第3話・幽霊猫とさがしもの
五号室住人、竜胆 小夜さんと初めて出会ったのは、小鉄のおかげだった。
仕事を終えて帰宅した後。俺と小鉄は日課の散歩に出る。時刻は夜。人通りも少ない。小鉄がはしゃいで可愛い鳴き声を上げても誰も気にしない。
そんな時間だ。
俺の足に絡まるように歩いていた小鉄が、ふぃっと気配を消す。
「……小鉄?」
俺の目に小鉄の姿は見えない。
小鉄は幽霊。猫の幽霊なのだ。
霊感なんてものは持ち合わせていない俺、大野 基樹には、小鉄の気配を感じるのが精一杯。
だから小鉄の気配が消えてしまうと、俺は小鉄を見失う。
「小鉄?」
呼びかけに返事は幾分遠くから。
少し先の道を曲がったようだ。
やれやれ。何を見つけたのやらと俺は小鉄を追いかける。
幽霊猫の小鉄はもう十数年俺と一緒に居るが、その精神は子猫のまま。無邪気に遊んで、無邪気に行動する。気紛れの行動なんて日常茶飯事だ。
小鉄の名を呼びながら俺は道を覗き込んだ。
小さな灯りが灯るそこに、小鉄ではなく女の人が一人立っていた。
黒っぽい和服を着こなし、黒髪を結い上げた女性。薄ぼんやりした灯りの下、俯く白いうなじが妙に色っぽく見えて、どきりとした。
その女の人は自分の足元を見て薄く笑っていた。
にゃん、と。
可愛らしい声がする、足元を見て。
……この人も、小鉄が見えている。
「あ――あの」
俺の声に反応して、女の人は顔を上げる。
こちらを見て緩やかに首を傾げた。
綺麗な人だ。だけど幾つぐらいの人なのかよく分からない。元々女性の年齢はよく分からないが……二十代ではないだろうけど、四十代には行ってない……とは思う……けど、でも。
ああ、よく分からない。でも本当に綺麗な人だ。
その人は笑顔のまま俺に軽く頭を下げた。
静かに歩を進め、俺の前。
間近に見てもやはり綺麗な人。思わず赤面。
小鉄がふにゃふにゃ言いながら俺の足元に戻ってくる。
――そっと、その女の人が手を差し出した。掌を上に、視線で俺の右手を示す。
「……?」
促されるまま手を差し出す。
触れた女の人の手はびっくりするほど冷たかった。
女の人は左手で俺の右手を開かせると、掌に右手の指で文字を書いた。
同じ文字を、ゆっくりと、連続。
り・ん・ど・う
「……りんどう?」
女の人は嬉しそうに頷いた。右手の指で自分の顔を示す。
続いて描かれたのは二文字。
さ・よ。
「……りんどう、さよ?」
少し考えて――それが名前だと気付く。
「りんどう さよ、さんって言うんですか?」
答えは縦に振られた首。
「りんどうって……花の?」
竜胆。
さよさんは笑顔で頷いた。
それから続くのは二文字。ちょっと複雑な字。漢字だ。
小夜。
「綺麗な名前ですね」
思わず口にした言葉に、小夜さんは瞳を細めた。こういう風に笑うと俺よりもずっと若くさえ見えた。
小夜さんは再び字を書き出す。
は・く・お・う・そ・う
ああ、やっぱり。
「やっぱり白桜荘の住人なんですね」
返事の代わりに綴られたのは数字。
5、とそのひとつ。
「五号室?」
小夜さんは頷く。
頷き、文字を書く。
……ふと思ったのだが、小夜さんは言葉が話せないのだろうか。
きっとそうなんだろうな。そうじゃなきゃ筆談なんてする必要ないだろうし。
小夜さんの白い指が描く文字を追いながら、考える。
さ・ん・ぽ・?
