第四章 松虫《まつむし》其ノ伍


辛うじてその場に留まっていた平氏の次男宗盛が、緊迫した空気に怯えたように立ち上がり、ぼそぼそと言い訳めいたことを口走りながらそそくさと退出していった。

それを呆れたような目で見やったのは、たしか知盛と言ったか、平家の四男だった。

生意気盛りの子供にとっては、兄とはいえあの怯懦はさすがに見苦しいと見える。

基房の隣で兼実がくすり、と笑いを漏らす。


「いや、これはご無礼を」


わざとらしく詫びてみせる弟にちらりと目をやってから、再び重盛を見据える。


「…そういえば先頃、我が邸に平家の方々がお越しくだされたそうな。掛け違ってご挨拶もせず、失礼を申し上げた」


それに軽く目を瞠った男は、しばし考え、やはりちらりと弟たちに視線を流す。

それを受けて口を開いたのは、平家の末弟・重衡少年だった。


「摂政殿下にもうしあげまする」

「…何か」

「平清盛が五男、重衡にござります。いつぞや往来にてごそんがんをはいする栄をたまわったことがございました」


高く澄んだ声に驚き、相手がまだ声変わりさえしていない幼さなのだと気づく。

これはこの子供の皮肉であろうか、と基房は考えた。

あの往来での事件の時、彼は牛車くるまから出て行かなかったばかりか、そのようなことがあったというのも、あとから供回りの者に聞かされただけで、重衡の顔を見たはずもない。

だがその程度で動じる基房でもなかった。


「…さようであったかな」

「そのおりはしつれいをもうしあげました。また、せんじつ殿下のおやしきにまいりましたのは、わが配下のものどもにござります」


その言葉に虚を突かれて、思わず目の前の少年をまじまじと見つめる。

月のしずくのような細絹の髪、煙るような瞳に一瞬目を奪われた。まだあどけなさの残る丸みを帯びた頬はほのかなやわらかみをたたえ、なまじな女どもよりよほど美しい。

うっかり見惚れてしまっていることに気づいて、慌てて冷徹な宰相の顔を取り戻す。しかしなにぶん相手は子供だ。精一杯柔らかい声を作って問いかけた。


「それはまた、なぜかな、重衡殿」

「はい、じつはあの日…おとしものをいたしまして」

「…落とし物?」

「はい。たあいないものではありますが、わたしにとりましてはたいせつなものですので、家のものにさがさせておりました。おことわりもせずおやしきのまわりに近づいていたようで、たいへんごしんぱいをおかけいたしました」


そうにこにこ笑う子供に呆気にとられてしまい、言葉を返すことも出来ずに呆然としてしまった。重衡は邪気のない顔で、屈託なく基房を見上げている。


「重衡。そのようなことがあったなら、なぜこの兄に言わぬ」


兄が子供っぽい弟を叱っている。重盛のどこか甘やかすような表情が意外で、それにも基房は驚いた。


「おはなしせずにもうしわけありません、おお兄うえ。でもさがすのに必死だったんですもの」

「藤原家の方々にご不安やご迷惑をおかけしたのだぞ。重々殿下にお詫び申し上げよ」

「はい。…摂政殿下、たいへんごぶれいもうしあげました。なにとぞおゆるしくださいませ」


そう言ってさらりと手を着き、丁重に頭を下げる少年を見つめながら、基房は赦しを与えるしかない。


「…これはご丁寧なご挨拶、痛み入る。して重衡殿、そのように必死でお探しになるとは、一体何を落とされたのかな」


顔を上げた重衡は、莞爾として答えた。


「扇です」

「…ほう。しかし平家のご子息なれば、扇などいくらでもお持ちであろうに」


いい加減な物言いと言い逃れは子供でも許さぬ、と大人気なく視線に厳しさを増すと、今度は重衡少年はさっと頬を染めて恥じらった表情をする。


「…いえ、あの…通っているものがありまして…。かたみとしてもっていてくれと渡されたものなのです。ですからどうしても見つけだしたくて…」


今度こそ基房は唖然として、重衡を見つめた。

こうも直裁に女のことを告白されるのも驚いたが、それがまだ十を越えたばかりの子供とくれば、いかに早熟な性生活が蔓延している時代とはいえ、あまりに若すぎる。

まだ幼いと言っていいほどの少年なのだ。それがすでに、偲ぶよすがを女と交わしているというのか。

さすがの兼実も口元を扇で抑えたまま驚きに硬直している。あの重盛でさえ天を仰いで溜息を吐いた。

全員の視線を浴びて真っ赤になった重衡は、恥ずかしそうに扇の陰に顔を隠した。どうやらそれが女にもらったというくだんの扇らしい。女物らしく華やかで煌々しいそれを、こうした場に持ち込む度胸にもまた毒気を抜かれる。


「…これは驚いた。重衡殿はまだお若かろう。そのお年でもう通う女君があるといわしゃるか」

「はい。…あの…姉のようなかたなので、歌や箏など、おしえていただいております」


この年齢としでよもや男女のことを為しているわけでもなかろうが、初々しく頬染めて恋人のことを語る少年を見ていると、先程までの刺々しい座の空気など幻のようである。

一気にしらけた座を置き去りに、基房も兼実もなんとなく腑に落ちぬ面持ちで三々五々席を立っていった。

いやはや平家の五郎君は末恐ろしい…と首を振りつつ。


兼実と並んで広庇ひろひさしへ出たところで、基房はふと出てきたばかりの房室へやを振り返った。

不審に思った兼実が声を掛ける。


「兄君?どないかなさいましたか」

「…いや…」


彼の視線の先では、平家の子息たちが平服し見送っていた。

ついさきほどまでの緊迫した空気などまるでなかったかのように。

さすがにそこでそれ以上口を開く気にはなれず、院御所を退去し動き出した牛車くるまのなかで切り出した。


「兼実…そなたどう思う?」

「どう…とは?」

「…あの重衡とやら申す者、何やら底知れぬ…」

「まさか。まだ十かそこらの子供におじゃります。さような存念などありますまい」


兼実は呆れたように否定する。

だが基房はどうしても得体の知れない不安が拭えぬままであった。


――やがて、彼と平家の間に決定的な事件が起こる、

それは予見であったかもしれない。




草深き霞の谷にかげ隠し

     照る日の暮れし今日にやはあらぬ

             (古今和歌集 巻十六 文屋康秀)

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