていたんですか?」

「正しくは、俺たちに」

「……どうして?」

 俺は何もしていない。

 竜さんだって、そんな悪い人じゃない。そりゃあ口は悪いし、意地悪な所もあるけど。

「……」

 竜さんは椅子を軋ませて天井を見た。

 少しだけ迷いの表情。

 その竜さんの前に、台所から戻ってきた茜さんが麦茶を差し出した。

 お盆を胸に、茜さんが笑う。

 寂しそうに。

「此処に住む人たちが、異端だから」

「………?」

「普通じゃないから、皆が、嫌がるの」

「茜……さん?」

「嫌いなもの――自分と違うものを排除しようとするのは、何処も一緒よ?」

 その一言に。

 俺は、どきり、とした。




 思い出したくない。

 でも、思い出される、事。




 俺は無理矢理その記憶を振り払う。

 腕に抱いた小鉄の気配を、更に、抱き締める。

「――耐え切れないなら出て行くといいよ」

 声は入り口からした。

 びしょぬれの黒川さんがそこに立っている。常と同じ穏やかな表情。

 真っ直ぐな黒髪から雫が落ちていた。

 普段と同じ穏やかな表情だけど――何故か泣いているように見えた。

 竜さんの横に立ち、黒川さんは俺を見る。

「此処から出て行くのなら、これ以上基樹君は狙われないと思うよ。今の所、向こうの狙いは僕たちだから」

 黒川さん、竜さん、茜さん。その三人とテーブルを挟んで対面する。

 こちら側と向こう側。

 そんな言葉がふと浮かんだ。

 何かの境界線のようなテーブルを、じっと見る。

 変だな。

 俺、今日は黒川さんに誘われて夏祭りに行くだけだったのに。

 茜さんに見送られて、竜さんの奉納舞なんて珍しいもの見て、小夜さんの綺麗な浴衣姿見て、まゆちゃんと今度遊ぶ約束して――

 それだけだったのに。

 何で、境界線なんてあるんだろう。

 見ても、皆と俺、何の差も無いように思える。

 もしあったとしても小さな差のような気がする。

 そんな差で――俺を見捨てないで欲しい。

 小鉄を受け入れてくれる、きっと、今となっては唯一の場所。

 そこを、失わせないで欲しい。

「……俺、此処に居ます」

 黒川さんが小さく笑い、茜さんが嬉しそうに笑った。

 そして竜さんは甲高く口笛を吹いた。

 三人三様。だけど嬉しそうな反応。

「基樹君」

 黒川さんが俺を呼んだ。

「君の選択を嬉しく思うよ」

 その言葉に何か返そうと思うが口が巧く動かない。

 言葉が綴れない。

「――クロ」

 竜さんが言った。顎で二階を示す。「疲れてんじゃねぇか? 休んでろよ」

「うん、そうするよ。――お先に」

 黒川さんは俺にそう言うと食堂を出て行った。

 茜さんは不安そうに黒川さんの後姿を見送る。

「御免なさい、私、少し見てくるわ」

「頼む」

 スリッパの音を響かせて、茜さんは黒川さんの後を追った。

 残されたのは、竜さんと、俺と小鉄。

 黙って麦茶を飲んでいる竜さん。

「――他に質問は?」

「……しません」

「ふぅん?」

「俺が知っても良い事なんでしょうか?」

「知らなきゃならん事かもしれねぇぞ?」

 自分の立ち位置ぐらい、理解しておくべきじゃねぇか?