「ああ、はい、散歩です。ええと……小鉄と」
俺の足元でごろごろ言ってる小鉄を示すと小夜さんは小さく頷いた。
視線は小鉄に向かっている。
やはり見えているらしい。
白桜荘の住人は、何故か皆、小鉄が見えているらしい。
「小夜さんは何をしてるんですか?」
夜に女性一人で。
小夜さんはちょっと迷ったようだが、やがて指で文字を書く。
さ・が・し・も・の
「……さがしもの?」
小夜さんは口元に手を当ててそっと笑った。
妙に艶っぽい笑みだった。
『幽霊猫とさがしもの』
「――小夜さんって綺麗な人ですよねー」
夕方。食堂でだらだらとテレビを見ている竜さんにそう話しかけると、彼はあからさまに顔を顰めた。
胸に筆のような筆跡で『大丈夫』なんて書かれたよく分からんTシャツを着て、食卓の上に頬杖。
ちなみに常に傍にある紫色の長い袋は座っている椅子に立てかけてある。
「……まぁ美醜の感覚は人それぞれだしな」
そして奥歯に物が挟まったような曖昧な口調。
俺は首を傾げ、竜さんの向かいの席に腰を下ろした。
「凄い綺麗な人じゃないですか。俺、あんな美人初めて見ましたよ」
「……」
なんでそうもあからさまに視線を逸らす。
理由を、考える。
「……オイ、五郎」
「は、はい!!」
「何で物凄く曖昧な顔で俺を見てんだよ?」
「いや、女性に興味がないのか幼女趣味なのかそれとももっと特別な趣味があるのかと考えていただけで」
「……あぁ?」
凄い顔で睨まれた。
ちょっとどころか本気で怖い。
が、幸いにも視線を逸らしたのは竜さんが先。
床を見る。
口元に笑み。
「タマか」
竜さんは小鉄をタマ、俺を五郎と呼ぶ。何度直しても直らないので諦めた。
俺には見えない小鉄を抱き上げて、膝上に乗せる。小鉄の顎辺りを撫でてくれているらしく、ごろごろとご機嫌の声がした。
「――まぁ顔だけ見るならイイ女かもしれねぇな、ハナ」
「………ハナって小夜さんですか」
「ハナはハナだろ」
この人の名前を覚える能力とネーミングセンスの凄さには本当に参る。
どうして小夜さんがハナなんだろう――と考えかけて思いつく。
苗字だ。竜胆。花の名前と言う印象でそういう名前になったのだろう。
……そういうのを考えると、俺の五郎ってのは一体。
「でも、なぁ」
ぽつり、と小鉄を撫でながら呟く竜さんの声。
独り言のように聞き取り難い声だった。
「俺を喰おうとしやがったからな、あのアマ」
「…………」
喰、う?
他に漢字変換出来ない。
「……喰う、って食べる、って意味の、えーと」
「……」
竜さんは沈黙。
無言のまま、小鉄を撫でている。小鉄はどうやらされるがまま。ごろごろ言う声も聞こえなくなっていた。眠ったらしい。
「あの、竜さん」
「そのままの意味」
そのままの意味。
考える。
考える。
考え――
「す、据え膳喰わぬは男の恥って言いますよ」
「はぁ?」
竜さんは物凄く半眼。
何言ってやがるんだ、この馬鹿、と視線が言っている。
いや、でも、それ以外の喰うって。
「…………」
俺はすっくと立ち上がる。
見上げる竜さんに「とりあえず」と告げた。
「風呂入ってきます」
考え続けたら恐ろしい考えに行き着いた。
頭の中で、馬鹿でかい包丁片手に妖艶な笑みを浮かべる小夜さんが浮かんだのだから。それは怖い。しかも微妙に似合っているから凄く怖い。
「おお、行って来い」
竜さんは手をひらひら。
今の時間だったら風呂は空いているだろう。
洗面用具を用意する為に俺は一旦部屋に戻った。
此処の風呂場は皆の共同で、使用中の際はドアに付けられたプレートを『使用中』にする事と決まっている。
プレートが裏を見せているのを確認し、俺は遠慮なくドアを開いた。
ぴたり、と。
俺の動きが止まる。
風呂場の前にはひとつ小部屋がある。風呂の広さを思えば、脱衣所にしてはかなり広め。話に聞けば、このアパートが病院だった頃に患者さんを着替えさせたり、風呂の準備をする為に用いられていた部屋だと言う。故に、幾分、広い。
脱衣籠が置かれた棚と洗面台。奥には風呂場の入り口であるドアが見える。
問題は洗面台の前。
洗面台に付けられた、大きな鏡。その鏡の前に、先ほど散々話に出た小夜さんが立っていた。
花を染め抜いた浴衣を半ば肌蹴させ、綺麗なラインの首から背中を鏡に映している。
肩越しに振り返り、己の背中を見るその姿を、俺は呆然と眺めた。
プレートは逆だった。だから居るのに驚いたのもあるのだが、それ以上に驚いたのは、その背中だった。
一面、鮮やかな模様が入っている。
服? 肌にぴったりとした服を着ているのか?
疑問はすぐに解ける。
刺青だ。
極彩色の刺青が、小夜さんの肌を覆っている。
ふい、っと小夜さんの視線が動く。
視線が合った。
小夜さんは胸元を軽く直しながら――それでも十分色っぽい姿で――俺に向き直った。
にこり、と笑顔。
――そこで、俺はようやくとんでもない事をしているのに気付いた。
「し、失礼しましたぁっ!!」
完全に裏返った声で勢い良くドアを閉める。
そのまま駆け足で逃げようとする俺の背後で、ドアが開く音。
動きを止める。
……小夜さんは笑顔だった。
怒っている様子は無かった。
別に俺は悪気はなかったし、でも女性の肌を見るのは失礼だよな。そんなに怒ってる様子は無かったし、謝るだけでも――うん。
ぐるぐると思考し、ようやく振り返った俺の目の前。薄く開いたドアの隙間から小夜さんが顔を出し、白くて細い手をひらひらと動かしていた。
手招き。
「……え?」
入って来い、と言うのか。
俺は慌てて首を左右に振る。入れない入れない!!!
しかし小夜さんは困ったような表情を作る。そっと両手を合わせ、拝む仕草。
……何か俺に頼みがあるようだ。
「……」
お、お願いされたなら仕方ないよな、うん。
ドアを開けて中に入る。ドアをきちんと閉めて、小夜さんに向き直る。視線が泳ぐのは、ええと、やっぱり色っぽい格好の小夜さんのせいです。小夜さんから見たら子供かもしれないけど、俺も立派な男の訳で、真っ向から見るのは戸惑うのです。
細い肩の線が見える姿のまま、小夜さんは小さな壷を差し出した。
受け取って、僅かな匂いに気付く。薬の匂いだ。開いた蓋を覗き込めば、軟膏らしきものが見えた。
それから小夜さんは俺に背を向けて、浴衣の襟元をもう少し緩めた。
背中のほぼ中央。
鮮やかな花々が絡まる刺青の中央に、赤黒く膿んだ場所があった。
化膿している。
不思議な事に、花の蔓がその化膿した場所に絡まっているように見えた。蔓の部分は一切化膿していない。その蔓に絡まれた箇所だけが化膿している。
「軟膏を塗れば良いんですか?」
小夜さんは肩越しに振り返り頷いた。
確かにこの位置は自分では塗り難い。鏡を見て悪戦苦闘していた、と言う訳か。
軟膏を指に取り、恐る恐る化膿している場所に触れて、塗る。
視線が思わず彷徨う。真っ向から小夜さんの背中を見るのも照れ臭いのだ。
見れば、刺青の図柄はまだ未完成のようだ。蔓があちこちに伸びているのだが、妙に空白が目立つ。蔓に絡まるべきものが抜けているのだ。
こういう状況から新しく刺青が彫れるのか分からないが。
右の肩口。俺の掌分ほどぽっかりある肌色を見ながら、俺はそんな事を考えた。
軟膏を塗り終え、小夜さんが浴衣を直してくれたのでようやく真っ向から見る事が出来た。
一安心。
小夜さんは嬉しそうに笑って、それから俺に何度も頭を下げて風呂場を出て行った。
ようやく俺は風呂に入る事が出来た。
にゃあ。
湯船に身体を付けた途端、ドアの向こうから不機嫌そうな猫の声。
「こ、小鉄、御免すぐ上がるから!」
水が嫌いな小鉄は風呂場のドアの前で不機嫌そうに鳴き続ける。早く出て来いと言うのだ。
大急ぎで風呂から上がったおかげで小鉄は上機嫌だったが、俺はまったく風呂に入った気がしなかった。
その夜、ベッドの上でノートパソコン使っていた俺の耳に、ドアをノックする音が聞こえた。
たまに竜さんが夜に遊びに来た。
その日も竜さんだと思って、俺は「どうぞ」と声を掛ける。
二階の居住空間に入る為のドアには鍵が掛かるものだから、室内に居る時は自分の部屋に鍵を掛けないのが此処に来てからの癖だった。
だけど俺の声は聞こえているだろうが、誰も入って来ない。
俺の横で蹲っている小鉄の気配が軽く動く。伸びたようだ。
伸びて、また座った。
「……?」
竜さんが来たのならドアの前までお迎えに行くのが小鉄だ。
なら、竜さんじゃない?