 竜さんはそう言った。

「俺の居る場所ぐらい分かっています」

「じゃあ、なんだ?」

「白桜荘」

 竜さんは麦茶に口を付けたまま俺を見た。

 蒼い瞳が俺の感情を探るように見ている。

 だから俺は笑ってやる。

 笑い、かける。

「俺は白桜荘と此処に住む人たち側です」

「……その言葉、どういう意味か分かってるのか?」

「分かりませんよ」

 でも、と。「……此処の人たちは小鉄を大切にしてくれます。なら、俺にとって、小鉄と同等の家族です」

 かぞく。

 その音を竜さんは口の中で転がした。

 麦茶のコップをテーブルに置く。それから頬杖。

 蒼い瞳を細めて、笑み。

「イイ言葉じゃねぇか」

 竜さんの笑みに俺は再度、笑った。




 多分。

 白桜荘に住む人たちはとても特殊な人たちだ。

 俺が今まで想像出来なかった人たちに違いない。

 それでもいい。

 それでもいいんだ。

 俺も小鉄も、此処が気に入っている。




「――何だか変な夏祭りになったな」

 竜さんがぽつりと呟く。

 俺は小さく頷いて同意した。

 腕の中の小鉄は大人しいまま。どうやら退屈して眠ってしまったらしい。

「そう言えば、小鉄が守ってくれたんですよ」

「……?」

「さっき。あの、『嫌なもの』に追いかけられた時」

 俺は先ほど怒った事を説明する。

 竜さんは小鉄を見た。ぴくぴくと小鉄が動く気配。

 でも目覚めぬまま。

「……生きている猫でも二十年生きたら化けるって言うしな。死んでる猫なら十年ありゃあ十分かもしれねぇ」

「……はい?」

「化け猫」

「……………」

「おめでとう、化け猫」

「ちょ、ちょっと待って下さい!!」

「今更焦るなよ」

「化け猫って言い方可愛くない!」

「………」

 呆れたように見ないで下さい。こっちは一大事。

 幽霊猫はまだ許容範囲だけど、化け猫なんて音が可愛くない。

「小鉄は幽霊猫のままでいいんです」

「……俺にはその差が分からねぇ。化け猫の方が強そうだろ」

「可愛ければいいんです」

「…………そうかぁ?」

 竜さんは激しく首を捻っている。

 俺がいいって言ってるんだから、それでいい。

 うん、それでいい。

 ……でも、小鉄、強くなってるのか。飼い主として嬉しいような気もする。

 この子を守ろうとずっと頑張ってきたから、小鉄なりのお礼かもしれない。

 うん、きっと、そうだ。

 




 そして、此処からは俺の知らない物語。

 俺が、後に、ずっと後に、知る事になる物語。




 雨が上がって月明かり。

 満月から幾日か欠けた、それでも明るい月夜。

 今まで人の姿を取っていた闇が、ずるりと動き、溶け、消えていく。

 人ではない彼らが死して残すものは何も無い。溶け、消滅するだけ。

 半分以上人の姿を保てぬ状態のまま死んでいる。

 戦闘の姿。

 だけど、この程度では勝てはしない。

 無駄に消え去るだけだ。

 屍体が消えていくのを眺めているのは二人。

 一人は若い少女。そして同年代の少年。

 二人はよく似ている。

「――愚かですね」

 少女の声。楽しげな声。

 足先で屍体を突く。ずぶり、と、腐りかけたような肉に足が埋まる。

「勝てる訳が無いのに。死の覚悟を持って挑んだ訳でもないのでしょう」

 愚かにも、愚かにも。

「言葉では違うと言い張っても、身も心もいまだ竜神様の眷属。ならば祭りに誘われても仕方無い……とは思えません」

 少女は笑う。

 少年は笑わない。

 少女の笑みを、ただ、見詰める。

「ですが、贄が無い祭りもつまらないもの。良い生贄になったでしょう、彼らも」

 言いながら歩き出す。

 少年は無言でその背を追った。

「人の贄の方が竜神様も本当はお気に召すと思いますが」

 朝までには完全に消え去る我らの血肉よりも。

 恨みと共に永世に残る人の血肉の方が。

 ずっと、ずっと。

 少女は小さく笑い続ける。

「いけませんね。私も祭りに浮かれているよう。これでは彼らを笑えません」

 夏祭り。本来の、それ。

 池に己が身を封じた竜神。それを哀れに思った眷属たちは、人の血肉を持って慰めた。

 眠る竜神に血肉を捧げた。

 目覚めた竜神は眷属たちを罰した。

 そして祭りの日以外には人を殺さぬと誓いを立てさせた。

 だから、眷属たちは祭りの夜に喜び狂う。

 年に一度の血肉の味を、時が流れた今も思い出す。

「落ち着きましょう。そして明日からの事を考えましょう」

 少女はいまだ笑みのまま、そう呟いた。

「我々がなすべき事はまだまだありますでしょうから」

 それでも少女は小さく笑い続ける。

 その少女の笑みを、月と、彼女とよく似た少年だけが見ていた。






 俺の知らない物語。

 さほど遠くない未来に、会う事になる二人。

 そしてこの時は俺が知らない二人。

 ――知らないままで居たかった、二人。


 俺はまだ知らない。

 眠る小鉄の気配を傍に、この白桜荘で生活する事を新たに決意するだけだった。




                        終

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