ベッドから降りてドアに向かう。
ドアを開けたのなら、立っていたのは浴衣の小夜さんだった。
軽く小首を傾げ、小夜さんは笑顔で手に持っていたものを差し出した。
思わず受け取ってからそれをまじまじと眺める。
千代紙で折られたらしい、片手に乗るぐらいの小箱。ちゃんと蓋まで千代紙で折られている。
「……??」
小夜さんはそっと俺の片手を取り、右手の指で文字を書いた。
お・れ・い
「そんな気にしないで下さい」
小夜さんは笑顔でゆっくりと首を左右に振った。
それからきちんと手を身体の前で揃えて、頭を下げたのだ。
有り難う、と、その気持ちを、俺にちゃんと伝えてくれた。
「……はい、じゃあ、遠慮なく、頂きます」
小夜さんは嬉しそうに笑った。
小夜さんが去った後、ベッドの上で貰った可愛らしい小箱を開いた。
中に入っていたのは、色とりどりの金平糖。
思わず声と笑顔が出た。
「懐かしいなぁ、小鉄」
死んだ婆ちゃんが好きで、よく居間のテーブル上にあった。硝子の小さな蓋付きの器に入れられていた金平糖はまるで宝石のようで、俺が大好きなもののひとつだった。
勿論、小鉄も大好き。
箱を持つ俺の手にちょいちょいと何かの重み。
小鉄が小さな手を差し出して、金平糖を寄越せと騒いでいるのだ。
「待って待って」
俺は小鉄の要望に答えるべく、食器が仕舞ってある箱から大き目の皿を取り出す。
その皿の上に金平糖をいくつか置いた。
「はい、どうぞ」
皿を床の上に。
小鉄の気配が皿に近付く。
ちょい、と。
手を出しているのだろう。
皿の上、軽やかな音を立てて金平糖が動く。
小鉄なりのルールなのだろう。皿の上から出そうとはしない。白と鮮やかな金平糖の色の対比。それを楽しむように、小鉄はちょいちょいと皿の上で遊ぶ。
そんな可愛らしい小鉄を見ながら、俺は金平糖をひとつ口の中に入れた。
舌先に甘い感触。
懐かしい味だ。
でも――金平糖ってこんな味だったかな。
甘いのは甘いのだけど、何だか不思議な味だ。
美味しいのは確かなのだけど。
俺は首を捻った。
不思議な味の金平糖のせいだろうか。
その夜、俺は奇妙な夢を見た。
真夜中の夢だ。
景色は白桜荘の近く。
真っ暗闇の中、浮き上がるような白い顔は――小夜さんだ。
小夜さんはゆっくりと夜を歩く。灯りなんて何ひとつ無いのに、見えているかのように、しっかりとした足取りで。
ただその視線が周囲を油断無く見回している。
ああ、と夢の中で俺は呟く。
小夜さんの後姿を夢の視線で見詰めつつ、ああ、と。
さがしもの、だ。
小夜さんは何かを探しているんだ。
暫しの間、辺りを見回し、歩き続ける小夜さん。
その彼女の動きがぴたりと止まる。
俺には小夜さんの顔が見えた。
紅い、紅の唇が、きゅっと吊り上がる。
綺麗な、だけど怖い笑み。
その唇がゆっくりと開く。
「……みつけた」
小夜さんの声。
優しく柔らかい――だけど、逃げ出したくなるような声。
俺はこんな怖い声を聞いた事が無い。
怖い。
怖くて逃げ出したくてしょうがなくなる。
でも逃げられない。
今、小夜さんに声を掛けられたもののように。
小夜さんの視線の先。声を掛けられたのは、蹲る何か。闇色のそれ。とても、嫌なもの。
それは一瞬逃げようとした。
だけど小夜さんが笑う。
「悪い子。……逃げるの?」
その声に誘われるように、小夜さんの足元へ擦り寄ってくる。
とても、嫌なもの。
それをとても愛しげに小夜さんは抱き上げた。
ぞわり、と。
小夜さんの周囲で空気が動く。
腕の中の闇色のそれに絡まったのは緑色の――蔓。
刺青。
そうだ、刺青の、蔓。
ようやく抗い始めた闇色のそれ。だけどもう遅い。
蔓は絡まり、引き寄せ――そして喰らう。
ずるずると、蔓は小夜さんの右肩辺りに引っ込んで行った。
勿論、闇色の何かも一緒に。
ふふ、と小夜さんが笑った。
不意に、肩越しに『こちら』を見る。
小夜さんの瞳が驚きで見開かれた。
「どうして――」
俺に向けられたその声。
戸惑いの色を交えたその声が、背筋が寒くなるほど良いものに思えて。
俺は、思わず一歩、踏み出した。
――途端、がり、と痛みに目を覚ます。
俺は慌てて身体を起こす。
咄嗟に痛みの原因の箇所を押さえた。顔。ぬるりとした感触。僅かに血が滲んでいる、線。
小鉄が、俺を引っかいたのだ。
威嚇の声がする。
小鉄が何かを威嚇している。
俺にではない。俺には威嚇する必要などないのだから。
「……小鉄」
呼ぶと小鉄は戸惑いながらも威嚇を止めた。差し出した俺の手に擦り寄ってくる。
見えないが、心から安心する気配。
そっと抱き寄せる。
「……有り難う」
傷付いた俺の顔にも小鉄は擦り寄ってくる。
俺を目覚めさせてくれた痛み。
小鉄が守ってくれた。
守って……くれたんだ。
そのまま、俺は一晩中小鉄を抱き締め続けた。
翌々日の事だ。
小夜さんと風呂場の前で行き合わせた。
思わず逃げそうになる俺の手を引いて、小夜さんは持っていた壷を見せた。
軟膏。
「あ、あの、えーと」
お願い、と拝むような仕草をされたら断れない。
頭の奥で夢の内容がちらちら浮かぶ。ただの夢。そう、夢だ。
言い聞かせるが、身体が怯えている。
小夜さんは脱衣所でいつかのように浴衣を肌蹴た。
背中の中央は既に治りかけている。
それを見てから視線を動かして――俺はぎょっとした。
肌色が見えていた右肩。そこに黒い何かが描かれている。
夢の。
震える手で軟膏を塗る。
小夜さんが着物を直しても俺はまともに小夜さんを見られなかった。
その俺の手を掴み、小夜さんが文字を描く。
こ・わ・が・ら・な・い・で
何度も、何度も繰り返す。
「小夜さん、俺――あの、変な夢を見て」
ゆっくりと小夜さんが頷く。
ご・め・ん・な・さ・い
綴られる文字。謝罪の言葉。
小夜さんの顔を見たのなら、本当に申し訳なさそうな表情をしている。
俺は少し迷ってその質問を口にした。
「小夜さんは、俺や小鉄――ううん、白桜荘にとって、悪い人じゃないんですよね?」
その問い掛けに。
小夜さんは真っ直ぐに俺を見て頷いた。
ま・も・る
「この、アパートを?」
縦に振られた首。
「俺や、小鉄も?」
同じく、縦に振られた首。
俺はもうひとつ質問を口にした。
「どうして?」
小夜さんはまず笑った。
笑って、文字を綴る。
だ・い・す・き・だ・か・ら
その答えで十分だった。
俺は小夜さんを信じようと思う。
悪い人じゃないと言ってる。守ると言ってる。
それに、大好きだって、そう言ってる。
それなら信じる。
信じられる。
にゃん。
小鉄の声。ドアの向こう。
小夜さんは笑ってドアを開いた。その隙間から小鉄の気配がするりと滑り込む。
ちょっと迷った様子だが、小夜さんに対して威嚇する事もなく俺に擦り寄った。
ほら、小鉄も怖がっていない。
なら大丈夫。
小夜さんは信じられる。
俺は小夜さんに向かって笑いかけた。
小夜さんも笑い返す。嬉しそうな、綺麗な笑みだった。
「――オイ、タマ、何やって……」
ドアの隙間からひょいと竜さんが顔を覗かせ、俺と小夜さんの姿を認め、ぎょっとする。
慌てて逃げようとする竜さんの身体を、予想以上に早い動きの小夜さんの手が引きとめた。
「あ、あのな、ハナ、俺は――」
小夜さんの指が文字を綴る。
それは竜さんをぎょっとさせるものだったらしい。
左右に激しく首を振る。
「絶対駄目だ!!」
激しく否定。手を振り払う。
そのまま物凄い速度で逃げ出す。
小夜さんはくすくすと声を出さずに笑っていた。
「……何をしたんですか?」
俺の質問には答えず、それでも、小夜さんは俺の掌に文字を描いた。
か・れ・は・お・い・し・そ・う
「た、食べちゃ駄目ですよっ!!」
す・こ・し・だ・け
「少しも全部も絶対駄目!!」
あー、何を言い出すんだ、この人!
小夜さんは俺の顔を見て、くすくすと笑い続けた。
結論。
小夜さんはかなり危険な人らしい。
終
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